©1982,2002 Tadashi Matsubara

III 日韓關係論における道義的怠惰

2 反韓派知識人に問ふ

遊びで石を投げる日本人

 金俊榮氏は三十四歳、文化公報部の行政事務官であり、先般、ソウル滯在中、私が最も親密に附合つた韓國人である。誠實で温厚な金氏の人柄に私は惚れ込み、吾々は國籍、年齢の違ひを殆ど意識する事無く附合つた。

 或る日、その温厚な金俊榮氏が、嚴しく日本のマスコミの韓國報道を批判した事がある。それを私は密かに録音した。文字だけでは所詮微妙な語氣や抑揚を傳へられず、まことに隔靴掻痒だが、金氏の許可を得てゐるから、以下戲曲ふうに金氏との對話を再現する事にする。

ね、日本の記者はね、なぜ北に對してね、北朝鮮に對して、ね、南よりも全然きくない(意味不明)……。
松原
同情的……。
ね、なぜ……、この理由をわたし解りませんよ。
松原
詰り、それはかういふ事──
(激して)なぜ韓國に、韓國ばつかり、あの、噂をきんちよう(意味不明)でね、書きますか。これが私が理解しない──
松原
できない……。
できない事ですよ。
松原
北を襃める事はあつても、惡口は書かないな。何で韓國の惡口ばかり──
さうですよ。それ、わたし、理解できませんですよ、日本に對して。(間)ね、韓國の俗談ね、俗談で、あの、池がありますよね、池の、あの、あのう、池の中で、あの、あのう、何ですか、かわり、かわ……、ね、これ……(漢字を書いてみせる)。
松原
蛙……。
蛙。蛙がありますよ。蛙、泳ぎしてゐるね。あの、或る田舍の、あのう、子供がね、あの、遊びでね、石を、少し石を投げて、ね……。
松原
蛙に投げた……。
いや、蛙ぢやない、池に投げたね。蛙は、ね、unfortunatelyこの石に當つて死ぬ。ね、この子供はね、遊ぶですよ。この蛙はね、死ぬですよ。この俗談がありますよ。日本はね、今、自分はね、遊びでね、あの、石をね。韓國はね、今、あの、何ですか、この、この……(漢字を書きつつ)これに、問題ですよ。
松原
生命……。
生命ね。生命の問題ですよ、韓國人はね。それが、日本、もう惡いですよ。子供は遊びで池に石投げる、蛙はね、unfortunatelyね、死ぬ……。ねえ、日本が、さうですよ、私が考へて……。

 朴正煕大統領の死後、日本は韓國に「遊びで石を投げ」續けた。それは大方の日本人にとつて、韓國民の直面してゐる試練が對岸の火災だつたからに他ならない。例へば次に引用するのは『ステーツマン』昭和五十五年十一月號所載の島良一氏の文章だが、島氏は韓國を惡し樣に言つてはゐないものの、やはり「遊びで石を投げ」てゐる。金俊榮氏の稚拙だが懸命な日本語を思ひ出しつつ、島氏の文章を讀んで貰ひたい。

 しかし、全大統領の權力の基盤をなす軍部内には、まだ豫斷を許さぬ状況が現存していることも事實であろう。(中略)軍部内に反全斗煥派、あるいは全大統領に好感をもたないグループがかなりの割合で存在する可能性は、けつして低くないのである。(中略)たとえば、現在ソウルの消息筋のあいだでことあるごとに語られる有力な觀測──今囘成立した「全斗煥體制」が全斗煥大統領の“獨裁政權”であると見なすことはあまりにも時期尚早であり、陸士十一期生四名の實力者による一種の“集團指導體制”と考える方が妥當である、という觀測を十分に吟味してみるとき、そのことはきわめて眞實味を帶びてわれわれの眼前に迫つてくる。陸士十一期生四名とは、全斗煥大統領のほかに、金復東中將、盧泰愚中將、鄭鎬溶中將の三氏をさす。(中略)現在のところ、以上の三氏と全大統領のあいだに意見の對立はまつたくなく、陸士十一期生四名は「一枚岩」の團結を誇つているとの觀測が支配的であるが、今後彼らの關係がどのような推移をたどるかは、もとより何人にも斷言しうることではない。(中略)全斗煥氏にたいして、いずれ他の三氏が異をとなえる可能性も大いに考えられよう。(中略)きわめて確度の高いある情報によれば、すでにそうした事態はいくつか散見されたといわれる。(傍點松原)

