臨床余録
2020年6月21日
コロナ時代のコンパッション

 6月20日ランセット:art of medicineを読む。 タイトルは“compassion in a time of COVID-19”

 コロナパンデミックへの対応の成否はまだでていないが、病気のもたらしたものは多くの国で明らかになっている。経済的落ち込みで何百万人が仕事を失う事態はかつてないものだ。多くの感染者、そして死者の数。社会的、経済的ストレスから精神的問題で苦しむ人々が何年も続くであろうと予想される。
 コロナはまた隔離された人や医療に携わる人々への非常に大きな協力的な行動を生み出す契機ともなった。人々の会話のなかでコロナのために亡くなったひとへのエンパシーが明らかであった。我々一人ひとりコロナにかかりうるのであり、その理解によりコロナは人びとに結束をもたらしたといえる。彼らは我々かもしれないのである。

 感染症は我々の健康というものが互いにいかに密接に関連しているかというモデルになる。ワクチンを打ち、自分たちおよび社会を守る。身体的距離を保つ。それを守らないと非難される。社会的著名人もメデイアで謝罪を余儀なくされることになる。
 ウイルスは人を差別(識別:discriminate)したりはしない。だからひとは皆身体的距離を保つことで自分を守るのである。我々のエンパシー、つまり我々もまたコロナにかかることを想像する能力、これが健康を守る強力な道具となる。
 しかし、我々は皆同じように差別なく病気に苦しむというのは本当だろうか? コロナによる影響は、差別なしというに程遠く、固定化した健康の不平等を反映するという証拠が明らかになりつつある。財産、金、力を持つ者は身体的距離を保つことができ、家で働くことができ雇用を維持できる。医療へのアクセスもよいのでコロナの犠牲になりにくい。コロナは差別するのである。悪い住宅環境、低い収入、不十分な教育、不適切な食習慣などを持つ人々はコロナの犠牲になりやすいのだ。

 エンパシーはここで頓挫する。健康という文脈でのエンパシーは病気のリスクを感受することに依拠している。我々自身病気にかかることを想像できるからである。疫病から自らを守るため都市をシャットダウンし経済的に落ち込むことにも耐えようとする。
 しかし、このような努力が健康格差(health divide)を作り出すことになるとしたらどうだろうか?  これが不可避的に健康的に脆弱で社会の底辺の人々への経済的ダメージをもたらすとしたら? そしてこれがさらなる健康格差を生み、多くの人の精神的にも身体的にもこの先何年も悪影響をあたえるとしたら? このような結末をどう説明するか、どう我々の思考のなかに盛り込んでいけるだろうか?

 コロナのような新奇の恐怖を抑えるためにどう行動するかを考える背景にコンパッションという概念が要請される。コンパッションはエンパシーを越えて広がる。エンパシーは我々自身が傷つく場合があるので行動の動機にはならない。コンパッションは我々が生きる社会が不正義で価値がないと思われるとき行動を促す。マーチンルーサーキングはコンパッションについてよく語り、例えば物乞いにコインを投げるのではなく物乞いを生む構造を変えることを我々に課した。コンパッションは我々に世界を他者が苦しむゆえに今のままからよりよい構造に作りかえることを要求する。
 それはどんな世界であろうか。それは正義(justice)が支配し富の平等な分配が基礎となる世界である。コンパッションをもとに健康へのアプローチが可能となり人々への善が優先される。健康が教育や郵便や交通と同じように扱われる。すべての人のための集約的投資による総体的共通資本の大事な部分を担うことになる。(「医療」や「教育」は「社会的共通資本」であり経済利益が介在してはならないという宇沢弘文の理論を思いだす:訳者注)
 これは単なる理論と思われがちだが、このようなアプローチは健康への具体的な示唆を与えてくれる。ある意味で現在の医師や医薬品への過剰な投資は健康への視点を私的物資として扱い、アメリカのようにヘルスケアへのアクセスが普遍的ではない国にあってそれを売買するものにしている。
 しかし、我々が買うことができるヘルスケアは我々が病気になってからである。そしてコロナの今買うことができるのはウイルスの伝播を生物学的命令により抑えこむことである。しかし我々のするべき焦点はこのような挑戦に対して抵抗力をつける(resilient)ことである。我々の目標はそもそも病気にならないことである。その予防的条件として、安全な家屋、良質な学校、生活できる賃金、性差の解消、きれいな空気と水などが必須とされなければならない。

