臨床余録
2019年2月24日
よりよい死のための言葉を

 NEJM JAN17 2019 Better Words for Better Deathsを読む。

 著者がICUで働いている頃、元ナースが台所で倒れ、救急入院した。第5病日までに彼女は脳幹反射を失う。24時間オンコール、外出時のサインは“awaiting withdrawal”(撤退待機)“nothing to do”(NTD)(無処置)家族の同意を得てレジデントに抜管の指示をした。抜管後、大量の胃出血をした彼女は意識はないものの極度の喘鳴を呈し息子はみていることができない。
 皆、こういうものなのでしょうか、と息子は問う。
 患者を無視する意図は全くないのだが、我々の撤退方針は彼女が病院を生きて帰ることはないと知ったときに決まった。我々は臓器の障害を治せるかどうかで経過を追うことをしてきた。毎朝の回診でもそのことが問題であった。いわゆる“興味あるケース”ではなかった。彼女は我々の能力の外にでてしまった。

 “撤退待機、無処置”この言葉が我々のおかしたあやまちをよく表している。彼女が苦しんだとは思わない、だが抜管前モルヒネとアトロピンを投与し母親の死による息子のトラウマを防がなかったことを悔やむ。我々の彼女の終末期の症状に対する怠慢こそがケアの撤退を表わしているのだ。

 著者はふりかえる。患者の死が不可避なもので家族も受け入れるとき、無理な治療や投薬から撤退し治療介入を止めるかもしれない、しかしながら我々は決してケアから撤退してはならない。

 医者になる前に言語学の勉強をしていた著者は、国によって言語の概念がことなりそれは医療にも関わりを持つ可能性を示唆する。

 医学は発達したが、我々は生命維持装置をどう使用するべきかが分からなくなっている。人は必ず死ぬ。しかし、エンドオブライフケアの研修は乏しい。終末期に関わる我々の言語を変えることは延命処置の中止の処置をよりマインドフルなものに変化させうる。注意深い介入は同様に思慮深い退却を必要とする。曖昧な標語のもとに介入することは家族を混乱させ無益な治療を続けることになり、不適当なケアを終末期に与えることになる。“withdrawal of care”という言葉は死にゆく患者とその家族のニーズに背を向ける、ありふれた医学の誤用のすぐれた名称である。
 以上が、抜粋である。

 医学の実践はサイエンスに支えられたアートである(オスラー)。言葉の大切さはいくら強調してもしすぎることはない。治療の撤退はあってもケア(介護、看護)の撤退はそのひとが生きている限りありえない。上記エッセイは“ケアの撤退”という言葉のはらむ危うさに光をあてている。

「医師が治せる患者は少ない。しかし、看護できない患者はいない。息を引き取るまで看護だけはできるのだ」(『看護のための精神医学』中井久夫)

2019年2月17日
食事介助の前に

 老衰あるいは認知症で食べられなくなる時がくる。欧米ではそこが人生のおわりと考える。だから欧米では寝たきり患者がいないという。(本当だろうか)ところが日本ではそこからが介護である。介護者は何とか食べてもらおうとスプーンやフォークで食事を口に運ぶ。口をあけて待っている人もいれば、口を閉じたままの人もいる。
 
 さて自主的に食事をとれなくなったひとりの超高齢男性のことである。認知機能は低下し、早口で独語のように喋るが何をいっているのかはっきりしない。死ぬことへの不安あるいはできなくなった排泄のことに関係しているらしい。往診時僕も耳を傾けるが会話はむつかしい。
 食事介助のためにヘルパーさんが二人くる。一人のヘルパーさんはきめられた時間内で食べさせようと一生懸命にやってくれる。でもスムーズに口をあけてくれず、食べられないでかなり残ってしまう。
 もう一人のヘルパーさんは、まず本人の言う事に懸命に耳を傾け理解しようとする、でも結局よくわからないでおわる。食事を食べさせる時間がなくなってしまうこともある。だがそのひたむきさはまねのできない優しさにつつまれているという。その彼女が申し訳なさそうに出ていく。しかし不思議なことに、このヘルパーさんの帰ったあと、本人は自分で食事をするというのである。

 このご家族の話は興味深く色々なことを考えさせる。食事をとらなければ体力は落ち、死に近づいていく。それをくいとめること、それが介護、と一般的には考える。
 だがそうなのだろうか。極端な場合は必死に口をこじ開けて食物を流し込んでいる場合もあると聞く。結果、誤嚥性肺炎を起こす。食物をとろうとしなくなるその人のことをどれだけ考えているのだろう。もしかすると食べものはもう十分、と言っているのではないか、食べものよりももっと別のものを欲しいと言っているのではないか。食事介助をする前にその人の語られないこころに思いを馳せるべきであろう。

『精神病者の魂への道』の中でシュヴィングは〈母親愛〉と〈母なるもの〉の違いについて書く。母なるものの欠けた親は自分の一部として子を愛する。それに対して、母なるものを備えている親はいつでも準備し控えており、相手の必要とするものを直観的に把握する。
 母なるものの治療効果を論じた章の症例報告の中で、二人の看護師が無理やり口をこじ開け食べさせていた24歳の重症緊張病患者が出て来る。その傍らにシュヴィングは静かに坐りひたすらやわらかいまなざしを注ぎ待ち続ける。やがて患者は少しずつ心を開き食事をとるようになる。

 まず聴くこと、あるいは待つことの大切さ。素早く何かしなければいけないという強迫傾向が僕らのなかにはある。能動的な積極的なケアに対して受動的、消極的ケアの意味を思うのである。

