臨床余録
2023年5月21日
能力主義のもたらす死

 ニューイングランドジャーナル2023年1月5日 “Death by Ableism”を読む。

 2020年6月テキサスのマイケル・ヒクソン、46歳、はcovid19の合併症で地域の病院に入院した。彼は数年前から心筋梗塞の合併症で動きに制限があり、認知機能も低下していた。彼の治療チームは彼のcovid19合併症の治療をしないことを決定した。妻との会話で担当医は歩けず喋ることもできない彼の生活の質は非常に限られていると述べた。チームは彼のケアと栄養サポートを中止した。ヒクソン氏は数日後に死んだ。
 彼の死はメディアの注意をひき障害者グループに動揺を与えた。私は彼のストーリーを読みオンラインでその会話を聴き涙がとまらなくなった。

 私の幼年時代、叔父のデビドは我々の家から歩いて20分のところに住んでいた。社交的で近所をよく歩きよく会話して噂話にも通じていた。ジョークが好きでカントリーミュージックを愛していた。私の誕生日にはいつも“Love, Uncle David”と書かれたカードをくれた。デビドは私の祖父母と一緒に暮らし、難治性てんかんを含む発達障害を持っていた。高用量の抗てんかん薬で発作は週数回に抑えられていた。彼の発作は家族にとっていわばお定まり(fixture)であり、休日は興奮しがちで発作も増えた。あるクリスマスにディナーのテーブルで発作を起こした彼が車のついた椅子を選ぶそのserendipityに皆面白がった。そのまま彼を容易にベッドに運ぶことができたのだ。年を重ねデビドの発作は激しくなり脳外傷を起こすこともあった。発作の度にその機能が低下した。祖父母も年をとり、デビドはナーシングホームに入ることになった。
 2016年12月、54歳時デビドは発作により誤嚥性肺炎を起こし病院に入院した。
 彼の嚥下機能は極端に落ちていた。言語療法士である私と治療チームは彼の嚥下機能を観察した。肺炎は治療で改善したがNPO(経口禁)が続いた。病院は彼を退院させあとは我々に任せることになった。繰り返す発作による脳への影響を考えれば彼の寿命は限られていると思われた。それにしてもその都度回復する彼のレジリエンスをみると今を最後としてよいのか確信がもてなかった。
 鼻腔チューブで栄養を補い嚥下力の回復を待つのはどうであろうか。
 病院チームは「鼻腔栄養は苦痛を伴い非人間的である、彼に必要なのは栄養中止、つまりホスピスケアである」とした。我々は鼻腔栄養をさせてほしいとたのんだが、彼は鼻腔チューブなしに退院することになった。病院は認知機能の不確かな祖父母にその方針に対する同意書を提示し承認を得ていた。
 予測通りすぐにデビドは誤嚥性肺炎を起こした。再び病院チームはホスピスケアをすすめた。今度は我々も折れた。ある夜私はデビドのそばに座り、あふれる痰を吸引しながら涙がとめどなく流れ出た。このさいごのとき、私の行為が彼に少しでも安らぎを与えていることを願った。数時間後彼は死んだ。
 何か月の間私は眠れなかった。目をつぶるとデビドの苦しそうな、懇願するような顔が浮かんだ。私と両親は正しい選択をしたのかどうかという問いに今も苦しんでいる。
 医療チームはデビドの利益となる治療を提示した。彼のQOLは極めて低いので極小の介入でも負担になるとされた。この考えには無意識の障害者差別(unwitting ableism)がしみこんでいる。障害を持つ人の命(life)は障害のない人の命より価値(value)がないとする考え(notion)である。
 人生を通して彼は常に能力主義バイアス(ableism bias)にさらされてきた。“発達障害”という診断をみて医療チームは彼が言葉を喋れず、トイレを失敗し、一人では安全にあるけないといった誤った認識を持つであろう。私は一度彼の病院の部屋に彼の大好きな話題、カントリーミュージックや最近リリースされたコメディ映画などのリストを置いたことがあった。私たちが彼を人間的に扱えば病院チームもより良いケアを施してくることを望んだのである。
 パンデミックの初期、必要なケアがなされないことによるパニックが予想された。以前は閉じられた場所で交わされた医療の配分の問題が公に話されるようになった。危機対応の標準が定められ、QOLの低い人、障害者は非優先化される(deprioritized)ことになる。これらの計画はアメリカ障害者法に反するとしても医療チームは個々のレベルで誰が治療され誰が治療されるべきではないかを決めている。デビドのチームと似た決定であり、パンデミックで医療リソースが限られこの傾向(rampant ableism)に拍車をかけているのである。
 2017年1月1日、私と両親はデビドの遺品を小さな箱に詰めていた。DVDや古いグリーティングカードにまざって私はパステルカラーの索引カードをみつけた。それぞれのカードの上にはそれぞれ或る主張(an affirmation)が書かれていた。父にカードについて尋ねたところ、それは彼が無視されたり馬鹿にされたりして、じぶんの価値について格闘していた頃のものということだった。カードには家族や地域コミュニティーにとって彼がどれほど大事な存在か、彼の優れた性格、ユーモアのセンス、など彼に自分の価値を思い出させることが書かれていた。カードの言葉を読み私は、デビドが最後には自分は価値ある存在であることを知ったであろうことを祈った。

