臨床余録
2024年7月28日
トム・キッドウッドを読む:第2章 Dementia as a psychiatric category
精神医学から見た認知症

 認知症の人は同時に進行する2種類の変化に巻き込まれる。第1に記憶、判断、理解力など知的能力が徐々に衰えていく。これは脳の構造的変化に対応する。第2に、社会・心理的環境、つまり対人関係の在り方に変化が起こる。
 第1の変化について様々な科学的研究がなされその枠組みは標準パラダイムと呼ばれる。
認知症の経過は両方の変化の結果である。脳の研究は標準パラダイムを深化発展させたがまたその矛盾も明らかにされてきた。
 アルツハイマー型認知症の病理学的診断基準は、アミロイド斑、神経原線維変化と脳萎縮であり、診断基準は明快である。ところが実際は明快とは言い難い。というのも主要な認知症に関する病理的変化は認知障害のない高齢者の脳にもみられる。生前に判定された認知症の程度と死後にみられる神経病理の程度との間に一定の相関関係はないということである。もうひとつは、神経病理はゆっくりすすむが、認知症が急激に進む場合があることである。これを標準パラダイムで説明することは困難であり何らかの社会心理的影響を考える必要がある。

 以上が大事と思われる内容の抜粋である。次章以後述べられる「悪性の社会心理学」の伏線ともいえる文脈である。

 この章はほかに、認知症の定義、アルツハイマー型の症状、脳血管性の症状、混合型の症状、認知症の診断、うつ病と認知症、精神病との合併、人格の変化、アルツハイマー病の遺伝学、認知症を悪化させる身体状態などを客観的な知識をもとに記述している。これらは従来の認知症に関する教科書的記載と重なる部分が多いので省いた。

2024年7月14日
トム・キットウッドを読む:第1章On being a person

 認知症の人を理解する際にわたしたちの考え方の基本となる準拠枠は認知症のではなく認知症のでなくてはならない。

The concept of personhood*
 パーソンフッド(その人らしさ)は、社会的文脈のなかで他者によって人に与えられるリスペクトや信頼を伴う地位や立場と定義される。

The issue of inclusion
 AIが広まるにつれて人の関係性を通して柔軟かつ多様にパーソンフッドが生かされることが少なくなりコンピュータによる自律性が優先するようになる。ステファン・ポストは『アルツハイマー病の道徳的挑戦』のなかで、自律性や合理的能力を過大に強調することは大きな誤りであり、パーソンフッドは感情や情緒そして関係性の中で生きる能力により強く結びつけられるべきであり、そのような場では認知症の人はしばしば極めて有能であると述べている。

Personhood and relationship
 キットウッド*は関係の中で生きる存在の在り方について哲学者マーチン・ブーバーを援用する。有名な「我―汝」関係と「我―それ」関係である。我―それモードにおける関係は冷静さ、感情超越、手段性を意味し、我―汝モードは自己開示、自発性、未知の領域を旅する不安や苦痛を伴うが満足や喜びに至る道でもある。我―汝モードは我―それモードとは異なり存在全体と共に語られる。認知症を理解しようとするとき、関係性によってパーソンフッドを考えることは本質的である。たとえ重度の認知障害があっても我―汝タイプの出会いや関係を作ることはしばしば可能である。しかし現実のケアを考えると憂うつになる。というのも、最も正確な診断、最も完全なアセスメントを受け、最も詳細なケアプランが提供され、そして最も心地よい環境に置かれているにもかかわらず、我―汝のどんな出会いもないことがある。

The psychodynamics of exclusion
 認知症や身体障害の高齢者を物扱い(depersonalize)しようとする傾向が我々の文化にはある。この悪性の社会心理は我々自身の無意識の不安、虚弱になること、正気でなくなることへの恐怖から来ている。必要なのは、認知症の人を管理することではなく、本当の出会いが起こり、生き生きとした関係が作られるように私たち自身の不安や防衛を乗り越えて進むことである。

The uniqueness of persons
 人はそれぞれ独自である。従来の心理学では人格の概念を通して個人間の違いを理解しようとしてきた。標準質問票などを利用して人格を測定しようとする方法は本来の目的とは異なり、人びとを分類し選択するために利用されている。本質的に我―それモードのしもべなのである。認知症の人のパーソンフッドが損なわれているとき我々自身の経験的資源が豊かでないと認知症の人を援助することはむつかしい。

Personhood and embodiments
 認知症の研究は病理学など自然科学の研究が主であった。パーソンフッドの研究は人間科学と自然科学の学説を総合するものであるべきである。神経回路の古い深部は遺伝的に与えられている。一方、全体構造の細部、とくに大脳皮質はそれぞれの人で異なっており、予め与えられたものではない。細部は遺伝子の決定ののちの学習過程により後天的に作られたのである(epigenetic subject)。脳は可塑的な器官*といってよい。発達と後天的な側面が認知症における最近の研究では殆ど無視されてきた。だが、神経科学は学習や経験の結果神経構造が発達してきた程度により人間間にかなりの違いがあることが示されている。シナプスを破壊する脳の過程にどれだけ抵抗できるか。悪性の社会心理は実際にニューロンを侵すだろう。認知症は部分的には人生のストレスによって引き起こされるだろう。従ってケアの効果が「純粋に心理的なこと」と考える人たちも、身体から心を分離しようとする点でデカルトと同じ誤りを繰り返している。その人らしさを維持することは心理学的かつ神経学的課題なのである。

以上が第1章のまとめである。以下簡単なコメントを記す。

 *personhoodはキーワードのひとつで「その人らしさ」と訳されている。そして「その人らしさ」は関係や社会的文脈の中で他者から与えられる立場や地位とされる。すると多様な関係性のなかでパーソンフッドも様々に変わることになるのか。最後までその人らしくというのはaging in placeという地域包括ケアのキーワード。平野啓一郎は分人主義を唱え、話す相手によって異なる自分がいる。どれが本当の自分ということはなく、また中心に本当の自分がいるというのでもなくその分かれた自分の総体が自分なのだと主張。僕の考えも近く、「自分らしさ」はそれまで生きてきた人生の物語の中にある。誇るべき自分、唾棄すべきネガテイヴな自分、それらを含めすべて自分という物語のなかにある。

 *キットウッドは関係の中で生きる存在の在り方について、哲学者マーチン・ブーバーの「我‐汝」の概念を援用するが、独特で難解といわざるを得ない。ただ我‐汝の関係が人間以外の物への関わりにみられる例としてキットウッドが「毎日丹念に盆栽の手入れをする日本人男性」をあげているのは面白い。

 *脳は可塑的な器官であるとし、ストレスや(第3章で詳しく出て来る)「悪性の社会心理」は脳の神経に影響するなどかなり大胆な見方を披瀝している。認知症は脳の器質的な疾患でありそのプロセスを見ているしかないという悲観的な見方に異議を唱えている。

《 前の月  次の月 》

当サイトに掲載されている文章等は著作権法により保護されています
権利者の許可なく転載することを禁じます