臨床余録
2020年7月26日
ALSと安楽死

 51歳のALS女性が二人の医師の投薬により‘安楽死’した。主治医ではない二人の医師は嘱託殺人の疑いで逮捕された。女性は8年前ALSと診断され、この7年間一貫して安楽死を希望してきたという。SNSに投稿したことで医師二人と知り合ったようだ。

 独り暮らしの女性は自力で動くのは困難になったが、主治医を中心に訪問看護師、ヘルパーら約30人でケアチームを作り24時間態勢の介護を受けていた。呼吸障害はまだ目立たず、安楽死を望むほどの耐えがたい身体的苦痛はなかったとされる。

 しかし考えてみよう。胃ろうによる栄養注入ということはすでに口から食べるという人間としての最も基本的な欲求が奪われた状態である。また動けないということは排泄はトイレには行けずベッド上で世話されていた可能性もある。自力で排泄の用を足せなくなるという苦痛は他と比較しがたい。さらに言葉を喋ることができずコンピュータで文字を一語一語選び文章を苦労して作っている。

 マーズローの欲求の階層図に照らしてみるとどうなるか。生きることの最も基本的な生物学的必要(食事、排泄、移動など)から生きがいや人との交流などの高次の人間的欲求に至る階層のすべてが損なわれている。治療法はない。さらに進行すれば息が苦しくなる。唾液や痰で窒息の恐怖につきまとわれ、絶えず吸引による苦痛を経験することになるだろう。人工呼吸器を選ばなければそのまま死ぬのを待つしかない。こういう状態に置かれて、安楽死を一瞬でも考えない人はどれだけいるだろうか。

 父親をはじめ、支援のスタッフたちは、彼女が安楽死を望んでいたことを知り、一様に驚きを述べる。命にかかわる痰の吸引を交代で行い、友人たちはクラシック音楽会を企画し会場に連れだしたり、音楽療法家を自宅に招いたりして彼女を支えた。どんな状況でも患者が生きる選択ができる社会を目指し、生きる意欲を支えられると信じていた。

 ここでまた考えてみよう。さいごまで生きることを支える十分な医療と介護が与えられていたようにみえる。一方で、生きていることの辛さや安楽死などの話題を口にだせる、自然なオープンな関係が患者と家族やケアスタッフとの間にあったかどうか。死にたくなるなどといった弱音は吐けない雰囲気になっていた可能性はなかっただろうか。ただ、主治医には死ぬために治療を中断する相談をし、胃ろうからの栄養補給の減量を求めていたが、思いとどまるように説得されていたという。ここから先はどういう経過なのかは不明であり、憶測は控えたい。

 次回、僕自身の患者さんのことを述べてみたい。

 

2020年7月19日
在宅医療年間報告

 毎年7月になると前年の7月から今年の6月まで1年間の在宅医療についての報告を関東信越厚生局にすることが義務付けられている。在宅医療支援診療所としての実績を振り返る機会となる。

 在宅訪問診療をしている人で過去1年間、亡くなった方は24人。そのうち在宅で看取った方は21人であった。在宅で看取るということは患者(家族)と在宅医との間に人間的な信頼関係があるということである。この関係なくして患者を在宅で看取ることはできない。そこから、在宅医療の質の評価にこの在宅看取り率が使われるのである。毎年90%前後の在宅看取り率である。全国平均からして悪くない筈だ。しかし、最近、僕自身は在宅の看取りを目標としつつ、患者や家族の満足度(この言葉もやや曖昧だが)という要素も大事だと思うようになった。在宅療養をしていてさいごはさまざまな要因から病院を選択する患者や家族もいる。当然のことだが、その選択がより高い満足度をもたらすなら必ずしも在宅にこだわる必要はないと思う。

 最近の傾向として、慢性心不全の状態でさいごを迎える人が多くなった。この1年でも8人いた。ちなみに癌の方は5名であった。

 特記すべきは、入浴中とトイレでの死亡が各1名いたことである。二人とも独居で訪ねた家族や訪問看護師が発見し僕に連絡。すぐに訪問しどちらの人も心臓病があったので異状死ではなく病死として心不全という診断書を書くことができた。犯罪性は全く考えられず警察を呼ぶ必要はなかった。もう一人入浴中の死亡があったが僕への連絡と同時に119番通報されたため警察が関与することになった。

附記:警察が関与し検屍となると神奈川県の場合、東京(公費でカバーされる?)と違ってかなりの金銭的負担が生じるということを最近知った。

 

2020年7月5日
コロナ世代?