 コンパッションのレンズを通して健康を考えることに慣れるならばコロナに対する我々のアプローチは変わるであろうか? イエスである。まず第一に、予防可能な疾病への不均等な負担を減らすことで人々の健康を増進するための長期の投資をするだろう。第二に、コロナへの我々の対応が等しく情報化されるようにし、情報がないためにどうしたらよいかわからないことがないようにする。第三に、国による違いを認識すること、資源の乏しい国への疫病の影響を考え、長期に不正義が行われていることなどを認識すること、これらの国のために我々の出来る努力を倍増することである。
 確かに今は注意深い反省と健康への基礎的アプローチとしてコンパッションにおける再投資が必要である。このようにコンパッションに注意を喚起することはセンチメンタルなことではない。それは、それなしではすべて健康というものが不可能になる、現実的な善を指摘することに他ならない。ある意味で、コロナは健康な人間と健康な世界は同じだということを示してくれた。(ひとりの健康な人間なくして世界の健康はない、その逆もしかり。宮沢賢治的!:訳者注。)そして健康な人々と健康な世界はどちらも、その健康の中心にコンパッションをもつことにより測り知れない力を得ることになるのである。


 以上が抄訳である。僕の感覚ではCompassionは「共感」Empathyは「感情移入」という訳になるが、英語のままにした。コロナで苦しむ人たちをコンパッションというレンズを通してみるとき、不平等、貧困、差別という社会の矛盾があらわになる。つまりコロナは人を差別なく襲うのではなく、社会的に不利な状況に置かれている人たちを識別(差別)して襲うというのである。コロナは単に医療にチャレンジするだけでなく社会の不平等、差別の構造に光をあてる。その矛盾した構造全体に対する共感がコロナ時代のコンパッションなのである。

 

2020年6月14日
コロナとハリネズミ

 “ハリネズミの 夫婦の適度な 距離感が 外出自粛で 乱されている”(箕輪富美子)

 これは6月14日朝日歌壇、永田和宏欄の第一首目に採られている短歌である。永田氏は「コロナ禍の生活は、これまで時間をかけて築いてきた夫婦の距離感にも変更を。」と短評を加えている。

 ハリネズミは別名ヤマアラシ。体の表面に尖った針状の毛をもつ小さな動物である。この歌の作者はおそらく“ハリネズミ(ヤマアラシ)のジレンマ”を念頭にこの歌をつくったのではないだろうか。ハリネズミの家族は寒くなるとお互いに身を寄せ合って暖かくしようとする。しかし近づくとお互いの尖った針のような毛でつついてしまうので離れる。しかし離れると寒いのでまた近づく。でも痛いので離れる・・。これを繰り返すうちに何とか寒さをしのぎ針で刺すこともない適切な“距離”をとることができるようになるという。これをハリネズミ(ヤマアラシ)のジレンマという。ドイツの哲学者ショーペンハウエルが述べた言葉であり、のちにフロイトが取り上げた。ハリネズミだけではなく人間にも適切な距離というものがある。昔(45年も前)、精神科の講義のなかで習い、面白いと思った。

 さて、冒頭の一首だが、普段は夫は仕事に毎日出かけて昼はいない、ところがコロナ状況で夫はテレワークで毎日家にいる。いない筈の人がいるということでそれまでは保たれていた夫婦の微妙な距離感が狂うことになる。それ以上詳しいことはわからない、しかし何とも言えずにがい妻のつぶやきが聞こえてくるようだ。

附記:もともとハリネズミのジレンマに苦しむ人、あるいはひきこもり傾向の人にとってはコロナのもたらすソーシャルデイスタンスや自粛という言葉はもしかすると親和的に働いているのではないかとも思う。

 

