ランセット誌で2020年のhealth storyを世界の国から15枚の写真のハイライトとして特集している。メデイアにでてくることのない、しかしとりあげる価値のある現場を大きな写真で提示し短い文章をつけている。そのうちのいくつかを紹介しよう。
一番目はケニアのラバイ病院を拠点にコロナ禍のsub-Saharan countryにおける妊婦と乳児のケアに関する研究チーム。病院前に距離をとって並ぶ青い看護服とマスクのナースたち。彼女たちのさわやかな意思が感じられる写真だ。
次に、コロナ禍に隠れているが、結核という感染症は今でもアジアの国々では重要。写真はマレーシアの若いmigrant workerを完全PPE装備で診察する医師の姿をうつす。
次の写真にはやはり東南アジアで致死率の高いマラリア、とくに多剤耐性株の問題。蚊帳のなかに坐りカメラを見つめるカンボジアの青年の眼が印象的。
次の写真は“challenges and hopes”と題してシエラレオネの黒人家庭を映す。中心に母親、その後ろ、隠れるように娘と孫。コロナ禍で子どもの学校は閉鎖し母親は仕事を奪われたが日々子どもたちをケアするために奮闘する。写真は女性たちがいかにこの社会の屋台骨になっているかを訴える。アメリカ副大統領のカマラハリスに希望をつなぎたいと書かれている。
次は、乱れた髪の毛にやや伏し目がちな幼いこどもが両手に大事そうに小さな袋(何が入っているのだろう)を持ち、カメラをみつめる。今にも泣き出しそうな悲しげなたたずまいの女の子。写真でなければそばにいき「大丈夫だよ」と頭をなでてあげたくなる。ネパールのアナプルナ地区の子ども。ヒマラヤ登山の国というイメージの背景にあってそこに住む人々、特に5歳以下の子どもの栄養不足は深刻なようだ。
次は、森の道を3人の若者が、緑色の大きなマスクをしてこちらに歩いてくる写真。よくみると木の葉で作ったマスクである。180万人以上の感染、4万7千人の死者を出したインド、マハラシュトラ地区であるが、こういう写真をみると何かインドらしくて気持ちが少しやわらかくなる。
次の写真は考えさせる。倉庫のような建物の前の椅子に足を組んで座り、右肘を肘掛けに置き右手を顎にあて指にはタバコを挟んだ40前後の男性。横には簡易テント、紙袋、ビニール、毛布などがごたごたに置かれ、段ボール板に“LOCK DOWN’S COMING PLEASE SPARE ANY CHANCE SO I CAN GET A ROOM FOR AS LONG AS POSSIBLE THANKU”(ロックダウンがやってくる どうかできるだけ長く泊まれる部屋を得るチャンスをください ありがとう)と書かれている。2019年の報告ではロンドンで52人にひとりはホームレスであるという。驚くべき数字だ。コロナを防ぐ手立てとして、手洗い、清潔、ソーシャルデイスタンスといわれる。これらはホームレスのひとには難しい。ロックダウンでホームステイといってもその「ホーム」がない人はどうしたらよいのか。多くのホームレスのひとは、感染症、精神疾患、アルコールや薬物依存など複数のリスク因子をもっている。コロナ禍でこれらのひとのニーズに応えていない現状が浮き彫りにされている。
“Disentangling COVID19 inequity in the UK”(英国のCOVIDによる不公平を解きほぐす)と題する写真。ひとりの黒人の若者がマスクし両手にビニール袋をさげて厳しい表情で立っている。西アフリカから来た彼はヘルスサポートワーカーとして働いている。人種的マイノリテイー出身のワーカーはコロナに感染する率が高い。英国では、COVIDは社会的不平等を増幅させている。イングランドとウェイルズでは、黒人の男性は白人に比べ3倍、黒人の女性は白人の2倍、コロナで死ぬ確率が高い。職業や家屋など社会的条件がそのような差を作り出している。人種と疾患を考えるとき背景の社会的階層構造を考える必要がある。この写真は僕に松木俊介の廃墟に立つ若者の画を思いださせる。苦しいが前を向こうとしている。
“Love in the time of COVID19”という題の写真。N95マスクをつけた若い父親が生まれたばかりのセーターにくるまれ眠っている赤ちゃんを向き合う様に抱え、やさしいまなざしを注いでいる。彼はポルトガルのコロナ専門病院のフロントラインで働く医師。母親も医師。コロナがポルトガルを襲った4月第一波の中で子どもは生まれた。父は子の生誕に立ち会えなかった。この写真は娘が初めて家にかえったときのもの。白黒の写真が素晴らしい。まるでレンブラントの絵画のよう。闇のなかで赤子の顔の額から鼻にかけてひかりがあたっている。この子は希望の象徴、と母親は記す。
以上抄出した。世界のすみずみでそれぞれの苦しみを抱えながら生きているにんげんとそのストーリー。一人ひとりがそのストーリーの主人公。世界は広いそして一人ひとりがじぶんの苦しみを抱えている。
80代の女性で独り住まい。3ヶ月くらい前から首が垂れ、両手が上がらない、呂律も回らなくなってきた、という経過で受診。すぐに通院困難となり、訪問診療となる。診断のため検査入院をすすめたが、拒否。診察所見からALSと診断し身体障害者手帳2級の診断書作成した。症状は進行性、喋れなくなり、白板の書字で意思表示するようになる。食事も固形物が入りにくくなる。胃ろうについて説明しすすめたが自分はもう高齢であり、先は短いので手術は受けたくない。残された自分の時間を入院で費やしたくないという。家事は不能、排泄、入浴、衣類着脱、食事など身辺ADLも困難となり、訪問介護、訪問看護導入。民生委員の方が食事の世話をしてくれる。
