ニューイングランド医学誌:PERSPECTIVE欄 “You Are Now Entering a Guilt-free Zone”
を読む。
慢性の呼吸苦の患者の病歴をとるのは呼吸器外来では必須のこと。しかし、喫煙(あるいは体重増加)の有無をさぐることが患者に恐怖をもたらすことを理解しだしたのはこの5年くらいである。中高年でBMIが40以上あるいは10代から日にたばこ20本以上の患者がリスクグループに入る。
問題は、医者が彼らに惹き起こす罪悪感である。しばしば喫煙に関する質問へ患者は少なく答えようとする。答が“自分は本数を減らしている。一日にたった5本”といったような時、それは信頼できない。しかし医者がそれを指摘する前に既に患者の中に罪悪感は存在しているのである。
患者によっては医師に叱ることに匹敵する健康上の注意を与えることを望む。彼らは何度も経験し自分を防衛する準備をしている。医者が単に質問するだけで罪悪感と防衛を表面化させる。無益にも彼らは隠すための言葉を使い、罪のない嘘をつく。
私はこのようなやりとりを避けるため、患者に普通の問いを投げかける。「何本すっているんだい?」その時の患者の反応は特徴的だ。下を向く。顔の表情がゆるむ。「君を叱ろうとは思っていないが、君の喫煙について知る必要があるんだ。君の症状の背景を理解する必要があるからね」罪悪感をゆるめていい会話を用意することは正直さを作るだけでなく、信頼関係をも作り出す。私は殆ど常にたばこの話題に入るとき「さて君はまず私のことを知らないとね」と始めることにしている。あれ?といった反応。「君の善悪をいうつもりはないよ」・・沈黙。「でも君のたばこについては話す必要がある、だってそれが私の仕事だからね。君にむつかしいことを押し付けるつもりはないよ」ときに、私は話のはじめをこんな風に変えてみる。「まず君はこの部屋について知る必要がある」・・数秒休み、私は目を部屋の天井や壁にめぐらせる。「この部屋は罪悪感を感じなくてよい場所なんだよ」・・笑顔がみられる。
何度も繰り返すのは演技のように感じることもあるが、私はこのイントロが如何に大事かを認識するようになった。私が働く病院はスコットランドで最も社会的に恵まれない地域、グラスゴーの“rust belt”と呼ばれている。男性の平均寿命は70.9歳、国の上五分の一に比し10年以上少ない。喫煙、肥満、アルコールや薬物依存、自殺をもたらす精神疾患などが原因である。これらの問題をクリニックで探る際に、人の感情、とりわけ罪悪感を扱うのは、思わせぶりのように感じられるかもしれないが、重要なのである。
罪悪感のマネジメントが大事だと気付かせてくれた症例がある。54歳初診の女性。重度の肺気腫だった。呼び入れると、緊張して彼女は座った。タバコについて話す前に、いつも通り、ここは“guilt free zone”であると告げた。彼女は頭を下げ、自分の足をみつめた。
「あなたは既に罪悪感を感じているようですね」と私は静かに言った。
「私はあらゆることに罪があるんです」と彼女は答えた。私は何も言わなかった。すると彼女は自分のライフストーリーを繙きはじめた。10年前44歳で夫は心筋梗塞で死んだ。長男は28歳で自殺した。もう一人の息子はヘロインの過剰投与で26歳で事故死した。娘は今23歳、5歳の孫娘を置いて失踪した。彼女は突然シングルペアレントの役を負うことになった。
彼女はお喋りではない:ありのままに悲劇のストーリーが語られただけである。彼女の罪悪感の中心に駄目な母親という感情がある。一方私のデスクのコンピュータには次々と診察を待つ患者の名前が増えていく。私は彼女に来週また来るように伝えた。彼女のメインの呼吸器の問題は全く相談できなかった。彼女は部屋を出ていくとき、ふりかえり、「どうもありがとうございます。今まで誰も私の話を聴いてくれなかったのです」と言った。
1週後の外来、彼女はリラックスし笑みさえ浮かべていた。
「いかがでしたか?」私は尋ねた。
「先週この部屋を出た後、一本のタバコもすいませんでした」と言った。彼女は個人的なことを再び話そうとはしなかった、我々はそこで彼女の肺気腫の問題にとりかかることにした。
人間の良心は我々とは何者なのかを規定する必要不可欠なものである。我々臨床家は、仕事の現場では患者に罪悪感を与えないように偏った判断に陥らないようにしているつもりである。しかし、私が見たように、罪悪感はあらかじめそこに存在している。それは医者が作るものではない。見かけ上心地よい診察にもかかわらずそれが強められることがある。丁寧であることが罪悪感を和らげることはない。それは単に罪悪感を端に追いやるだけである。
私はすべての患者の告白を聴く者ではないが、あらかじめ罪悪感のない場所を作ることは喫煙問題に限らない良い結果をもたらす。その他にも重要な恩恵が存在する。
以上が抄訳である。
