臨床余録
2020年2月23日
看取り搬送を減らすために

「急変は救急車(アンビュランス)で解決だ思考放棄の家族は多し」(神奈川県医師会報・神医歌壇:飯田明)

 これは軽い病気なのにすぐ救急車を呼んで病院受診をする家族をやや皮肉的に描いた短歌である。救急車を呼ぶ前にもう少し考えてほしいという医師の嘆きが背景にある。

 それに対して状態が急変し心肺停止状態で救急車が呼ばれて病院搬送をする場合がある。すでに亡くなっている人が運ばれ、病院救急医は看取りのためだけに今まで診たことのない人の診察をする。

 上記いずれの場合でも救急車は不要である。救急車の出動回数は10年前の4割増。このままでは本当に救急を要する人を運べなくなるかもしれない。

 どうしたらよいのか。個人的経験からいえば、答はストレート。かかりつけ医が自分に与えられた役割を果たせばよいのである。まずコールをもらい、相談にのる。電話だけで安心し救急車を呼ばずに済むことは多い筈だ。例えば発熱、めまい、動悸、嘔気嘔吐などの身体不調の状態をさらに詳しく電話で聞き、多くは夜間救急にはいかず朝まで様子をみて再コールで済む。だがこの電話で相談にのるということがほとんどのかかりつけ医でなされていないようだ。

 問題は在宅で急に死亡した場合だが、普段みている方であれば診断はつけられるであろう。往診し看取ることはかかりつけ医の大事な仕事なのである。独り暮らしの方の場合も、かかりつけであれば往診し看取ることになる。その場所がトイレであったり風呂場であったりすることもあるが、普段の病気の状態から急死の説明がつき、問題となる状況(犯罪性)がなければ救急車も警察も呼ぶ必要はないと思う。開業後20年間そうやってきた。オスラーの言葉を借りれば、医療(特に在宅医療)は医学の応用であり、科学に支えられたアートである。病院医療とは異なる。病院ではできない医師の仕事がそこにある。

 

2020年2月16日
老いることは乳幼児に帰ること?

 ひとの中枢神経系は、脊髄という古い構造が進化して、より新しい構造が瓦屋根のように積み重なり一種の階層構造をなしている。最高度に進化した部分が前頭葉。この中枢神経系に何らかの侵襲が加わったとき、今度は新しい部分、つまり前頭葉から解体されていく。英国で神経学の父と呼ばれるHughlings Jacksonが唱えた思想(ジャクソニズムと呼ばれる)である。ジャクソンは中枢神経が侵されると出て来る症状はその階層性ゆえに欠損する症状(陰性症状)に加えて、それまで抑えられていた、より下位の症状(陽性症状)が現れるとした。例えば、脳梗塞により片麻痺(陰性症状)となる代わりに上下肢に痙性やバビンスキー徴候(陽性症状)が認められる。(バビンスキー徴候は1歳までの乳児には正常に認められるが、運動神経(錐体路)が発達すると抑制されて消失する)

 大脳における解体がすすむと、はじめに第1段階として意識の欠損とともにひとつ下位の階層構造である無意識の観念活動の活発化がおこり、夢幻状態などがみられる。次に第2段階として、第2層が侵されると、知覚の欠損、判断の低下などがみられ、同時にアクションが活発化され陽性症状としてより下位の幻覚・妄想などが認められる。さらに解体がすすむと、第3段階として意識、観念、アクションが失われ、呼吸循環などの生命活動のみ保たれ、痴呆があらわとなる。

 この大脳における解体プロセスは、老化の過程であり、多くは認知症の進行をともなう。

 これを臨床的に研究したのが、アルツハイマー型認知症のFAST分類で有名なBarry Reisbergである。乳児から思春期までの能力の発達を丁度逆向きにみると、老人の能力の低下は乳児期に向かって進行するとみなせるとした。これをretrogenesisと呼ぶ。たとえば、5歳から7歳の学童期には適切な衣類の選択ができるようになるが、これは老化(認知症)が進み、衣類の選択ができなくなる中等度認知症に対応する。4歳くらいでトイレができるようになるが、これはトイレが一人ではできなくなる中等度・重度認知症に対応する。1か月から3か月で乳児は頭をもちあげるが、これは重度認知症で寝たきり全介助の状態に対応する。さらに老化がすすむと、(これはReisbergは述べていないが)背骨、四肢は屈曲し全体に小さくなりまさに胎児と同じ姿勢となる。胎児期は重度認知症の極期に対応する。

 老いることははじめにもどることと言えるのではないだろうか。

 

2020年2月9日
グリーフケアとは

  新横浜在宅クリニックの城谷典保先生よる「地域緩和ケアとグリーフケア」と題する講演会があった。僕自身これまでグリーフケアについてまともに考えたことがなかったので期待して参加した。

 緩和ケアの最終目標、緩和ケア的アプローチ、人の一生、死にゆく過程の軌跡、人生の最終段階に起こってくること、家族の全人的苦悩、全人的苦悩の概念、死と死ぬこと及び悲嘆に関する国際作業部会のスピリチュアリテイの定義、日本人のスピリチュアリテイ(つながり こだわり 生きがい)、緩和ケアにおける家族ケアの要点などの説明があった。そのあと緩和ケア人材育成研修用副読本に沿って悲嘆、および悲嘆ケアとは何か話された。

