「転進路に横たわる死体を踏み越え、ただ歩くだけ。これがニューギニア戦の実相であった。ニューギニア山中には幸い猛獣はいない。大蛇くらいであったが、部隊を離れた陸軍の遊兵が怖ろしかった。特有なするどい目つき、血色もよい。この人喰い兵に狙われた私は拳銃を手にして一晩中眠らなかった。絶壁を一本の蔦かずらを手によじ登る。渓流にかけられた一本の丸太の途中から踏みはずして落下してゆく兵士。草原突破には敵砲弾の合間をぬって全力疾走する。どこまでも続く見わたす限りの密林。きらめく星座。数々の流れ星の大自然はいまでもまぶたに浮かんでくる。」
これは亡父、渡辺哲夫が先の戦争で海軍軍医としてニューギニアに派遣された「死の日記」をふりかえり、平成10年8月15日「みんなみんな夢の中」というタイトルで書いたエッセイの一部である。今、日本はコロナ禍、野戦病院をつくれと言った声も聞こえるが、父の描く戦場はまさに地獄。このあと父は難治性の下痢に苦しみ、ついに外科医としては致命的な右眼失明に至る。マラリアと極度の栄養失調のためであろう。200名の隊員は36名となる。食料補給を絶たれ、日本海軍から見捨てられ、それでも父は死ななかった。その運命を8月が来るたびに考え、そして父の遺したものに思いを馳せる。
ニューイングランドジャーナル、“When Low Tech Wins”を読む。
COVID19の危機にあって患者も医者もステイホームをする中で遠隔医療を余儀なくさせられる。このエッセイの筆者の患者の多くは高齢者で、スペイン系、低所得である。対面ケア(in-person care)が標準であるが今はむつかしい。ビデオ診療(video visits)が2番目の選択、電話診療はさいごの手段。しかし1年経った今、事態は変わった。
視覚に問題のある患者にとってそうであるように、筆者にとっても電話という音だけに頼って患者とつながるという能力が開発されたと思う。ビデオ診療であれば薬が切れてもそのラベルを見てすぐに処方し薬局から届けてもらえる。
しかしこのビデオ診療がじぶんの患者の殆どにできないことがわかった。それは住宅の問題、貧困、デジタルリテラシーの問題による。
コロナパンデミックにおけるビデオテクノロジーの使用の不均衡はよく知られている。高齢、非白色人種、非保険者は若い、白色人種、保険に入っている人よりビデオ診療を受ける割合は40~60%少ない。
これがバイアスにならないように、自分の患者に丁寧にビデオ診療のやり方を教えた。しかしそれでも彼らはビデオではなく電話を選んだ。この現実を認めるしかなかった。
最初の数ヶ月はぎこちなかったが、しだいに沈黙の時間がはさまってもこころよく対話できるようになった。患者を見たり触れたりすることはできない、得ることのできる“データ”は言葉と声のトーンのみである。アクテイヴリスニングに筆者は熟達してゆく、患者の声にその意向と感情を読み取るのである。患者はどのようにそのストーリーを話そうとしているかに注意を払うようになった。アクテイヴリスニングをさらに学んだ。まず非言語的承認として「はい」「OK」「なるほど」などで答える。患者の言葉を要約して「あなたのいうのはこういうことなんですね」と繰り返す。問いかけとして患者の経験、信念、気分などを問う。
電話診療で筆者がよりよい聴き手になるにつれ、患者の側にも利点がみられるようになった。ある患者は医者の顔がみえないことで、注意が集中されたばこや飲酒などよりむつかしい話題を出すことができるようになった。また電話は忙しい人たちにとって都合のよいツールとなった。エッセンシャルワーカーたちは通勤途中や昼休みに電話してきた。2020年の夏から秋にかけてビデオ診療はゼロ。
電話診療はプライマリーケアと地域健康管理で質の高いケアを実現できている。2010年以来、退役軍人健康協会は彼らの患者中心在宅医療モデルに電話診療を取り入れてきた。身体的検査が必要でない場合や医師との面接に不安を抱える場合は特に有効である。カリフォルニアにおける調査ではパンデミックにおける電話診療はケアへのアクセスを高め、待ち時間を減らし、ビデオ診療に匹敵する効果をしめすこともあった。
