臨床余録
2019年8月 25日
戦争と医療

 月刊保団連8月号で「戦場のリアルと医療」という特集をしている。父の世代の戦争体験者の多くが物故し、戦争の記憶が風化していく。それに抵抗する試みである。日本医師会雑誌が安倍政権への忖度から社会医学的な視点は乏しいのに比べこの雑誌は闘っている。

「不死身の特攻兵、佐々木友次という奇跡」鴻上尚史 
「傷ついた人々の希望の砦としてー紛争地における医療活動」白川優子 
「人々は何を求めて戦場に行くのか」安田純平 
「沖縄地上戦の記憶をたどって」仲里尚美 
「リアルな戦争の記憶を引き継ぐために」能島龍三

 これらが寄稿された文のタイトルと筆者である。みな読み応えのあるものばかりだが、リアルという点では圧倒的に白川氏の文章がすぐれている。読む者をひきつけ引っ張っていく。7歳の時にテレビで見た国境なき医師団(MSF)に感銘を受け看護師を志したという彼女。これまでイエメン、シリア、南スーダン、パレスチナ、イラクなど紛争地9ヵ国で働いてきた。日本の救急現場と違うのは戦争という非人道的な暴力による被害者への医療という点。そこに人としての感情が入ってはいけないと自覚していながら、どうにもならない場面にぶつかる。ISにより占拠されたシリアのラッカを多国籍軍が奪還するその戦いの中遭遇した父と娘、両足切断、手と顔は包帯で捲かれた父と内蔵損傷でストマになった4歳の娘が手術を終え変わり果てた姿でお互いをただただじっと黙って見つめ合う。生き残った者の地獄が始まる。救命する以外できない無力感を抱え泣き崩れそうになりながら筆者はそこに立っている。一度は看護師をやめてジャーナリストとなって惨状を伝えることを考える。しかし踏みとどまる。それは「私の無力感や挫折、ジレンマ以上に、現地の人々は私たちの存在そのものに希望を見出させていることに気づかされたからだ。多くの傷ついた患者を通じて、その時にできるベストの医療の一つとして、患者の傍で手を握るだけでもよいのだ、という看護の基本に立ち返ることができた」

 医療が必要な人であればたとえ戦争当事者であっても中立性を保ち同じ人間として医療を施す。にもかかわらずMSFの医療施設も攻撃の対象になることがあり、筆者は怒りの声をあげる。

 現在、MSFに登録している日本人医師は約100人。日本の整った環境で理想を目指すこともできるのに、多くの医師は仲間や家族の反対など多くの苦労を背負い、有給休暇をすべて使って活動に参加する。また現地の医師たちは別の危険を負いながら権力や戦争の不当な暴力に立ち向かい医療活動を続けている。それらの仲間との絆を感じ、誇りを高め、勇気を得る。人類が昔から繰り返している戦争、傷ついた人々に寄り添う医師や看護師、今のこの瞬間も傷つき、命が失われている。

 戦争と医療。白川さんの言葉は、僕たち日本で働く医師や看護師を逆に照らし出す。世界は広くそして深いということを示し続けている。凄まじい世界の現場を伝えるだけでなく、いまこの世界で医師や看護師であることの意味を問い続けている。


2019年8月18日
普段通りであることの安らぎ

 NEJM AUG 22 2019 The Comfort of the Ordinary-On Dying as We’ve Lived を読む。

 数年前のこと、家族の古い友人でカラフルな人生を送り、私が小さい頃から親しかった女性が亡くなった。そのときの「If this is dying, it is not so bad:もしこれが死ぬということなら、それはそんなに悪くない」という言葉を何か愉快な衝撃として受け取ったのを思い出す。

 私の(別の)友達のさいごの言葉も琴線に触れるものだった。死とはつまるところ死ぬことに関わるだけのものではない。それは生き残る者に関わり、彼らは愛する人が穏やかに旅立ったという安心感を欲するのである。もっと一般化していうなら、我々は死を通り抜けるためのガイダンスを必要としている。

 私は医師として多くの死の看取りを経験してきた。最近でも多くの上の世代の死をみてきた。アメリカの死亡は1日7452人。12秒毎に一人亡くなり、その度残される者に多くの悲嘆を作り出している。

 そこで私は人の死に方について、彼らが何を語り、慰めやユーモア、受容に至るのか、注意を払うようになった。友人のハービーのことを考えてみる。私が生まれてすぐ彼の腕にだかれその後65年間、なくてはならない人だった。彼が亡くなる数日前、ホスピスを訪ね、どんなに彼を愛しているかを伝えようとしたが、彼はテレビに夢中だった。彼は家族に彼が亡くなったときは「旅立った」という言葉は使わず「死んだ」というように指示した。ハービーは婉曲語法を嫌う、特にあの世があるかのような言い方を嫌った。

