臨床余録
2021年3月28日
わたしは籠の中の鳥

 在宅で亡くなられた方の古いカルテを処分する前にみなおしている。
 8年前に亡くなった100歳の女性のカルテをめくる。高血圧で通っていたが、非常に個性的な方だった。外来では大体会話にはならず一方的に喋りつづけ、どこでどう診療の区切りをつけたらよいか、むつかしかったことを覚えている。足元がふらつくのでナースが介助の手を出そうとすると途端に顔をしかめ、激しくナースの手を払いのけるのが常だった。
 過去に病院に入ってつらい思いをしたことがあり、家で転倒を繰り返した際、家族が救急車を呼ぼうとした時、「私を殺すつもりなら病院に連れて行け」と言って拒否したと息子さんが話してくれた。
 巨人ファンで水戸黄門好き。いつも着古した着物に銀色のざんばら髪、体は枯木のよう。ふらふらと外を歩いていると皆が声かけてきて困るといいながら、実際は彼女につかまると大変なことになると周囲では言っていたようだ。エキセントリック(変わっている)だが、僕にとってはとても面白いひとで話をするのは楽しく、人間的に魅力があった。
 「私は生きてるしかばね」と言いながら、「150歳までは生きたい」といって僕を笑わせた。「薬なんて飲んだって飲まなくたっておんなじ。歯磨き粉だって効くのよ」と言っていた。でも薬はのんでいるようだった。  
 ある時、「夫や弟が向こうから迎えにきている」というので「返事をしてはいけないよ」と息子がたしなめたという。「毎日まいにち命が削られていく」と意味深い表現をすることもあった。
 「自分のものは自分で洗濯する。嫁は料理上手、おいしいものだけ食べている」と家族関係は良好。そんな彼女だが「死ぬのはやだ」と泣くことがあり「皆死ぬから大丈夫だよ」と息子が慰める。段々こどもに戻るみたい、呆けも入って来た、と息子さん。
 ある日、階段から落ちあばらを折る。殆ど寝たきりになり褥創ができるが、往診は拒む。しかし、傾眠状態で呼吸苦、発熱、夜間せん妄など認めるようになり「先生、いよいよだめだね。往診してください。本人も病院ではなく先生に診て欲しいといっている」と息子さん。
 昼夜逆転し夜間叫んで騒ぐが「わたしは籠の中の鳥(死刑囚)、死ぬのを待っているだけ」と言ったりする。水分もとれなくなり息子さんの希望で点滴を施行。手足つめたくチアノーゼがみられその半日後永眠された。最後まで介護保険は利用せず家族だけでケアされた。忘れられないひとりである。

 

2021年3月21日
驚きすぎて涙がでません

 通院しなくなった方や亡くなった患者さんのカルテは最低5年間保管することという規定がある。開業して20年経ち、古いカルテはだいぶたまり、置き場所に困るくらい。時期をみて少しずつ整理しているが、名前をみるとついぱらぱらとめくりたくなる。特に在宅で亡くなられた方はそうである。そんなひとりの10年前のカルテを読み直す。遺された妻の言葉が印象的だ。

 転移を伴う末期癌と診断され手術後抗癌剤治療を受け、治療が限界となったとき在宅療養を希望。病院からの紹介で往診することになった。亡くなる2日前、意識ももうろうとするようになり、往診した。その時の妻の言葉をカルテから拾ってみる
 
「1年半前、夫は癌とわかってからも深刻ではありませんでした。抗がん剤もはじめはきいていました。癌を持ちながら80まで生きるかな、なんて言ってたんです。オートバイで毎日海の公園まで行ってそこで友達ができた。その人は癌で肝臓を3回切った経歴があり、市民病院に緩和ケア病棟ができたら一緒に入ろうと言ってました。主治医は、病気のことをよく説明してくれず、その友人が肝臓が破れるか、脳に来るかどっちかだよ、と教えてくれたそうです。主治医は何も喋ってくれないから困るなんて、勝手な口きいていたのにこんなになっちゃうとはね、切ないです。何がつらいって、うなり声をだされるのがつらい、荒い呼吸をそばできいていられません。」「2~3か月前まではとても元気だったのに・・そのあと悪くなって・・本人も、早いな、と呟いていたので・・そのときはもう覚ったのだなと思いました。」「皆、わたしが倒れるのを心配してくれて」「きのうは午前2時ころから少し眠りました。毎日訪問看護師さんが来てくれて今日は少し昼寝しました。」