 さて、讀者はかういふ文章の非人間性に氣附いたらうか。島氏はジヤーナリストださうだが、なるほどこれはいかにもジヤーナリストらしい文章である。まず、「きわめて確度の高いある情報」と島氏は言ふが、それがどの程度の「確度」かは島氏にも解つてゐないのだから、「韓國軍内部の動向」についてくだくだしく語りながら、要するに「何人にも斷言しうることではない」事柄を斷言しようと足掻いてゐるに過ぎない。傍點を付した部分は島氏の言分がすべて不確かな臆測にもとづく事を示してをり、臆測を何百何千と集めても所詮眞實を語つた事にはならない道理だが、韓國の諺にもあるとほり「十囘斧を當てられて倒れぬ木は無い」のだから、かういふ根も葉も無い噂ばかり聞かされてゐるうちに、人々はやがて「盧將軍と、金將軍ががつちりとスクラムを組み、全斗煥大統領にたいして對抗するやうになる」に違ひ無いと考へるやうになる。それゆゑ島氏は、韓國に石を投げてゐる事になる。しかも島氏は本氣でない。本氣で全斗煥氏の失脚を願つてゐるのではない。つまり「遊び」である。そして「遊び」で石を投げてゐる以上、全斗煥氏が失脚したら韓國がどうなるかといふ事は一切考へぬ。一衣帶水の隣國に對して、これはまた何たる非情か。

 考へてもみるがよい。金復東、盧泰愚、鄭鎬溶の三氏が「全斗煥氏にたいして、いずれ異をとなえ」たり、「盧將軍と金將軍が全斗煥大統領にたいして對抗するやうな事態」となつたりすれば、韓國軍は分裂するかも知れぬ。そして國軍が分裂したら韓國はまたぞろ存亡の機に臨む事になる。それを島氏は本氣で望んでゐるのか

 だが、手に負へないのは、島氏自身に韓國に對して冷酷な事を書いたとの意識が無いといふ事なのである。實際、島氏は韓國軍の分裂を望むとは書いてゐない。島氏は「對立の可能性を一笑に付すことはできない」といふふうに書く。が、全斗煥氏と將軍たちの對立の可能性を云々しながら、本氣でそれを期待してゐるやうにも、勿論本氣で案じてゐるやうにも見えず、それゆゑ冷酷に振舞ひながらその自覺を缺くこの手のジヤーナリストを、私は韓國軍を罵倒する手合よりも惡質だと思ふ。例へば鄭敬謨氏のやうに「全斗煥のあのバカが……」(『新日本文學』五十五年八月號)などと口走つてくれれば、それで忽ち御里は知れる譯だが、一見客觀的であるかに思へる島氏の文章に、とかく讀者は騙されるからである。

「客觀的報道」の非人間性

 それゆゑ、これは韓國とは直接關はりの無い事だが、昨今日本のマスコミを横行闊歩するジヤーナリストやルポ・ライターの非人間性について、日頃考へてゐる事の一端を書いておかう。大方のジヤーナリストやルポ・ライターは、島氏もさうだが、耳に觸れた限りの有る事無い事を記述して、その有る事無い事についての價値判斷は下さない。それを彼等は「客觀的報道」と稱し、世間もまたそれを望ましい事のやうに考へてゐる。かくて例へば、アメリカで目下流行してゐるといふフイスト・フアツキング(げんこつ性交)について詳細に記述しながら、フイスト・フアツキングを筆者が奬勵してゐるのか、それとも憂慮してゐるのか、それがさつばり解らぬといふ奇怪な文章が書かれ、讀者もまたそれを一向に奇異に感ずる事が無い、といふ事になる。例へば次の立花隆氏の文章を讀者はどう讀むか。

 山口組の幹部が、アメリカのマフイアに招かれて渡米したことがある。彼がマフイアの有力者の主催する正裝したパーテイーにまねかれていつたところ、宴たけなわとなつたところで、會場にしつらえられたステージでアトラクシヨンがはじまつた。(中略)シロクロの實演シヨーで、さすがにプロらしく見事なセツクスを披露したが、彼としては日本でも見慣れているものなので、さして感心もしなかつた。ところが、最後に女がクライマツクスに達したところで、その女の首を刀でスツパリ斬り落し、それがころがり落ち、血がドツと吹きだした。それに對して會場からは大きな拍手が湧いたが、山口組の幹部は脚がガクガクしてふるえがとまらなかつたという。(『諸君!』、昭和五十三年五月號)

 「アメリカSEX革命報告」と題するこの立花氏の連載記事は、その後一本に纏められたさうだが、私はまだ讀んでゐない。が、『諸君!』五月號の文章から判斷する限り、かういふおぞましい話を紹介する立花氏が、何かを本氣で憂へてゐるやうにはとても思へない。といふより、憂へてゐるのか樂しんでゐるのか、それがよく解らない。立花氏はフイスト・フアツキングやチヤイルド・ポルノについて蘊蓄を傾けるが、さういふおぞましい記述を、「性的快樂と殺戮快樂」には「つながりがあるといえるのではないだろうか」との陳腐な文章で結んで平然としてゐられる立花氏を、私はフイスト・フアツキングや鮮血滴る生首同樣薄氣味惡く思ふ。