 The lancet june27 2020 Editorial Generation coronavirus?を読む。

 コロナによる破滅的大災害が世界的に続いている。グローバルなつながりが、気候変動をもたらし、広範な経済格差を産み出し、反科学的傾向も加わり9百万人の感染者、50万人の死者をもたらしている。子供はかかりにくく、かかっても経過はおとなより良好ではあるが、その安全で安心であるべき日常にコロナは重い影を落としている。21世紀の子どもたち:digital natives(デジタルネイテイヴ)は危機的な地球環境に暮らし、今や全世界的なパンデミックに襲われている。この動揺する環境のなかで生きる若者は新しい健康の問題に付きまとわれることになりコロナによる喪失の世代、generariton-c(コロナ世代)と呼ばれるであろう。

 若者たちはデジタル環境とアナログ親世代との間で機敏に動くことが期待される。健康な若者や子どもでもこの急激な変化により害を受ける可能性がある。2020年4月まで90%の生徒は学校にいくことができなかった。感染の広がりを抑えるための学校閉鎖は議論を呼び、明らかに両刃の剣であった。

 若者の教育の頓挫は短期的には彼らの幸福を奪い、生活や人生全体にも影響するだろう。学校は社会的な欠落を代償しようとする。多くの子どもにとって学校に行けるということは食べられるということなのである。栄養障害が死亡率に大きく関係する南アフリカの子どもの75%は一日の1食は学校で与えられる。アメリカや英国でも食事環境が貧しい家庭が増えている。ラテンアメリカのように社会福祉が限られている国ではコロナによる経済破綻から子どもへの影響(子どもの労働や搾取など)がではじめている。身体的、性的、情緒的子ども虐待が増えている。精神的な問題も大きい。子どもを守るセーフガードシステムが作られなければならない。ソーシャルデイスタンスは比較的大きな子にはよいが、小さな子には却ってよくない、またデジタルデバイドにも目が向けられるべきである。

 コロナの若者や子どもに対する影響は医学界からの反応は乏しい。アメリカ小児科学会ははっきりした声明をだしていない。英国では1500人の小児科医が首相への公開レターの中で学校を再開する明らかな計画がないと子どもたちの人生に傷を残すリスクがあると述べた。

 2020年2月、WHO-UNICEF-lancet commissionで詳しく述べられたように、子どもや若者への投資が、従来のものを越えてなされた。失われたもの(ワクチン、食べもの、検査など)を補充するのみならず、将来の子どもや若者にふさわしく必要なものを用意する、その足場を作り、持続的に補充していくのは大人の政治家の責任である。Gen Cという略語が単にコロナウイルスを意味するだけではなく、それ以上のものを示すことができるように、子どもや若者がそのどのステップにも関われるようにするべきである。

 以上が抄訳である。
 僕は1960年代に青春を過ごした全共闘世代であり、団塊の世代とも呼ばれる。僕の子どもたちはポスト団塊世代。Generation coronavirus(コロナ世代と訳した)は更に下の世代になる。2020年春、学校閉鎖の影響をこうむった世代である。

 新小学校1年の僕の孫は学校は閉鎖され行けないが、親は働いているので学童保育に行っていた。そこでは他の子と一緒に遊んだりしているようなので、学校の過剰防衛(あるいは教育放棄?)に疑問を感じた。今はようやく毎日登校しているが、マスクをつけ友達とは距離をとりお喋りはだめ。給食のときマスクをとるのでやっと先生の顔がわかったという。この子は1年生なので小学校はこういうところとして体験しているのだろうか。
 それにしても子どものからだどうしが触れ合わない遊びって何だろうと考えてしまう。かくれんぼ、なわとび、鬼ごっこ、ボール遊び、砂遊び、水遊びなど二人以上の集団での遊びは皆からだの接触を伴うものだ。そして子どもから遊びをとったら何が残るのだろう。
 だが日本はまだよいのかもしれない。上に述べられているように、世界では貧困、栄養不良、難民、子どもの労働、搾取、虐待などの被害にあっている子がコロナの影響を受けて状況が悪化しさらに苦しんでいる現状がある。

 コロナの今、あるいはコロナ後の社会を考える際には、子ども中心(child-centred policy)で行かなければならない。我々は子どもにとってより良い世界を作ろうとしているだろうかと問わなければならない。子どもは未来である。子どもを大事にしなければ世界の未来はない。そして今の学校のやり方が子どもをほんとうに大事にしているのか考えなければならない。
 子どもが感染したら子どもは抵抗力があり大丈夫でも周囲の老人に感染させる、だから子どもにマスクや距離が必要、遊べないのは仕方ないとされている。老人を大事にするのは日本のよい風習だが(僕も老人だが)、そのために子どもを犠牲にしてよいとは思えない。

 

 

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