臨床余録
2022年5月22日
かかりつけ医再考

 日本医師会から令和4年4月20日「国民の信頼に応えるかかりつけ医として」という文章が国民に向けて発表された。今さらこのような文章が医師会長から出されるということはかかりつけ医が今国民から信頼されていないと実感するからなのだろう。タイトルは端的に「国民に信頼される医師会となるために」とするべきである。

  論点が大きく4つの項目に分けられ、はじめに〈日本医師会の思い〉として以下のように書かれている。

  “「かかりつけ医」とは、患者さんが医師を表現する言葉です。「かかりつけ医」は患者さんの自由な意思によって選択されます。どの医師がかかりつけ医かは、患者さんによってさまざまです。患者さんにもっともふさわしい医師が誰かを、数値化して測定することはできません。だからこそ、わたしたち医師は心をこめてひとりひとりの患者さんに寄り添います。そうして患者さんに信頼された医師が、かかりつけ医になるのです。・・・・”

 これが日本医師会長が、日本の医師すべてを代表して国民に向けて述べた言葉である。もったいぶったすっきりしないイントロダクションだ。「数値化して測定できない」とはどういうことだろうか。「心をこめて患者さんひとりひとりに寄り添います」という、医学部を卒業したての研修医が述べるような、この紋切り型の言葉は何なのだろうか。

 次に出てくるのは、「かかりつけ医の努め」という文章。この「努め」という言葉はあまり使わない。ふつうは任務を意味する「務め」であろう。医師として研鑽を積み誠意をもって患者さんを診ていくという当然の事柄が箇条書きされている。次いで、「地域社会におけるかかりつけ医機能」、「地域の方々にかかりつけ医をもっていただくために」、というタイトルの文章が並ぶ。医療法の文章などが引用されるが、独自の視点あるいは理念は読み取れない。

 正直に言って、医師会長の言葉としてこれでよいのだろうかと思う。今の日本の医療、とくにかかりつけ医が担う医療の何が問題なのかをふりかえっていないように思われる。つまり、医師会はなぜ国民から信頼されないのかという論点が明確にだされていない。馴れ合い的土壌が反省を妨げていることはないか。特にコロナ禍での地域医療の在り方をふりかえるとき、かかりつけ医の役割に批判的な世論のなかで医師会はそれに真剣に向き合ってこなかったように感じられるのだ。

 英国でGP(家庭医)として働く日本人医師澤憲明氏によると、英国民による信頼度職種ランキングでは85%の回答者がGPに対して「すごく信頼できる」もしくは「かなり信頼できる」を選択するという。ちなみに学校の先生は同統計は75%、BBCジャーナリストは51%、国会議員は18%である。この調査は2003年以来20回以上行われているが、GPは継続的に最も信頼される職種として選ばれている。GPとして働くには特別な資格が必要で研修を受け、試験に合格しなければならない。英国のプライマリーケアを支えるのがGPであるが、その骨格として①人間中心性 ②患者のニーズへの柔軟性と応答性 ③相対性(様々な環境社会的因子を考慮)の3つがあげられている。

 これだけ国民から信頼されているなら、英国の医師会長がGPについて改めて説明することもないのであろう。

 英国とは異なる医療制度の日本において英国と同程度の国民からの信頼を得るためには何が必要なのか、考えていかなければならない。

2022年5月8日
花曇りの黄金週間

 珍しくコロナによる行動制限はないゴールデンウイークであるが、こころもからだも花曇りといったところ。またまた巣ごもり的に過ごしてしまった。これはウクライナのこともある。また僕がとしをとり行動がおっくうになっていることもあろう。ひとが集まるところは避けがち。横浜DeNAがちっとも勝てないこともすこしあるかもしれない。

 4月29日朝日オピニオン&フォーラム。憲法と平和主義というテーマでの山室信一氏の論稿を読んだ。ロシアのウクライナ侵略戦争の経過は日本が1931年の満州事変から敗戦に至る経過と二重写しにみえるとする。プーチンのユーラシア主義は日本の大東亜共栄圏に重なる。その日本の至りついたのが憲法9条である。いまするべきことは武力による現状変更の禁止を明確に表明しているのが憲法9条であることを世界に向けて発信するべきであると主張。
 ついで5月3日朝日オピニオン&フォーラム(石川健治)憲法前文及び9条について。憲法とは理念であり崇高な理想について書かれている。具体的な戦争防御を規定したものではない。9条では日本を守れないという改憲の議論の問題点。日本は戦争を絶対にしないという平和主義への意思、それが憲法9条。自衛隊を明記し、国を守る、軍備を増強する方向(軍拡競争)に行こうとする、国防国家が国民の命を必ずしも救わないという歴史を省みる必要があると述べる。

「隣合った人々が平和に暮らしているのは、人間にとってはじつは「自然な状態」ではない。戦争状態、つまり敵意がむき出しというのではないが、いつも敵意で脅かされているのが「自然な状態」である。だからこそ平和状態を根づかせなくてはならない。」『永遠平和のために』(イマヌエル・カント)

 このカントの文章には驚かされた。そうなのかという思いは、ついで渡辺一夫の『狂気について』そして『人はなぜ戦争をするのか』(フロイト)を読むことで僕の胸におさまった。この3人とも人間のもつ本性としての悪の自覚から出発せよと言っているように思われる。カントの著作は国際連合の設立そして日本憲法9条の戦争放棄の理念につながったというのも頷ける。

 「真に偉大な事業は、(自分が)狂気に捕えられやすい人間であることを人一倍自覚した人間的な人間によって、誠実に執拗に地道になされるものなのです。・・・平和は苦しく戦乱は楽であることを心得て、苦しい平和を選ぶべきでしょう。」

 この渡辺一夫の含蓄のある言葉を何度も噛みしめる。

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