臨床余録
2023年11月26日
パワハラと対話

 自分のことを振り返る。その言葉や態度に対して、あるいは僕の個人的な事情から、スタッフに不快な言動を示すことはあったと思う。周囲のことは考えず自分のやり方で突っ走る、そんなこともよくあった。厳しい言葉と無言が僕のこころの中で拮抗する。不機嫌に無視することもある。それに対して何人かで僕のやり方に不満あるいは怒りを表明することもあった。
 僕の場合は幸いそこから対話がはじまった。日々の診療に本当に必要なこととそうでないこと。仕事をする上でしてはいけないことと許せること。専門職としての考えをお互いにそれなりにしっかり持っている者同士なので対話(会話でなく)が可能だった。その中で自分では十分意識できなかったことも含めて僕の不適切な厳しさ、冷たさを指摘された。しかし、それをパワハラという言葉で呼ばれることはなかった。もしパワハラと烙印を押されていたら対話という大事な語りあいはできなかったであろう。

 最近は以前にも増してパワハラという言葉がメデイアで飛びかい、その否定的イメージは固定されてしまっている。だからパワハラという言葉で括られてしまうとそこで“決まり”となり止まってしまう。建設的な対話はうまれない。 むつかしいことかもしれないがパワハラという安易なレッテルを貼る前に対話を試みる努力が必要だと思う。それにしても対話とは何だろう。

 「対話は、他人と同じ考え、同じ気持ちになるために試みられるのではない。語り合えば語りあうほど他人と自分との違いがより微細にわかるようになること、それが対話だ。『わかりあえない』『伝わらない』という戸惑いや痛みから出発すること、それは、不可解なものに身を開くことである。そのことで、ひとはより厚い対話を紡ぎだすことができるようになる。」(鷲田清一)

 異なる経験を持つ他者の考えを自分の考えの曖昧さや矛盾を修正するための手立てとしてとらえること、そしてそれぞれの対立する考えをもそれとして認めること。その中で自分の価値観さえ変わっていくこともあり得る。対話は簡単ではない。しかし時間と場所を共有し社会生活を営む人間同士、なくてはならない知恵であり、専門職としては必須のスキルと言えよう。

2023年11月12日
ほんとうに必要なくすり

 90歳のその老婦人は4年前から通いはじめた。それまで行っていたクリニックが少し遠いので歩いて通える僕の医院に来るようになった。70歳で転倒し大腿骨頚部骨折で手術を受けたがその後屋外歩行も可能で独り暮らし。薬手帳をみると骨粗鬆症に2種類、過敏性膀胱に1つ、高血圧に1つ、糖尿病に1つ、睡眠薬1つ、高脂血症に1つ、ビタミン剤1つ、高尿酸血症に1つ、全部で9種類でている。いわゆるポリファーマシーであり、副作用のリスクが高い。検査で異常が出てそれぞれに薬がでたのであろう。ご本人は眠れないのが一番つらい、その他何も困らないという。しかし、それまで服用していた薬は急にかえないのが原則なので、ゆっくり様子をみていくことにした。
 通院2-3年後から睡眠薬以外の薬が時々余るようになる。そのうち「薬は睡眠薬以外は飲んでいません、気にしません、大丈夫です、睡眠薬だけください」というようになった。物忘れがでるようになり、予約を忘れるので電話で呼ぶこともでてきた。それでも身の回り生活動作は自立している。
 血糖は正常、血圧は170/96と高いが94歳の人はこれでよい、無理に下げなくてもよいとお話する。若いころには検査異常に対し神経質に投薬していたようだが、今は少し呆け(よい意味の)が加わり、糖尿もコレステロールも気にせず食べることに楽しみをみいだしている。〈老年性超越〉のひとつの例をみさせてもらっている。

 最近、咳の薬が薬局にもなく困っていることを或る信頼している医師に相談したら、かぜの咳は痰をだしてくれる防御反応だから無理に止める必要はない、アレルギーや喘息が関与する咳ならそれぞれアレルギーや喘息の薬を処方すれば鎮咳剤はなくても咳は止まる筈ということだった。

 AIが医療の様々な場面で利用されるようになってきているが、近い将来AIのアルゴリズムがchoosing wiselyの思想をとりいれて処方をチェックするようになるかもしれない。

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