 このような場面を繰り返しみてきた。人は生きて来たように死ぬ(People die as they’ve lived)。私の父が脳卒中で倒れ、もつれる舌でしきりに何かを喋ろうとしている。私たちは寄りあい彼の言葉を聴き取ろうとした。家族の秘密の告白か。愛情の宣言か。隠された大事な文書を教えようとしているのか。さいごに私たちは文字を一つひとつ示して彼の言おうとしていることをつかんだ。「お前はもう家を見つけたか」であった。それが我々がこんなに一生懸命解読しようとしていたことだった・・それはただの普段の会話のつづきだった。私の妹夫婦は父が倒れる前、住む家を探していた。その結果はどうなったか、彼は知りたかったのだ。彼はそういえばいつも困難をそういう風にして解決してきた。周囲の者があたふたしている騒ぎのなかには入ろうとはしなかった。代わりにその会話を別の方向へもっていこうとした。そして彼は死の床でもいつもしていたようにしたのだった。

 ありふれた日常の思想を表現することで、死はいかに日頃の習いどおりにそれ自身であることができるのか。死とは真実を語り、償い、和解、そして愛の表現の場ではないのか。事実その通りであろう。しかし、よりありそうなこととして死はそれまで通りに人生が続いて行く余地を保証するものなのではないか。

 多くの家族や親族は死の床で笑い、歌い、物語を語る。厳粛に意味を説いたり、深い情緒を披瀝したり、ライフレビューをすることを重苦しいものと思う。たぶんそれは死にゆく人々自身にとってもそうであろう。ありふれた日常の出来事はいちばんのやすらぎであるだろう、それは生活はただ単純に続いていくことを思い出させてくれる。

 このような側面において、我々はその予後を語りたがらない終末期の患者から何かを学ぶことができる。病気に触れることはまるでその話を始めるや否や死の時計が動きはじめ、患者は突然生命の終わりをつきつけられるかのようである。致死的疾患を抱えながら患者が矛盾する行動を示すのは不思議ではない。別れの手紙を書きながら郊外に家を買ったり、文書を整理しつつ一方、実験的な治療法に期待を寄せる。

 こうした行動を緩和ケア専門家は“dual framework:二重の枠組み”と呼ぶ。患者は死について語りたがらず、生きる確率にすがる。同時に、自分の病状を無視することもできない。希望と絶望の間を往復する。病状が進むにつれて患者は往復するのではなく、同時にふたつを抱くようになる。不可避のことを受けいれるしかない時点に至ってもなお患者は今此処に存在している。生きているのである。

 研修医の頃、患者が“good death”に至るのを助けるように言われた。患者が自分の死についてコントロールしている感覚をもつとき、痛みがないこと、そして自分の人生に達成感をもつとき、その死は望ましい(goodな)ものとされる。だが“ordinary death”という言葉を聞いたことがない。それはそうだ、どんな死がordinaryなのだろう。いかなる死も単にordinaryではない、しかしordinaryであることはその死にやすらぎをもたらすのを助けてくれる。死ぬまで日頃のありのままの我々自身の余地を残してくれるのだ。

 そう遠くない昔伯父が死んだ。3週間ホスピスで過ごし、彼の愛した人へ多くの喜びや感謝を告げる時間を持った。痛みは殆どなかった。そして彼は過去をふりかえり、それまで語られることのなかった家族間の問題に触れ和解に至った。Good deathだった。
 それはまた日々の生活の連続としての死でもあった。Green sleevesが流され、顔には死相が浮かんでいた。すると突然、彼はベッドクロスを両手でつかみ右の母指と示指で「ピッチカート」と告げてつま弾きはじめたのである。その言葉は彼の音楽への愛を語るだけでなく、死の床にあってもセンチメンタルになることなく学校教師という自分の過去にいつでもつながっていることを示していた。

 これらのストーリーから私が学んだことは、もし運がよければ私たちはその最期までそれまで生きてきたように生きることができるということである。私たちはありふれた日常に避難することで、自分の愛する人と生きてきた日常とそれらが今後も続いて行く未来との間に橋をかけることができるだろう。そしてさいごに、詩人であるジェイン・ケニヨンが死の床で語った言葉「オーケー」ほどこの橋の役割をする言葉はないだろう。多分ケニヨンは死を受け入れていただろう。あるいは、悲しみにくれる夫、やはり詩人のドナルド・ホールを慰める言葉だったかもしれない。しかし、ホールが彼の詩「さいごの日々」に記したように、それは単なる普段どおりのコメントにすぎなかったのかもしれない。結局「オーケー」は単に「オーケー」であるにすぎない。And sometimes OK is the best affirmation we can pluck from the wreckage of death.(そしてこのオーケーが死の残骸からつかみだしてくることのできる最高の肯定的断言となることもある)

