臨床余録
2019年4月28日
悲しみを知る医者

 『つなぐ命 つなげる心 東京大空襲を乗り越えて 無名偉人伝 町医者・中尾聰子』(平野久美子著)を読む。
 中尾聰子は略歴によると、小児科内科医師 大正14年、医家の長女として生まれる 東京女子医専在学中、東京大空襲で家族9人全員を失う、とある。この本の著者平野久美子は中尾医師の次男と同級生であり、遺品を整理する中に、「少なくとも私は人を失うことの悲しみを知る医師ではあった。それが私の医療を貫くものであった」という文章にぶつかる。“悲しみを知る医師”とは何か。それがこの本を書くきっかけとなった。

 1945年3月10日東京大空襲の夜、東京医専の防空壕のなかにいて助かった中尾聰子は本所区の自宅で家族9人の屍と向き合うことになる。平野久美子の文章はリアルで息をつがせず読ませる力がある。「紅蓮の炎」「弁当箱に入った家族」「納骨の旅」「強く生きる決意」といった小題が聰子の辿った苦難の物語を要約している。
「抱き起こせば爛れし膚(はだへ)あはれ破れ母が腑あたたかく我が膝に溢る」
 このように歌った聰子は大空襲の惨劇を講演や文章で語り継ごうとする。それは「東京大空襲・戦災資料センター」の作家早乙女勝元の活動とも重なるものだった。
 聰子の母方は北海道に入植した開拓民、父方は御典医の家系。
「あなたについていくことはそうむつかしいことでもないと思はれむつかしいことのようにも思はれます」「日々の生活のうちにたのしさを見出しては参りますけれど、日々の生活はまた私を磨く道場であり祈りのときなのでございます」「限りない信と愛。あなたがどんなことをなさろうともたとへ世界中のひとがあなたに疑惑の目を向けることが万が一あろうとも、私はあなたを信じます」
 これは夫となる中尾和人への結婚前の手紙の一部である。愛の本質はかわらないかもしれないが、このような手紙の文体には現代の女性が失った麗しさのようなものが感じられる。学生結婚した聰子は子を産むが戦後の食糧難のなかで「育児というよりは子どもたちに与えられるものを探すのが自分の仕事だった」「そのような環境の中でも私には不思議に悲壮感がありませんでした。むしろそういう過酷な環境にあればこそ喜びも幸せも大きかった」と書く。食べものならすぐ手に入る現代の我々には知ることのない大きな喜びが当時の過酷な日々にはあったのだ。
「この頃まじめに思ひます。私ははたして貴方のよき半身なのでしょうか。・・・本が読みたい、ものが書きたい、明るくすきとおっているような子どもに聞かせられるような優しいお話を」こんな風な生活の翳が日記に書かれることもあった。命をつなぐことが自分の使命であるかのように聰子は4人の子の母となる。そして末子が4歳になったとき再び医師への道に歩を踏み出す。不安な彼女の背中を押したのは「医師になるのが亡くなった家族への一番の供養になる」という夫の言葉だった。
 自宅に医院を開いたのは34歳の時。小児科内科中尾医院は両隣の住まいと変わりない一軒の家。庭にはうっそうと茂る各種植物、待合室には花と絵本が置かれ、診察室には庭の木洩れ日がやわらく差す。
 町医者の流儀として、①患者に寄り添う②ていねいな診察③薬はなるべく処方しない④時間外診療も引き受ける⑤患者さんとのつきあいは長く大切に。
「患者の不安や悩みが、病気だけでなく生活のどういったところから来るのかを聞き出して心身両面からアドバイスをしていた。症状だけでなく病気の不安や生活の不自由さや日頃の悩みを聞き出し相談に乗っていたら1時間になってしまうこともあった」
 ここに町医者の資質の一番大事なことが書かれていると思う。この資質があれば町医者としての成功は約束される。つまり、患者のなかに疾患(disease)だけでなく病い(illness)をみるということである。これはエリックJキャッセルが『医者と患者』(THE HEALER’S ART : A New Approach to the Doctor-Patient Relationship)のなかで述べていることに通じる。また、精神科医アーサークラインマンが『病いの語り』で詳述している点でもある。
 小児科医としての聰子は育児について母親に語る。
「泣いては母を呼び、その懐に抱かれ、愛されて育った子はこころが安定していて強く優しい。・・その子が親になったとき、決して幼児虐待の加害者にはならないであろう。愛を知らずに育った親はわが子の愛し方を知らない。それが次代へ次代へと伝えられていくとき、日本の社会は崩壊するのではないか。母親よ、わが子を抱いて抱いて抱きつくせと私は言いたい」(「人間の医学」2003年11月号より)
 ここには幼児虐待、愛着障害、その世代間伝達の問題がとてもわかりやすい言葉で語られている。まるで現代の状況を予測していていたかのようなその言葉に驚く。
 昭和62年夫を亡くし、その葬儀や供養一切を終えると聰子はますます仕事に邁進することになる。時間外の往診を引き受け、重症患者がいるときはいつ電話がなってもよいように、寝間着に着替えず寝た。
 開業51年85歳で引退。
 2013年7月永眠。
「新米の母親たちや自宅での介護を望む高齢者にとっては、最先端の医院よりも、ともに歳月を重ねてきた地域在住の医師こそ灯台のような存在だと思う・・だから、聰子の訃報を聞いたとき、かけがいのない医師をなくした、地域の損失だと残念がる声が湧き起った」