ある日の診察。「生きているのがいやになります。トイレもいけない、喋べれない、ひとりで起きられない」「何故こんなになったんですか」と問う。
別の日には、「入院は妹やケアマネさんにすすめられるけど、できればここにいたい。でもヘルパーさんをしょっちゅう呼んで何度も来てもらって迷惑かしら」「ヘルパーさんはみなやさしい」「もっと具合がわるくなったら入院できますか」「でも胃ろうや気管切開は絶対にいやです」
衰弱が進行し、うとうとするようになる。そして、ある朝ヘルパーさんが呼吸の止まった彼女を発見した。全経過約2年だった。
ふりかえって、これでよかったのだろうかと思う。ひとりだけで死の不安に向き合うのは酷だったのでなないかとも思う。揺れる彼女の思いを受け入れ、いつも身近に寄り添う存在が欠けていたかもしれない。重度障害者訪問制度を使って24時間介護の可能性を探ったが間に合わなかった。
最近の往診の様子を思いだす。いつも診察の途中で「せんせい、トイレ」と言って立ち上がろうとするので僕が両肘を支えトイレまで連れていった。終わるまで待ち、またベッドまで連れて帰るのである。その枯枝のような腕の感触がまだ残っている。首が前に垂れ、口角から唾液が流れるのを拭うこともあった。在宅だからできた言葉を越えたコミュニケーションだった。
そのひとは今88歳。昔は紳士服を扱う店を開いていた。離婚し子どもはいない。原因ははっきりしないが、ある時から夜になると不安動悸に襲われる。眠れず連日夜間急病センターに行く。診察を受けても身体的には特に問題なく帰される。昼間は家にとじこもる。次の晩も苦しくなり受診する。その次の晩も苦しくなり行くが、「あんたのは心臓じゃない、頭だよ」と帰される。そのうち“常連”になり、行ってもみてもらえずすぐに追い出される。それが2年間続いた。深夜けいゆう病院の救急に行ったが4時間待たされて「もう死んでもいい」と思ったこともある。来るなといわれて、夜の道をふわふわと歩くようになる。
3年前、その彼女が、近所のひとのすすめでふと渡邊醫院を受診した。そしてその後通うようになる。昔の仕事の話を聴き家族の話を聴く。血圧が高いが聴診をして「大丈夫ですよ」と伝える。夜間眠れるように不安を抑える最小限の薬を処方する。「落ち着くまで毎日来てもいいでしょうか」と尋ねる。「いいけど往診でいない日もあるよ」と答えると「先生がいなくても帰ってくるまで待ちます」と言う。不安なときは夜間ケータイに電話してもいいことを伝える。「ここは静かでいいですね。サンルームもあって素敵です」と述べる。
初診の日から5日間、毎日受診した。夜電話で不安を訴えてくることもあった。第2週も5日間連日受診した。毎回血圧を測る。胸の音を聴く。ある受診日のこと、血圧を測るとき腕の下に置く枕をふたつプレゼントしてくれた。自分で作ったという。やわらかい布で綺麗に縫ってある。そのプロ並みのわざに驚いた。
12時までおきているがそのあと眠れるようになったと受診日に報告する。そして「明日もまた来ていいですか」と聞くのである。はじめは食べることも何も意欲がわかなかった。今は食欲がわいてきましたという。夜間急病センターには行かなくなった。
そして初診から2ヶ月後のこと、「ここに来て笑えるようになりました」とニコニコしながら今は遠のいた夜間の動悸、不安の日々をふりかえる。
洋装店に働いていただけに毎回彼女なりのおしゃれをしてくるのに気づく。植物に詳しく毎週変わる診察室と待合室の花を色々批評してくれるようになる。そんな日々が続き、外来受診は週に2~3回で済むようになる。夜間のコールもごくたまにあるだけになった。
1年たち、2年が過ぎ3年目の今年、コロナ禍のなかでも変わらず通院していた。秋になり、膀胱炎のような症状が続き、ある日貧血から座り込んで動けなくなった。病院に短期入院し検査を受けたがはっきりしない。診断のためにさらに精査をすすめられたが、説明が理解できなくなった。難聴が進み、白板での会話を試みるがしばしば混乱する。
病院専門医からすれば、臓器の疾患を正確に診断し治療しようとする、いわば疾患志向型ケア:disease-oriented careである。
それに対して、かかりつけ医としては彼女の生活の諸条件を考えた上で目標を立てることを思う。目標志向型ケア:goal-oriented careである。条件とは、独り暮らしであること、高齢である、家族がいない、高度の難聴で会話が困難、認知症を疑わせる症状の出現、重度のパニック障害の既往、などである。
これら二つのケアのかたちをくらべてみる。病気が簡単なものではなく診断がついても、入院や手術が必要になった場合、とても耐えられないであろう。であるならば、入院、手術ではなく、彼女の生活の諸条件のもとで適切な目標を設定しケアを施す方がよいのではないか。介護申請をし、かかりつけ医、ケアマネージャーのもと訪問看護師、介護スタッフなど多職種でカンファランスを開き、ケアのプランを立てた。それでも、いままでそれなりに自立していた方だけに中々すんなりとはいかないだろう。これから彼女をどう支えていけるか。困難が予想される。
附記:“Goal-Oriented care ― An Alternative Health Outcome Paradigm”: N ENGL J MED MARCH 1, 2012 を参考にした。
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