前章で描かれた認知症のイメージは、損傷と苦痛に特徴づけられる暗いものだった。状態の悪化には進行する脳病理だけではなく、心理・社会的要因も関わっている。この章では、パーソンセンタード・アプローチを展望し、どのようにして脳病理の進行が相殺(offsetting)され、認知症の人がその人らしさを損なうことなくいられるのかに着目する。
標準パラダイムが確立する前の一時期個人的な要因が認知症にどれだけ関わっているか研究されていた。アメリカの精神科医ロスチャイルドは脳病理だけでは認知症の症状を説明できないこと、心理的側面が常に関わっていると主張した。より最近になり認知症の人のその人らしさ(パーソンフッド)が一般的に認められるようになった。
認知症ケアとして、様々な試みがなされてきた。リアリテイ・オリエンテーション、バリデーションセラピー(ナオミ・フェイル)、リゾルーションセラピー、回想法などである。そしてその人の人生歴をケアプランや実際のケアに組み込むことでその人の好みや興味に適ったアクティビティを提供できるようになった。人生歴による自分らしさの感覚をできるだけ最後まで維持することが求められた。よいケアを提供するための評価や観察法が開発された。認知症ケアマッピング(dementia care mapping:DCM)もその一つ。
認知症の人は自宅で暮らしていることが多くコミュニティケアは最優先課題である。キーとなるのは教育訓練を受けたケアマネージャーの存在である。一人ひとりの個別のニーズに合わせてデイサービスやリハビリの計画がたてられる。訓練を受けたボランティアのインフォーマルなサービスの利用も増えている。
診断後の認知症の人に対するカウンセリングとグループセラピーが開発されている。認知症の人に対する偏見がなくなり、認知症が病気扱いされなくなり、人間の状態の一部であると受け止められ始めている。
事例研究:高齢者住宅に引っ越したのちの認知症の女性Bの物語が提示される。引っ越したあと数週間、認知症はかなり進んでおり、意見が合わないと暴力を振るった。寝る時服を脱がず、脱がそうとすると叩いた。施設の住民は彼女を避けるようになった。毎日抜け出して以前すんでいた村にいくバスを探すようになった。
幸運だったのは初めて会った管理人Jとお互いにうまが合い、次第に信頼の絆が強くなったことである。Jは娘から話を聴きBの昔の生活がありありと分かった。Jはこの情報をもとに問題を和らげる方法を考えた。おしゃれをするのが好きだったことから朝服をたくさん用意して選んでもらい毎日きれいな服を着て過ごすようになった。徘徊するBに対して子どもたちの送り迎えに一緒に連れていくことより社交的なBは地域の人と話す楽しい時間を呼び起こした。そしてそこにはいつも変わらずJとの強い絆があった。地域の人もJが好きになり最初に見せたような攻撃性は薬を使わずにおさまった。
その後彼女は転倒し外科病棟に入院したが亡くなった。亡くなる1年前に施行されたミニメンタルテストは1/30 であった。 この物語は、疑いもなくその人を中心としたケアの効果を示している。夫を失ったJの良い状態を支えたのは、管理人との.深い結びつきであった。JはBの日常にめりはりをつけ、外出の生活習慣を取り戻すことで自信を回復させた。
経験と研究:その人中心のケアにより最重度の認知障害があるにもかかわらず大多数は寝たきりになって人生を終えることはない。質の高い家庭的ホームのケアにより認知症の回復(リメンテイング)を認める例が報告されている。5年間高齢者施設に暮らす86歳の女性は孤立しほとんどコミュニケーションはとれなかった。人中心のケアプログラムが立てられた。彼女の姉妹を訪ねること、ガーデンセンターや子供のころ住んでいた場所に出かけること、何らかの家事に参加する機会を与えること、容姿に気を配ること、これらにより明らかに前向きの変化が認められた。
神経病理的障害がひどいとき:小脳変性症に認知症が加わった50歳女性例が提示される。医師から「できることは何もありません」と告げられたところから夫の腕の中で息を引き取るまでの苦闘のケアが示される。施設にあずけずに最後まで自宅でケアしたことの意味が告げられる。