 勿論、韓國軍の分裂と「シロクロ實演シヨー」における頽廢的な殺人とは同日の論ではない。が、島氏の文章は、そのおぞましさにおいて、立花氏のそれと甲乙無いのである。フイスト・フアツキングや生首について語つて立花氏が、憂へてゐるのか樂しんでゐるのか解らぬと同樣、島氏も韓國軍分裂の可能性を語つて、それを案じてゐるのか期待してゐるのかは判然としない。だが、奇妙な事だ、それなら立花氏や島氏は何のために書くのか。それは愚問だ、決つてゐる、身過ぎ世過ぎのために書くのだと、さういふ事になるのなら、立花氏も島氏もゲシユタポ地下室の速記者と寸分變らぬ、といふ事になる。ジヨージ・スタイナーは書いてゐる。

 ナチ時代特有の恐怖のひとつが、じつは、起つたものはいつさい記録され(中略)たということであり、それはいかなる人間の口をとおしても語られたことのないもの(中略)が、言葉によつて果たされたということであつた。(中略)ゲシユタポの地下室には、速記者たちがいて(通常は女性であつた)、身體を捩じまげられ、燒きごてをあてられ、毆り倒された人間の聲からもれてでる、恐怖や苦悶の喧噪を、丹念に書き留めていたのである。(深田甫譯)

 ゲシユタポの速記者に「何のために書くのか」と問ふのはおよそ無意味である。ヒツトラーなら、尤もらしい理由を滔々と述べるであらう。が、速記者は身過ぎ世過ぎのために書いたのであつて、それ以外に理由は無い。とすれば、ゲシユタポの速記者と島良一氏との間にさしたる懸隔は無いといふ事になる。島氏を「自覺無き冷血漢」と呼ぶゆゑんである。

傳聞で「眞相」が語れるか

 ところで、もとより島氏の場合とは逆に、頗る主觀的な、惡意を剥出しにした韓國報道もある譯で、例へば毎月『世界』に寄稿し、『韓國からの通信』と稱して飽く事無く韓國に石を投げてゐるT・K生の文章がさうである。そして、韓國を惡し樣に言ふ反韓派は屡々T・K生の文章を引用するのだから、『韓國からの通信』が反韓派の情報源として大いに役立つてゐる事は明らかである。さらにまた、『韓國からの通信』は岩波書店から新書版としてすでに第四卷が出版されてゐるが、第一卷の出版は昭和四十九年であつて、韓國に對してこれほど執念深く石を投げ續けた人物はゐないのではないかと思ふ。とまれ、T・K生は、こんなふうに書くのである。

 ソウルの友人の記者たちや市民の間に流れている情報を綜合すれば、光州の事態は次のような模樣である。(中略)兵士たちは、ほとんど無差別に銃劒で刺した。彼らは「全羅道の連中は滅種してもかまわないんだ」と叫びながら、子供たちもつき刺した。タクシーのドアをあけて運轉手をつき刺した。

 光州事件については稿を改めて書かうと思つてゐるから、ここでは觸れない。私がまづ言ひたいのは、かういふでたらめな文章を讀まされ、韓國軍が同胞に對してそんな無意味な蠻行を敢へてする筈が無いと反論したところで、それは所詮水掛け論に終るしかないといふ事である。なるほど戒嚴司令部の公式發表があつて、それにはかう書かれてゐる。

 止むを得ず戒嚴當局は、午後四時四十分頃、兵力を投入した。その際の示威行爲に加はつてゐたのは大部分學生であり、阻止せんとする若い軍人に對し投石と暴行をもつて對抗した。やがて一部市民も合流、軍人に投石し、雙方に負傷者が出、若き軍人と若き學生はともに興奮、罵聲と怒號をもつて對抗するに至つた。一方、この騷亂のさなかに、不純分子の所業と思はれる流言蠻語、すなはち、「慶尚道軍人が全羅道人の種を絶やすためにやつて來た」とか、「慶尚道軍人のみを選んでやつて來た」とか、理性的にはとても考へられないやうな、地域感情を刺激し煽動する噂が、短時間のうちに光州市内に廣まり、それが市民を興奮させ、かくて示威の樣相は激化する事となつたのである。

 私はもとより戒嚴司令部の發表を信じる。光州の暴動を鎭壓した特戰隊の司令官鄭鎬溶中將の人柄を知つてゐるからである。鄭中將の威ありて猛からざる人柄についてはいづれ書くが、そしてそれを讀めば讀者はT・K生よりも私の言分のはうを信ずるやうになるに違ひ無いと思ふが、それはともかく、T・K生も私も當時光州にはゐなかつたのであつて、どちらも現場にゐなかつたのに、一方が戒嚴司令部の發表が正しいと言ひ、他方が正しくないと言ふだけでは、それは不毛の水掛け論、堂々廻りの押し問答である。が、光州事件について特戰隊の暴虐を強調する手合は、「確たる事實には立たず、あやしげな情報」に頼つてゐる危ふさを一向に意識する事が無い。

