臨床余録
2021年4月25日
コミュニケーション能力とは

 ある日の高校生からの新聞投稿である。国語や英語は社会に生きていくのに必要だから勉強する意味はある。だが、なぜ理科や古典などを勉強するのかわからない。研究員や専門家になる人が学べばいい。将来、本当に必要なものはコミュニケーション能力だと思う、といった趣旨だ。

 必要なのはコミュニケーション能力だという点、なるほど、そうだなあと思いつつのどに骨がひっかかったような感覚を味わう。小学校の頃の僕は、いわば場面緘黙症。学校など大勢ひとがいるところではほとんど喋ることがなかった。中学、高校でも友人とどう話してよいかわからず、独りでいる方が楽だった。コミュニケーション能力の点数をつけられたら極めて低かったであろう。
 
 そのかわり、本を読むのが好きだった。小学校の頃は、毎日まんが、中学、高校でさまざまな文学書に出会うことになる。それらは学校の勉強にはなんの役にも立たないものだった。ただ、生きるためには必要だった。

 医者は患者さんという人を相手にする仕事である。当然コミュニケーション能力が必要とされる。しかし、雄弁で会話も巧みな医者なのに患者とうまくコミュニケーションがとれない医者がいる。ひとと日常的な会話をスムーズに行えていても医療の現場ではうまくいかないことがある。特に深刻な病い、人生の最終章の患者とコミュニケートするためには、日常的にひとと会話をする言葉とは質を異にする言葉が必要なのかもしれない。

 思想家吉本隆明は著書『ひきこもれ』の中で「コミュニケーション能力を過大視するな」と書く。言語には二種類ある、ひとつは他人に何かを伝えるための言語。もうひとつは、伝達ということは二の次で、自分だけに通じればいい言語。伝えるための言語は脳の感覚に関係し、意味を司る。一方、自分への言語は、内臓の言語であり、価値を司る。

 臨床のコミュニケーションは、この二つの言語(脳の言語と内臓の言語)がそろったときにうまくいくのではないだろうか。脳の言語だけでは不十分。そんな気がする。

 

2021年4月11日
看取りの意味を考える

 新聞の投稿欄に「自宅の看取りがいいとは限らない」という記事が載った。悪性疾患の終末期を迎え、家族は「医学的にしっかりと管理してくれる病院での看取り」を勧めたが、本人は帰宅を望み、その結果自宅で亡くなった。その時に誰も立ち会えなかった。自宅で看取れてよかったねと人からは言われるが、病院なら最期に家族が立ち会うことができたのにという後悔や無念な思いがあり、自宅での看取りが美談とされているが必ずしもそうではないと思う、というのが趣旨である。

 まず確認すべきは、ご本人の意向が自宅での看取りであったこと。これは人生のさいごを病院で過ごすのではなく、住み慣れた自宅で療養することの方がこの方にとって大事だったということである。
 
 終末期(人生の最終章)に病院医療から在宅医療にきりかわる際には、かかりつけ医(訪問医)、訪問看護師、訪問介護など24時間連携のケアの体制がケアマネージャーによって整えられる。寝たきり状態であれば医学的な管理(緩和的治療)に加え看護や介護の比重が多くなり、住み慣れた自宅でなされるケアは病院よりも効果的であることが多い。病気を治すことができなくなった段階での病院における機械や点滴などの延命治療と違って、在宅ケアはその方の生活や人生のなかでみていくので、暖かくその方を包み込むケアが可能である。

 看取りとは呼吸が止まるその瞬間にその場にいるということではないと思う。僕自身、父や母を自宅で看取ったがどちらも呼吸が止まる瞬間にそばにいたわけではない。父は僕が往診中に息を引き取った。父の虚弱がすすみ衰弱に至る過程でその最期は予想されていた。会うと少しぼんやりしてきた姿でいつも「今日も往診?遠くまで行くの?」と聞くのが父の口癖だった。そうやって父は僕に別れを告げていた。もうろう状態に至る前の最後の記憶が往診している僕であったとしたら、亡くなる瞬間、僕がベッドサイドにいないで往診中だったことは幸いだった。
 看取りとは死に至るケアのプロセスである。その時間を豊かにすることこそが大切であると思う。

 

 

 

 

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