2019年2月10日
指差し

 1歳を過ぎた子がまだ言葉はでないがしきりに指で空中を差し「あ、あ」と言って親の注意をひこうとする。その指の差す方向に視線を伸ばしてみるとそこに鳥がいたり、おもちゃがあったりする。
 このおもちゃがほしいの?と取って渡してやると手にとるがすぐに放り出す。そしてまた別の方を差し、「あ、あ」とはじめる。とても忙しい。かと思うと指差しの先を追っても何もないときもある。

 つまり具体的なものを指す場合と具体物のない場合があるようなのだ。この指差しは何を意味するのだろうか。明らかに誰か、それも親しい誰かがいる時に起る現象であり、ひとりきりでは起きない。ひとに何かを訴えている。

 三木成夫は『内臓とこころ』のなかで、幼児の指差しはひとのこころの発生に関係する、と書く。

「指差しのしぐさ。これこそが人間のこころのめざめの最初の標識」 「幼児があーと声をだしながら遠くの物を指さす、この動作こそ人間を動物から区別する、最初の標識」

 こころの発生と関連して言語の発生を思う。本棚の隅、『言語にとって美とはなにか』(吉本隆明)を取り出す。昔、赤鉛筆でしるしをつけたところを読みなおす。

「この人間が何ごとかを言わねばならないまでにいたった現実的な与件と、その与件にうながされて自発的に言語を表出することとのあいだに存在する千里の径庭を言語の自己表出として想定することができる。・・・言語はこのように対象にたいする指示と対象にたいする意識の自動的水準の表出という二重性として言語本質をなしている。」

 幼児の「あ、あ」は感嘆詞のようにみえながら「あれ」という代名詞のようにも思われる。大事なひととの関係を通して心の発生が言語の発生を伴ってくる場面に立ちあうのはエキサイテイングである。指差しにともなう「あ、あ」はまさに獣ではない人間の心の原基の象徴といえるかもしれない。

附記:上記の1歳すぎの子とは僕の孫である。子どもを育てているときには考えなかったことを、今は考える。距離が遠くなったために今まで見えなかったことが見える、とも言える。

2019年2月3日
〈先生転移〉を考える

 医薬品の適正使用を標語として2018年4月の診療報酬改定により向精神科薬の長期使用、多剤併用に条件が加わった。例えば、不安や不眠に対してベンゾジアゼピン系薬剤の1年以上の処方は問題とされ、処方料、処方箋料が減点される。但し、ビデオ講習会かe-ラーニングを受けるか、精神科医(精神科、心療内科を標榜する医師)の助言を受けるかのどれかがあれば、減点は免れる。助言をする精神科医も講習を受けなければならない(何とも奇妙な話だ)。精神科、心療内科以外で抗不安薬、睡眠薬を長く処方している医師は多いのだろう。講習会の知らせがあちこちから来る。

 背景には、精神疾患の増加、漫然と処方される安定剤による弊害、若い人の依存、高齢者の転倒やせん妄、認知症の加速などの問題があるのだろう。それにしても姑息的な対応だと思う。

『こころの科学』2019年1月号では「服薬と処方の心理」を特集。加藤隆弘氏が「転移―逆転移を扱う精神分析の立場から処方行動を考える」と題して書いている。
「転移とは、・・患者から治療者に向けられる強い情緒を伴うような無意識的反応であり、ひらたくいえば、無意識の水準で治療者を「母親」「父親」「苦手なきょうだい」といった人物と同一視してしまう現象」である。「逆転移とは、治療者の側が患者に抱く無意識的反応」である。

 加藤氏は日本人に生じやすい現象として「先生転移」という概念を提示する。日本の学校教育の中で「先生」と呼ばれる人物への無意識が医者―患者関係にも反映されると考える。治療に生き詰まり薬に頼りたくなる場面で、「先生」と呼ばれる自分をふりかえってみることが、効を奏することがある。患者がくすりを欲するそして治療者がくすりをだしたくなるその背後に潜む、無意識・前意識的な意味を探ること。例えば患者の治療者に対する不平不満が治療者との間で共有され取り扱われることで、治療者は一種の罪悪感から慰めのくすりを与えるという対応に頼らずにすむかもしれない。
「則物的なモノ(くすり)を求める患者に対して、すぐにモノ(くすり)を差し出すのではなく、その欲する情緒(土居健郎氏の概念では「甘え」欲求)を取り扱うという試みは、困難ではあるが、多剤併用を予防するために治療者が身につけたい術である。こうした面接をこなす中で、患者にとって、いつしか治療者の言葉そしてくすりは移行対象(治療者の代わり)となり、最終的に治療者とのほどよい対象関係が患者のこころのなかに内在化され、くすりだけに頼ることなく、一人の人として回復してゆくのである。」と述べる。

 示唆に富む論稿である。患者は医者を万能化、理想化(先生転移)する。医者もそうありたいと思いつつ、そうはいかない現実に苦しむ。患者、医者双方の安易な救いの手段として〈くすり〉がある。それは医者として二流なのだと自覚すること。クスリがほしいという患者の情緒に向き合い、その背景を共に考える。そのことでクスリへの依存度を減らそうと試みること。
 今思いだすのは、故日野原重明先生の「時間というくすりを与える」という言葉であり、その実践だ。患者と向き合い、耳を傾けることの大切さ。大事なのは薬を与えることではなく時間を与えることなのだ。
 僕は、医者のavailability(即応性とでもいうか)ということを考える。患者の不安にいつでも応えられるように準備し待っているという姿勢、ウィニコットの移行対象的存在としての医者ということになるかもしれない。今ここに医者として居ることが薬の代わりになる。だから、くすりは要らない、あるいは最小限におさえられる。それが内科、心療内科、精神科、在宅医療を標榜する町医者の役割と考えている。



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