認知症を脳病理の範疇からはずして(depathologizing)考えるなら、医学的な権威に答を求めることはできず既成の技術的解決法にも頼れない。それは大きな挑戦である。それは私たち誰もが責任を負うことを意味し、私たち自身のなかにケアに必要な主な資源を見つけなければならないからである。
これまで認知症ケアに必要なのは普通の優しさや常識であるとみなされ、矮小化されてきた。
本章では、認知症ケアにおいて介護者の側に必要なことは何かということ、認知症ケアで求められる個人的成長をみていく。人をケアの仕事にひきつける隠れた動機がある。
1 相互行為における介護者の役割
最初に必要な事は、深い意味を持つにもかかわらず、驚くほど簡単に思われることである。介護者は心理的に応じる準備ができていて(being psychologically available)、実際にそこにいること(is actually present)である。これは「無条件の肯定的配慮(giving free attention)」として知られている。内外の影響に揺れることなく、その人のためにそこにいるということである。これは心理的支援をするために本質的なことであるが、専門医など職業的役割に付随する自尊心に囚われてそれができない人々もいる。介護の負担が重すぎる人もそれを与えられない。自分の傷つきやすさ、不安、苦痛などが大きすぎれば無条件の肯定的配慮を与えることはむつかしくなるだろう。
そこにいることができるということは人への贈りものであり、自分自身を解放することでもある。「何かをしなければいけない」という強迫観念はしばしばよいケアの邪魔をする。ただ「ここにいること」ができることがよいケアの前提条件となる。というのは、いるということはすべての真の関係とすべての我―汝の出会いの根本にある特質だからである。
第6章で示した、12の前向きな相互行為(positive person work)(認めること 交渉 共同・・など)は「すること」の具体を示している。よいケアを実行するには介護者の人間的成長が必要である。すなわち、開放的で、柔軟で、創造的で、思いやりがあり、敏感で、落ち着きのある人である。
たったひとりの認知症の人との関わりであっても、介護者の側にはすぐれた気づきとスキルを必要とする。ケアチームが数人に関わるときは、高度に認知的な管理的対処になりがちで感情のからむ情報は切り捨てられる。問題の複雑さを受け容れ、簡単な一時しのぎの対処をしないのがよいケアチームである。
2 脚本とケアの仕事 scripts and care work
ケアの仕事を始める動機に様々な脚本(始まりは幼児期)があり得るが、本人の自尊心は日常の姿に隠され低い傾向にある。彼らは自分自身の願望やニーズと他人のそれを混同する傾向がある。大きな困難を抱えている他人に無理に関わろうとして共依存(co-dependency)状態に陥ることがある。このような脚本をもつひとは燃え尽きのリスクがある。
しかし、このような脚本には前向きな面もある。貪欲と利己主義が蔓延する社会のなかにあって、困難に向かう創造的な、稀有な人格資源を育てることも意味する。道徳性に向かう最初の一歩であり、世の中をより良い場所にするための解決策をもたらし得るのである。
3 脚本からの回復
固定化した脚本を持つ人はそこから回復するために感受性の高い発達的な営為が必要になる。
第一に、自分の過去の(例えば性的虐待体験)出来事に自覚的になること。
第二に、自己へのより寛大な態度を発達させること。それは大きな回復力と柔軟性をもたらす真の自愛(true self-love)を育むことであり、その自愛から他人への本物の思いやりが生まれる。自愛とは両親の無条件の愛から自然に生まれるものだが、これが欠けている場合、癒しの徹底した過程をやり直す必要がある。
第三に、個人的なニーズを満たす新しい方法を見つけること。自己犠牲を通してこれを達成できるというのは迷信である。
第四に、現実主義的に考えること。
4 痛みと傷つきやすさについて points of pain and vulnerability
よいケアを妨げる多くの偏見がある。例えば、民族、年齢、階級、性別など。利用者と直接関わるとき、困難で予想不可能な感情を引き起こすことがある。認知症ケアで起こる可能性は高く、しかも深く関わろうとする人ほど影響を受けやすい。利用者が亡くなったとき、認知症の人の介護者に対する激しい個人攻撃あるいは性的接触など。「余り関わりすぎない」といった組織防衛的対処では認知症のひととの本当の関わりは不可能である。目指すべきは、問題が起きたとき、スーパービジョンを介して感情を表出したり受容することができるケアの現場を作りだすことである。
5 認知症ケアの心理力動 the psychodynamics of dementia care
