“「父の最期は自宅で」がかなわず救急搬送”こんな見出しで認知症終末期の患者さんのケースが朝日新聞に載った。子どもから在宅看取りの希望を確認していたにもかかわらず呼吸停止の際、訪問看護師が救急搬送を指示。病院の救急外来で1時間半後、死亡確認された。患者は苦しみながら死を迎えたと家族が訪問ステーションに損害賠償を求めて裁判をおこした。その結果、在宅看取りの同意はあったが、救急要請や心肺蘇生しないという合意まではなかったとされ、訴えは棄却された。
なんとも言いようのない結末である。在宅看取りという言葉のなかに救急要請や心肺蘇生はしないという意味が包含されている。それは在宅医療に携わる者であれば常識の範囲内であろう。
ところで在宅看取りと決めていてもさいごまで迷うのは通常は家族であり、いざとなると救急車をよんでしまうこともある。そのようなケースを僕も以前はよく経験した。
最近亡くなった患者Tさんの場合をふりかえってみよう。
90歳の独り暮らし高齢女性、長く訪問診療中である。認知症に心不全を合併し寝たきりで在宅酸素療法をしている。その彼女が食事を摂れなくなり、傾眠状態が目立つようになった。本人は病院には行かないと言い、家族とも延命処置はしない、在宅でさいごまで診ていくことで基本的に合意していた。やがてむくみや酸素濃度低下が目立つようになり、状態は下降線をたどる。それを見ている家族は病院に連れていくべきか迷う。僕の方から、心不全と認知症と高齢が重なり今の状態があり、苦痛も軽いので在宅で診ていくことを再度提案。病院に行くと検査や点滴など本人に苦痛を与える治療をされるであろう。その結果改善すればよいがそれは期待できないという話もする。息子さんは近所に住み毎日必ず母親を訪ね暖かいケアをしている。状態は理解し病院に行っても苦しいだけかもしれず、もうよくならないことも承知している。それでもすぐに結論はでない。そしていよいよ意識や呼吸状態悪化。駆けつけた僕や訪問看護師を前に「どうしたらいいのかな。病院に行くか迷いますね」と正直な気持ちを吐露する。「そうですね。迷っていいんですよ」と僕が言い、「できるだけ後悔しない方にしたらいいですね」と看護師がやわらくつけ足す。結構長い時間考えていたようにみえたが、「やはり病院にお願いします」と決断。看護師が救急要請する。昔かかっていた病院に行くことになった。
その夜息子さんから電話があり「病院で亡くなりました。先生にはいろいろありがとうございました。」と落ち着いた声で丁寧なあいさつをいただいた。
これでよかったと思った。長く在宅で診て来たかかりつけ医としては自宅で看取るというシナリオが一番すっきりする。しかし、「すっきり」は気を付けないといけない。「すっきり」終わることはすっきりしない何かを残すことがないかどうか。息子さんは迷った。迷ったすえに救急搬送し病院ですぐに亡くなった。だが迷った時間は無駄ではなかったと思う。その間僕もさまざまに思いを巡らせることができた。迷いの大切さを医療者として僕は改めて認識することになった。Tさん自身も、あの人懐こい微笑を浮かべて「これでよかったんですよ」と言ってくれているような気がする。
冒頭の新聞のケースは息子さんも訪問看護師も迷いがないように見える点で共通しており残念な結果になってしまったようだ。
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