ある90代の男性のことである。それまではひとりで暮らしていたが、約半年まえに転倒し骨折。入院手術しリハビリを経て老健施設に入った。しかし心身の虚弱が進み誤嚥性肺炎で再び入院。禁食し抗生剤の点滴治療で改善する。だが嚥下訓練を経て食事の経口摂取を始めると再び発熱、呼吸障害出現。これを数回繰り返し、急速に衰弱がすすむ。
そしていよいよ「治療は限界」というところにきた。家族(娘さん)が説明を聴き、父の最期は自宅で看取る決心をする。コロナ状況のため最期のときを病院では付き添うことができないのである。病院の紹介状をもって往診の相談にみえた。どれだけできるかわからないが自分の父親の最期は家でみたいと述べる。その真摯な話しぶりにこころが動く。
退院したその日の夕方、往診医の僕と訪問看護師、ケアマネージャーが娘さんとともに患者を囲んだ。挨拶に患者の反応はわずかであるが、眼を少し開け表情は穏やか、娘さんの家にもどり安心している様子がみてとれた。微熱があり痰がらみの咳がときどきみられ吸引が必要だった。看護師が娘さんに吸引のコツを教える。僕は体を側臥位にすることで体位性排痰を促し吸引回数を減らす指導をする。血圧、脈拍、呼吸数は正常だが酸素濃度は測れなかった。看護師と少量の点滴の予定をたて、娘さんとは、病院では退院前一滴の水も口にできなかったのでできればゼリー状の水分を少しずつ味わってもらう相談をした。
2~3日後に訪問入浴の計画をケアマネがたててくれた。しばらく看護師が連日訪問しその様子で僕も往診する約束をして退出した。そしてその晩は2回ほどゼリーを娘さんが口に運び味わうことができたという。その翌朝である。娘さんがベッドに行くとすでに息を引き取っていた。こんなに早く、と娘さんが思うのは自然な反応だ。そして、こんなに早く亡くなるのも自然なのである。
そしてひとつの思いが僕の胸に小さな水たまりのように残る。
前の日の夕方、患者さんを囲んで、どうしたらお父さんによいケアができるか皆で話し合った、そのプランの大部分は実行に至ることはなかった。しかし、父を包みこむように皆で話し合ったその時間はご家族にとっても僕らにとっても、決して無駄ではなかった。そんな思いである。たった一日ではあったが父は娘のもとに帰ることができた。穏やかな旅立ちだった。
NEJM May7: PERSPECTIVE欄 Fear and the Front Lineを読む。
最近しきりに恐怖について、どれだけウイルスと同じように振る舞うか考えている。知らないうちに人から人へ、空気や新旧のメディアを通して、我々が気づきコントロールするより早く広がる。それはウイルスと同じ症状、発汗、動悸、吐き気、ふるえ、そして暗い部屋で毛布をかぶって寝ていることへの強い希望などを引きおこす。いったん恐怖がひとに感染すると、それから逃れることはむつかしく、人にうつることはひどく簡単なのである。
2014年のことだった。私はエボラ出血熱が流行っていた中心から遠く遠く離れたアイルランドの小さな病院の新任医師だった。病棟や街には不安が満ちていた。バスや電車の中、皮膚の色か違うだけでうろんな目つきでみられ、一度咳でもしようものなら皆あとずさりするのだった。病院は来ないことを祈りつつ疫病の到来に準備していた。会議につぐ会議、ガウンの着方、脱ぎ方、正しい装備の有無を話し合った。救急室から検査室への空気孔の入り口にエボラの場合は血液をシュートに入れないことという注意書きが貼られた。
患者が来たらどうしたらいいんだ?不満噴出のスタッフミーティングのあとレジデントが私に聞く。
私は、病棟の壁に並べられた抗エボラブーツを眺めながら「その日は私も具合が悪く入ってくるかもね」とため息。
そして、それがなければ普通の日、若い患者が救急に来る。彼の癌は最高に重度であった。肝臓は癌で岩のように腫れ、骨や頭蓋に転移していた。痛みでのたうち回る彼にできることは緩和的ケアのみであった。
入院2日目、彼が高熱をだした。
エボラの可能性は低かった。彼の祖国では流行は下火になり、3日以内にWHOは終息宣言をだすとされていた。しかしガイドライン通りに隔離治療をすることを仲間と話しあった。
そして、それからである、あたりの雰囲気が変わり始めた。
噂が静かな池の上に落ちた石のまわりにできるさざなみのように広がる。エボラの可能性は低いことを説明する私には、人の顔が灰色に変わり、その眼はガラスのようになるのがわかった。上級医師を含め他部門の医師から、安全が心配なので患者の相談にはのれないと言われた。
私は運がよい、あるいは単に無謀なだけか、でも感染のリスクからは遠い筈という知識と、かれの左上肢に明らかになった蜂窩織炎が熱の原因として考えられ私の恐れを減らした。ウイルスは一カ月も無症状の筈はなくその後飛行機にのるため600マイル移動することはできない筈である。私は自分の命をかけて仕事をしている、しかし人に同じようにするようには言えない。