我々は動機、葛藤、イメージを持っているが、殆ど意識していない。これを「無意識の心理過程」と呼ぶ。
共感の性質the nature of empathy
共感とは、他人が何を経験しているのかを理解することである。共感は他人が感じていることを感じることではない。我々はお互いに異なっており、他人が感じる通りに感じることはできない。
知的に正常な人に共感するとき、相手の言語と非言語的シグナルの両方に着目するが、ときにこの2種のメッセージが矛盾していることがある。「完全にOK」と言う一方で不安のサインを示している。徐々にすべての情報をある種の「ソフトフォーカス」の状態に保つことで、相手が経験していることを感じとることができる。高度な共感のスキルを身につけた人は、自分の感情の状態を保つことができる一方で、他人の感情の状態にも気づくことができる。
認知症の人と共感する上でも課題は似ているが全く同じではない。単語や文章は通常の意味を持たないかもしれないが、認知症の人の言葉にはまだ比喩や暗示による詩のような意味がある。非言語的シグナルは特にはっきりしているかもしれない。そのとき他人の準拠枠を完全に再構築することは、その人の送る言語的非言語的シグナルを少しずつ理解するだけでは不十分であり、我々自身が生まれつきもっている感情を利用することが必要になる。
もしこれが共感の真実の基礎ならば、最も困難で苦痛な記憶でさえ前向きに利用することができるだろう。殆どの人はわずかであっても認知症の人が経験していることと同じような経験が自分にもあったことに気づくだろう。例えば、見放され、裏切られ、とても孤独だったとき、無力や恐ろしいほどの無能力を感じたとき、せかされたり低く見られたときである。人は日常生活で多くの悪性の社会心理に耐えなければならない。「経験的自己」が育まれるにつれ、これらの情緒的記憶が利用可能(ケアの仕事のための資源)になる。
投影性同一視と共感性同一視 projective and empathic identification
一対一のケアの場面に戻ろう。比喩的に言えば、すべての人は認知障害があってもなくても、自分の中に「子ども」をもっている。ときどきその子どもは困窮し抑えようがなく、多くの要求をする。
介護者が自分の中の子どもの存在を否認する状態を仮定する。介護者は認知症の人の中に自分の自己の一部(子ども)を見て(投影性同一視)(メラニー・クライン)、認知症の人にその一部を演じさせる。例えば、怒らせたり、無力にさせたり、混乱させるといったことをさせる。ケアを受ける人は元々のものと投影されたものとの二重の負担を負い、本来の障害より重いようにみられる。医療現場や家族ケアの現場ではこの精神力動が継続しがちである。
これと対照的に介護者が自分の経験的資源を育んでいる場合、介護者は自分の脚本に取り組み、自分の中の子どもを認め大切にしている。介護者とケアを受けるひとは同じ人間として共通に持っているものの価値を認めあう。両者は共に自分の中に子どもを持ち、相手から受ける援助と慰めに依存しているが、関係は投影によって固定されていない。介護者の認知症に似た経験は共感に役立ってきた。認知症の人はあるがままに認められ、障害を強調する心理力動は存在せず、認知症の人のニーズは理解される。介護者の中の子どもは隠されず正直に、ケアの現場以外で世話を受ける。ケアの過程は真実、誠実、公平であり、コミュニケーションは調和している。この関係全体は共感的同一視のひとつとして説明できるだろう。
6 個人を成長させる二つの方法two paths of personal development
体系的な知識を得ることや半自動的にスキルを伝えることは問題外である。必要なのは「内省的実践者」により聡明で柔軟な行為をみつけることである。
一つ目は、心理療法による方法。二つ目は、瞑想によるものである。
附記
本章では、認知症ケアの領域で最も重要なことのひとつ、介護者のあるべき姿について語られる。無条件の肯定的配慮 スーパービジョン 共依存 共感 などキーワードに触れながら介護者に求められることをいわば深掘りしている。特に認知症の人にも精神療法的アプローチが可能であることが述べられる。投影性同一視といった精神分析用語が適用されるのは興味深い。共感的同一視というのはキットウッドの独自な造語ではないかと思うが共感を介した関係性を表わす言葉としてよく理解できる。
この章では、介護する側の組織、ケア現場の在り方に焦点があてられている。