 “灯台のような存在”―いい言葉だ。できれば僕のささやかな診療所もそのような存在になれたら、と思う。


2019年4月21日
恥のものがたり

 The lancet April 21 2018  Stories of shameを読む。

  医師であり作家でもあるダニエル・オフリは医師になりたての頃殆ど致死的なミスをしたことを書いている。上の医師から自分のミスの説明を求められ言葉が出てこなかった。屈辱感でその場から消えてなくなりたかったとふりかえる。
 オフリの『医師の感情』はプロフェッショナルとしての医師の仕事に立ち向かう際に書かれる多くの書物の端緒となった。そこではその成し遂げた成功についてのみならず大きな失敗や壊滅的エラーについて物語られる。これらは個々の症例報告よりも多くを語り、医療の感情的側面への深い洞察を含んでいる。
 灼けつく潰瘍のような恥の感覚についてアツールガワンデは書く。それは罪ではなかった。罪は間違ったことをしたときに感じるものである。私が感じたのは恥である。恥は間違いそのものである。
 サルトルは人間にとって恥は避けがたいもの、人生のあらゆる場面でいろどりを添える基本的要素であると述べる。恥は適切に対処されないと、その後の人生に害をもたらす。
 医師は自らの恥に関して他者に話すことは少ない。不快であり、恥であり屈辱だからである。医師は仕事上恥を経験することが多い。しかし医師は理性的な者として振る舞い、感情的なふりかえりをする余裕を持たない。そのような内面の自己(inner self)をさらすことは「弱い、プロでない」と思われがちである。
 精神科医ナサンソンは、感情という軸の上でプライドと恥を対極にあると考える。恥はプライドの喪失であり、プロフェッショナルとしての期待に答えられない結果である。医学部は優秀な完全主義者を求め、医師は失敗を許されない。医学部の研修は厳しく教育は儀式化することもある。屈辱感が続き臨床は教育の道具となりいじめもある。
 無力感や脆弱性は若者だけとは限らない。新たな医学のアートは伝統的医学の理想や価値と目標志向的文化の間の厳しい道を歩くことを意味する。官僚的‐臨床的のへだたりは実践の結果を賞罰で判断するようになる。目標志向型方針は複雑な問題やニーズをもつ人々を治療するプロフェッショナルに対して欲求不満、不適合感、失敗の感情をもたらす。その結果自己批判、自己処罰そして恥の感覚が孤立を招き、ストレス、バーンアウトに至ることもある。
 患者が苦しみ、亡くなり、とくに訴訟に至る場合は深い恥の感覚をもたらす。・・・・・ラザレはプロフェッショナルとして恥を経験することは健康であると述べた。・・・ナサンソンは医師個人が如何に恥を内面化しその感情に立ち向かえるかを示す恥の羅針盤を作った。起こり得る反応は医師にとり有害なものである。回避、引きこもり、自己卑下、攻撃そしてナルシシズム。恥はうつや薬物依存に至ることもある。家庭医、パメラウィブルは臨床医の自殺の事例、恥の物語を集め、その結果医学界の冷酷さ、鈍感さがあきらかとなった。精神の問題を持つ医師はその弱点により偏見とネガテイヴな経歴を貼られることになる。医師は問題を隠すようになる。患者の情緒的問題に対応しなければならない時、彼ら自身レジリエントであり自らの脆弱性に負けないことが求められる。
 しかし、臨床医は傷つきやすく(vulnerable)誤りやすい人間である。彼らをして技術的な高度な治療を越えて患者の不安や苦しみと共に歩み、共感や安楽を与えられるようにするのはこのヒューマニテイーなのである。
 医学的過ちを透明化し患者の安全を守ることは重要だが、罰と恥の文化は根強い。・・
 医師が自分の仕事の感情的側面について書くことは大切である。恥に関するストーリーはいかにそれが侵害的なものか、いかに同僚や患者との関係を害するものか、いかにそれが個人のそして患者の幸福を崩すものか、そしていかに我々はそれを防ぎ、不愉快な結果に対処できるかを教えてくれる。同僚や医療福祉関係からのサポートは重要だが、それが可能になるのはそもそもその経験が話されることがなければならない。

