©1982,2002 Tadashi Matsubara

あとがき

 本書に收めた論文の主題は樣々だが、防衞を論じ、教育を論じ、韓國を論じて、私の關心事は一つであつた。すなはち「道義的とは何か」といふ事であつた。だが、前著『知的怠惰の時代』(PHP研究所)にも書いたやうに、「道義的であるといふ事は、美しい事を言ふ事ではない。常住坐臥、美しい事を行ふ事でもない。それはまづ何よりも、美しい事をやれぬおのれを思ひ、内心忸怩たるものを常に感じてゐる事」なのであつて、片時もさういふ事を忘れずして、私は反韓派知識人や猪木正道氏や石川達三氏や「女王蜂」を斬り、全斗煥氏や申相楚氏を稱へた積りである。おのれの中に間違ひ無く愚物も破廉恥漢もゐるからこそ、私は知的・道義的に怠惰な手合が許せなかつたし、全斗煥氏の膽力や申相楚氏の磊落がおのれに缺けてゐるからこそ、私は兩氏を稱揚した。肖りたいと思つたからである。稱揚した二人がともに韓國人なのは、韓國が今、眞劒勝負を強ひられてゐるからに他ならない。だが、大方の日本人は韓國を、かつて植民地にした三等國としか思つてゐまいから、全斗煥氏を手放しで譽めた私は「純情な坊ちやん」と看做され、大方の失笑を買ふ事となつた。全斗煥氏はその時まだ大統領になつてゐなかつたのである。私は先見の明を誇るのではない。本氣で譽めるに價する人物でなければ、大韓民國の大統領は勤まらないのだが、それを思ひ、日本國の來し方行く末を思ひ、黯然とせざるをえないのである。『反韓派知識人に問ふ』の文末に引いた全斗煥大統領の長男全宰國君の文章を、讀者はどう讀むであらうか。命懸けで信念を貫いた男は、幕末から明治にかけて、この日本國にも確かにゐたのである。たくさんゐたのである。

 だが、『まづ徳育の可能を疑ふべし』に書いたとほり、今や日本では「馴合ひを以て貴しと爲す」のであり、「吾々は互ひに許し合ひ、徹底的に他人を批判するといふ事をしない」。そして、さういふ許し合ひのお遊びの最中に、齒に衣着せずして誰かを批判すれば、いづれは俺もやられるかと、保守革新の別無く、いい加減な物書きは不安に思ふ。いや、不安に思ふだけならよい、「あいつには書かせるな」とて編緝者に壓力をかける手合もゐる。私もその被害者の一人だが、壓力をかけられた編緝者は、言論抑壓の加害者と被害者たる私とを天秤に掛ける。無論私のはうが輕い。輕いばかりではなく、とかく和を亂し物議を醸す面倒な男である。かくて私のはうが捨てられる事になる。

 けれども愚癡は零すまい。ペリー來航に先立つこと六十餘年、林子平は『海國兵談』を書き終へた。そして翌年、時の老中首座、松平定信に會ひ、いたく失望する。定信が海防の大事をさつぱり理解しなかつたからである。そこで子平はどうしたか。仙臺へ戻り、自炊生活をし、毎日せつせと版木を彫つた。言ふまでもなく、當時は活版印刷機などといふ利器は無い。櫻や黄楊や梓の板にいちいち文字を彫つたのである。爲に印刷し出版する事を「上梓」といふ。無論、專門の版木師はゐたが、子平は貧乏だつたから自分で彫るしかない。貧と病に苦しみつつ、彼は約三年彫りつづけた。が、彫るには彫つたが紙を買ふ金が無い。見兼ねた友人達が紙代を出してやり、子平は漸う三十八册の自著を完成する。そしてその一册を幕府の役人が讀む。讀んだ役人が一讀三嘆、といふ事になればめでたいのだが、無論さういふ事にはならなかつた。版木は沒收され、子平は禁錮の刑に處せられたのである。そこで子平はかういふ狂歌を詠んだ、「親もなし妻なし子なし版木なし金もなければ死にたくもなし」。

 子平の事を思へば愚癡るのは贅澤である。私には母親があり、妻子があり、多少の金もある。しかも、書いたものを活字にしてくれる雜誌社があり出版社がある。PHP研究所、中央公論社、月曜評論社、『人と日本』編緝部、及び日教連教育文化研究所に、私は感謝しなければならない。また、敬愛する京都大學教授勝田吉太郎氏の好意、及びダイヤモンド社の加登屋陽一氏の盡力無しに本書の上梓はありえなかつた。兩氏に深く御禮を申し述べる。本書が歴史的假名づかひのまま世に出る事を私は大層喜んでゐるが、それは加登屋氏の識見に負ふところ大なのである。また、私は龍野忠久氏の校正の見事に感服した。加登屋、龍野兩氏の助力が報いられるやう、すなはち本書の出版によつてダイヤモンド社が大損せぬやう、私は祈らずにゐられない。

道義不在の時代・目次

廉恥節義は一身にあり──序に代へて
I 教育論における道義的怠惰
  1. 僞りても賢を學べ
  2. まづ徳育の可能を疑ふべし
II 防衞論における道義的怠惰
  1. 道義不在の防衞論を糺す
  2. 猪木正道氏に問ふ
III 日韓關係論における道義的怠惰
  1. 全斗煥將軍の事など
  2. 反韓派知識人に問ふ
IV 對談
初出一覽
あとがき