臨床余録
2023年3月28日
桜の木の下で

 菜種梅雨のなか桜は満開である。朝からの寒い雨がやんで午後は少し陽が差してきた。歩きやすい靴に変えて歩いて往診に向かう。野毛山近くの一戸建ての家に独りで住んでいるもう少しで100歳の老女。僕が外から声をかけると「あら、先生ありがとうございます。」としっかりと返事。そとは歩けず家のなかだけで暮している。喘息と床ずれなど医療面は訪問看護師さん、食事の世話など生活面はヘルパーさんがケアしてくれる。居間に入るとにっこりして「先生、かわいいでしょ」とテーブルの上、小さな瓶にさしてある土筆を指さす。ヘルパーさんが道端で摘んできてくれたのだ。からだは痛いけれどたべるものは何でもおいしい。テレビ番組の雑誌が置いてあり昼はテレビをみて過ごすという。彼女のような、つつましい穏やかな生活ぶりに触れるとほっとする。

 往診の帰りに野毛山公園を歩く。ベンチにすわり見事な桜を眺めながら昔読んだ梶井基次郎の小説『桜の樹の下で』を思い出していた。「桜の樹の下には屍体が埋まっている。」という冒頭ではじまる。桜があんなに美しいのは根元に醜い屍体が埋まっているからだといった文章だったと思う。  

 もうひとつ思いだすのはT. S. エリオットの詩『荒地』:「四月は最も残酷な月、死んだ土から ライラックを目覚めさせ、記憶と 欲望をないまぜにし、春の雨で 生気のない根をふるい立たせる・・・」“死者の埋葬”という小タイトルがつけられている。

 歳時記で桜の項をみる。 「さまざまのこと思ひ出す桜かな:芭蕉」「さきみちてさくらあをざめゐたるかな:野澤節子」「梁(うつばり)に紐垂れてをりさくらの夜:中村苑子」「身の奥の鈴鳴りいづる桜かな:黒田杏子」などがある。

 短歌で桜のうたを選ぶ。 「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢う人みなうつくしき:与謝野晶子」「さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり:馬場あき子」などがある。

 桜は美しい。だが美しいだけではないものを秘めている。これらの小説や詩歌をふりかえりながら思ったのである。

2023年3月6日
医療破壊としての戦争

 2月25日The lancet : Editorial “Russia’s invasion of Ukraine: an attack on health”を読む。

 1年前の2月24日に始まったロシアのウクライナ侵攻は巨大な苦しみと破壊をもたらした。国連の発表では2月6日現在、7155人のウクライナ市民の死亡、11662人の外傷が報告されているが実際はこれを越える数の犠牲があるだろう。両国合わせると20万人の兵士の死傷者がいるとされる。少なくとも600万人のウクライナ人が国内移動を余儀なくされ800万人以上が難民としてヨーロッパ各地へ移動した。殺人、拷問、レイプ、国外追放などは人間性に対する罪として記録されると米国副大統領カマラハリスは語った。ロシアは市民の住居や発電所のようなインフラを爆撃した。ますます明らかになってきたのは、ロシアの策略はウクライナの健康システムを破壊しウクライナ人の健康を阻害することだということである。
 eyewitness to Atrocities, insecurity insight, media initiative for human right, physician for human rights, Ukrainian health care centerなどの組織はロシアのウクライナのヘルスケアシステムへの攻撃とその規模を記録している。侵攻後初めの2週間で毎日4~5か所の病院やクリニックが攻撃された。2022年12月までに218の病院とクリニック(国の病院の9%にあたる)が攻撃され、181のヘルス関連施設(薬局、血液センタ―、歯科クリニック、研究施設)が、65の救急施設が、86人の医療関係者(62人の死亡、52人の外傷、実際はもっと多い)が攻撃された。個々の報告は痛ましい。ルハンスクのセベロドネツク・マルチプロフィル病院は2022年3月から5月の間に計10回爆撃を受けた。目撃者によると攻撃の前にドローンが使用された、多くの病院が繰り返しターゲットにされたということは攻撃が故意のものであることを示している。ロシアが支配した地域では多くの医者は脅迫され拘束され捕虜とされ強制的に協力させられた。ドネツクのロシアが運営する収容所に捕えられた医者は拷問など非人間的な扱いを証言している。
 WHOその他NPOとウクライナの努力にもかかわらずヘルスケアの質やサービスの配備は低下している。多くの施設が水や電力の供給が途絶えた。東部ウクライナではほんのわずかの、しかし大切なケアを受けるのに遠くまで移動しなければならない、全くケアを受けられないこともある。健康省によれば侵攻以来大切なワクチンが打てなくなっている。2022年子どものワクチン接種率は約60%でありポリオ、はしか、ジフテリアなどの蔓延が懸念される。ウクライナ領内では必要な医療は保たれているが、ロシア支配領では不明であり特にHIVの治療は懸念される。慢性の病気のマネジメントは困難で高血圧などの投薬はされないままになっている。市民や兵士の心理的トラウマも結果としてもたらされる。
 ロシアのこれらの罪に対して国際的法的取組みが進行中である。UN国際法廷は戦争を中止しウクライナへの賠償を求めている。・・・
 終わりの見えない戦争が続いている。未来は不確かではあるが、速やかな、的を得た人間的応答が長期的プラニングに向けて期待される。戦いに終わりをもたらしウクライナに正義をもたらすのとは別に、地域の健康を守り、殺戮のさなかの今のみならず、今後変貌するウクライナのために、ヨーロッパ全体として、前に歩む必要がある。

 以上が抄訳である。
 この論説で注目すべきは、侵攻のはじめの2週間連日、病院やクリニックが集中的に攻撃にさらされたということである。これは「虐殺の目撃者たち」およびそれと肩を並べるその他の人道組織による新しいレポートにより判明した。病苦に立ち向かう人類共通の営為である医療を破壊する非道。それを見届け、記録する少なくとも5つの組織があることを知った。
 直接みているわけではない。しかし、テレビやネットで日々伝えられる戦争の惨状。それを僕は目撃する。つまり証人となるのだ。他者の苦しみに苦しむphysicianの一人として。


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