臨床余録
2022年12月25日
1年をふりかえる

 この1年をざっとふりかえってみる。手がかりとして日記と手帳をパラパラとめくる。。

1月
在宅患者1人看取り。1年の目標として引き続き町医者、かかりつけ医としての自分の臨床を続けていくことが記されている。1月末ふじみ野市の在宅医が患者さんの息子により銃で殺された事件にショック。在宅医療のむつかしさ、様々な思い。息子を断罪して終わり、では何も学んだことにはならない。Brain & Nerve1月号に「キュアからケアへ:在宅診療医へのキャリアパス」が載る。自分のキャリアのまとめ。ALSの症例を通して在宅診療の意味を考察。
2月
在宅患者5人看取り。ロシアのウクライナ侵攻。BBCやCNNのニュースから目が離せなくなる。
3月
在宅患者5人看取り。ウクライナこどもたちを巻き込んでの映像に涙が止まらなくなる。1945年3月10日前後の東京大空襲では10万人の日本人が殺されたことを思う。その背景として日本が中国からアジアへ軍事侵攻した暴虐の歴史を思い起こす。その認識なくして今のロシアを糾弾することはできない。半藤一利『昭和史』カント『永遠平和のために』読む。村上春樹『ドライブマイカー』再生の心の物語と評判だが通俗性を感じる。
4月
在宅患者1人看取り。医師会を通しウクライナ支援寄付金送る。国境なき医師団へ緊急支援寄付金送る。チェホフやドストエフスキーを読み、シベリア鉄道の旅を思い、母なる大地といった茫漠とした精神性を思い、そしてロシア的なるものを思う。亀山郁夫が述べるようにそこには英語圏の国とは異質の精神性が根底に脈打っているのかもしれない。
5月
メデイカルエッセイ集3「Dreaming Forward」出版。人生のひと仕事を終えた気分。
6月
在宅患者1人看取り。久しぶりにわたぼうしカフェに参加。
7月
在宅患者で発熱、コロナ陽性患者出始める。リスクにより病院を手配。
8月
在宅患者1人看取り。コロナ禍でずっと会えなかったアメリカの娘や孫に特別休暇をとり再会できた。パールハーバーを訪ねた。『抜け殻仮説への挑戦』「認知症の人の自律概念を考える」(箕岡真子)読む。大事な本。
9月
在宅患者2人看取り。小笠原医師「おひとりさんでさいごまで」NHK放送。臨終場面の家族も医者も満面の笑顔が印象的。ゴフマン『アサイラム』に挑戦。英語も日本語もむつかしい。畏友近藤誠急逝し、クラスメートからボート部時代の彼の写真が送られてくる。ボートのエイトで僕は整調、かれは7番だった。平野久美子『異状死』読む。
10月
在宅患者1人看取り。『ウクライナから来た少女、ズラータ、16歳の日記』読む。『急に具合が悪くなる』(宮野真生子、磯野眞穂)読む。インフルエンザとコロナワクチンの2種を接種開始。『80歳からの認知症はフツー』(和田秀樹)読む。
11月
『アルツハイマー病になった母がみた世界』(斎藤正彦)読み始める。エッセイ「おきなぐさのそれから」(修正版)書く。「ACPの何が問題なのか」に取り組む。インフルワクチン希望者多い。
12月
在宅患者2人看取り。オミクロン対応ワクチン開始。フランクル『意味への意志』購入。雑誌『緩和ケア』11月号「対話:傾聴を超えて」読む。『見捨てられる〈いのち〉を考える』(安藤泰至他)『Living with Dying』(Cicely Saunders)再読。

以上がおおまかなふりかえりである。さて来年はどういう年になるのだろうか。新しい年、新しい風景に出会えるだろうか。

2022年12月4日
己が歩みをますぐにゆかむ

 『アルツハイマー病になった母がみた世界』を読んだ。精神科医である斎藤正彦氏が自分の母親のアルツハイマー病の経過を詳細に記した本である。この本がユニークなのは、物忘れの記載が初めて出る67歳から87歳で亡くなるまでの約20年間の日記を分析していること。患者自身の日記という材料を通してその主観的症状の経過を追っていること、つまり当事者の視点で最期まで書かれていることである。以下、大まかな流れを記してみた。

