パラドックス
私たちがはじめて沈黙のなかに坐ろうとするとき 大きな心のざわめきに遇うのはひとつのパラドックスである。
痛みが痛みを解放するのを経験するのもパラドックスである。
静寂を保つことが私たちを全的いのち(life)と存在(being)に導くのはパラドックスである。
私たちのこころはパラドックスを好まない 私たちは物ごとがクリアであってほしい 私たちが安全という幻想を維持できるように
確信はとてつもない独善を生み出す。
しかしながら、私たちはそれぞれより深いレベルでの存在を所有しており、それはパラドックスを愛する。存在は知っている。夏はすでに冬の深さを胚胎している種のように成長していることを。存在は知っている。私たちはこの世に生まれた瞬間、死に向かっていることを。いのちのきらめきは影を背景とする 光と影、みえるものとみえないものはつねにともにある。
私たちが静けさのなかに坐るとき私たちはおおいに活動している。
沈黙を保つことで私たちは生存の咆哮を聴くことができる。
私たちがひとつであるという意志を通して私たちはすべてのものと一つになることができる。
Gunilla Noorris
私に生と死、確かさと不確かさ、希望と恐怖のどちらかを選ぶように頼むのは間違っている。ほんとうはこれらすべてのことは同時に起こるのだ。AMLそれは私の命を短くする(確か)しかしどのように短くするのかはわからない(不確か)。薬の副作用や治療期間など(確か)はわかる、しかし治療の利益と負担についてはわからない(不確か)。私のライフは希望、喜び、愛に満たされていると同時に恐れ、悲しみ、悲嘆とともにある。パラドックスのなかに生きることは医療従事者の力によるのではない。彼らは生物医学モデルの生み出す明晰さと安全性を得ようと努める。延命への希望のための希望をうみだすために、正確さに焦点をあてる(つまり不確かさを制限するプロセス)ことはすべてのひとに衰退への準備をさせないことになり結果として大きな苦しみをもたらすことになる。
アナルと私はパラドックスのなかに生きることは、私たちにベストのもの(私の緩和ケアという背景に与えられる広がり)を期待させてくれる、ベストでなくても最も悪い事態を防ぐことができるようにしてくれることがわかった。悪い事態についてオープンに話し合うことでそれが起きないようになったわけではないが、逆に私たちをつなぐ糸と矛盾する治療を避けることに役立った。最悪の事態を含め私たちの病の今後に関わる医療者とのdiscussionはむつかしかった。全体的にみれば、それは私たちの不確かな状況にあって皆の苦痛を和らげることになったと言える。
道のあるがままに
あなたが従う一本の糸がある。それは、変転する物の間をすりぬけていく。しかし、糸それ自体は変わることはない。ひとはあなたが何を追いかけているのか不思議に思う。あなたは糸について説明しなければならない。しかし、他人がそれを見ることはむつかしい。それをつかんでいる限りあなたが道に迷うことはない。悲劇は起こるだろう、傷つくこともあろう、そして命を落とすこと、苦しみ老いることも。時間を巻き戻すことはできない。だがどんなことがあってもあなたはその糸を手放すことはないだろう。
William Stafford
「二つの世界」の中で重篤な病を治療することと日々の生活を生きている患者の矛盾について私は語った。私の臨床医が私の糸について関心を持つことから如何に離れてしまっているか、私たちの経験からはっきりと学んだ。臨床医は生物学的モデルの抽象のなかにいることが心地よいのである。私の物語の中身はAMLという診断、良くない予後、そして抗癌剤という治療になる。これらの情報は私の物語を定義するエクセルのシートにピッタリおさまる。私の治療に関する問いにCTや骨髄穿刺がよく答えてくれるときどうして私に話しかけたり注意深く私の体を診察しようとするだろうか。私を診てくれた殆どの医師はよい人間で十分なケアもしてくれた。 しかし、私を「つなぐ糸」について知ることはなかった。その「糸」とは私の人生に意味をもたらすナラティヴである。 それは縦に長く、直線ではなく、情緒的で矛盾に満ち、私の生の経験を統一のとれた全体にしてくれる。 治療の決断はこの私の物語の価値や意味のなかでなされるべきである。 意味や質をもたらすのは長く生きることではなく私をつなぐ糸に添って人生を生きることによる。 私を「つなぐ糸」を知ることなく臨床医がリスペクトフルなケアを私に施すことは不可能である。
患者中心の(つまり私の医学的ゴールを理解する)一握りの臨床医に私は深く感謝している。それ以外の医療従事者とのギャップは大きい。緩和ケアの体制は不十分であり患者、家族そして専門職の根本的に新しい協力体制が必要である。
ゲストハウス
人として在るということはゲストハウスのようなものだ
毎朝新しく来るものがある
喜び、憂うつ、卑しさ、
瞬間的な気づきのいくつかが
予想外の訪問者としてやってくる
ようこそとおもてなしする
たとえそれらが群れなす悲しみであろうと
家具を空にするほど激しく吹き過ぎさろうとも
それでもゲストを丁寧に扱いなさい
彼はあなたを追い出すかもしれない
新しい喜びのために
あるいは暗い思想、恥、悪意のために、
それでも笑ってドアに立ち彼らを招きいれなさい
誰が来ようと喜んで迎えなさい
何故ならそれぞれは彼方からガイドとして送られてきたのだから
Rum