認知症の弁証法・再検討:個々の神経病理がもたらす障害(neurological impairment)は最も良い環境の中では前向きな働きかけ(positive person work)によって相殺される。 認知症の悪化を相殺する大きな潜在的な力がケアにはある。それは患者の心理的ニーズを満たす相互行為からなっている。主な要素はケアの質である。
従来は神経病理のもたらす障害が重くなるほど人々は無視されがちだが、ここでは反対に病理が重くなるほど前向きな働きかけは多くなるのである。
認知症では長い間個人に内部化されてきた精神の多くの側面が再び対人関係の環境に戻される。記憶は消えても過去の出来事を知っている他人がいれば自分らしさは保たれる。バリデーション、スピリチュアリティ、ブーバーの我―汝関係などに関連した人との出会いは損傷による絶望と恐怖を和らげることにつながるだろう。
附記1
この章の内容は、認知症の人に対して僕が日常臨床のなかで考えながら実践していることと重なる部分が多く比較的スムーズに読み取れた。あえて言うならば、「質の高い家庭的ホームの環境では認知症の回復(rementing)が可能である」というところは標準的パラダイムの考え方に対してかなりchallengingな表現となっている。
附記2
前向きな働きかけ(positive person work)によって認知症の障害の重さが相殺される、というところもむつかしい。症状が和らぐことはあるかもしれないが、ここではむしろ働きかけという新たな人対人の関係性のレベルが一段高く(あるいは深く)なることをsuggestしているのでなないかと思う。認知症の人のQOLはその人の周囲との関係性に依存すると考えられるからである。
(この章では、認知症の人をケアするに際して避けるべき接し方について述べられる)
認知症の諸研究から導かれる標準パラダイムからはそれぞれ違った生い立ちと人格と日常生活の中で認知症になった実際に生きている人を理解することはできない。さらに、標準パラダイムは、認知症の人の効果的ケアについて語ることができない。それはアルツハイマー病は治療も助けも希望もないといった考え方にあらわれている。認知症の人の日常に近く身を寄せてどのように暮らしているのかを調べれば、とても異なった全体像を得ることができる。認知症の人がどこまで変わらない人間関係を維持できるか、自分の能力を活かすことができるか、生活の喜びを経験できるか、これらが標準パラダイムではない新しいパラダイムでは重要なポイントとなる。
82歳の老婦人Mの物語が提示される。休暇旅行中スペインのホテルの朝の食堂で食事を取りにいきテーブルに戻れなくなり、夫をみつけられなくなった。この旅行前から物忘れの症状はあった。彼女は夫や家族に尽くす誠実な人柄だった。夫は実直で有能な人物だった。彼は何が起こっているのかわからず妻の誤りをあからさまに非難し不安を示す彼女を強く叱責するようになった。家から外出して迷子になり警察に保護された。遠方にいた娘の意見をいれ彼女を病院に連れて行いきアルツハイマー病と診断される。真面目な夫は、病気の知識や情報を得て、ケアに努めた。デイサービスに通うようになった。しかし夫が狭心症となり、患者の情緒的障害は悪化し家庭での介護は限界となる。ある日ドライブに誘い本人には何も言わず老人ホームに入所させた。強い精神安定剤を投与され、夫は当分面会に来ないほうがよいとされた。患者はその施設で89歳で亡くなった。これは先進国ではふつうにみられる状況である。彼女は不安のなかで安心と安らぎを必要としていたが夫をはじめ周囲はそれを与えることができなかった。
認知症の進行状態を記述しようとするなら、社会的要因と対人関係の要因の役割をみることが大切になる。標準パラダイムでは認知症の知的情緒的症状は、脳細胞の障害により直接起こると説明されるだけである。これは「神経病理学イデオロギー」とみなされる。上記の物語のなかで患者は励ましや安心を願ったが実際には非難や怒りを受けた。主婦としての彼女の役割は奪われ、問題行動は共感的に検討されることはなかった。