僕の外来や訪問診療の患者さんのなかにも、タバコやアルコールの問題を抱えているひとは少なからずいる。既に罪悪感はそこに存在する、だから必要なのは、さらに罪悪感を強めるような面接ではなく“guilt free zone”であるというこのエッセイの論点は新鮮だった。また、グラスゴーのrust beltの存在、その健康への影響、症例の女性の語りを聴くことで喫煙が止まったエピソードなど印象的。
生活習慣病という病名は、自分で自分の健康に責任を持つという点で、故日野原先生が導入し、画期的な成果をあげたのだが、一方で努力してもうまくコントロールできない方に不当な罪悪感を抱かせる結果になっていないだろうか。考える必要がある。
コロナがもたらした新しい生活様式というものがあるならば、新しい死生観もあるだろうか。コロナによって何がかわったのか、かわりつつあるのか、ふりかえってみる
まず身のまわりから。マスクを常につける身になった。コロナから自分を守り、人をまもることができる、これは確かのようだ。その安心感は大きい。外をひとりで歩いて往診に行くときなども付けていると寒い日は顔が温かい効果もある。
日々の診療はどうか。緊急事態宣言中は通院できない患者さんと電話で診療し処方箋は近くの薬局にファクスした。現在は待合室が密にならないように予約もゆったりととる。小さい待合室だがソーシャルデイスタンスをとるためにひとつおきの椅子に坐ってもらう。自働ドアのスイッチを切り、いつも半開きにし、待合や診察室の窓も少し開け、寒いけれど換気をこころがける。朝、昼、夕方の診療後スタッフが待合と診察室の消毒をしている。頻繁に通院しなくて済むように血圧、糖尿病、高脂血症など生活習慣病で安定している患者さんには、2か月、3か月分の処方をする。熱のある方、風邪気味の方は来る前に必ず電話をしてもらう。看護師が問診をしコロナのチェックをする。それを僕に報告してもらい自宅で様子をみるか、来院してもらうかの判断をする。自働ドアの外側に、発熱時の対処法を書いた案内を貼った。11月から発熱外来を申請し指定を受けた。第2診察室を発熱患者用とした。熱のある方は、来院時間を決め、入り口は別の裏から入ってもらう。僕と看護師はいわゆるPPE(防護用ガウン、マスク、グラブ、フェイスシールド)を装着し第2診察室の隅を囲ったスペースに靴のまま入ってもらい、抗原テスト(定性)を行う。結果がでるまで15分間待ってもらう。近くの方にはすぐ帰宅してもらい電話で結果を伝える。車で来院できる方は隣接のパーキングに僕と看護師が行き検査する。
コロナによって、我々の死生観は変わっただろうか。この秋の第3波は65歳以上の高齢者の死亡が増えている。かつてオスラーは「肺炎は老人の友」と呼んだ。昔から老人の死因として肺炎が多くまた亡くなり方も比較的穏やか、それで“友”と呼んだのだろう。コロナもまた老人の友になりつつあるのか。ひとの死亡率は100%。コロナであってもコロナでなくてもいずれひとは死ぬ。それをはからずもコロナが教えてくれる。“With corona”「死をおそれず、死にあこがれず」(『いつか来る死』小堀鷗一郎)コロナと仲よくしながら第3波を乗り切りたいものだ。
令和という元号は、万葉集に由来し、美しい調和beautiful harmonyを意味するとされる。その発表をしたのが官房長官時代の菅氏であり「令和おじさん」とか呼ばれているようだ。さて、その菅氏、庶民的とされているが、本当はどうなのか。最近は不協和音が目立ち、とても令和(美しくなごやかにまとまる)という雰囲気ではない。3つの問題を3つの短歌とともに提示する。
① “新しき年を迎えて欲するは コロナワクチン 賭博場(カジノ)にあらず”
めざすのはコロナの終息そしてカジノも終息。ポストコロナ時代にカジノは要らない。平和でしずかな横浜であってほしい。
② “総合的俯瞰的なるまなざしに見えくる世界 うるわしからず”
政府の法案に批判的な学術会議6人の任命を菅氏は「総合的俯瞰的」な見地から拒否した。日本学術会議は、戦時中、科学者や研究者が戦争を推進する国家に協力してしまったことに対する深い反省に基づいて設立された。そのため、「政府から独立して職務を行う『特別の機関』」と位置づけられている。政府に反対意見を述べる会員の任命を拒否するのは会議の独立性を否定することである。日本学術会議は国の戦争の悲惨から出発したのだ。そこで討議される学問や研究は“日本はもう二度と戦争はしない”という意思に裏づけられたものである。それを拒否する菅氏の横暴(強いて言えば弾圧)を見のがすわけにはいかない。
③ “犠牲死は無化され自助を説くひとの声さむざむし深まる秋に”
近畿財務局にあって改ざん問題で自殺した赤木さんに対する態度にも菅氏の本質が露呈されている。この犠牲死に対して背をむけたまま、残された妻の悲痛な声にもまったく耳を貸そうとしない。それでいて「まず自助が大切です」などと言う。ひとりの人間としての暖かい声が聞こえてこない。なんともさむざむしい風景である。
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