介護保険がスタートして20年。介護はいまや誰にとっても人生の一部といえるのではないか。各界の40人がそれぞれの介護について書いた『私にとっての介護』(岩波書店)を読む。印象に残ったふたりをあげてみよう。
「障害者の介護と社会参加」を書いた木村英子さんは、生後すぐ障害のため施設に預けられる。日常生活のすべてに介護が必要であった。18年後「隠された命が地域へ出て生活することは想定外の現実なのに」「虐待に耐え続けた施設」の生活を飛び出した。そして「私という命の証明をしてくれる」多くの介護者のサポートで国会議員に選ばれる。重度障害者にとって十分な介護保障と社会参加の保障、この二つをかち取ることを自分の役割と考える。
彼女の「隠された命」という痛切な自己認識、そしてその「命の証明」をしてくれる介護者との関係性のあり方に心が動かされる。そして、さりげなく書かれているが、彼女が預けられていた施設では虐待が常態化していたというくだりを見逃すわけにはいかない。「津久井やまゆり園」事件とつながるものを考えてしまう。
もう一人、野田聖子氏は「私には恐怖がある」という文章の中で心臓、消化器、気管に重い障害を持つ息子の介護について語る。卵子提供による高齢出産で、「こんな子」を産んだのは親のエゴだとされ、日本社会の障害者に対する嫌悪に真っ向からぶつかることになる。子が1歳の時、同じ悩みを持つ親の助けにとドキュメンタリー番組を放映したが、寄せられた意見の大半は批判であった。日本社会には差別の土壌があるのを深く実感する。息子に対して「かわいそう」という言葉をかけられるが、そこに漂うのは「障害者に対する不要感」。24時間人工呼吸器、胃ろう栄養を夫と分担して行う在宅介護の日々。国会議員としての仕事をしながら「なぜここまでがんばるか。それは私には恐怖があるからです。私が死んだあと、この子は大丈夫か、「障害者はいらない」という風土に殺されるのではないかという恐怖です。」と述べる。苦しみを経て、ひとりの母親がより高い精神性を獲得していくさまが文章に感じられる。それが僕の心にひびく。
ところで、今、相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で利用者ら45人を殺傷した植松聖被告の裁判が行われている。被告の障害者不要論は極端だが、野田氏が感受した日本社会に存在する障害者差別意識と通底する。だとすると、やまゆり事件を植松被告個人の問題として済ますことはできなくなる。日本社会に存在する障害者差別というバックグラウンドがあるからこそ起きた事件だということになる。植松被告が大麻精神病なのか、パーソナリティ障害なのかという論は2次的問題ではないか。裁かれているのは、植松被告個人だけではない。裁かれているのは、日本という国、その社会、そこに住む僕たち一人ひとりである。
「不思議なことです 正月なのに 元日から 急に 食べる気がしなくなって なんとなく横になると しぜんと眼が閉じてくる 眠いわけではない だるくない 痛みもない 苦しいわけでもない ただトロンとして 横になっている 1月2日も同じ 何も食べたくないから食べない 水もほとんど飲まない それで全然つらくない 1月3日になっても 同じ 食べない ほとんど飲まない それで起きられなくなった 相変わらず 半分眠ったよう ただトロトロ 時間が過ぎていく ああ このまま逝けたらいいなあ と思ったのです そしたら 不思議というか ときどき 面倒みていた野良が入ってきて すり寄ってくる それで はっとして 水を飲み 少しずつ 回復してきたのです」
以上のショートストーリーは独り暮らしの高齢男性が外来で話してくれたもの。慢性の呼吸器疾患があり、入院歴もあり、しばしば呼吸苦を訴えていた。単なる風邪でも状態が悪化してもおかしくない。それにしても興味深い体験だ。
宗教学者の山折哲雄氏はみずからの断食療法について最近の朝日新聞に述べておられる。はじめは飢餓感に苦しむが4日目位からそれが薄らぎ、からだが軽く浮くようになり、不思議な清澄感がやってくる。中世の高僧たちの〈死の作法〉に思いが及ぶ。高僧たちは晩年、寿命を悟ると、精進や断食の行に入って命終(みょうじゅう)を迎えていたという。そして、日本人でスイスに行き安楽死を選んだ女性のことを思う。彼女は安楽死という人工的な死ではなく、なぜ断食による死を選ばなかったのかと問うのである。
老衰のためからだの生命活動が終息に向かうとき、食べなくなり飲まなくなる。そして、一日うとうとして数日後最期を迎える。この自然の経過を妨げるような‘治療’(点滴や無理な食事援助)を施さなければ、苦痛もなくいわば眠るように亡くなる。自然死(平穏死)である。これは本人にとって安楽であるだけでなく、介護する家族にとってもその方が苦しまずに亡くなる姿をみることで暖かい見送りを体験することになる。いわば老衰という自然の断食療法である。