 以上が抄訳である。味わい深いエッセイだ。ひとが亡くなるということ。そのひとがそれまで生きてきたように死ぬということ。その普段どおりであることの安らぎの中で死を迎える。「安らぎ」であって「安楽」ではないことに注意したい。死はまぬがれない。誰も死ぬまでは生きなければならない。だとしたら「生きる」が「逝く」と一致する時点までは、それまで自分が生きてきたように生きたいものである。理想的なgood deathに人を押し込めてはならない。多様な人生があるように多様な死があってよい。多様な日常生活を反映したその人らしい死には安らぎが伴う筈だ。Ordinary death、この言葉を忘れないようにしよう。

2019年8月 11日
はちがつ

 戦争が老いてゆくなり終戦日(吉田かずや)

 この俳句は8月11日朝日俳壇に載ったもの。長谷川櫂氏は第一席に選ぶ。「老いてはゆくが死なざるもの。そして、よみがえるもの。」と評する。高山れおな氏は第二席に選び、「この「老いてゆくなり」がはらむ感懐は決して単純ではない」と述べる。

 僕もこの句はよいと思う。戦争が老いてゆく、遠くなりゆく、しかし今の日本や世界をみれば次の戦争が近くなり来る、僕はそんな気がする。有名な「戦争が廊下の奥に立ってゐた」(渡邊白泉)を思いだす。

 海軍軍医であった父の遺した戦記のうち『海軍陸戦隊ジャングルに消ゆ』を繙(ひもと)く。その中の「私の八月十五日」を読む。敗戦間近のニューギニア。父の部隊は4000メートルのサラワケット山を越えての転進で壊滅的打撃を受ける。本隊はさらにオランダ領ホーランジャーに向かい圧倒的大軍の前に全滅。落伍兵救出のため敵地に残された父は玉砕を免れる。しかしマラリアで右目の視力をまったく失い、ビタミン、栄養欠乏のため脚は象のようにむくみ、腹には水がたまっていた。それでも父は動ける限り病弱兵を診察していた。

 そして敗戦。豪軍に捕らえられ、そのなかで父は初めてだらしない姿の仲間の兵士を殴ってしまう。玉砕しなかった(できなかった)自分に対する怒りが仲間への鉄拳となったのであろう。戦後、夜の窓から4歳の僕を放り出した父と重なる。右目の失明、大腿骨骨頭壊死、胸のケロイド状の銃痕、それら肉体の傷以外にも父はこころに深いふかい創(きず)を負っていたのだ。そのような父をいま思う。八月。戦争を老いさせてはならない。

2019年8月 4日
認知症早期発見モデル?

 横浜市が認知症早期発見モデル事業をはじめるという。認知症を予備軍(軽度認知障害)のうちに発見して重症化を予防するのが目的とされる。いくつか疑問点がある。

 まず早期発見という言葉は普通癌などの重い病気を初期の段階で見つけ取り除いて直すという文脈で使うことが多い。認知症という人そのものと結びついた病気に用いると、その人が重篤な病気に移行することを暗示し適切ではないと思われる。

 次に、認知症予防に関して、市では「認知症予防大作戦」なる冊子を用意している。その表紙に「65歳以上の高齢者の4人に1人が認知症に直面している時代です。早目の予防作戦を!」と書かれている。その予防は「よく食べよう」「よく歩こう」「よく外にでよう」とされている。実感として、本当にこれで認知症が予防できるの?と思う。毎日外に出てよく歩いていながら今認知症で通院している患者さんは少なくない。体力、知力、社会的活動や人間関係などが、一種の貯金として社会的にアクテイヴに生きることを助けることはあるだろう。だがこれを認知症予防という一点にしぼることはさびしい。冊子には「認知症予防大作戦」なる大仰な言葉が並び、これを読む認知症の人や家族はどう思うだろうか。傷つけられることはないかと懸念する。また、予防を強調することで社会の認知症そのものに対するイメージは悪くならないか。

 4人に1人が認知症になるのなら、不安を煽(あお)る早期発見モデルではなく、認知症になっても安心して生活できる認知症準備モデル、認知症フレンドリー地域モデル事業こそが必要なのではないか。西区では、お店版認知症ガイドを作成し地域の店舗に配り、認知症の人への理解を呼びかけている。また、わたぼうしカフェなど認知症のひとと家族のたまり場活動、在宅認知症家族サポートなどあけぼの会竹下さん中心に活発に活動している。横浜市は「認知症早期発見」などではなくこのような認知症のひとと家族にやさしい地域づくりに力を注ぐべきであると思う。

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