まだ午前5時である。防御服に身を包み、彼の血栓で膨れた腕に点滴を試みては失敗を繰り返す。病室にいるのは自分ひとり。何かを叫び出しそうになる。彼は痛みにうめき声をあげるが、半分眠っている。
午前8時、デイシフトが到着するが、事態は悪化の一途をたどる。看護師たちは病棟倉庫に身を隠し、脅える医師たちは帰宅を急ぐ。看護師長が一人のナースに指示し防護服をつけ死にゆく患者のケアを始める。
ほとんどのヘルスケアワーカーたちは困難な状況で勇敢に働く人たちであることを私は知っている。しかし、疫病の爆発で我々が患者のケアをする際に恐れるのは自分の命や健康のみではない。我々が感染することでそれを家庭に持ち込み妻や子供たちが犠牲になること、それが最も恐れることである。適切な教育、トレーニング、スタッフやその家族を守る緊急のプランなどの準備がなされないと、恐怖が病院や地域を暴徒のように襲うであろう。もし我々がいかなるウイルスであろうと恐怖や無知と積極的に思慮深く戦う準備をしないならば、そのような感染流行を一度もおこした地域でなくとも恐怖が人々に害を与えるであろう。恐怖の伝播は人種や格差や言語の違いと絡み合ったときさらに悪い結果をもたらすであろう。
午後5時、彼の検査結果がかえってきた。ネガティブである。疑いは晴れた。病棟内のライフがゆるみはじめる、心拍はさがり、人々に笑顔がもどり、すべての物事はまるで悪い冗談であったかのよう、ウイルスの恐怖は引いて行った。
午後6時。患者は亡くなった。
以上が抄訳である。
恐怖もまた感染をする。身につまされるメッセージだ。その恐怖と戦うにはどうしたらよいのか、筆者は正しい知識、教育、訓練、スタッフへのサポートをヒントとしてあげる。日本でも新型コロナ感染症で似た状況にある。恐怖は一種のウイルスなのである。
日本医事新報に新型コロナ感染症に対してかかりつけ医はどうあるべきか、東京都の試みが紹介されている。東京都医師会長の尾崎氏は、新型コロナ感染症の疑いの人がすべて大病院に殺到し医療崩壊を招くのを防ぐため、開業医が中心になって作った軽症の方のPCR検査をするシステムについて述べている。病院とかかりつけ医の役割分担を明確にすることで終息への道を整えたいとする。
日本はPCR検査数が他国に比べ少ないことが指摘され、いずれそれが感染爆発、医療崩壊をもたらすとされてきた。しかし検査で陽性であろうと陰性であろうと肺炎症状があれば救急入院させ必要な医療はなされてきたのではないか。むしろ無症状や軽症で検査陽性例が重症例と同じ拠点病院に押し寄せたことから医療崩壊寸前に至った。現在は神奈川モデルのように軽症、無症状例は自宅あるいはホテル隔離となり医療崩壊は免れている。
一方、疑い例の多くは検査はせず自宅待機とされてきた。闇雲に検査をしないのは、この検査自体の持つ限界からであると僕は理解してきた。つまり感度70%ということは偽陰性30%。本当は陽性なのに陰性とされるひとが100人のうち30人いることになり、この30人は安心して感染を広げてしまうかもしれない。その危険性をどう考えるかである。また陰性なのに陽性とされる疑陽性も割合は低いが出る。その場合は本当は陰性なのに病院に隔離されますます病床数が減ってしまうことになる。
インフルエンザと違って陽性でもすぐ薬があるわけではなく、症状が軽ければ自宅療養となる。つまり検査が陽性でも陰性でも療養の仕方は変わらない。
病院の代わりに軽い患者のPCR検査をすることがかかりつけ医にとって一番大事なことなのではなく、自宅療養の間の患者の不安を受け止め24時間いつでも相談にのれるように控えていること、それがかかりつけ医の一番大事なつとめなのではないかと思う。
The lancet The art of medicineを読む。タイトルはThe worst is not, so long as we can say“ this is the worst”
「歴史上疫病は戦争と同じように数多くやってきた、しかも疫病はいつも人々の不意を襲う」そう医師は述べる。散発的ないくつかの死ののちにも「とても現実とは思えないほど危険が残っていた」「疫病であるはずがない、それは欧米から消え去った」と小説の登場人物の一人は語る、はじめネズミたちが、ついで人々が死にはじめる。医師は答える「そう、皆知っていたのだ、死者以外はね」感染はまずビジネスにとりつかれた都市部に来た、そこでは富の追求が唯一の目標。当局は街の風評を恐れて出足が遅く行動にすぐにうつれない。高熱が続きベッドが汗でびしょびしょになるまで、官僚は緩和策を考えようとはしない、街を隔離する以外に方策はない:「我々は街の大半が死者で埋まるようなことはないと考えるべきではない、やがてそうなるのだから」