そこで私は新しい友人である白血病から何を学んだのであろうか。個人的には私は死ぬであろうと常にわかっている。ただそれを信じてはいなかった。今やそれは私の核として私のなかにある。私は死すべき運命にある。そしてそれを知ることで、この今という瞬間を愛、喜び、安らぎの機会に満たされた素晴らしいギフトとして受け取ることができるのである。それは私の人生の生き方に変化を与えた。私が死すべき運命にあるなら何が重要なのであろうか。家族、孫、友人、同僚、地域の人々と我々が生きている今、愛や喜びを分け合うことである。
プロフェッショナルとしての私は死は深い意味で医学的出来事ではないと理解している。それは我々が医学的ケアをうまく受けても受けなくてもライフサイクル上の出来事である。死は解決されるべき問題ではなく生きられるべき過程である。それでもアナルや私の関わったどの医者も我々よりも死を恐れていた。彼らはどのように我々がじぶんの人生を生きたいかについて知ろうとはせず、我々の病気に焦点をあてる。パラドックスである。臨床医は生命を脅かす病気の“治療”にのみ焦点をあてる、しかし病んでいる人間の“ライフ”は見えていないのである。臨床医が死というものをライフのノーマルな一部であるとみなすことはとても大事なことである、それにより彼らは死に至るまで生きることの聖なる過程を辿る患者や家族に付き添い、指針を与えることができるのである。
Stuart FarberのLiving Every Minuteと題するエッセイを読む。(長いので何回かにわけて訳すことにする。Dr. Farberは緩和ケア医である。医師が患者になるという特殊な位置からこのエッセイは書かれている)
2013年ハロウィーンの日胸痛と呼吸苦で私は救急外来に向かう。そして急性骨髄性白血病の私たちの旅が始まった。私たちというのは、私自身、家族、地域、そして仲間たちとの関係性を示している。私の人生の中で愛や喜びそして安らぎをもたらすのは彼らと相互に助け合う関係である。8ヶ月の厳しい化学療法を受け、今は細胞学的寛解状態にある。2015年1月事態は変わった、白血病は再燃。5年生存率25%、死亡率75%である。現実は100%生きているか、100%死んでいるかである。誰もわからない。
我々の旅路に出て4ヶ月、ケアギバーである私の妻アナルもAMLと診断され強力な化学療法を受けた。我々が好悪の中間状態のときサポートしてくれた仲間にどう感謝してよいかわからない。妻は翌年亡くなることになる。
私は彼女のメインケアギバーである。我々は不確かさのなかを生きることを学んだ。彼女のケアギバーとしてその病気の変わり易さには慣れていた。我々は毎日ベストを期待して目覚める、何がおきようとそれに適応し、できる限り最悪の事態を避けた。身体的苦痛が一番つらいことであり、また我々の生活をすべて病気や健康と関連づけて考えてしまうこともつらかった。
この記事は私が昨年から個人的と同時にプロフェッショナルとして学んだことを共有したいと思い書いたものである。私が経験した複雑な、言葉ではあらわしがたい学び、特に私の存在の最も深いレベルでのそれを詩を用いて表現した。個々の詩を読み直接あなたのこころに向けて話しかけるようにしてほしい。詩と私のコメントに結びつくものをあなたのなかに探ってほしい。
ふたつの世界
私の心は善意で一杯
私は自分の知っていることすべてを使って助けたい
あなたの知らない多くのもの、診断、治療、リスク、利益、統計を私は知っている
あなたが正しい選択ができるよう十分にどのような援助ができるだろうか
私は自分の安全地帯であなたの選択あなたのライフを共有することから私自身を守る(医者の世界:訳者注)
私の心はライフでいっぱい
私はあなたの知らない多くのもの、愛、希望、悲嘆、恐れ、病、死すべき運命を知っている
私が正しい選択ができるようにあなたが私を助ける際に私がどのような人間であるかを
あなたがわかるようにどのようにあなたを助けられるだろうか
そうして我々は自分たちの知識、自分たちのライフを共有できるだろうか(患者の世界:訳者注)
Stu Farber
私がprofessional patientとして学んだ根本的なことは臨床医と患者/家族は完全に異なる二つの世界に住んでいるということである。不幸なことに医学の世界が支配権を握る。医学という流れはすべての人を川にのせて延命治療の方へ押しやる。私は自律的な個人であり、アナルや私に対して私の主治医の提示する医学的事実により治療選択がなされるべきというのは誤りである。延命治療に話し合いのフォーカスがあてられ、我々の生きているライフは見えなくされる。この医学モデルは困難な疑問や患者や家族のパーソナルな点に関わることから臨床医を防ぐ。
2回目の抗癌剤のあと7日間発熱したが感染症主治医はウイルス性疾患と思われるが、肺炎の可能性も少しあるので気管支鏡をする方針を示した。もし肺炎で適切な治療しなければ死亡することになると述べた。「あなたはどうしたいか」と尋ねた。自分の病と悲嘆とで心が混乱しており決めるのはむつかしい。しかし私の内なる私のなかに答が立ちあがった。「私は自分を苦しくさせるようなことはしたくありません、今のところ少し良い感じですし、もう少し様子を見たいと思います。ウイルス性の可能性の方が大ですので。もし私が間違っていたら死ぬことも含めその結果を受け入れます。」と答えた。あきれたことに「それは私の選択と同じだ」と述べた。彼の説明のすべての言葉は気管支鏡をするべきだというものだったのに。他の患者が同じ状況だったらすべての患者は気管支鏡をすることになったであろう。どうしてこんなことになるのだろう。全くおかしなことだ。しかもこれが我々が日々経験していることなのだ。この患者と医者の2つの世界をひとつに統合することが問われているのである。
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