 アルツハイマー病の患者は自らの物忘れを自覚しないという従来の教科書的知識とは異なる点を見出したことが出版の動機のひとつになったとされる。日記に記載される認知機能低下の記事の数に注目し、それを患者の主観的症状の程度に関係づけている。
 病気を第1期から第4期にわけている。

第1期 67歳から75歳までの期間
 「夫を亡くした喪失感から抜け出し、やりたかったことをつぎつぎと実現」カトリック教会での勉強会、短歌の勉強会、留学生への日本語教育、スペイン語の勉強。多くの客を招き、買物は別として月に20回以上の外出をしている。この頃から大事な書類の入ったバッグを置き忘れたり、留学生のレッスンの時間を間違える、焼き豚を作るのが面倒になったという記載が初めて出て来る。記憶、時間感覚、実行機能の低下である。
 69歳、歌集出版。 70歳、シベリア抑留中亡くなった兄のためモンゴル墓参。この時期、予約忘れ、忘れ物、電車の乗り換え間違いあるが悲観的コメントなし。 71歳、相変わらず外出頻繁、様々な社会活動続ける。会合の時間間違い、マヨネーズが作れなくなる。「呆けが始った?」と書く。 72歳、教会、歌会、日本語教師、スペイン語などの他にエアロビクス教室に通い始める。どら焼きを電車の中に置き忘れる。 73歳、教会の仲間とエルサレム旅行。写真をみて場所を思いだせない。74歳、エンデイングノートを書き始める。カードが入った財布を失くす。「自分の粗相ながら何がどうしたのかわからない。今ここにあったものがもうない。家にある筈なのに忘れてしまうので、年と取るとはこんなものかと情けない」と書く。 75歳、イタリア旅行。エアロビクスに加えて水中ウオーキングに参加。短歌会に定期的に投稿続ける。
 このようにして第1期が過ぎる。

 第2期 76歳から79歳までの期間
 認知機能の低下に抗いながら生活はほころび始める。体力低下目立つが、源氏物語や大江健三郎に挑戦。襦袢仕立て屋との支払いトラブル。料理が雑炊など簡単なものになる。得意だった編み物がうまくできない。聖書読破に挑戦して挫折。不安高まる。
 78歳、老人ホーム入所検討。一方、岩波ホールでの映画、梅原猛、万葉集講義への参加。「忘れ物の無いように子ども並みの用心がいる。・・疲労して沈没ただただ眠い」と記す。「正彦、夜来訪。診てくれる」ともある。物忘れの進行とともにまわりと「テンポがまったく合わなくなった」と教会や歌の会での居心地の悪さを実感。歌が作れないと嘆く。79歳、時間を間違える、料理が作れなくなる。「情けない、恥ずかしい、早く消えたい」と書く。

 第3期 80歳から84歳
 社会活動が困難になり日常生活に救けが要るようになる。小脳梗塞で入院、胃癌の手術を受ける。遺言書を書き直す、自分の葬儀の指示を書き換える。レンジ、電話、洗濯機が使えなくなる。「主婦としてのアイデンティティは損なわれる。こうしたとき現実を否認したり妄想で合理化して傷ついた自我を癒そうとするのではなく母は家のなかでも社会的な活動においても自信のないことから身を引き、自分で自分の生活圏を狭めていきました」「母は、かなりはっきりと認知症が始ったということを悟っていたように思います。」病院や金融機関でのデジタル化された機械操作ができない。日記には自分の能力低下への嘆きの言葉が多い。身近で世話している人が気づいている認知機能低下を直接世話していない親族が否定するよくあるパタン。「母の愚痴は母のSOSでしたが、わたしの耳も心も母の心の声に扉を閉ざしていました。」と息子は書く。
 83歳、日記の記載が段々減っていく。内容的には自分を叱咤激励する言葉が多くなっていく。「このまま呆けてしまうのか。頑張れレイコ!」と書く。しだいに家に一人過ごす時間が多くなり、本を読んだり庭仕事したり短歌を作ったりして一人の時間が苦手ではない母がしきりに孤独の時間を嘆くようになる。今ここで何をすべきなのか自信を持てない母には一人の時間が不安になるのだった。「私はもっと心をふかめなくてはならないとしみじみ思う。いつ召されるかわからないのにあまりにも力がなさすぎる。折角授けていただいた教育も身についていないのを情けなく思う。これから努力して少しは深みのある人間になれるかしら。」と書くのである。介護保険サービスを利用する段階がくる。「仕事の合間にさっさと片づけてしまいたい私たちには、母の思考のスピードに合わせてゆっくり進む余裕はありませんでした。母は多分、自分のことが自分抜きに次々にすすめられていく不安を感じていたのでしょう。」と息子。「何だか色々変になってきてまごまごしてしまう。」と母は日記の欄外に書いている。
 84歳、「一日一日呆けが進んでゆくようで恐ろしくて仕方がない」日記には日時が混乱してしまうという記載が繰り返し出て来る。精神科医が認知症の疑われる患者さんに「今日は何日何曜日ですか」という質問を無造作にします。母の日記を読んでいると、こういう質問がいかに無神経に患者さんの不安を助長しているかがわかります。」と精神科医の息子は書く。心理士による認知リハが施行され毎日の生活での具体的アドバイスが役立つ。温泉旅行に行くが瞬時の喜びとともに戸惑いや不安がかえって増える様子もみられる。そして老人ホーム入居となる。「ことすべて叶うこととは思わねど己が歩みをますぐにゆかむ」という短歌はホームのクリスマスの短冊に書いたものである。