ビジネス界は閉鎖されることに不満を述べる。ソーシャルデイスタンスは守られない。買いだめする者、つけこんで暴利をむさぼる者が現れる。すぐに病院は患者であふれ、医療物資は不足し、ありあわせの隔離テントが作られ、警察はベストをつくすが時に高圧的となる。登場人物は不気味なほど近しい、知事ははじめ否認する、しかし疾病が急速に拡大するとメデイカルアドバイザーに従わざるを得なくなる、臆病者は都市封鎖(ロックダウン)から逃れようとする、牧師はこれは天罰であると説教する、ニヒリストは何ヶ月も部屋にひきこもり、心は荒れ、道路に向け銃を乱射する、哲学者は我々は皆内部に感染するものを持っているという結論に達する。「我々はいつまでも我々自身に眼をむけていなければならない、不注意にも他者の顔に息を吹きかけ、感染させないように」自然なのは微生物である。その残りの純粋な健康というものは注意深く決してゆらがない人間の意思の産物である。
我々は証言する、医師の目に触れたすべてのことを。その仕事にむかうとき、昼夜をわかたず、何ヶ月も、心が引き裂かれるような選択をしながら、恐ろしい光景にぶつかりながら、へこたれることなく、おのれを無にし、疲労困憊の極で、しかしいつも人間的に、決して絶望することなく働いているということ、それを証言する。彼はヒーローと呼ばれることを望まない:「これらすべての行為はヒロイズムなんていうものではありません」「変な考えと見えるかもしれませんがペストと闘う唯一の方法は誠実さ(decency)ということです」誠実さとはどういうことなのか。「自分の職務を果たすことです」(Doing my job)そう医師は答えるのである。
アルベール・カミュの「ペスト」は1947年に出版された。小説の腺ペストがナチズムの感染のアレゴリーとして意図されているとみる伝統的な見方がある。カミュはフランスレジスタンスのヒーローだった。しかしこの解釈はいつも私を困惑させる。カミュは小説の舞台をコレラの爆発的に発生したアルジェリアの港に設定した。彼はそこでペストの研究を行った。ロックダウンのもとで私はこの本を再び読み、主題をフロイト的に解釈するのではなく、小説「ペスト」はあくまでペストについて書かれたものと考えたい。
戦争と同様に、病気の流行は人間の精神から最もよいものを引き出す力を持つ。これはCOVID19に対する人々の勇気や友情の中に、産業や発明、世界中のヘルスケアワーカーの中にみられる。対照的に、作家は無力を自覚する。家に独りでいることは彼らの普段通りのことであり、ソーシャルデイスタンシングは何も新しいことではない。世界が停止状態になり、より多くの人が本を読むようになるという思いのなかで慰めを得るかもしれない。長編をゆったり読むという死につつあるアートは生き返るであろう。しかし、我々のロックダウン読書リストに『ペスト』は入っているであろうか。ある者にとっては、このような物語は骨身にこたえすぎる、ジェーン・オースチンの方が好ましいかもしれない。だがカミュはこのような時にこそ必要な作家だと思う。長い歴史を通して人は繰り返し疫病を切り抜けて来た、生き延びる人間の能力を証する作家の記録があり、自然の簡素な美しさや愛の本質など本当に大事なことを知り学ぶことのできる、そのような希望が残されている。このことをペストが終息していくときの格調高い次のような結びの言葉のなかでナレーターでもある医師リウーほどうまく語れる者はいないであろう:
山をなす死体、救急車のけたたましい音、運命の名のもとに過ぎゆく警告、恐怖と反乱の絶え間ない波、これらの中にあっても、見捨てられパニックを起こした人々の耳に故郷へともどるよう促す声が鳴り響く。それは、息の詰まる閉塞した街の外側、丘の上のかぐわしいやぶのなか、自由な空、海の波のなか、そして愛の保護された場所にである。そしてそこにこそ失った故郷、彼らが取り戻すことを願いつづけた幸福というものがある筈であった。
以上が、このエッセイの前半部分の拙訳である。新型コロナ感染症に世界中が揺れている中このカミュの小説『ペスト』が売れているという。日本での死者の数はまだ比較的少ないが世界では夥しい数の人々(医者も含む)が亡くなっている。ニュースだけでは実際はわからない。ロックダウンされた大都市の静まりかえった町の外観のなかで、人々はどう苦しみ、なにを考え、どう耐えているのか。ロックダウンされた都市にあって人はどう生きたらよいのか。とりわけ医師リウーの生き方には惹きつけられる。「誠実さ」が英語ではdecency(人間的な品位という意味が含まれている)とされているのも興味深い。
当サイトに掲載されている文章等は著作権法により保護されています
権利者の許可なく転載することを禁じます