臨床余録
2022年9月25日
医者・患者関係の形を変える

 NEJM JULY 9 2020パースペクティブ欄 “social prescribing-transforming the relationship between physicians and their patients”を読む。

社会的環境に強く影響される病気を診ている医師にとって、社会的因子を考慮した介入には意味がある。そのような介入の背景にある思想は新しいものではないーアメリカのコミュニティ志向性プライマリーケアは医学というより社会にフォーカスを絞り、ケアのコストを減らす努力をしてきた。英国でも同様に非医学的介入をしようとしている。NHSのプログラムとして英国のGPはいわゆる社会的処方social prescribingを支える“link worker”と連携がとれるようにしている。NHSは2年間に1000人の社会的処方を担う職種としてリンクワーカーを募集する。目標は約100万人の患者に2024年までに社会的処方が用意されることとしている。
社会的処方は救急受診を減らし重要ではない検査や処方への患者・医者双方からのこだわりに対応し心身の改善をもたらし得る。
多くの患者は非医学的な社会経済的環境問題で医師を訪れる。明確な診断がついているときでも、最も効果的な介入は医学的なそれではないかもしれない。にもかかわらず医師は過去20年かけてできた疾患特異的なガイドラインに沿って様々な薬の処方をする。医師はますます問題を医学化(overmedicalize)していると批判されることになる。医学化の逆効果として入院が増える。オピオイドクライシスがその最も明らかな例である。そのような批判の中心は英国やアメリカのchoosing wisely運動などにみられる。それは医師と患者のコミュニケーションを改善することで不必要な処方や検査を減らそうとするものである。
それにかわるアプローチは生活スタイルを変更したり地域にあるリソースを利用することで患者の状態に対処することである。医師はこれらのリソースについて無知であり患者をどうそれに結びつけたらよいかわからないことが多い。社会的処方のコンセプトは社会的介入について医師を教育すること、地域リソースのガイダンスをすること、それにより医師が患者のために社会的処方を可能にすることである。英国での社会的介入事業の資金面は慈善事業、私的企業、ときにはNHSによりなされている。社会的処方事業は主に高齢者、精神的問題を抱えている人、社会経済的に恵まれない人たち中心になされる。
介入が医学的な目的のこともある、例えば糖尿病の人たちの薬依存を減らすために運動やウェイトコントロールをする場合である。しかし社会的処方はより広い目的を持っている。それは生きる文化を変えること、健康を医学に頼らずに考えることである。問題を解決する手段として薬に期待することを患者(医者も)にやめさせることである。貧困層や健康リテラシーの低い患者は特に地域リソースへのアクセスがよくなるほど利益を得ることができるだろう。
社会的介入(附記1)には多くのやり方(タイプ)がある。従ってその評価もヘルスケアQOLから患者や医者の満足度まで広がる。しかし詳しい評価はまだなされていない。
NHSが大規模なリサーチをすることを期待したい。それによりどのような人々に、どういう社会的介入が必要か、などが明らかになるであろう。そこで注意すべきは、リサーチの際“tick-box”exercise(チェック式アンケート)は避けることである。必要なのは、純粋に患者のニーズ(附記2)を知ること、そして介入をサポートする際の社会的処方リンクワーカーの役割を明らかにすることである。
社会的処方が医師の仕事なのか、それは医学の外の問題をさらに医学化して医者の負担を増やすことにならないか疑問が出されている。我々の考えは、社会的処方は医学と関連があり重要であるということである。すべての医師は医学部で健康の社会的決定因子や病の生物心理社会モデル(biopsychosocial-model)について学ぶべきである。
患者は問題を純粋に医学的、純粋に社会的、両者のミックスといった形でだしてくるだろう。社会的処方の目的は医者が社会的リソースにアクセスすることで不必要な処方を減らすこと、そして患者や家族に自分たちにあるリソースを利用する能力と機会を与えることで自分の健康に責任を持つよう励ますことである。社会的介入はまた社会的に不利な状況にある人びとの健康における不平等を緩和する可能性がある。
社会的処方は医学の実践や医学教育に深い影響を及ぼすだろう。しかし医師はどの介入が有効であり誰に、どういうやり方での介入が従来の医学の実践に統合されやすいか、十分な情報を得る必要がある。

以上が抄訳である。特別新しいことはないように思う。以前にこのテーマは取り上げたこともある。この文章を読み返して特に大事と思うのは「必要なのは、純粋に患者のニーズを知ること」という箇所である。ニーズはその人が必要としていること。それを知ってはじめて社会的リソースを提示できる。しかし、その人が何を必要としているか、それを知ることはそう簡単ではない。それをわかるには医師(かかりつけ医)と患者との関係が十分に熟すまでに時間がかかるのではないか。病歴のみならず、その人柄、生活史、家族関係など社会的背景を知らなければならないからだ。もうひとつ大事なのは、リンクワーカーの存在だ。その役割が明確にされること。日本では殆ど重要視されていないのが現状。


附記1
このエッセイで社会的介入として挙げられている例:ジムや体操、運動教室 栄養教室 アート芸術グループ 雇用ボランティア活動 自助グループ 育児プログラム アドバイス活動(福祉・住居・負債) 地域コミュニティ活動(ガーデニング 料理 スポーツ 友人としての活動) 

附記2
「ニーズ(必要)とは、欠乏や不足という意味から来ている。私の現在の状態を、こうあってほしい状態に対する不足ととらえて、そうではない新しい現実をつくりだそうとする構想力を持ったときに、はじめて自分のニーズとは何かがわかり、人は当事者になる。ニーズはあるのではなく、つくられる。ニーズをつくるというのは、もうひとつの社会を構想することである」『当事者主権』(上野千鶴子 中西正司)


2022年9月11日
コーヒーとわたぼうし

 土曜日の午後、月1回わたぼうしカフェを訪ねる。認知症のひとや家族のため、このカフェが開かれてから何年になるだろう。ここで入れかわり多くの人たちと出会ってきた。コーヒーをのみながらなので診療所の外来とは違って少しリラックスできる。
 この日は、血管性認知症の御主人を自宅で介護してきたAさんの話を聴く。からだの動きが不自由になり在宅では、たとえば排泄の介助をするのが小柄の妻には無理となり、やむを得ず老人ホームに入ってもらった。ささやかなおやつを持って毎週面会に行くのが楽しみだった。それがコロナ禍のために面会できなくなりごくたまにスマホで顔をみせるが最近は妻の顔をみてもわからなくなってしまった。そう語り涙ぐむAさん。認知症の夫と細い糸でつながっていたがそれが切れてしまった、そんなAさんの気持ちを想像する。コロナが収束し対面が可能になりゆっくり傍にいることができるようになれば言葉は理解できなくてもきっとAさんのことはわかると思いますよ、とお話した。
 もう一人はBさん。認知症の夫と二人暮らし。徐々に認知症が進む夫とどう暮らしていったらよいか、以前僕がアドバイスしたことがあり、その通りよく介護されていた。そのBさんが最近腰を痛め介護に苦労するようになった。それを見ていた遠方の娘さんがBさんのことを心配し父(Bさんの夫)をグループホームに入所させた。「私のことを思ってしてくれたことでそれは仕方のないことかもしれないけれど、夫に申し訳ないことをした」と自責感から涙を流すのである。その感情を吐露することで、そしてそれを僕が一部分でもシェアすることで、彼女の苦しみが少しでも和らげばと願う。
 コロナ禍のなかでも竹下さんを中心に続けられてきたこのカフェ。認知症のひとと家族の居場所のひとつとしてこれからも在り続けてほしいと思う。

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