福祉サービスを提供するどんな組織にも事業主による被雇用者の扱われ方には密接な類似性がある。被雇用者(介護職)が見放されたり虐待されたりしていれば、恐らく利用者もそうされるだろう。被雇用者(介護職)が援助を受け励まされていれば、彼らは安定した気持ちを日々の仕事に取り入れるだろう。もし組織が利用者に優れたケアを提供しようと全力を傾けるならば、つまり利用者のその人らしさ(パーソンフッド)に全力を傾けるならば、組織はすべての介護職員のその人らしさ(パーソンフッド)にもあらゆる面で全力を傾けねばならない。これまで認知症の人のニーズに関して検討してきたすべての論点が介護職にもあてはまるのである。
認知症ケアの現場では3者(組織・介護職・利用者)の間の格差が大きくなりがちで、虐待や不正が起こる潜在的可能性がある。
福祉の現場でニーズが高い利用者がいる場合、介護職にいわゆる燃え尽き症候群の起こる可能性が高くなる。
利用者のパーソンフッドと職員のパーソンフッドは密接に関係している。組織が職員をケアする仕方を考えてみると、賃金と雇用条件、初任者研修、チーム作り、スーパービジョン、現認者教育、個々の職員の成長、認定資格と昇進、効果的質の保証などがあげられよう。
認知症ケアのように不確実性を伴う領域では、職員は自分の仕事について定期的にフィードバックを受け、経験を積んだ職員とこれから起こる問題を話し合う機会を持つことが重要である。最良のケア現場ならば管理者も含めてすべての職員が定期的にスーパービジョンを受けられるとよいだろう。仕事で辛い気持ちになることがあれば、それに対してある種の「包容」をスーパービジョンが与えることは適切である。
またケアの仕事のすべての段階で必要なことは「内省的実践者(reflective practitioner)」(柔軟で自信に満ち理解力に裏打ちされた仕事をする人)の育成を促進することである。「能力」を獲得させるだけの機械的アプローチは効果的ではない。教育の内容は、認知症介護研修でしばしば行われるような単なる理論中心ではなく、職員が実践を継続的に内省できるようなものであるべきである。
適切な人材を認知症ケアに呼びよせるには認知症ケアをやりがいのある魅力的な仕事にする必要がある。職員の採用には大きな眼識が要る。知識やスキルではなく、姿勢や態度が大切である。子育てや養育、高齢者への介護経験、知的障害者施設での経験のある人は認知症の人への適切な態度を備えていることが多い。殆どの看護師は認知症ケアの分野で働くための心理学の教育を全く受けていない。受けていても従来の認知症モデルの知識は役に立たない。
採用のとき、よい実践とよくない実践の例をあげてもらうことで適性を見つけ出せることがある。求職者にケア現場で数時間過ごしてもらい、認知症の人と直接接してもらうところもある。一般に認知症の人は誰が本当に自分に関心をもっているか見極めることができ、自分自身の選抜方法を持っているのである。
人間の心理は不安を避けるための様々な方法、「自己防衛機制」を持っている。人びとが或る集団を作るとき、防衛過程が結びつくようになる。集団にとって何が安全かが優先され個人の意識の一部は組織に譲り渡される。認知症ケア現場でも防衛過程は働く。不安の中心に、老化と虚弱、狂気と自己喪失があり、「自分もいつかこうなるかもしれない」という脅威が加わる。無意識に認知症の人を遠ざける様々な手口が存在する。脳の神経病理は進行し認知症の人は苦痛を経験せず、基本的身体ケア以外なにも必要としないという考えで防衛するのである。日常の会話はとても些細なものとなり、感情は表わされず、職員は集団防衛のなかで自己を喪失していく。
すべての組織は社会の一部であり、その社会のなかで、歴史的、経済的、社会的な結びつきをもっている。認知症ケアにおいても、地域社会の中にある小さな家庭的ユニットが重視されるようになった。ケアの現場が開放的であることが必要である。買物に行く、パブに行く、教会に行く、地域の公園を散歩することなど。逆に家族やボランテイアが施設を訪問しケアに加わることでケアの共有が実現する。コミュニケーションが豊かになり家族は自分たちの望みを表わすことができ、孤立感、負担感が減り、本当に与えたいと思うケアができるようになる。施設と地域社会の間の障壁が除かれれば除かれるほど、認知症を取り巻く恐れは一掃される。同時に専門的なケアの実践は普通(ordinary)で、より家庭的(more homely)で、人間的(more human)になり、介護者は元気をだすことができるのである。
附記1
ケアの現場で起きる虐待や不正に関する記述は、日本の滝山病院における精神障害者に対する虐待を思い出させる。虐待をしたスタッフはもしかすると病院の上層管理者から自分たちも虐待に近い扱いを受けていた可能性である。
附記2
認知症ケアの現場において自分の実践が外側からみてどうなのか、よりよいケアをするために受ける指導、それがスーパービジョン。内省的実践者になるためのひとつのプロセスといってもよいだろう。
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