臨床余録
2019年12月22日
認知症「予防」の現実

 12月21日朝日新聞、上記のタイトルのインタビュー記事を読む。ランセットに載った認知症の35%は予防できるという論文を書いたロンドン大学教授クラウデイア・クーパー氏。若い頃の教育歴、中年期の難聴、高血圧、肥満、高齢期の喫煙やうつ、運動不足や社会的孤立、そして糖尿病、こうした要因があると認知症になる確率が高いということがわかった。これら「変えられる要因」が認知症の35%にのぼると指摘。従って、これらの要因が変えられるなら認知症の発症を予防はできなくても遅らせることができるのではないか。予防という言葉はそういう意味であると述べる。

 認知症当事者の丹野智文氏は語る。グルテンフリーとかココナツオイルとか「効く根拠などないのに、こうした予防法に取り組む高齢の人が周囲にたくさんいます。計算ドリルを毎日やったり、100から7を引き、さらに引き続けながらウォーキングしたり・・」「認知症と診断されると「お前は落後者だ」とレッテルをはられるのです」スマホなどIT機器を使いこなすことなど「認知症になっても変わらない暮らしができるように備えておくことで不安を減らせます。予防よりこうした備えへの支援こそ、力を入れてもらいたいのです。」

 ランセットの当時の論文には驚かされたが、今回筆者の一人により明らかにされたのは、予防というのは発症を遅らせる可能性ということであるようだ。血管性認知症、アルコール性認知症などは当然予防可能であろう。しかし最も頻度の多いアルツハイマー病はどうなのか、触れられていない。丹野氏の主張には全面的に同意できる。今年認知症早期発見モデル事業を始めようとしている横浜市認知症担当者へ僕が出した手紙の中身と殆ど変わらない。繰り返しになるが、認知症早期発見モデル事業ではなく認知症になっても安心して暮らせるための支援(IT機器の講習や認知症フレンドリー地域モデル事業など)を横浜市にはお願いしたい。

 

2019年12月15日
人生の最終段階の援助者のために

 参加型福祉研究センターにて「人生の最終段階の援助者をめざして」というタイトルの講演をした。午後1時半から4時半までの3時間。

 まず人生は物語、自分らしさはその物語にあり、だとしたら終わりは最終段階final stageではなく、最終章final chapterとした方がぴったりこないだろうか。Stageは物事や病気、特に癌のステージを連想する。癌のターミナル・ステージに人生を類えるのは美しくない。こんなイントロ。以下講演内容を箇条書きにすると、

*さいごまで自分らしく生きるとは
*3つのステージ(元気なうち 身の回りの事が大変になる 人生の最終章)に沿って
*医療や介護の意思決定の仕方
*QOL(生きることの質)のとらえ方
*いわゆる延命治療をどう考えるか(延命の意味を考えること)
*アドバンスケアプランニング(ACP)(人生会議)とは
*最終章において向かうべき4つ(身体 精神 社会 スピリチュアル)の痛み
*緩和ケアについて:スピリチュアルがケアの質を決める
*看取りの在り方
*人をケアすることの意味と実際:事例を通して

そしてまとめ:よい援助者になるためのヒントとして
① 全身で聴くことの大切さ(耳・目・心)
② その人を知る事(人生の物語)
③ ニーズを把握し丁寧に誠実に具体的なケアを(起承転結を考える)
④ 自分をふりかえる力(間主観的感性)
⑤ 自分への支え(人を支える自分にも支えが要る)
⑥ 自分の死生観

以上。

 