 以上が抄訳である。このエッセイを読んでまず思うことは僕自身のなかに巣食う障害者差別、能力主義、ableismである。そういうものはない筈だとするときのunwitting ableismである。
 このエッセイのなかで使われるQuality Of Lifeという言葉はデビドの外側からみてその生活の質が低いととらえている。だがQOLの評価はあくまでその人の主観的評価なのではないか。このことを再確認したい。
 その上で振り返るとデビドの難治性てんかんの進行はいかなる治療をもってしても止めがたいものであり、そしてその人生の最後のケアの在り方は緩和ケアの在り方を問うことであっただろう。その際の目標はQOL(生きていることの質)の向上、とりわけ人生としてのライフ、物語られるライフの中身の豊かさであろう。デビドが死んだあともその人生は家族の記憶のなかに残った。デビドは家族との関係性が織りなす豊かな人生の物語を生ききったのではないだろうか。  

 

2023年5月7日
忘れてはならない人

 医者は患者を診るのが仕事である。よくなってその後受診することもなくそのままの人もいれば、長く療養し場合によるとお看取りまで続く人もある。医者には患者さんの人生の軌跡を見届ける、いわば目撃証人(eyewitness)となる役割もあるのではないか。

 北澤三次郎さんのことを記しておきたい。
 僕と同年齢の能面師である。奥様とふたり暮らし。彼との出会いは平成12年10月、横浜労災病院からの紹介状を持ち来院された。平成2年12月41歳で脳梗塞を発症し、右片麻痺と失語症をきたした。入院、リハビリを経てひとまず病状が安定し、奥様の仕事場が当院に近いということで平成12年10月渡邊醫院を受診された。
 言語の理解と発語ともに障害される重度失語症の状態だった。右片麻痺も重く上肢は廃用、歩行には短下肢装具を必要とした。右手が動かないということは能面師としては致命的なことである。定期的に通院、脳梗塞再発予防の診察と投薬を行った。また右手の機能を失っても左手だけでなお能面制作を続けているという彼の生き様に興味があった。
 毎回、診察のあと「今どんな面(おもて)をつくっているのですか」と聞いた。「いまはデッサン」とか「般若」「童子」「よりまさ」「若い女」「うるしぬり」「中将」とか名詞だけの返答をいただけた。それぞれに数ヶ月はかかるようだった。日常生活上の言葉に比べて能面関係の語彙は比較的保たれているようだった。ある時は「べしみ」という表情豊かな完成したばかりの面を持ってきてくれた。その見事さに僕は目をみはった。これが左手一本で作った面なのだろうか。また中将の面に眉毛をつけてみたり、にかわを魚の浮袋の「にべ」から採ってみたり積極的に新しい試みをしていると付き添いの妻が教えてくれた。『左手一本になり従来の能面のしきたりにとらわれず解放されたようでおおらかになったようです。外界とつながらないので自分の内界が動いている感じ』と彼女は言う。その後別の日に見せていただいた少年の面は深い静謐さを秘めた素晴らしいものだった。もしかすると左手一本の彼の作品には以前にはなかった微妙な精神性が加わっているのではないかと僕は想像した。

 平成24年、彼は妻と共同で『面打』(めんうち)という本を出版した。
 この本によれば、彼の父親も能面師、父を師として10歳から能面に向き合ってきた。「面を打つのに一番大事なのはそれに取り組む心構えです。」と述べる。掘りやすくした檜(ひのき)の角材は「物」であって木の魂はあらわれにくい。大きな木から切り出していけば木と対話ができる。「病を得て長い年月が流れ、…左手を両手のように駆使しながら、全く新しい面を打っています。」
 このように書かれていた北澤三次郎さんは令和5年4月21日心不全で永眠された。能面師ではなく面打と呼ばれることを好んだ北澤さん。自分の言いたい言葉が出ないときのつらそうな表情が思い浮かぶ。
 「面を打つことしかできない、でも好きだから」とつっかえながら言うときのはにかむような表情も浮かぶ。どこかあの少年の面(おもて)の清澄な面差しに似ているように思った。

附記1
北澤さんは1984年(35歳時)に『能面入門』(平凡社)という本を共著で出版している。その中、「面を打つまえに」という小タイトルで次のように書いている。“「面(おもて)を打つ」という言い方には、面の姿を木の中から打ち出すという、精神的な響きがある。ただ彫るのとは違うのである。…心が素材を借りて面を表現することなのである。…面が心に映らなければ、素材にも面は見えてこない。つまり、打とうとする面の姿が心を占めて、それが素材に映るような心の働きが、面を打つということなのである。”

附記2
当欄で患者さんについて書く際は、その個人のプライバシーを尊重して名前や内容に多少の改変を加えるのが常であるが、今回は北澤三次郎という著名な人であり敢えて実名のままとした。彼の生涯への敬意をこめて僕なりの追悼記事(obituary)であるといってもよいだろう。



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