〈1〉緩和ケアとグリーフケアの意味の違いと重なり、〈2〉医師としては看取りの機会、看護師にとってはエンゼルケアの場面がグリーフケア(死別後のケア)の大事な場面と思われるが具体的にどのようにされているかについて質問した。事例などをまじえてのディスカッションになればと思ったがその時間がなかった。

 自分なりにまとめてみると、緩和ケアとは終末期に向かう状態にあってスピリチュアルな苦痛(苦しみ)を含めトータルペインに対するケアであり、グリーフケアとは人の死別に際して湧きあがる深い悲しみの感情(悲嘆)に寄り添うケアである。苦痛(苦しみ)と悲嘆(悲しみあるいは悲哀)。この二つの感情は重なり合うが別のものである。苦しみは診る人に鋭い刃をつきつける。悲しみはその人と肩をならべともに涙を流すことのできる感情である。看取りの場面は、それまでの良好な在宅ケアの積み重ねがあるにしても、単にご臨終です、と告げるだけではない、何かが必要であると僕は思う。死の宣告により何かが変わる。看取りを介して残された者(医療者も含む)の生きる時間の質が変わる。そのとき必要なのが苦痛に対して行ってきた緩和ケアを越えた、喪失の深い悲しみに寄り添うケアなのだろう。

 大事なことは、悲嘆(グリーフ)は喪失に対する正常なそして大切な反応であること。泣くことや悲しむことは異常ではない。悲しみは人生を生きる上でなくてはならない感情である。喪失に伴う悲しみはその人にたいする思い、あるいは愛情の水脈ともいえる。亡くなったその人を忘れないこと、忘れず覚えていることはその人が僕のこころのなかに生きていることである。それを遺族に伝えることが彼らにとって何よりのグリーフケアになった経験を幾たびかしている。

 熱のこもった講演であったが、グリーフケアの具体的事例があまり出されなかったのがすこし残念だった。

 

2020年2月2日
選択はさいごまでオープン

 朝日新聞週に一回の連載記事〈それぞれの最終楽章〉「救急現場の悩み2」を読む。身寄りのない60代の男性、河川敷で意識なく倒れているのを救急搬送された。尿毒症の診断で人工透析がはじめられ意識は回復した。翌日、訪問看護師が来院。男性は常日ごろ透析をしてまで長生きしたくないと述べていた。そこで改めて看護師が意識回復した男性の意思を確認すると透析をしてほしいと述べたという。男性は透析専門病院に転院した。

 同様の経過の患者さんを思い出す。80代女性。病院で慢性腎不全の診断で透析の必要性が繰り返し説明されてきた。しかしその都度延命の意思なく透析治療を断って来た。透析をしないのであれば病院ではすることがないとされ、在宅療養支援診療所である僕のところに紹介されてきた。その後は投薬と貧血に対する注射で定期的に通院していた。ご家族は本人の気持ちに優しく寄り添い長く介護を続けてきた。この冬軽いかぜをきっかけに食事が十分とれずベッド上生活となった。往診し、今後のありうる経過とケアの仕方をご家族に説明しようとしたところ、実は本人が急に透析を受けたいと言いだしたという。そこで本人に尋ねると確かに「透析を受けます」と言う。何故ぎりぎりになって気持ちが変わったのかはわからない。彼女の意思の変化を平静に受け止め、すぐに病院の担当医師に電話連絡し、入院となった。

 アドバンスケアプランニングの重要性が言われ、上記2人の患者も話し合いを繰り返してきた。延命治療にはずっと拒否の姿勢をみせていたのだが、ぎりぎりのところでそれを希望することになった。何が起きたのであろうか。・・・これはだが考えてみれば何も不思議なことはないのかもしれない。

 宗教学者である岸本英夫氏は自身の闘病生活のなかで随想集『死をみつめる心』を著した。そのなかで死に直面したときの心を‘生命飢餓状態’という言葉で説明している。「腹の底から突きあげてくるような生命に対する執着や、心臓まで凍らせてしまうかと思われる死の脅威におびやかされて、いてもたってもいられない状態」「人間が生命飢餓状態に陥るのは、・・目前の近い将来・・生存の見通しが絶望になる(ときである)。」「・・癌で手遅れを宣告され・・死が目前に迫り、もはやまったく絶望という意識が心を専有したときに、にわかに、心は生命飢餓状態になる。」

 このようにアドバンスケアプランニング(ACP)のプロセスを繰り返していても、死を前にすると我々の意思は(誰であっても)変わり得るものである。それが人間なのだろう。

 附記:だからといってACPはやっても無駄ということにはならない。例えば上記の例で透析を受けないで亡くなった場合のことを考えてみよう。本人の延命的治療拒否の一貫した意思を家族やケアスタッフが共有することはACPというプロセスを通してこそ可能になる。それは本人や家族の満足度(納得度)を高め、ケアに携わった者にしばしば訪れる罪悪感やうつを和らげることにもなるであろう。

 

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