2020年6月7日
シアトル最前線

 ニューイングランドジャーナル2020年5月28日版、巻頭エッセイを読む。

 “Harnessing Our Humanity-How Washington’s Health Care Workers Have Risen to the Pandemic Challenge ”(「我々の人間性を活用すること‐ワシントン州の医療従事者はいかにパンデミックに立ち向かったのか」)

 2020年3月始め70代のB婦人は老人ホームからシアトルハーバービューメデイカルのICUにCOVID19の疑いで運ばれた。急速に状態は悪化し中心静脈、昇圧剤など通常の処置がとられた。死はすぐそこに来ており、エンドオブライフケアを施すことは困難であった。彼女はナーシングホームに数日間隔離されていたのですでに家族は彼女に会えないことで強い苦しみを味わっていた。病院での厳しいルールはベッドサイドにいる時間を制限した。

 このつながりを断たれた感覚(sense of disconnectedness)は、だがB婦人に特有なものではなかった。「我々は、どうしたらこれらの患者にgood deathを与えることができるか考えています」「残された日々を孤独に隔離されて過ごすのはひどいことです」シニアレジデントはこう語る。

 このような倫理上の苦しみを認識するがゆえに、covid19の患者が入院したらすぐに緩和ケアサービスをはじめるようになった。しかし患者の終末期にいかにベストのケアを与えられるかは、アメリカの流行の第一波をこうむったシアトル医療従事者にとっての数知れないチャレンジの一つだった。課題は広範にあったが、その背後には基本的な緊張があった、covid19の患者を効率的にケアしながら我々、他の患者そして地域を防御することである。フロントラインの医療従事者は常にこの異常に入り組んだ状態に対処するだけでなく、情緒的な不協和音を管理する必要があった。つねに変化し矛盾するガイダンスによるカオスを伝え、検査やPPE不足、つぎに来るものの不確かさによる恐怖を描写し、シアトルの家庭医は「波が壊れそうなのだが、その波がどっちにむいているかがわからない」と述べる。

 シアトルフロントラインの医療従事者との会話から得たひとつのテーマは明確なリーダーシップとガイダンスである。一人の救急医は「恐怖と不確かさが支配するとき、最も大事なことはプロトコール」と語った。機敏に学ぶ力を維持しプロトコールをすばやく作ることである。しかし治療に必要な物品の調達がうまくいかないときプロトコールの変更は不安を引き起こす。マスクが不足したときCDCが代わりに大型ハンカチ(bandanas)を使うようにいってきたときの医療従事者の狼狽がそれを示している。

 最高の医療に関する明確なガイダンスをスタッフに与えるためにうまくやりくりして、不安を和らげ、物品の不足についても透明性を保つようにする。例えば、中国のやり方をみると、PPEをひろく使用することでスタッフの感染率は劇的に下がることが分かっている。普通なら、エビデンスのないガイドラインは拒否されるのだが、今は手にはいるものでやるしか選択肢はなかった。

 これらの制限が患者のケアにどう影響したか。シアトル、ハーバービュー病院の救急医は難題のひとつは診断のための検査であったという。例えばありふれた胸部レ線にしても検査技師は数が限られたPPEを装着しなければならず装置は検査後消毒しなければならず他の患者にはすぐには使えなかった。しかし看護師が工夫してベッドを90度に立て検査技師と機械が部屋の中にはいらなくても撮れるようにした。

 しかし、CTスキャンはさらに難しかった。検査後消毒に時間がかかった。検査する患者は重症が多く、検査中に悪化すると大変なことになった。吸引する痰はコロナウイルスを含んでいると思われるからである。Covid19ではなく脳卒中の患者があとでコロナ陽性であると判明することもある。

 PPEの不足と医療従事者の死亡者の急増は恐怖を引き起こし、スタンダードケアの再考を促した。我々はコロナの患者の救急の処置をするべきなのか。適切なPPEがなければ患者の挿管は拒否できるのか。医療スタッフの出入りが激しい部屋でせん妄状態の高齢者の緩和ケアをベッドサイドで行うべきなのか。一人の患者のニーズに応えることで次の患者を診られなくなるほど我々を疲れさせるとき、患者のニーズを我々のそれの上に置けというプロフェッショナルとしての明るい声明は、従うことがより困難になる。