 例へば反韓派は、光州から屆けられたメツセージなるものを證據としてゐるが、それが確かに光州から發送されたものかどうか、及び光州市民の過半數が事實と認めるものかどうかについては、反韓派も、もとより親韓派も、斷定的な事は一切言へない筈である。T・K生も私も、當時光州にはゐなかつた。しかるに、反韓派が例へば私を戒嚴軍に荷擔する許し難き奴と極め附けるなら、私のはうも反韓派を、北朝鮮のスパイつまり「不純分子」に荷擔する許し難き奴と極め附けてよい譯で、かくて戒嚴軍と「民主主義囘復を求める民衆」のどちらを支持するかによつて、雙方ともに光州にはゐなかつたにも拘らず、互ひに相手の「情報」を「あやしげ」と形容し、徒勞の口爭ひが果てしなく續けられる事になる。さういふ口爭ひの空しさに、親韓派も反韓派も、そろそろ氣附いてよい頃である。

 反韓派は「光州での民衆の抵抗と戒嚴軍によるその血まみれの彈壓」について語るのだが、當時光州にゐなかつた反韓派は、いかなる「具體的な根據に立つ」て戒嚴軍の行動を「血まみれの彈壓」と評するのか。實は私は『光州事態の眞相はなにか』と題する小册子を持つてゐる。在日本大韓民國居留民團中央本部が刊行したものである。いづれ光州事件について論ずる際、私は參考資料として用ゐる積りだが、その際も私は戒嚴司令部や居留民團の發表を鵜呑みにはしない。小册子の「はしがき」には「初期の集團意志示威行動から遂には武裝暴徒化し、一部不純分子たちの暴威は、無分別な殺人・掠奪・公共建造物の破壞・放火といつた具合に、あたかも無法の修羅場さながらに光州全域を吹き荒れた」といふ一節があるけれども、それこそまさしく「光州事態の眞相」だと私が主張したところで、それはさしたる説得力を持ちえない。光州事件の死亡者數にしても、戒嚴司令部の發表では「民間人一四四名、軍人二二名、警察官四名」といふ事になるが、それが正確な數字だと私がいくら主張しても、反韓派にしてみれば戒嚴當局に荷擔する惡玉の言分としか思へず、それゆゑ耳に掛ける氣にはなれぬであらう。

 だが、ここで誤解されぬやう斷つておくが、私は戒嚴司令部や居留民團の努力が空しいなどと言つてゐるのではない。無責任極まる反韓報道が罷り通る以上、目には目を、齒には齒を、正當防衞の公報活動は是非とも必要である。だが、その種の對症療法は短期的には奏效するかも知れないが、それだけでは不充分なのであり、私はそれが言ひたいに過ぎない。

 話を本筋に戻さう。執拗に韓國に石を投げてゐるT・K生の文章は反韓派の情報源として大いに役立つてゐる、と私は書いた。だが、T・K生の記述の大半が傳聞證據なのである。「ソウルの友人の記者たちや市民の間に流れている情報を綜合すれば」とか、「民主化運動をしている友人の一人は語つた」とか、「全斗煥の上官であつた尹泌少將が再び軍部に復歸して、近く中央情報部長に就任するという噂がとんでいる」とか、さういふふうにT・K生は書く。要するに「友人の一人がT・K生に語つた」といふ事や「ソウルではかくかくの噂がとんでいる」といふ事だけが事實であるに過ぎない。

 しかるにT・K生の權威を反韓派はいとも無邪氣に信じ込む。T・K生の文章は「韓國からの通信」と題してゐる。眞僞のほどは無論解らぬが、T・K生は韓國に住んでゐるとの事であり、それなら日本人よりも韓國の事を正確に知つてゐる筈だと、反韓派はもとより、一般の讀者もつい思ひ込む。それはつまり、事實の量に目が眩み、事實の質を怪しまないからである。『諸君!』五十五年四月號に『朝鮮日報』の鮮于氏は、『韓國からの通信』の「九〇パーセントが事實であり、その情報のくわしさには時に驚く」と書いた。が、假に「九〇パーセントが事實」だとしても、その九〇パーセントの大半が低級で瑣末な事實なのであつて、低級で瑣末な事實なんぞに驚く必要は無い。頭を使はずとも足さへ使へば、そんな物はいくらでも蒐集できるからである。

