臨床余録
2022年2月20日
こころを遣(つか)うということ

 “聴診器持つ手白衣のポケットに入れて温(あたた)む診察の前”(松森邦昭)

 これは医師会報に投稿された医師の短歌である。毎日寒い日が続く。診察の際、聴診器を患者の胸にあてる。その冷たさを思い、あらかじめ白衣のポケットに入れて温めておく。首などを触診する手指も一緒に温める。それほど効果はないかもしれない。しかし、患者に対するあたたかい心遣いがその動作のなかに感じられる。今の医療にはこのようなケアのこころが失われているように思う。コロナ禍のなかでなおさらそう思う。

 3回目のワクチンを予約したお年寄りたちが外来に来る。寒さから重ね着をしてくる方が多い。脱いでも脱いでもまだ下に着ている。手間がかかり申し訳なさそうに下を向くおばあさん。そんな風景のなかニコニコとみている医者のまなざしとやさしく助ける看護の手があるなら誰もあやまる必要はない。「暖かそうなきれいなセーターですね。これはもしかして手編みですか」とナースが聞く。そこから話が広がることもある。動作が遅くて皆に迷惑をかけているのではないかというおばあちゃんの心配は消える。これもさりげないしかし大事なこころ遣いといえる。

 先日ある雑誌に、“ケアされているということがそれを受ける患者にはわからないようなケアがほんとうのケアである”という趣旨の小論が載っていた。例として、在宅訪問時、便を失敗してしまったひとの介護の際に「便がでてよかったですね」とさりげなく対応するようなケアの仕方が示されていた。

 認知症のひとへのケアについていつも考えていること、自分という存在が崩れていくような不安や絶望に際してそれを和らげるケアのあり方である。明るい大きな声、満面の笑顔ではなく、暖かくさりげない表情や態度、そういった安らぐ雰囲気に患者は救われるのではないか。特に“さりげなさ”が大事だと思うが、その裏には患者に対する深いリスペクトがなければならないだろう。

 朝起きてから夜寝るまでのひとつひとつの行いとそれに伴う言葉の交わし。考えてみるとすべてそこにはケアのこころが張り巡らされている。

 

 

2022年2月6日
励ましてはいけない認知症

 2月1日、認知症医療連絡会(Web会議)が西区役所高齢・障害支援課主催で開かれた。認知症初期集中支援チームおよび認知症疾患医療センターからの事業報告、病院からの現状報告のあと認知症サポート医からの発言を求められた。僕が発言したことは、普段から考えていることである。
 まず、かかりつけ医として心がけていることは「認知症」を診るのではなく「認知症のひと」を診ること。これは10年前に日本医師会雑誌に依頼されて書いた内容と変っていない。そのひとがどういうひとかを知りその生きて来た歴史をリスペクトすることなしに認知症のひとを診ることはできない。
 次に、横浜市は認知症の予防のモデル事業ではなく、認知症になっても安心して暮らせる「認知症フレンドリー地域」のモデル事業をするべきであること。(予防を強調することがどれだけ認知症のひとや家族に苦痛を味あわせているのかを認識するべきである)
 3番目に、認知症は診断そのものよりも診断したあとが大事であり、本人と家族はどのような生活をしたらよいのか、その拠りどころとなる人と場所が、ケアにつなげるリンクワーカーによって提示される必要がある。そのようなリンクワーカーの役割の大切さが認識されるべきである。
 4番目、物忘れ外来ではなくもっと敷居の低い「物忘れ相談室」(東京都健康長寿センターが作ったような)が街なかにあってもよい。
 最後に、周辺症状は誤ったケアが原因のことが多い。できなくなったことをリハビリと称して頑張らせたり、忘れて思い出せないことをわざわざ聞いて試したりすることがどれだけ患者のこころを傷つけているのかを認知症に関わるすべてのひとは知らなければならない。そのようなやり方で認知症のひとを励ますことは控えなければならない。

 以上のことを短い時間に圧縮して語ったのでどれだけ言いたいことがつたわったか、いささか心もとない。少し夢中になりすぎて余計なことまで喋ったような気もする。

 附記:認知症のひとへのperson centered careを提唱したTom Kitwoodは認知症のひとのなかに我々自身をみることの重要性に触れている。そして良いケアによってある程度の回復(rementing)も可能であると記した。

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