 シアトルのスウィーデイッシュメデイカルセンターの若い医師が重症コロナにかかったとき、スタッフへの脅威は大きかった。救急医は疫病をマラソンにたとえ、我々はまだ2,3マイルしか走ってないと言った。とりわけ深刻なのはレスピレータの不足だった。そして機械があってもそれをマネージできる人材が不足していた。

 機械の不足に加えて、家族が病院に来て患者に十分な共感や慰めを与えられないことも大きな問題であった。

 スタッフを感染から守るのにPPEは必須である。でもPPEがそろったにしても広がる恐怖に面して働くスタッフへの寄り添う気持ちが必要である。不適切な防御を懸念するなかで、我々が愛する他の人々に感染させ死に至ることのあることを思うとき、最前線で働くスタッフに恐れるなと言うことは彼らに息をするなというに等しい。しかし共感というものが命を救う試みについてくるものであるにしても、我々の心を打ったのはワシントンの最前線のもつ本質的な輝くばかりの人間性(humanity)である。

 シアトル東部、この国のはじめてのコロナ患者を受け入れたエバーグリーンヘルスの環境サービス課のリード氏は、あらゆる環境の消毒とともに気をつかったのはスタッフの不安への寄り添いである。彼のやり方が各部署に浸透していた。スタッフの一人が掃除の途中パニックをおこしたが彼がやさしく付き添い一緒に仕事をすることでのりこえることができた。

 訓練医はコロナの前線には出させないようにしていたが、医療スタッフの不足が懸念されると、すぐにそれは無理だということがわかった。研修医の健康を考え、研修プログラムではコロナ患者には接しないことになっていた。しかしながら、殆どの研修医は前線にでることを希望した。他の内科スタッフも休暇を取りやめ援助を申し出て来た。この溢れるような支援は驚くことではなかった。「我々医療従事者はこのような時(moments)のために医療の道に入ったのだ」というのだった。

 エバーグリーンヘルスに呼吸不全で入院している70代の患者は地域の状況を知り、回復不能の状態で人工呼吸を受けている自分を振り返り、家族に緩和ケアに移る希望を伝える。(レスピレータを若い患者に譲るためであろう:訳者加)家族は了承しモルヒネが投与され抜管。看護師に手をにぎられながら息をひきとった。

 疫病が世界に広がり、これからも我々は医療資源の不足に苦しみながら、患者や地域をそして我々自身を守ろうとするだろう。しかし、COVID19に対するシアトルでの戦いが我々に思い起こさせるように、プロフェッショナルな精神はこれからも抑え込まれることなく進み続けるであろう。

 以上が拙訳である。一部省略したり意訳したところもある。上に出て来るシアトル、ハーバービューホスピタルは僕が若い頃、数日間だが神経病理学の勉強にいったことがありなつかしい。
 著者はニューイングランドジャーナルの記者であり、アメリカではじめてのコロナ患者が出たシアトルの医療従事者に取材した形になっている。いくつか印象に残った箇所がある。まず、正体不明の疫病に対する恐怖と不確実性が支配するとき一番大事なことはプロトコールだと言い切るところ。プロトコールとはそれに関わる全てのメンバーが必ず守るべき指示事項、コロナでいえば患者評価の仕方、感染防御の中身と手順といったところか。そしてつぎに、医療スタッフが足りないところに多くの若い研修医や地域の医師たちが協力したいと手をあげるところ。こういうときのためにこそ自分たちは医者になったのだというところ。そうなのだ、そのためには自分の命をかけてもよい、そういう瞬間があるということは、医者として幸運といってよいのかもしれない。
 さいごにさりげなく書かれているが治療の見込みのない高齢患者がレスピレータを返上するところ。タイトルのharnessing our humanityをどう訳すか考えたが、我々の中にある人間であることの意味、つまり人間性を引き出し活用すること、とした。カミュの『ペスト』の医師リウーの「誠実さ」に近いかもしれない。

 

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