臨床余録
2021年7月11日
何のためのワクチン

 こつこつと定年まで公務員として働いたのち、妻とふたりで地域のコーラスグループに入り、歌うのを楽しんでいた高齢男性Tさん。物忘れの症状がみられるようになり妻に「健康診断に行きましょう」と誘われ僕の外来にみえた。もう10年も前になる。診察は看護師に名前を呼ばれて診察室に入ってくるところから始まる。僕は立ちあがり彼に笑って挨拶をする。どうぞこちらへと椅子に導く。「からだの調子はどうですか」という無難な声かけで始める。認知症の方に「どうされましたか」と尋ねるわけにはいかない。血圧を測り、胸部の聴診をする、「大丈夫ですよ」と努めて明るく伝える。そのあと(彼が応えられるであろう)コーラスなど日頃の活動について会話をつなぐ。「楽しいですか?」といったyes noで答えられることを聞く。Tさんはいつもにこにこと答えてくれる。そこから脱線して若い頃の思い出や趣味の話など記憶が保たれている話題に移っていく。それを僕が楽しんで聴く。彼がちょっとでも来てよかったと思ってくれればよしとする。妻はそばで少しひやひやしながらでも微笑みを浮かべて聴いている。「色々お話ありがとうございました。また来てくださいね」で診察終了。そんな診察を重ねてきた。穏やかな老夫婦である。
 やがてTさんが衣類の着脱、排泄動作などがうまくいかず妻への介護負担が増してくる。迷ったすえ特老に入ることになった。夫を思い妻は毎日のように面会に行く。それを僕に報告してくれる。負担のかかる介護、例えば排泄介助や入浴などは介護のプロに任せられるので、妻は夫の喜ぶおいしいものを差し入れするなど良い面で接することができる。妻が夫の様子を幸せそうに話すのを聞きながら僕はこのような介護の在り方も(在宅ではないが)悪くないかもしれないと思っていた。
 そんなときコロナ禍が来たのである。面会はできなくなった。それでも妻は施設の職員から夫の様子を聞きそれを僕に報告する。「寂しいけれどしょうがないですよね」と言いながら。
 やがて高齢者である二人は幸いコロナワクチン優先接種をうけることができた。妻がコロナを持ち込み夫が感染する可能性は殆どなくなった。この先生きる時間の限られている二人である。妻は当然再び面会できるだろうと喜んだ。
 ところが「駄目なんです。何故だかわかりません。今までと同じに面会はできませんと言われました」とがっかりして僕に報告。
 僕もわからない。お年寄りが自粛生活を重ね、苦労してワクチン接種しても会いたい夫に会えないなら一体何のためのワクチンなのだろう。

 

 

 

 

 

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