このような時主たる介護者に責任を負わせがちだがそれは的外れであり道徳的配慮にも欠ける。我々の文化、経済、社会の歴史の矛盾が背景にある。ヨーロッパ中世から17世紀に経済的利益を生み出した国民国家と共に近代的な社会が現われた。富と貿易を効率的に機能させるために、社会の混乱を取り除く必要があった。多くの施設がつくられ社会のはみ出し者は収容された。精神病者、放浪者、犯罪者などである。高齢化が進むにつれて認知症患者もこの流れに入れられることになる。
ケアの古い文化の中で認知症患者が「汚い年寄り」としてひどい扱いを受けている事例が提示される。このような例からみて認知症の症状の悪化のすべてが脳の神経病理過程の結果として起こるとは考えられない。社会心理と環境が「人びとを認知症にさせる」ことはあり得るのである。
患者が行動しようとするのを無視し発言させないようにする、無能力化する、人格を奪うなど「障害の社会モデル」をキットウッドは研究し、これを「悪性の社会心理(malignant social psychology)」と名づけた。「悪性(malignant)」という強い言葉を用いたのは、その人らしさを深く傷つけ、身体の良い状態さえも損なう極めて有害なものを指すためである。但し、悪性という言葉は介護者側に悪意があることを意味しない。介護者の仕事のほとんどは優しさと良心から行われている。悪性は私たちの文化的遺産の一部なのである。
キットウッドは悪性の社会心理として17 の要因をあげている。
①だます(treachery):言う事をきかせるためにだます、ごまかす
②できることをさせない(disempowerment):能力をつかわせない
③子ども扱い(infantilization):親が幼児に対するように扱う
④おびやかす(intimidation):ケアのため脅かしてこわがらせる
⑤レッテルを貼る(labelling):認知症という言葉を使ってケアする
⑥汚名を着せる(stigmatization):病者、落伍者として扱う
⑦急がせる(outpacing):ついていけない速さでケアする
⑧気持を理解しない(invalidation):主観的現実を認めない
⑨仲間はずれ(banishment):心理的に追いやる、排除する
⑩物扱い(objectification):食物を口に流し込んだり、物の様に扱う
⑪無視する(ignoring):そこにいないかのように接する
⑫無理強い(imposition):強引に何かをさせる
⑬放っておく(withholding):本人の願いを聞こうとしない
⑭非難する(accusation):できないことや失敗を責める
⑮中断する(disruption):行為や考えを突然妨げる
⑯からかう(mockery):嘲る、いじめる、恥をかかせる
⑰軽蔑する(disparagement):自尊心を傷つける
認知症が進行するのは脳病理の変性に加えて上記の悪性の社会心理要因が生活場面ごとに加わることによる。二つの要因が相互に影響しあって病状が悪化していく。それを認知症の弁証法(dialectics of dementia)と呼んでいる。
この章では、かなり否定的な意味で弁証法的過程が考察された。しかし、もう一つの可能性、つまり脳病理の影響を弱め、脳のある程度の構造的再生を促す社会心理に関する考察である。これは次章で語られる。
附記1
理想的なケアがなされて悪性の社会心理が加わらない状態を仮定するなら認知症は緩徐に進行するもののBPSDなどは見られず静かに老いてゆくことも可能であろう。これは大井玄氏が“純粋痴呆”と呼ぶ状態である。普段診ている僕の患者さんの中にもそれに近い状態の人が何人もいる。。
附記2
上記の1-17の要素はいかにも悪性であるが、そこまでいかなくても家族やケアスタッフが認知症の人をできないとわかっているのに試したり、リハビリと称して頑張れ頑張れと励ましたりして本人に恥をかかせたりいやな思いをさせているのをみることがある。
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