一般診療のなかで最も頻繁に使用されている薬はなんであろうか。それは、医者という薬である。医者が薬。こう始まるのは、マイケル・バリントの『THE DOCTOR, HIS PATIENT AND THE ILLNESS 』。英国のGP(general practitioner:日本のかかりつけ医にあたる)の遭遇する患者の精神的な問題をグループでdiscussionし対応の仕方を学ぶ試みがロンドンのタビストッククリニックで行われた。それをまとめたのがこの本である。
総合病院内科を訪れる患者の主訴の大半がこころの問題に関係しているという報告が過去にあった。おそらく現在もそう変わらないだろう。いわゆるむつかしい患者、困難事例の多くは精神的な問題をかかえている。
バリントの本には、いわゆる不定愁訴の患者さん、医師に過度に親しみを求めてくる患者、難治の喘息の背後にアパートの人間関係が起因していた例、患者の言う通りに薬を与えることが唯一の解決策であった例など多彩なケースが紹介されている。
僕の患者に、認知症ひとり暮らしで、夜間の不眠、被害妄想、せん妄が目立ち、救急車をコールして困っているひとがいる。やむを得ず、夕方に少量の向精神薬をだした。しかし、その薬をのんでくれず、逆に毒を飲ませようとしていると怒り出し興奮状態で手に負えなくなったと昨日夕方ヘルパーさんから電話あり。すぐに往診した。長く診ている方で僕のことはわかる。とにかく腰をすえてじっくり話を聴く。これまでの長い人生をひとりで生きて来たこの方への敬意が僕にはある。どうも認知症とフレイルの進行に伴い、必要と思われる介護を彼女の意向を抜きに性急にすすめたことで精神的混乱が生じたと思われた。バイタルをチェックし丁寧に聴診し、「大丈夫なので今日はゆっくりお休みください。いつも独りで頑張ってますね。偉いです。またいつでも往診に来ます」と肩に手を置いて静かに話すと、「先生よろしくお願いします」と穏やかな応答である。用意してきた追加処方は与えず退去した。その後の報告では落ち着いているようだ。
医療に薬(drug)は必要である。しかし、処方して終わりという風にはいかない場合が多々ある。その時、“医者という薬”を処方しなければならなくなる。経験からいえることは、上から目線で“医者という薬”を処方しても効かないことが多いということである。
「先生、今日は芍薬甘草湯(しゃくやくかんぞうとう)の量を減らしてくれますか」
こう言うのは、長く夜間の足のケイレン(足のつり:いわゆるこむらがえり)で悩んでいるYさん。よくなったんですか、と聞くと、「あのね、先生にいわれたやり方で大体よくなるんです。痛いけど立って足を伸ばすの」
ぼくはニコニコして聴いている。
「だれでも知っているように、ふくらはぎが痙攣したら、どんなに我慢強い人でも悲鳴をあげる。でも地面にぴったり脚をつけて踏みしめたまえ。すぐになおるから。」『幸福論』アラン(1923年のエッセイ)
じつは僕も夜間の足のケイレン(つり)をしばしば経験している。それが来ると痛くて飛び起きざるを得ない。顔をしかめ、時にはうめき声をあげながら足をのばしたり曲げたり歩いたりしているうちによくなる。上の文章に出会い、僕はこの有名な哲学者の治療法を自分でも試してみた。立って踵をつけて床を踏みしめるだけ。確かにこれで治るようだ。足のつりで悩んでいる患者さんは多い。大抵、甘草湯を希望する。そこでYさんに〈アランの方法〉を試すようにアドバイスしたのである。この方法ですぐに治りますという患者さんがAさんのほかに2人いる。
先日、新聞の質問投書欄に足の筋けいれん(こむらがえり)のことが載っていたが、水分補給、ビタミン、保温、芍薬甘草湯処方について述べられていただけ。専門医でもこの方法は知らないようだ。アランが医者ではなく哲学者であるということが面白い。
1月8日新型コロナウイルスに対して緊急事態宣言が発令された。醫院では昨年県から指定を受け、かかりつけの患者さんのために発熱外来を週2日特別にオープンしている。幸い患者さんが押し寄せるということは今のところない。醫院にかかりつけの患者さんの多くがマスク、3密回避を守ってくれているようだ。普段の外来も密にならないように予約をゆったりとり、窓や自働ドアは(寒いのだが)開けたままにしている。
ところで、このコロナウイルスによる神奈川県の死亡者数と年齢分布が新聞に載っている。それによると、死者の87%は70歳以上である。感染者は10代、20代、30代、40代、50代、60代、70代、80代、90代と大体平均して分布しているが、死亡者となると男性では30代1人、40代2人、50代9人、60代18人、70代42人、80代79人、90代18人と70歳以上が死者の大半を占める。女性の場合は死者は70歳以上が95%を占める。
さて自室の僕の机の前には「ヤコブレフの図」というのが貼ってある。これはひとがおぎゃあと生まれて、這うことを覚え立ち上がり、青年に成長し、成人とし歩き、壮年を過ぎて背が丸くなり、やがて杖をつく、そしてついに寝たきり、四肢屈曲し胎児様姿勢に至るまでが描かれている。つまり、ひとの一生がその姿勢の変化を通して簡明に描かれている。老年あるいは老衰とは自然の摂理であり死に至る時間であることがわかる。
コロナはどうもこの自然の流れに沿ってくれているようにみえる。ペストはちがう。こどもも若者も無差別に命を奪った。しかし、コロナは子どもや若者にかかるが殆どが軽症か無症状である(味覚障害や脱毛の後遺症が目立つ例もあるようだが)。子どもや若者の命を奪うことはない。その意味ではとても優しいウイルスである。
いわゆるフレイル(心身虚弱)の高齢者が風邪にかかり寝たきりになりそのまま亡くなることがある。その場合、死因は老衰としている。子どもや若者は風邪で亡くなることはない。高齢者だから亡くなるのである。
コロナは皆に平等にかかるが亡くなるのは高齢者である。コロナは怖い。だが、変な言い方だが、分別がある、子どもや若者の命を奪うことはない、。無茶苦茶に不合理な暴れ方はしていないのではないか。
一方、我々高齢者は“メメント・モリ”(死を忘れるな)という警句を投げかけられているような気もする。
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