臨床余録
2024年1月20日
ある日の看取り

 2023年○○月○○日看取りのための往診に向かう。連携診療所担当の患者さんで僕はこれまで診察したことはない。今朝、看護師が訪問して死亡を確認していた。

 玄関に入るなり息子さん、「何で死んじゃったんだ、何とかしてください、やれるだけやってください」と険しい表情で言う。少し驚いたが「わかりました、今すぐ診ましょう」と答える。そうか、訪問看護師が来て母は亡くなったとされたが、息子さんにとって母はまだ死んでない、なんとかしてほしいと思っている。そう直感した。

 患者さんは着物をきちんと着てベッドに横たわっている。「○○さん、遅くなりました、渡辺です」と挨拶。
 聴診で心停止を確認し心マッサージを始める。「お母さん、先生が来てくれたよ、起きて!起きて!」と息子さんが大声で叫ぶ。10回押して聴診、ついで心臓マッサージを繰り返す。

 「まだ手足が暖かいですね」と息子さんに話す。「そうです」と息子さん。口の中、瞳孔に光をあてる。「口はきれい、お顔の色も悪くないしむくみやチアノーゼもなくとてもきれいですね」「そうなんですよ、お母さん、起きて!○夫だよ!起きて!」「耳は聴こえていますよ、息子さんの叫び、きっと聞こえていますよ」といったやりとりをする。

 心臓マッサージを続ける。「手足も暖かいし表情も柔らかいしまるで眠っているようですね」「はい、そうなんです」「いいお母さんだったんでしょうね」「はい・・ お母さん起きて!○夫だよ! 先生が来てくれて一生懸命やってくれてるんだよ!」「○○さん、息子さんの声聴こえてますよね」僕が母親に話しかける。

 「息子さんがこんなに一生懸命なんだから、あと100回はやりましょうか」(僕は心臓マッサージをやれるところまでやる覚悟をした)「ありがとうございます。お願いします」と息子さん。
 「お母さん、先生がこんなに頑張っているんだから起きて!」と息子さんの叫びも続く。心臓マッサージを続ける。そして・・

 何かがポキッと折れる音がした。マッサージを中止した。息子さんがふっと息をついたような気がした。

 「お母さんが息子さんにありがとうと言っているようですよ」と僕が呟く。
息子さんは何も言わない。

 真ん中の母をはさんでベッドの両側、僕と息子さんが向き合うかたちで死者をみつめる。
それ以上、何も言うべきではないと思った。
 息子さんも叫ばなくなった。
沈黙が続いた。

 そして随分経ってから「お母さん寒そうだから布団をかけましょうか」と僕が促すと息子さんが黙って布団を母の上にかけた。そして「先生、どうもありがとうございました」と静かな表情で言った。時計をみたらマッサージを開始してから30分以上経っていた。
 看護師の確認した死は間違いのない死であるが、息子さんはそれを受け容れることができなかった。医者による30分間の心臓マッサージと並行して行われた母に向けての必死の呼びかけを経てようやく息子さんにとっての母の死は訪れたのである。

 死には、個体に訪れる身体的・医学的死(1人称の死)とは別に、2人称の死(家族と患者のような親密な関係性における死)と3人称の死(家族以外の他者からみた距離のある死)がある。このように考えると一見おかしな家族の言動も理解しやすくなる。息子さんにとって大事なのは2人称としての母の死であり、医療者による3人称の死の宣告をたやすく受け入れることができなかったのだろう。息子さんの心の状態を医師が察知し、心臓マッサージを施すことによって死を受け入れるプロセスを促すことができたのだと考える。

 連携診療所の在宅患者の看取りは僕にははじめてのことである。全く知らない患者の死後の診察をし「ご臨終です」という。看取られる側からすれば何とも事務的な行為にみえるのではないかと思っていた。本当の看取りのプロセスからはかけ離れている。
 今回、息子さんの悲しみと無念と怒りにいきなり遭遇し30分間の心臓マッサージをするなかで患者さんや息子さんとそれなりの心の交流できた。形式的な「お看取り」ではなく本当の「看取り」のプロセスに少しは参加させてもらえたのではないかと思う。