 第4期 85歳から87歳
 「(寂しさから)家族に繰り返し電話して叱られる。」と日記ではなくメモ用紙に書く。心理士の先生が毎週ホームを訪ね1時間共に過ごしてくれる。母が穏やかな時間を過ごすための貴重な時間だった。ある日、「頭がぐちゃぐちゃ」と訴える母に対する心理士に「そんな深刻な顔しないで。笑い飛ばしてよ!」と逆にアドバイスする場面は認知症ケアのヒントになるかもしれない。一人でいるのは不安、大集団の中でも不安。誰か頼れる人が隣にいることが必要な状態。それが不可能な今を「家族から捨てられたと思っている様子」と正彦氏は書く。
 86歳、衣食住の世話を受けるホームでの不安は何なにをしてほしいといった具体的な不安とは別種のもの。ここはどこなのか、こうしていていいのか、ホームはマンションになったりホテルになったり学校の寮になったりして混乱。「ああ何にもわからない、何とかして、寂しい、苦しい」とパニック状態に。心理士が苦しくない時間、笑顔が見える時間を観察し家族に報告。臥床状態で微熱から血液異常が判明、病院に転院し永眠。

 ひとりの知的な高齢女性が認知症を発症し、その死に至るまでの経過を日記という媒介を通してその心の内側をなぞるように記した稀有の記録である。それを精神科医である息子の正彦氏が客観的に補い読みやすくした。客観的といっても実の息子が母の老い、認知機能の低下で悩み、悲しみそして苦しむさまを書くのはたやすいことではないであろう。77歳時の日記にてんぷらを作るのが困難になりながら早く帰ってくる娘のために「もう一度だけやってみよう」と一人、夕暮れ時の台所で考えている母の姿が描かれており、その場面を思い浮かべ息子は涙を流すのである。
 正彦氏は認知症専門の高名な精神科医であり母親が認知症になった時の彼の施すケアのあり方に興味があったが、自律的な母の生き方を近すぎずやや遠い距離で見守る仕方が印象に残った。また母の認知症の検査や診断を急がなかった理由を診断後の治療に期待していなかったからと述べているのも心に残る。認知症専門医が認知症の自分の母にはアリセプトを全く処方しなかったのである。アルツハイマー型認知症に予防法はない。しかし運動と社会参加だけはリスク軽減になりそうだとして多くの医者が認知症予防のためとしてそれをすすめている。彼女は驚くほど様々な運動や社会参加をしている。それが認知症発症を遅らせる働きをしたのかどうかわからない。認知症になったあとの進行防御的な因子として同居している娘との自然な暖かい関係、かなり進んでからも在宅にきてくれて話相手になってくれた心理士の存在などが大きいと思われる。
 第4期の亡くなる前の年あたりの苦悶の様子は読みながらつらくなる。軽い抗不安薬を処方したくなるところである。また「そんな深刻な顔しないで笑いとばしてよ」というやりとりを読み、もう少し非言語的なアプローチがあってもよかったのかもしれないとも思う。

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