〈看取りの作法〉としてかかりつけ医が身につけなければならないものだ。冒頭の患者さんのエピソードはそれを考えるヒントになるかと思う。
「NHKスペシャル」「認知症の第一人者が認知症に」「葛藤と希望の1年間の感動密着記録 人生100年時代のヒント」と題する番組を観た。
はじめに長谷川和夫先生の作った認知症簡易スケールで認知症の診断ができると紹介されていたが、これは誤りである。このスケールだけで診断してはいけないと先生自身が書いている。
ご自分の状態を、物忘れが進行し日時の見当識がはっきりせず、カギをしめたかどうか何度も確かめるなど、「確かさ」の感覚の衰えと表現されていた。我々は記憶だけでなく物事の判断力などを含めた確かさの感覚をもって日々の生活を生きており先生の言葉になるほどと思う。
先生自身患者さんにデイサービスをすすめるのだが、自分が行ってみると率直に「つまらない」「孤独である」。そして行くのをやめてしまう。介護サービスを選ぶ際、「何がしたいのか、何がしたくないのか」本人の言う事に耳を傾けるべきと述べる。この辺は面白い。やはりそうか、という感じを僕も持つ。
妻に依存することが多くなり、感謝しつつその負担を減らすためにデイには行かなければならないのかと悩む。そこから「自分は早く死んだほうがよいと思っているのでは」と娘に問う場面はリアルで介護者にとってもつらいところであろう。
認知症になると見える景色がそれまでと違うのかと問われ「景色は変わらない。同じで普通だ」と答える。認知症は、認知症でない世界と一続きであるということである。
次第にできたことができなくなる認知症の体験を「余分なものが剥ぎ取られていく」とし「神様が用意してくれたひとつの救い」と述べる。このあたりはクリスチャンであることが背景にあるであろう。神の恩寵として認知症を受け入れることができる人はそれでよいであろう。しかし普通の人はなかなかそうはいかない。認知症の第一人者たる長谷川先生には認知症フレンドリー社会(認知症になっても安心できる社会)を目指して今何が必要なのか具体的提言をしてほしかった。
ところで、自分の認知症はアルツハイマー型認知症ではなく嗜銀顆粒性認知症と強調しているのは何故だろうか。この病気は臨床的に診断することは困難で診断には剖検が必要と思うのだが、(厳密にいえばアルツハイマー型でも確定診断は剖検であるが)何故嗜銀性にこだわるのか。頻度は圧倒的にアルツハイマーが多く、従ってその確率が高いと思われアルツハイマー型と診断するのが適切と思うのだが疑問が残る。
90歳という年齢では半分以上の人が認知症になる。2人に1人以上が認知症、だとしたらそれは病気といえるのか。昔はもうろく、老耄(ろうもう)、あるいは親しみをこめて「呆け」として受け入れていたものをあえて先生は認知症という病気の枠内で考えておられる。ご自分が認知症の入り口にいる今、長谷川先生なりの新しい認知症に対する考え方(「人生100年時代のヒント」という番組のタイトルに答える)を出していただければもっとよかったと思う。
僕の考えでは、超高齢者の身体機能や認知機能の衰えは病気ではなく、もうろく(あるいは老耄)であり、すこしずつ衰えながら下降線をたどる。そして、さいごまで生きて、その人生をまっとうする。その場合の死因は老衰とするべきであろう。
「去年(こぞ)今年(ことし)貫く棒の如きもの」 高浜虚子
年が改まった。しかし何が変わったのだろう。去年からの流れに曲折があるわけでもない、大小の変化があるわけでもない。表面にさざ波に似たものはあるかもしれないが、中心にはまっすぐに棒のようなものが貫いていて全体をみれば大きな変化はない。そのように冒頭の有名な句を解釈する。
年末年始の休みが1週間。29日と元日は患者さんのご家族からコールがあり往診、その日は診療所に夜まで待機した。それ以外は自宅にいて気ままでぜいたくな時間を過ごした。束縛されずまとまった時間を味わうことができるのは格別なことである。正月料理などご馳走は特別要らない。静けさ、書物、音楽そしてミステリー映画があればよい。毎朝庭の小さい池の数匹の金魚に餌を与える。冬は夏と違って餌は少なくてよいとペットショップのおじさんから言われたが、僕が近づくと気配を察して寄ってくる。池の横の黒土に昨日置いたリンゴの皮や芯はなくなっている。ヒヨドリが食べにくるのだ。夕暮れどき散歩に出る。高台から夕焼を背に富士山を眺める。別の方角にはみなとみらいのビル群がみえる。いつか読もうと積んでおいた本をだいぶ読むことができた。
特によかったのは2、3、4、5。
読後、世界が変わった気がした。
当サイトに掲載されている文章等は著作権法により保護されています
権利者の許可なく転載することを禁じます