 以上が要旨である。

 過去の自分をふりかえる。自分の未熟さから患者が自死を選んだことがある。安易な見通しから患者が危うく命を落としそうになったことがある。その診断ミスで訴訟になったことがある。これらは僕のshameである。すべて開業前のことだが、その時、僕は自分が医者になったことを死ぬほど後悔し、医者である自らを呪った。暗いトンネルのなか、仕事が、つまり患者を診ることが僕を救ってくれた。今思えば、その頃の自分は医者であるという小さな安っぽいプライドで仕事をしていた。いわばまだ恥を知らない医者だったのだ。
 プライドだけを持ち、shameを持たない医師は危ういというべきである。そのプライドはhubris(傲慢)に近い。逆に表面にはでないにしてもこころの奥にshameを秘め、そのことがプライドを下から支えているような医師の仕事にはおのずからhumanityと humilityが滲み出てくるであろう。


2019年4月14日
介護をうたう意味

 死を願う心起こりしことなきや母看る我に問いし人あり

 親の死を待ってるような生き方はいやだがほかの選択がない

 朝日歌壇で採られた歌である。選者の永田和宏氏は「介護の精神的な辛さは明るい出口が望めないことにあろう。綺麗ごとでは済まない酷薄な現実がそこにはある」と評する。ひとに向ける感情は関係が近く親密になればなるほど愛憎がからみあう。表向き優しい介護の奥にその正反対の気持が隠れていることもある。だとしたらそれは否認するのではなくむしろじぶんのなかのその気持ちを外にだした方がよいのではないか。その外にだす容器として短歌は適しているといえる。親の死を願うという本来あるまじき感情を短歌という器にいれることで同じように介護に携わる別のひとりの共感を得る。自分のこわれそうな感情に歯止めがかかる。介護のすさむ感情のセーフティーネットとしての短歌というものがあるのではないかと思う。

 ・貯えの尽きていのちのながらえる姉殺めむと見つむ寝顔を
 ・生きていてくれさえすればと他人(ひと)に言い隠し続ける心の裏を
 ・唇を交わすごとくに頬寄せて寝息確かむ月の下びに
 ・偽善者にほかならずして悲しみの透きとおるまで尿瓶(しびん)を洗う
 ・病室は卵殻のごとき危うさに夕なずみつつかなしみ充たす
 ・かなしみを容れる器となりて読むヨブ記身にしむ塩のごとくに(龍圭介)

 この6首は専門歌人のものだがこころのアンビバレンツが表現され、内省の鏡が深くみずからを照らしだしている。

2019年4月7日
「おきなぐさ」のそれから

 横浜市のモデル事業として高齢精神障害者支援のためのグループホームおきなぐさが2012年3月に設立された。その一年後『おきなぐさ』と題するエッセイを書いた。その文章のさいごに「この施設には単なるグループホームを越えた何かがあるという気がしている」と記した。以後6年間の関わりを通してその何かについて考えてきた。
 入居者は16名、殆どが統合失調症の方である。長い精神病院での生活を経て殆どの方が〈精神荒廃〉〈人格崩壊〉状態として(紹介状にそう記されて)入ってくる。そして僕は主治医としてこの方たちを静かな看取りに向けて診ていくことになると思っていた。ところがいつからか何か違うと思いだした。

 例えば、どうしてそういう状態になってしまったのか紹介状には書かれていないのだが、全く寝たきり、手足は拘縮して動かず、言葉も失われているHさん。この方にリハビリのプランが立てられる。硬く動かない足のポジショニングが専門理学療法師から施される。いかにしたらこの方の足は痛まず、より心地よい状態に置かれるのか。スタッフもポジショニングの思想を学ぶ。ここでのリハビリは再び歩いたり筋力を維持したりということではない。
 リハビリテーションの原義は、失われた人間的権利の回復ということである。だが、ここで行われていることは機能回復ではない。だとしたら、何が回復されるようにリハをしているのだろうか。それはデイグニテイー(尊厳)だと思う。Hさんの長期の精神の病いとの闘いの中で失われたデイグニテイーの回復が図られているのだ。
 Eさんも寝たきり、胃瘻チューブにつながれている。口からはたべられないので一般的な口腔ケアをすればよいと思われるが、訪問歯科医に依頼し、本格的なケアの仕方をスタッフは学ぶ。
 Nさんの支離滅裂の話の中でしきりに帰りたい場所として出て来る田舎の家の話を聞き流すのではなく、その意味を考え、そこに実際連れて行くことをする。
 車椅子で通えそうな人はデイサービスに出して少しでも社会を経験してもらう。
 食べることが唯一の楽しみである入居者を車で連れて遠くまで外食に行く。

 以上のようなホームの日常の報告を受けて僕は驚く。ここは看取りの施設として作ったのではないのかと問う僕に櫻庭さんは「ここでの毎日が看取りなのですよ」と平然として言うのである。
 一言でいえば、ここでは一人ひとりほんとうに大事にされていると思う。勿論精神病院でもこの方たちは大事にされてきた。ただ、その大事にされ方が全くちがうと思う。
 施設のキーワードである〈瞬間の幸福〉の積み重ね、そして常なる〈関わりの質〉の問い直し。それがまさに看取りであることを僕は学ぶ。おきなぐさの実践は多くの学びを僕たちに示している。



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