附記1
 この事例をふりかえってみて僕自身の心の変化に気づいた。はじめは息子さんのいきなりの険しい表情や荒々しい声の調子に悪いシナリオが頭に浮かび灰色の雰囲気のなかで心臓を押し続けた。ところが、途中から息子さんのなりふりかまわない声や表情に母に対する真率な心が感じられてきたのだ。母への叫びから沈黙、ふとんをかける動作、僕への礼儀という流れを経て、彼への同情、というよりむしろ敬意に近い感情が湧いてきたのだ。不思議である。

2024年1月9日
読書でふりかえる1年

 2023年はどんな1年だったのだろう。 印象に残った本でふりかえってみよう。

『天井のない監獄 ガザの声を聴け!』 (清田明宏)

 著者はウンルワ(国連パレスチナ難民救済事業機関)の保健局長、日本人医師である。国連のグテーレス事務総長が、「今回のハマスの攻撃は、何もない真空(vacuum)状態から起きたのではない」と述べたことの背景がわかる内容の本。文字通り“天井のない監獄”での生活を余儀なくされてきたパレスチナ人びと。

『看とりを考える』 (名郷直樹)

 「看取りとお看取り」の違いから始まり、「死をことほぐ」で終わる1冊。看取りも死もプロセスである。人生会議は看取りのプロセスである。下り坂に厳しい社会。寝たきり安楽状態という言葉。独特の視点に多くを学んだ。

『人はどう老いるのか』 (久坂部羊)

  老いるということはどういうことか。それを知らないことの悲喜劇を柔らかく伝える。キケロの『老境について』を現代に即して書いているともいえる。認知症の受けとめ方など共鳴する点多い。「明晰であり続けることの悲劇」「認知症の予習」「何があっても想定内」「老いるということは失うこと」など老熟とも言える言葉が詰まっている。

『デイープメデイスン』 (エリック・トポル)

 AIは医療に革命をもたらすのか。その潜勢力の半面、危惧しなければならない点も多い。“第1章:深遠なる医療(デイープメデイスン)第2章:浅薄なる医療(シャロウメデイスン)最終章:深遠なる共感にもとづく医療”が僕には面白かった。デジタル医学の進歩の裏で思いやり(compassion)に欠ける医療の実態に警鐘をならしている。AIは患者に共感できるのか、読みながらともに考えさせられる。

『ウクライナから来た少女』

 ロシア侵攻前から日本が好きで日本語を学んでいた少女の語るリアル。

『丹野智文 笑顔で生きる』

 若年性認知症当事者が語る認知症の医療と介護の実際と批判的発言。認知症医療・介護に関わる人は読むべき本。

『ハンチバック』 (市川沙央)

 先天性ミオパチーという難病を背負いながら書いた小説ということで読んでみたが、僕自身のもっていたバイアスを反省。驚くべき小説。

『THE SOUL OF CARE』   ARTHUR KLEINMAN

 慢性あるいは治らない疾患を持つひとにどう向き合うか。ケアとは人間による実存的行為であり、より人間的になるための旅である。アルツハイマー病の妻をケアし看取るまでの壮絶ともいえる旅の実際が語られる。患者の疾患は診ても苦しみに眼を向けようとはしないアメリカの医療の在り方を終始批判。

『狂気について』 渡辺一夫評論選

 健康と病気の差はなにか。正常と狂気の差はなにか。自分のなかの狂気めいたところに自覚がないと本当の狂気に陥る。我々の心のなかのうようよしたものが整理されて一方向に向くときが危ない。人間はとかく天使になろうとして豚になる。平和は苦しく戦乱は楽。苦しい平和を選ばねばならない。

『父の生きる』 (伊藤比呂美)

 遠距離介護の3年半を生き生きと描く。ひとりひとりみな異なる老いの姿。作者にとっての父のかけがえのなさが平明に印象深く描かれている。

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