 シエイクスピアが受取つた洗濯屋の請求書を發見したところで餘り意味は無いが、いづれ天才的な學者がそれを用ゐてすぐれたシエイクスピア論を物するかも知れず、それゆゑ或る藝術作品についての低級な事實を蒐集する學者のはうが、獨斷的な批評家よりもましであると、T・S・エリオツトが書いてゐる。その通りである。だが、洗濯屋の請求書が發見されてシエイクスピアが傷つく事は無いし、イギリスの小説に麒麟が登場する囘數を調べる學者も無害だが、T・K生の蒐集する「低級な事實」は、金俊榮氏が言つたやうに「遊びで韓國に石を投げる」ために用ゐられる。かてて加へてT・K生は傳聞による「低級な事實」を蒐集するだけではなく、鮮于氏の言葉を借りれば「何でもないような個所に眞實とは違うチヨツトした話」を挾むのだが、「實にそれが韓國に對する認識を根本的に變える扇の要のような重大な役割を果す」のである。鮮于氏は『世界』編輯長に對する「情誼」を考へてかやや控へ目に批判してゐるが、要するにT・K生は九〇パーセントの「低級な事實」を集め、殘る一〇パーセントに小細工を施すのであつて、その小細工の小細工たるゆゑんを知りさへすれば、T・K生の「權威」なんぞに惑はされる事は無い。戒嚴司令部が正しいと一方が言ひ張り、「民主化を願う光州の民衆」が正しいと他方が言ひ張るばかりなら、それは不毛の水掛け論で、所詮決着はつきはしないが、T・K生を打ちのめすには、彼の文章の小細工とでたらめを、T・K生が反駁できぬほど徹底的に批判すればよいのであり、そのためには戒嚴司令部の發表を參照する必要は無いし、全羅南道を訪れる必要も無いのである。

《T・K生の愚昧》

 では、T・K生の成敗に取り掛らう。まづ指摘したい事はT・K生の頭腦の粗雜である。『世界』五十五年十一月號に彼はかう書いてゐる。

 全斗煥の人となりを示すといおうか、國民の全斗煥に對する見方を示すといおうか、こういう話もある。彼が陸軍保安司令官でまだ少將の時分であつた。すでに實權を握つている時であつたので、彼も國務會議に出席したが、いつしか彼の肩には大將の四つ星が光つていた。その後はその間違いに氣づいたのか、三つの星の中將になつていた。(傍點松原)

 例によつてこれも傳聞であつて、「こういう話もある」といふ事實を傳へてゐるに過ぎない。それはともかくT・K生は、全斗煥氏が「少將の時分、すでに實權を握つてい」たと書く。

 だが、右に引用した文章の直前に彼はかう書いてゐるのである。

 全斗煥は大統領就任を待ちきれず、統一主體國民會議というのが大統領選出の茶番劇を演ずる二日も前に、大統領官邸青瓦臺に入つた。それは彼が大統領になることにしたことに對して、どのようなことが、とりわけ軍部の中に起こるかしれないと恐怖にかられたからであつた。青瓦臺には保身の防備が徹底しているし、いつでも逃亡できるような飛行機の準備もできているからである。

 實はこのくだりも傳聞なのだが、頭の惡いT・K生には矛盾する二つの傳聞證據を竝べるのは賢明でないといふ事が解つてゐないのだ。さうではないか、「少將の時分」すでに實權を握つてゐたのなら、大統領就任の二日前、「どのようなことが、とりわけ軍部の中に起こるかしれないと恐怖にかられ」る筈が無い。それに何より、大統領就任を二日後に控へて軍部の反亂を恐れねばならぬほどどぢな少將に、どうして鄭昇和大將を逮捕できたらうか。シエイクスピアがジユリアス・シーザーに言はせてゐるやうに「臆病者は現實の死を迎へるまでに何度も死ぬ」。が、全斗煥氏は斷じてそのやうな臆病者ではない。T・K生も認めてゐるやうに、全氏は大統領就任直後、地方巡視に出掛けてゐる。それなら、就任二日前の八月二十五日に軍部の反亂を恐れてゐた男が、どうして十日後の九月四日に光州なんぞへ出向くであらうかと、常識を働かせ、さう考へるだけで、T・K生の小細工のお粗末はいともた易く看破できる筈なのである。

 もつともT・K生は「新聞には(全斗煥大統領が)光州の道廳で訓示をしたとして或る官廳のみすぼらしい一角の寫眞が出ているが、實は光州には恐れをなして、足を踏み入れることができなかつたという噂が流れている」と附け加へてゐる。が、これもT・K生の愚鈍の證しに他ならない。假に全大統領が「光州には恐れをなして、足を踏み入れ」なかつたとしよう。その場合、大統領の臆病と小細工は、側近のみならず「或る官廳のみすぼらしい一角」を撮影したカメラマンにも、「大統領が光州の道廳を訪れた」との虚僞の新聞報道を讀む道廳の役人たちにも知れてしまふ道理であつて、それくらゐならいつその事光州なんぞに近附かぬはうが遙かにましであつて、その程度の才覺なら中學生でも持ち合せてゐよう。要するにここでもT・K生は、おのれの器で人を量り、おのが才覺の乏しさを露呈してゐるに過ぎない。そればかりではない、T・K生が韓國人なのか日本人なのか私は知らないが、彼はまた「金大中氏は中學生竝みの才覺の持主にしてやられた」と主張してゐる事になる。それこそ、體制反體制を問はず、韓國民に對する最大の侮辱ではないか。

