先日のこと、新聞の夕刊と一緒に“家来るドクターにお任せください”と大きく書かれたリーフレットが自宅のポストに入っていた。発熱、頭痛、腹痛、嘔吐下痢、会社に行くのが不安なとき、電話をすると相談にのってくれる。救急車を呼ぶかあるいは往診をするか自宅で様子をみるか、医師が判断するという。このようなちらしが地域に配られるのは初めてのことで色々考えさせられた。
僕の診療所にはファストドクターという医療グループから往診救援の誘いの電話が時々ある。この「家来るドクター」もファストドクターに類した診療形態と思われる。それを必要とする地域の人たちがいるから成り立つのであろう。
ところで先日横浜市医師会から「かかりつけ医を持とう」という趣旨の小冊子が100冊以上どさりと送られてきた。外来患者に配ってほしいという依頼である。「家族に一番近い安心!」なのがかかりつけ医を持つことだという。
かかりつけ医Q&Aとして5つのポイントがあげられている。
1 かかりつけ医を持つことは大切ですか?
2 かかりつけ医では十分な検査ができないのでは?
3 はじめから大きな病院に行くとどうなりますか?
4 紹介状を持って行くとどうなりますか?
5 かかりつけ医を持つには?
以上である。
何かがぬけている感じが否めない。答えやすい問いをだして自分で答えているだけではないか。
1の問いの答、かかりつけ医を持つことは大切である。そこにさらに「かかりつけ医を持つことは何故大切なのか」と問う必要があるだろう。病院への紹介状を書く役割だけではさびしいではないか。休日や夜間、患者や家族が急に困って不安な時にかかりつけ医は何をしてくれるのか。
そして病気で動けないときに在宅診療をしてくれるのか、という問いが必要であろう。この2つが大切なのは、急に困ったときの対応は患者や家族が一番必要としているものであり、それに応じることはいわば医療の原点とも言えるからである。この2つのニーズに対して「家来るドクター」はすぐに対応しますと強調している。かかりつけ医が100%の緊急対応は無理にしても少なくとも休日・夜間電話を受けるなど患者の不安に応える姿勢を示すことはできるのではないか。
ところで厚労省のホームページではかかりつけ医の機能として次の項目があげられている。
1 病(慢性疾患)への継続診療
2 common disease その他の病気への総合的診療
3 入退院時の支援
4 休日・夜間の対応
5 在宅医療
6 介護サービスとの連携
以上である。
ここには休日夜間対応、在宅医療が大事な柱として明記されている。ふりかえって横浜市医師会のかかりつけ医のとらえ方は甘い。「家来るドクター」を頼みたくなる人も出て来るであろう。
朝日新聞毎週土曜日に「サザエさんをさがして」という欄がある。今日は1971年3月2日の4コマ漫画が紹介されている。テーマは認知症ケア。一人息子が受験に失敗。ぼけおじいちゃんは心配で台所で働くお母さんに「好太郎はどうじゃった?」と尋ねる。「だから落ちたのョおじいちゃん」さっきも言ったでしょと困り顔のお母さん。次の食事場面で「で、シケンはどうじゃったかいノー?」とおじいちゃん。「ダメでした!」と少し怒った顔でお母さん。つぎに廊下で「好太郎ははいれたか?」となおも聞くおじいちゃんに、ついに好太郎君が堪忍袋の緒が切れて「コノー!しまいにゃ血が・・」とすごい形相で自室から飛び出しおじいちゃんに向かおうとするのをお母さんが必死に止める。さいごの場面ではおじいちゃんはサザエさんの家にあずけられることになる。「好太郎・・」と呟きながらしょんぼりと坐るおじいちゃん。どうしたの?と尋ねるフネ母さんに「しばらくあずかってくれって」とサザエさんが説明するところで終る。
この漫画の次の年に有吉佐和子のベストセラー『恍惚の人』がでる。当時は呆け老人は家族の恥として隔離されることが多かった。今は呆けでなく認知症と呼ばれこの漫画のような場合は介護保険でショートステイが利用されることになるだろう。「家族で煮詰まってしまった時は離れることが大事。おじいちゃんをご近所のサザエさんの家に預けたのは冷静な判断です。」認知症の人と家族の会の代表理事はこう語る。
ほんとうにそうだろうか。もう少し人間的な対応はないだろうか。隔離(強制移動)は“冷静な判断”なのかもしれないが、おじいちゃんの身になってみると何とも切ない。もう少し柔軟にフレキシブルにできないであろうか。おじいちゃんは本当に好太郎君の進学を心配しているのである。おじいちゃんの気持ちに即して例えば、「好太郎は受かりましたよ」とお母さんがニコニコしておじいちゃんに話したとしたらどうだろうか。そうか、そうか、とおじいちゃんは安心するのではないか。その後、多少の波立ちはあるにしても強制的に自分の家から出されるほどのことにはならないのではないか。この漫画の続編を誰か描いてくれないだろうか。ウソも方便。真面目すぎで柔軟さの欠落は認知症ケアにはそぐわない。
以前、西区で認知症ケアの話をしたときに提示した1例であるが、老人ホームで過ごすひとりの認知症高齢女性の例を考えてみよう。ある日、彼女は「お母さんに逢いに行きたいの」と寂しそうな表情でスタッフに繰り返し訴えはじめる。現実検討を示すことが大事とマニュアルで学んだスタッフは「あなたのお母さんは死んだの、もう逢えないのよ」と事実を教えようとする。「少しだけでも逢いたいの」と患者は切願する。「だってあなたのお母さんはもうこの世にはいないのよ。だから逢おうとしても逢えないの!」とスタッフ。「あなたはなんてひどいことを言うの!」と患者は泣き出し興奮状態になる。困ったスタッフは医師に鎮静剤の注射を頼みにいく。
この場合、別のスタッフの取り得る対応はこうである。「○○さん。あなたはお母さんに逢いたいのですね。・・そうですよね。・・お母さんはここに来る筈ですよ、私と一緒にもう少し待ってみましょう」と微笑みながら言うであろう。そして「どんなお母さんなのかしら。お部屋にもどってお茶をのみながら私に話してくれますか」と相手の目をみつめ、肩を抱きながら話しかけるのである。おそらく患者はお茶を飲みながら穏やかに母親の思い出を話しはじめるであろう。そして今日逢えないにしても母親と逢える日を待ってみようと思うであろう。
この2番目のスタッフの対応が本当にいいのかわからない。認知症のひとのケアはむつかしい。勉強してもわからない。いつまでたっても戸惑うばかり。
僕の患者さんで80歳の男性がいる。物忘れがあり本人も半分自覚している様でもある。自分は“脳がおかしいんです、Oh! No! です”と言ったり、血糖を測っておきましょうかと言うと“真昼の決闘”ですね、血も涙もないんですか、とにこにこ笑っているような方である。ほぼ毎日行くデイサービスを会社に働きに行っていますと僕に説明する。昔の仕事のことを尋ねると「会社には今も毎日行っています。仕事の中身ですか、出席するのが仕事です」「面白い会社ですね」と僕が言うと「重役で半呆けですから。みな半呆けで半呆け同士で丁度です」とにこやかに返してくれる。
彼に「そこは会社ではなくてデイサービスですよ」とわからせようとするのは愚かなことである。彼は自分の記憶の欠落を自分なりのストーリーを作ることでコーピング(対処)している!僕は感心する。そのようなインテリジェンスに欠けるのは我々ケアをする側なのかもしれない。
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