臨床余録
2022年3月27日
ふりかえる、前に進むために

 この1カ月ウクライナでの戦争が拡大。空からのミサイルで子どもを含む多くの市民が一度に殺される。ジェノサイド(大量虐殺)だ。ミサイル爆弾が炸裂したのちの跡形もなき瓦礫の荒野をみて茫然とする。人影が消える。こころの深部の戦き(おののき)がなかなか去ってくれない。悲惨な映像をコーヒーをのみながら眺めているこの自分とは何なのだ。神経はささくれだつばかりだ。かつてシリア・アレッポでの似た状況をBBCの記者Lyse Ducetはヒューマニズムのメルトダウンと表現していた。いま彼女はキエフのシェルターから死と背中合わせの報道をしている。

 自分を含め、侵攻している独裁者を非難する日本人の言葉がむなしく感じられる。自分を安全地帯に置いて批判の言葉を吐くことは許されない。ならば沈黙すべきなのか。

 2022年3月3日の新聞によると山中伸弥氏らノーベル受賞者160人がロシアに侵攻されているウクライナを支持する書簡と声明を公開した。ナチスドイツがポーランドに侵攻した1939年を思い起こさせると強く非難したとある。

 違和感をもった。誰にとっても悪の象徴たるナチスを出してきて批判する日本人とは何なのか。まず日本が1931年中国を侵略し満州国をつくった歴史との類似を僕は思った。世界で唯一の核の被爆国である日本が強調されるが、何がそれをもたらしたのかを考えなければならない。被害は記憶され、加害は忘れられる。

 そうなのだ。ロシアを非難するならば同じ残虐なアジアへの侵略の過去を持つ日本という国に目を向ける。その位置からならば今のロシアの非道と戦うことができる。そうではなく快い茶の間に座ってロシアの悪を言うのだけは避けなければならない。

 ゼレンスキーの口からパールハーバーが語られ、ロシアの独裁者から731部隊の生物兵器に触れる言葉があった。日本人ならそのことを記憶にとどめなければならない。今誠実さとは自らの暗い過去を振り返りそこから前に進もうとすることだ。

 

 

2022年3月2日
パパはキエフに残るんだ

 溢れる涙を抑えながら語る少年の映像とことばがとりついたまま離れない。自分やママをポーランド行きの臨時列車に乗せながら、なぜパパだけはキエフという自分たちが住んでいた町に残るのか。大好きなパパがどうして一緒に来ないのか。どうして、と思う気持ちの裏にあるのは、そんなのわかっている、自分たちを殺そうとしている悪魔と戦うためじゃないか。パパはひとりでキエフに残る、ぼくたちのキエフをまもるため。恐らくもうパパにあうことはできない、子どもたちの目から落ちる涙。それを見ている僕の胸は張り裂けそうになる。軍事施設のみならず民間人そして子どもたちにも無差別に破壊兵器の犠牲になっている。その子どもの一滴の涙にさえ値しない人間が核兵器に手を伸ばそうとしている。

 「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない。」これは、シベリアのラーゲリの取り調べ室で、こう述べて死んでいった詩人石原吉郎の友人の言葉である。今のウクライナ侵攻の指揮を執る独裁者の暴虐は僕にこの言葉を思い出させる。「対峙が始まるや否や、その一方が自動的に人間でなくなるような」状況である。

 「しずかな肩には 声だけがならぶのではない 声よりも近く 敵がならぶのだ 勇敢な男たちが目指す位置は その右でも おそらく そのひだりでもない 無防備の空がついに撓み 正午の弓となる位置で 君は呼吸し かつ挨拶せよ 君の位置からの それが もっともすぐれた姿勢である」(「位置」石原吉郎)

 「なぜなら、大戦争を起こしたい、広島の惨劇を世界中で起こしたいと望む者が、原子力の炎の中で、子どもたちを水滴のように蒸発させ、花のように無残に干からびさせることをまたもや欲する者がいるのですから。」

 これは『ボタン穴から見た戦争:白ロシアの子供たちの証言』(スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ)の中の文章である。戦争の惨禍を経験したおさなごはおさなごとは呼べなくなる。

 このウクライナ生まれのノーベル文学賞作家の本を独裁者は知ることもないだろう。そこに書かれている白ロシアの子どもたちの証言に耳を傾けることは永久にないであろう。

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