 T・K生はまた、全斗煥少將が「國務會議に出席した」際、「大將の四つ星が光つてい」る軍服を着用してゐたといふ「流言」を紹介する。が、途轍も無いほど野蠻な國ならばいざ知らず、少將が大將の階級章を所有してゐるといふ、そんなでたらめな軍隊がこの地球上に存在する譯がない。實際韓國では、大將の階級章は大統領が手づから授與する事になつてゐる。

 しかもT・K生は「間違いに氣づいた」全斗煥少將が「その後は」中將の階級章を着けてゐたさうだと書いてゐる。さうなると、大將の階級章と中將の階級章を少將が所有してゐた事になる。いやはや何とも驚き入つたる次第であり、開いた口が塞がらないとはまさにこの事だ。韓國軍はさまで無規律な軍隊なのか。だが、一旦大將になつたからには、「すでに實權を握つてい」たのだから、「その間違いに氣づいた」としても、そのまま大將で押通したはうがよささうなものである。慌てて中將に戻つたら却つて權威を失墜しよう。再び、全斗煥氏は中學生竝みの才覺も持合せぬ愚者なのか。そして大韓民國はそれほどの愚者にも大統領が勤まる國なのか。それなら、それほどの愚者に「國務會議」のメンバーや韓國軍が牛耳られ、金大中氏たち反體制派が手玉に取られてゐるのなら、T・K生が願つてゐるらしい韓國の「民主囘復」なんぞ夢のまた夢ではないか。

騙されたがつてゐる反韓派

 諄いやうだがここで馬鹿念を押しておかねばならない。T・K生の記述の大半は傳聞證據なのである。そして、傳聞だと斷れば何を書いても大丈夫だと彼は思つてゐる。底の淺い噂話に興ずるのはおのが淺薄を滿天下に曝す事だといふ事が、彼には理解できないらしい。だが、T・K生のこの途方も無い愚昧に日本の反韓派は氣附かず、『韓國からの通信』を金科玉條の如くに有難がるのである。實際、大江健三郎氏などは「韓國の民主主義囘復のための運動の、われわれが眼にしうるかぎりの最良の自己表現」とまで評してゐる。

 反韓派がさまでたわいも無く欺かれるのは一體全體どうした事なのか。

 それはかうである。島良一氏を批判してすでに述べたやうに「臆測を何百何千と集めても一つの眞實をも語つた事にならない」が、T・K生の場合は、「友人のジヤーナリスト」や「民主勢力の或る長老」が語つたと稱する噂話に、ちよつとした細工が施されてゐるのである。例へばT・K生はこんな具合に書く。

 今度の金大中氏事件關連者に對する陸軍保安司令部での拷問は、言語に絶するものであつた。金大中氏も入れられた地下室牢は悲鳴がみなぎつていた。その中には金大中氏の悲鳴もあつたと思われるが、區別ができないほどであつた。ただ高齢者の一人である文益煥牧師の悲鳴が、もつとも耐えられないものであつた。

 「地下室牢の悲鳴」を聞けるのは國軍保安司令部の軍人だけである。してみれば、T・K生には保安司令部に勤務してゐる友人がゐるらしい。T・K生に情報を流すスパイも捕へられないほどお粗末な國軍保安司令部なら、全斗煥前司令官が鄭昇和前戒嚴司令官を逮捕できた筈は無いが、それはともかく、假に保安司令部に勤めるT・K生の友人が「地下室牢は悲鳴がみなぎつていた」云々と語つたといふ事だけは事實と認めるとしよう。そこでT・K生の、いやT・K生の友人の、言葉遣ひに注目して貰ひたい。

 國軍保安司令部の「地下室牢は悲鳴がみなぎつて」ゐて、「その中には金大中氏の悲鳴もあつたと思われるが、區別ができないほどであつた」と彼は言ふ。これがT・K生の、或いはT・K生の友人の、見え透いた小細工なのである。「思われる」といふのはもとより推量である。つまり彼は傳聞證據の中にもこつそり推量を忍ばせるのだ。推量は所詮推量であり、事實を語つた事にはならないが、それで充分用に立つ、寄せ餌に群がる小鯖よろしく、迂闊な讀者が擬似鉤に飛び附いてくれるといふ譯だ。悲鳴の「區別ができないほど」だつたのなら、「文益煥牧師の悲鳴」だけが區別できた筈は無い。しかるに、さう考へるだけの分別は、保安司令部を惡玉、金大中氏や文益煥氏を善玉と割り切つてゐる正義病患者には到底期待できないのである。

