臨床余録
2022年8月28日
夏休みと読書

 学校は2学期が始まる。思い出すのは中学2年の夏休み明け。国語のK先生は「自分は休み中こういう本を何冊読んだ。君たちはどんな本を何冊読んだかな」と僕らに問いかけるのが常だった。K先生の家の本棚には岩波文庫と岩波新書がすべてそろっているといううわさだった。そして「君たちがむつかしい問題や悩みにぶつかった時、いいかい、本を読むんだ。簡単に答はみつからない。それでも読むことで何かは得られる筈だ。」そう言って僕らに、とにかく本を読むことをすすめた。漱石の『こころ』で人生が変わった(ような気がした)り上田敏の『海潮音』の詩のいくつかを暗唱した(させられた)のもこの頃だ。

 さて、僕自身この夏休みに読んだ本をふりかえる。

 『昭和史』(半藤一利):ロシアによるウクライナ侵攻はかつての日本の中国、アジア侵攻に重なる。日本人は何故無謀な戦争をし、そして敗れ世界で唯一の被爆国になったのか。「同じ過ちを繰り返さないために日本人は歴史を勉強しなければならない」という半藤さんの言葉にうながされて随分前に読みはじめ、今ようやく読み終えた。身につけるには、それを咀嚼し反芻する必要がある。

 『患者よ、がんと闘うな』:近藤誠はもういない。その代表作をぱらぱらとめくり彼をなつかしむ。

 『自宅でない在宅:高齢者の生活空間論』(外山義)与えあう関係を通してその施設に身を置きじぶんという根をはることができなければ、鉢植えの切り花のように萎み枯れてしまう。グループホーム、ユニットケアが何故必要なのかを論ずる。在宅には在宅の良さ、施設には施設の良さがある。この本に教えられることが多い。

 『白の闇』(ジョゼ・サラマーゴ)ポルトガルのノーベル賞作家による小説。突然視力が失われ白い闇の世界に投げ出されるとき人はどう生きることができるのか。人から人へ白の闇が伝染病さながら広がり世界をおおいつくす。人間の醜さ、おぞましさ(途中で本を投げだしたくなるほどの)、そしてレジリエンス。

 『詩集 幻の船』(小松弘愛)老人病棟に寝起きし、生から死に傾いていく老母の日々に寄り添いながら様々な物語が想い描かれていく。 

2022年8月14日
さらば、近藤誠よ

 近藤誠が死んだ。医学部時代からの畏友である。

 大学の5年間、同じ端艇部でボートを漕いだ仲間。年間1~2か月に及ぶ合宿を共にし利根川への遠漕も一緒に経験した。エイトでは僕が整調で彼はbow(舳:へさき)。cox(舵手)が叫ぶリズムを整調である僕が後ろの7人に伝える。ドリーミング・フォワードに続いて水をキャッチしたオールを最大限の力で引く。8人の力の総力が水を切り裂く動きを艇に与える。いまふりかえればそれがボートの魅力だったのだが、当時はただ苦しいだけだった。それが生きることだった。そこから逃げ出すことはできなかった。そんな若い情熱を近藤誠と共有していたことを今思う。苦しい合宿を経て試合が終わるとそれまで抑えて来た感情を一気に解放させるお祭り騒ぎ(ばか騒ぎ)がはじまる。その先頭にたつのはたいてい近藤だった。そんなときの彼は明るく愉快だった。

 医学部を卒業し彼は放射線科へ、僕は精神科へと別れてから交流は殆どなくなった。乳房温存手術をいち早く日本に紹介し、不必要な手術や抗がん剤により命を削られる日本のがん診療に異議を唱えた。そして『患者よ、がんと闘うな』を著した彼は、多くの患者を救うと同時に日本中の外科医をはじめとした医師から批判され孤立無援の状態に陥る。

 僕が市民病院にいたころ、夜の当直で外科病棟を回るとき、重症患者の報告を受ける。その際“術後ターミナル”という状態報告を頻繁に聞き、手術のあと亡くなるのが何か自然のように語られるのに違和感をもった。不必要な手術や誤った抗がん剤の使い方で患者が死んでいく。このような医療の闇に切り込んだのが近藤だった。専門外の領域ではあるが、果敢に闘っている彼をまぶしいような思いでみていた。僕自身は精神病院での解放運動の苦い敗北を経験したばかりだった。がん患者の治療について先鋭的な議論を展開している近藤誠を市民病院の講演会によぶことを或る日の会議で提案した。しかし、全く無視された。それほど彼は嫌われていた。否、怖れられていたのだ。

 「およそ人をみることを目的としない、あるいは人をみることができない医学や医療があるものでしょうか。現代医学や西洋医学は科学を基礎としていますが、科学は、使い方さえ間違えなければ、人間をしあわせにしてくれるはずのものです。」「人が、技術としての科学に振り回されるのではなく、がんや人間の本質を洞察する学問として科学を利用すれば、現代医学はきっと役にたち、人々にしあわせをもたらしてくれると確信しています。」『患者よ、がんと闘うな』

 がんの放置療法を主張する彼の著書は「医療否定本」という烙印を押される。だがよく読めば、彼は医療を否定などしていないことがわかる。患者を苦しめることしかしていないがん医療の現実に対して異議を唱えているだけである。

 ただし彼の論には同意できないところもある。例えば、がん医療以外の通常の老人健診なども不要とし高血圧などの治療にも否定的であった。さまざまな庶民と接する町医者からみると硬く極端であり、自分の城にこもって見下ろしている医者にみえてしまうこともあった。彼の死因が心筋梗塞であったことを知るとなんということかとため息がでるのである。彼はがん医療の不正と闘うという地点にとどまればよかったのにと思うのである。

 最近の彼は、在宅医療、望ましい死のあり方といった領域の本を書くようになっていた。令和4年8月2日発行の『どうせ死ぬなら自宅がいい』など僕の日常に近いところに来ていた。またどこかで交われるかなと思っていたところ突然、彼は逝ってしまった。残念などという言葉で言い表すことのできないものを僕たちに残して。

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