2019年12月8日
ひきこもり再考

 月刊保団連12月号で「ひきこもり」を特集。
 精神科医斎藤環氏は、『医療者として「ひきこもり」に関わるためにーその現状・理解・支援』というタイトルの論稿を寄せている。15歳から39歳までのひきこもりは約54万人、40から64歳までのひきこもりは61万人、合計すると100万人以上がひきこもっており、ひきこもりはもはや若者問題ではないと述べる。厚労省のひきこもりの定義は①6ヶ月以上社会参加していない、②非精神病性の現象である、③外出していても対人関係がない場合はひきこもりと考えるとする、というものである。関連の深い精神障害としては、統合失調症と発達障害であるが、斎藤氏の調査では1割弱でありしばしば過剰診断されている。治療をはじめると統合失調症を発症することもあり、ひきこもりが病因的に作用したり、症状の顕在化を抑えている可能性もある。また2次障害として被害妄想を発生させることもある。当然昼夜逆転、うつ状態も起こしうる。関連する問題として「8050問題」がある。これらは日本特有の家族主義に関連し、欧米の個人主義の国では若年ホームレス現象として現れる。ひきこもり支援や対応には従来からの個人、親支援、集団療法、ソーシャルワークなどに加えて、オープンダイアローグの考えを核とした「対話」による治療がある。これは徹底してその人を尊重し、丁寧に話を聴き、それに誠実に応えていく。良い対話を続けていくことで巧まずして改善が生ずることがあるという。

 僕の患者さんにも「ひきこもり」的な方が何人かいる。基本的な姿勢は、まず診察を重ね時間をかけて話をしてくれるのを待つこと、聴くことができるならばその人はどういう理由で引きこもっているかを知ること、対話が困難な場合でもそのひとのこころとからだの診療を通して安心を得てもらうこと、通院あるいは訪問診療の機会を社会への窓(扉ではなく)のひとつとなるように努めること、外出し社会参加することを目的にはしないこと、つまりひきこもり自体を問題とし治そうとはしないこと、あくまでその人との関係性を重視すること。こんなことに注意しながら診ている。僕の中にもひきこもり的傾向があるのでひきこもっている人にあまり違和感を感じないで診ることができる。

附記:「ひきこもり問題」という言葉があるがひきこもりは「問題」ではなく問題にたいする「答」である、という川初真吾氏の言葉が池上正樹氏論文中に引用されている。大事な見方であると思う。


2019年12月1日
人生会議を考える

 人生の最終章を迎えてどんな治療やケアをどこで受けたいか、繰り返し医師や家族、ケアスタッフと話し合うアドバンスケアプランニング(厚労省は「人生会議」と名付けた)の大切さが強調されている。医療やケアが必要になった時は半数以上の人がどう選択するか判断できない状態になっているという。本人の気持ちがわからず家族も医療スタッフも困ることになる。だから本人の判断力があるうちに前もって会議を開いて決めておくことがよいとされる。厚労省が人生会議のポスターを作ったところ、SNSなどで「不安をあおる」とか「人生会議というより死に方会議だ」という痛烈な批判も出た。ポスターは取りやめになった。

 なにが問題なのだろう。ポスターが侮辱的にとられてもしかたないようなものであったらしいが、それだけでななく人生会議を開くということが本人の外側で決められ、なにか強制的なものと感じるということがあるのではないか。自分のことをよく知らない人たちが来て自分の人生のさいごの迎え方を決めるという、そのやり方に従いたくない人も当然いるだろう。長くつきあって本当の信頼関係のあるかかりつけ医、看護や介護スタッフなら別に会議を開かなくても極端にいえばあうんの呼吸で自分のことをわかってくれる。会議などおおげさなものをひらいてくれなくてよい。会議なんてかえって迷惑。そう思う人もいるであろう。そうなのだ。どんな治療をどこでうけたいですか、なんてあらたまってきかれる、上から目線で。決断を迫られる。自分のよくわからない会議とかで。そんなのごめん。そういうこともあるのではないか。

 そもそも「会議」という言葉が硬い気がする。「人生会議」という言葉も少し大仰なのかもしれない。大事なのは本人の意向であり、自律へのリスペクトである。それを話し合う前提はその人そのものへのリスペクトである。外来受診の際の雑談の中で語られるその人の本音を聞き逃さないこと、往診時のベッドサイドでつぶやかれる生と死にまつわる様々な思いや感情を心に留め、カルテに記載しておくこと。その人がどういう人なのかを知ることなしに良いケアを施すことはできない。ましてやアドバンスケアプラニングのための話をすることなどはできない。その方の心の深いところに隠されている感情までも共有できるほどに、その方にとっての大事なかかりつけ医になること。患者さんに「先生、さいごまでよろしくね」と笑いながら言ってもらえるかかりつけ医にならなければならない。そのことを痛切に思うのである。フィルデスの画“The Doctor”を思いだす。病む子を前にした時の、あの物腰、あのまなざし。

 

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