 要するに、反韓派がT・K生の文章の粗雜や小細工に氣づかないのは、氣づきたがらないからであり、彼等は、それがいかに安手のものであれ、信じたくない事實よりは「正義感」を滿足させてくれる嘘のはうを好むのであつて、要するにT・K生に騙されたがつてゐるのである。そして反韓派は、その幼稚な正義感ゆゑにこそ、弱者を善玉、強者を惡玉と割り切るのであり、かくて逮捕された金大中氏は善玉だが、逮捕した全斗煥氏は惡玉であり、鎭壓された民衆は善玉だが、鎭壓した特戰隊は惡玉だ、といふ事になる。金載圭もかつて強者だつた頃は惡玉だつたが、「惡玉」朴正煕氏を暗殺した途端に「善玉」になつた。敵の敵は身方といふ譯だ。T・K生は五十五年二月、次のやうな「友人のジヤーナリスト」の言葉を記録してゐる。

 軍人どもが自分らの力を過信し、ただ敵意に燃えて過ちをおかすことのないようにと祈つている。いま金載圭氏らを無期ぐらいにしたら國民はホツとして喜ぶだろう。彼らを處刑すれば、殘黨は最惡だという印象がますます強くなる。將來の韓國の歴史が金載圭氏を愛國者として記録するのは間違いない。

 もとよりかういふ安直な善玉惡玉二分法はT・K生に限らない。例へば鄭敬謨氏もさうである。鄭氏はかう語つてゐる。

 光州の事態はあくまでも全斗煥軍のまさに殺人鬼的な殘虐行為から自然發生的に發したものです。光州で録畫されたビデオ・テープを見ましたが、何人かの市民が出てきて、「われわれは人間としての當然の努めとして政府軍と撃ち合いをやつたのだ。誰が好きこのんで武器をとるようなことをするだろうか」と言つてます。(中略)光州のあの悲慘な事態についての責任は、全面的に全斗煥側にあると言わざるを得ません。(『新日本文學』五十五年八月號)

 プラトンが書いてゐるやうに「語り掛けるべき人々に語り、語り掛けるに價せぬ人々には沈默する」のが賢明なのかも知れぬ。それゆゑ私も鄭敬謨氏の淺薄について長々と語らうとは思はない。T・K生と鄭敬謨氏との類似點を指摘しておくにとどめよう。

 鄭敬謨氏も、數人の友人の話だけが眞實を語つてゐると考へるT・K生と同樣、ビデオ・テープに録畫された「何人かの市民」の言分だけが光州事件の眞相を傳へてゐると思ひ込んでゐる。そして、それはもとより安直な二分法のせゐであり、鎭壓した側の「全斗煥軍」は「殺人鬼的な」惡玉で、「人間としての當然の努め」を果した「何人かの市民」は善玉なのだから、責任は「全面的に全斗煥側にある」といふ事になる譯だ。さらにまた、T・K生と同樣、鄭敬譲氏も、安手の正義感と思考の混濁ゆゑに、傳聞證據が傳聞證據に過ぎぬ事をうかと失念する。鄭氏はかう語つてゐる。

 ソウル驛前の廣場に七萬人の學生が動員されたとき、バスが徴發され、乘客を下ろして警官隊の中につつ込んでいつたという事件があり、警官が一人死にました。學生たちはそこまでいつたのかと最初私は思つたのですが、あとから話を聞けばそれをやつたのは學生ではなかつたと言うんです。むしろそれをやつた人間を學生の方が捕まえて警察につき出したそうです。明らかに政府側の挑發だつたわけです。(『新日本文學』八月號。傍點松原)

 鄭敬謨氏に限らぬ。反韓派は常にこの傳で傳聞と眞實とを混同する。「警察につき出したそうです」と言ひ、その舌の根も乾かぬうちに「明らかに」云々と斷定する。しかも、鄭氏はその詐術を詐術と意識してゐる譯ではない。

 さういふ愚鈍な手合に對していかな反證を擧げようと、反證が傳聞なら所詮は徒勞であつて、こちらも傳聞と眞實とを混同できるほど愚鈍かつ鐵面皮になり、「明らかに暴徒側の挑發だつた」と負けずにがなり立てるしかない。が、それには體力と根氣が必要で、それは叶はぬとなれば、T.K生や鄭敬謨氏の愚鈍ゆゑの粗雜な思考を嗤ふしかないのである。例へば私が指摘したT.K生の思考の粗雜について、T・K生もしくは鄭敬謨氏は、到底反論できぬであらう。「文は人」なのであつて、粗雜な文章は粗雜な思考の決定的な證據になるのである。