 僕は、呼吸は荒いけれどうとうと眠っているような状態だから苦痛はさほどない筈と妻に話した。妻の苦しみを聞かされて僕も苦しかった。からだを動かし苦悶状になったとき鎮静剤を注射した。それで静かになったが、お別れが近づいていると妻に告げた。喋れなくても耳は聴こえる筈だからそばで手を握って話しかけるように妻に促した。

 その2日後の深夜永眠された。さいごの診察をし、ご臨終を告げたあと妻が言ったのが「驚きすぎて涙がでません」という言葉だった。経過が早すぎて涙がでません、あるいは、悲しすぎて涙がでません、ならある程度わかるが、驚きすぎて涙がでません、という言葉はなにか不思議な感じがして思わずカルテにメモしたのだった。しかし、今こうしてふりかえってみるとこの言葉は最も身近なひとを失ったひとの心の真実を暗示しているように思える。理性では癌の夫のケアを通して亡くなるときが来るのはわかっていた。しかしこうして現実として息をするのをやめた夫のすがたを前にしてわたしの“目”はその像を受け入れられずびっくりしている。だから「(わたしの目は)驚きすぎて涙もでません」ということなのではないだろうか。
 あるいは、わたしの夫は今死んだけれども、夫の死という現実をわたしは受け入れたくありません、ということの(詩的な)表現なのだろうか。
 あるいは、夫の死そしてそのなきがらを現に見ている私の眼は、衝撃の重さ(ショック)から涙を出す機能を失ってしまった、ということかもしれない。
 他にもさまざま解釈が出てきそうだ。自分のこころの状態を散文的に説明し伝えようとする余裕はなく、ただありのままにこころに浮かんだ言葉が外に投げだされた。
 考えてみれば、彼女のそのときの心の状態は彼女だけのものであり、厳密にいえば他者が共有することはできないし理解できるわけではない。言ってみればこれは〈詩〉の言葉に近いのではないだろうか。

 

2021年3月14日
ひとりひとり

「ジェノサイド(大量殺戮)のおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ。」(「確認されない死のなかで」『望郷と海』石原吉郎)

 医学部を卒業し精神科医として働いた精神病院を思いだす。ひとりで100人の患者を受け持った時期がある。ひそかに慢性沈殿病棟と呼ばれていた。10年以上入院している患者が殆どであった。ひとりひとりの顔と名前を覚えるところからはじめた。ほとんど何も語らない患者からいわゆる支離滅裂とされる言葉をしゃべり続けるひと、おとなしい患者あるいは興奮して問題行動を起こすひとなど様々だった。長く保護室に隔離されている患者もいた。
 
「社会からは見えない精神病棟のそのまたはずれにある保護室に長年隔離されているひとり。そんなひとりにどう向き合うことができるか。じぶんにそう問いかけた。まだ20代だった。・・・そこから僕は歩いてきたのだ。僕はまだ、かけがいのない“たったひとり”へのまなざしを失ってはいないか。」(「たったひとり」『落葉の思想』渡辺良)

 さて僕はいま町医者として働いている。最近ひとりの高齢女性を在宅で看取った。春の嵐の豪雨のなかそのひとは88年の生涯を閉じた。家族のいないひとり暮らしであるが、僕のほかにケアマネ、区役所スタッフ、ケアプラザ、ヘルパーさん、アパートの大家さん、隣人、民生委員、訪問看護師、デイサービスのスタッフ、訪問薬剤師それぞれが彼女にそれぞれの仕方で関わった。濃淡さまざまではあるが、そこにはひとりを尊重するまなざしがあったと思う。もう一度そのケアのあり方をふりかえるケアカンファランスが計画されている。死んだら終わりではない。それぞれのこころの中に彼女は生きている。その彼女に向かってそれぞれのケアを問いなおす。亡くなったひとりに対してこのように丁寧なこころのふりかえりがなされるということをすこし誇らしく思う。

 

 

 

 

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