2021年対面ケアに戻った今、筆者は聴覚のみの1年間の診療をふりかえる。最近筆者は80歳代の心不全の女性を診た。30分間診療室で時間を共有したが、その殆どはバイタルサインのチェック、投薬の調整、マスクをきちんとつけることの確認の時間に費やされた。そこで数ヶ月前彼女との電話診療を思い出す。そのとき筆者はまず彼女にリラの花について聞いたのだった。それは彼女が最近取り組んでいるガーデニングプロジェクトだった。オーデイオのみの診療がもたらした或る親密さと率直さが対面診療では失われることに筆者は気づく。勿論、彼女が再び身体診察のためにクリニックに来てもらうのは嬉しいことだが、彼女のストーリーへのレーザー光線のよう鋭い興味は対面診察では失われてしまったのである。電話診療へのノスタルジーなのだろうか。
筆者は今電話を患者中心ケアの有用な道具と考える。患者にフォローアップのために電話診療の選択肢を与えている。電話診療は筆者に医療のヒューマニテイへの配慮を保つようにしてくれる。
不平等と孤立の期間、筆者はいかにひとの話に耳を傾け、公平に共感できるケアを与えることができるかを学んだ。それはローテクの電話のおかげである。
以上が抄訳である。筆者はカリフォルニアの循環器専門医。ハイテクの機械を使いこなしている日常からパンデミックのさなかハイテクの正反対のローテクである電話に価値を見出す。電話でのやりとりに患者中心ケアの核があることに気づいていくプロセスが興味深い。
僕も何人かの方と電話診療をしているが、対面診療に比し、何というか自由に言葉を出せるような気がするときがある。対面では相手の表情や物腰が眼に入り、それは大事な情報であるのだが、一方そのために言葉が抑制されがちだ。電話では相手の表情や態度はみえない、そのため少し解放されて笑ったりちょっとした軽口的なことも出てしまうことがある。それは必ずしも悪いことではないのかもしれない。患者さんによって注意しなければいけないこともあるだろう。ローテク電話診療の可能性についてさらに考えてみよう。
コロナワクチンの出前接種に追われようやくあと数人というところ。合計50数人の家を訪問し接種した。一人に3週間ごと2回往診すること、人数(6人)と日程を合わせ、時間(6時間以内)や温度(30℃以下)や揺らさないことなどの条件があり普段の往診に比べ大変である。このあとはクリニックで行うより若い世代へのワクチン接種が主体になる。
ところで珍しく出版社から在宅診療に関する依頼原稿があり、そのため古い雑誌で大事そうなのを読み直している。そのうちの一つ、古いのだが2012年のニューイングランドジャーナルに眼が止まった。
Shared Decision Making―The Pinnacle of Patient-Centered Care(共同意思決定―患者中心ケアの頂点)というタイトル。そのすぐ下に“Nothing about me without me ”1998年ザルツブルグセミナーで患者の眼を通してという副題でバレリービリンガムという人が述べた言葉として紹介されている。直訳すると「私なしに私についての何ものもない」意訳すると「私ぬきに私のことは決めないで」ということになろうか。この言葉で“患者中心ケア”のすべてが語られている。
医学の進展は知らずに医師と患者を遠ざけることになり重要な情報や選択に患者は関われなくなってしまった。Picker Instituteは患者の視点からみて最も重要な8つのケアの質と安全に関する指標を提示した。
(1)患者の価値感、意向(好み)、ニーズ
(2)統合されたケア
(3)質の高い情報と患者への教育
(4)痛みのコントロール、身体的安楽
(5)不安や恐怖の軽快、情緒的サポート
(6)家族や友人への適切な関わり
(7)継続的ケア
(8)ケアへのアクセス
ケアに関する意思決定ということでは特に(1)が重要であろう。
何らかのケアに際して患者をリスペクトする姿勢で対話する。その好み(意向)、ニーズ、価値観を尊重して決定をする。
ただ問題もある。
こんな風なやり方もありますがどう思いますか、とか、私はこんな風に考えますがいかがですか、などと投げかけると高齢の方は「先生にお任せします」「素人の私にはわかりません」という方が少なくない。パターナリズムに安心感を求めるのである。医者をそこまで信頼してくれてそう言っているのかどうか判断がむつかしい。
言葉だけのやりとりでは限界がある。そのために上記の(2)から(8)がありその具体を通してはじめて共有できるケアの中身がみえてくるのではないか。そんな風に思う。
当サイトに掲載されている文章等は著作権法により保護されています
権利者の許可なく転載することを禁じます