「日本人の皆さんに言いますよ。プーチンのロシアとほんとうのロシアは違います。ほんとうのロシアはドストエフスキー、トルストイ、チェーホフの国です。プーチンの国ではありません。」
日本語でこう語るのはボリス・アクーニン。三島由紀夫を翻訳し野間文芸賞をうけた65歳のロシアの作家・歴史家である。欧米、日本でロシアの暴虐に批判が集中している。だが今のロシア、プーチンのロシアはほんとうのロシアではないという。そう思いたい。
「四月馬鹿みんなイワンのばかとなれ」(額田 浩文)
4月17日朝日俳壇、高山れおな氏と長谷川櫂氏が採った一句。「『イワンのばか』は無上の善人。同じロシア人なのに。」と長谷川氏は短評を加える。
トルストイ『イワンのばか』を読んだ。「ばか」のイワンは、その無垢の強さともいうべき運命により、利口でずる賢い兄ふたりを越えて王様になる。どこか宮沢賢治の世界に通じるものがある。
亡父渡辺哲夫とロシアとの関わりを思い出す。哲夫は、或る患者が、48年ぶりにロシアから里帰りする一人の日本人捕虜の募金活動をしているのを知る。ニューギニアの戦地から奇跡的に生還し「おまけの人生」を生きていた哲夫はその活動に参加した。そして平成4年帰国した飯島俊太郎氏を渡辺医院に招きその人柄と驚くべき半生に深く心が動かされる。それをもとにして『四十八年目の祖国』(ロシア国籍飯島俊太郎の数奇な人生)を書いた。その中でつぎのように記す。
「私(哲夫)は彼の話を聞き意外に思ったのは、ロシア社会一般の人々のヒューマニテイーであった。目の色、皮膚の色の異なる日本人に対して、何ら差別待遇をせず温かい心で接し、仕事を与え、凍死寸前の彼を夜中看病し助けた人間愛であった。勿論彼の語るように、なかには悪い人もいる。それはロシアの諺「5本の指がそれぞれ形も、働きも違うように人間にも色々な人がいる」と割り切っている」
哲夫は前立腺疾患のあった俊太郎氏の面倒をみることで彼と仲良くなり、今度は彼がロシアに帰ったあと、ロシアの彼の家を訪ねることになる。みやげに日本の野球のバット、ボール、グラブ、文房具などを持参し、ロシアの子どもたちに野球を教えながら友好を深めたのである。ロシア人の妻や子ども、孫たちから温かく歓迎されたのは言うまでもない。
父哲夫が生きていたら、今のロシアをどう思うだろうか。今のプーチンのロシアはほんとうのロシアではない、そう思うにちがいない。
新緑が萌える丘の斜面を歩いていく。
子供のための絵のような
草と、草の中の小さな花々。
空はかすみ、はなだ色に広がる。
静かに連なる遠くの丘が見える。
・・・・
炎に包まれた夜も、闇の雲に閉ざされた昼も
ここにはなかったかのようだ。
・・・・
(ヴィスワヴァ・シンボルスカ 『瞬間』)
シンボルスカはポーランド、クラクフの詩人。緑に萌える牧歌的な静かな丘の風景を見ているとここが炎と闇に包まれたナチスによるジェノサイドが行われた場所とは思えない。この今のこの瞬間を詩に表現することでそこに永遠があらわれる。そんな詩かと思う。
現在、ウクライナ難民を驚くべき許容力で受け入れているポーランド。ウクライナの人々のなかに過去の自分たちの歴史をみているのかもしれない。
クラクフで思いだす。英国留学から帰国してどうしても行かなければと思い、妻とふたり訪ねたアウシュヴィッツ。ワルシャワからクラクフに車で移動した夜、車窓からみえたクラクフ上空の異様な色彩を忘れることはできない。まるで血を流したような紅だった。ホテルの予約をとれず、着いたクラクフはすでに夜半に近かった。何軒かのホテルの玄関のベルをならしてやっと部屋を確保できた。その時の従業員が酒に酔っていたのを覚えている。そして翌日僕たちはアウシュヴィッツに向かうことになる。
山王山(ぼくの生まれた家のある丘)の満開の桜がもう散りはじめた。その崖の下に防空壕の跡の凹みがありそこで遊んだ記憶がある。大空襲を避けるために掘られたものだろう。遠い風景のように思っていた戦争。「私達は人間だ。あなたたちは?」と問いかけるゼレンスキーの言葉が鮮烈だ。
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