賢愚をわかつもの

 諄いやうだが、私と同樣、T・K生も鄭敬謨氏も光州にはゐなかつたのである。それゆゑ私は、「光州事態の眞相はなにか」について斷定する積りは無い。私がここで問題にしたいのは、韓國に石を投げる反韓派が、測り難き眞相についての敬虔な感情を缺いてゐるといふ事である。つまり、安手の正義感に盲ひたる反韓派にとつて、「光州事態の眞相」は自明の事なので、眞相は結局「藪の中」かも知れぬといふ事を反韓派は考へてみようともしない。そして、さういふ眞實に對する敬虔な感情を持合せぬ手合が、戒嚴司令部といふ權威を信ずる韓國の民衆よりも賢いとは斷じて言切れないのである。

 ここで讀者は金俊榮氏の言葉を思ひ出して貰ひたい。「なぜ韓國に、韓國ばつかり、あの、噂をきんちようでね、書きますか」、さう金氏は言つた。勿論、金氏も「光州事態の眞相」を知つてゐる譯ではない。が、私はT・K生や鄭敬謨氏よりも、文公部の若い役人のはうが賢いと思ふ。なぜなら、金氏はおのが「知力では判斷を下す資格がない」と知れば「權威を受け入れる」からである。ホイジンガは書いてゐる。

 かつての時代の農夫、漁夫あるいは職人といつた人びとは、完全におのれじしんの知識の枠内で圖式を作り、それでもつて人生を、世界を測つていたのである。自分たちの知力では、この限界を越える事柄については、いつさい判斷を下す資格がない、そうかれらは心得ていた。いつの時代にも存在するほら吹きもふくめて、そうだつたのである。判斷不能と知つたとき、かれらは權威をうけいれた。だから、まさしく限定において、かれらは賢くありえたのである。(『朝の影のなかに』、堀越孝一譯)

 「限定において賢くありえた」とはどういふ事かを知りたければ、きだみのる氏の『につぽん部落』(岩波新書)を讀めばよい。「終戰前後から十五、六年くらい」の頃、「東京都の西の端を限る恩方村」邊名部落に「限定において賢い」としか評しやうの無い人々が住んでゐた事が解る筈である。その一人がかういふ名言を吐いてゐる、「本なんておめえら讀むでねえ。本を書くにや筆が要らあ。本書きの使う上等な筆になればなるだけ狸の毛ばが餘計入るもんなあ。化かされて暇と金をすつちや藝もねえからよ」。

 「狸の毛ばが餘計」入つてゐる毛筆の代りに萬年筆を握り、韓國についてのまことしやかな噂を書き散らすT・K生は、「藪の中」の事柄、或いは「限界を越える事柄については、いつさい判斷を下す資格がない」などと、ただの一度も考へた事が無いであらう。そして、なにせ國軍保安司令部の「地下室牢」の内部までお見通しらしいから、戒嚴司令部の如き權威は一切受け入れる必要が無いのであらう。だが、「友人のジヤーナリスト」や「民主勢力の或る長老」といつた淺薄な手合に從つてゐるT・K生が、戒嚴司令部の權威を受け入れてゐる金俊榮氏よりも賢い筈は斷じて無い。「賢い人に從ふのは賢い事と同じだ」とアリストテレスは言つた。その通りであつて、吾々は皆、病氣になれば醫師の判斷に從ふのである。

知らされすぎの弊害

 「こんにち西洋に生きているごくあたりまえの人々のばあい、かれらはあまりにも多くのことを知らされすぎている」とホイジンガは言ふ。洋の東西を問はず、それは憂ふべき現代病である。光州で何が起つたかは吾々にとつて「藪の中」である。が、テレビのスイツチを捻るだけで、或いは新聞の社説やT・K生の駄文を讀んだだけで、人々は「自分で思考」した積りになり、「自分で表現」してゐる氣になつて、「金大中氏を殺すな」のデモに參加し、ハンストをやり、「民主勢力との連帶の挨拶」に醉ふ。それは嗤ふべき淺薄だが、同時に憂ふべき現代病でもある。マスコミやルポ・ライターによつて吾々は、イラン・イラク戰爭だの、ポーランドのストライキだの、原子力發電だの、藝能界の「噂の眞相」だのと、「あまりにも多くのことを知らされ」ながら、といふよりは知らされるがゆゑに、「限界を越える事柄については、いつさい判斷を下す資格がない」との謙虚な心構へを今や喪失してゐる。そして「あまりにも多くのこと」のすべてについて「自分で思考」する譯には到底ゆかないから、人々は、出來合ひの思想を探し求める事になるが、出來合ひといふものは、服であれ思想であれ、多くの人々に利用されるやうに拵へてあるから、當然の事ながら非個性的であり、非個性的だから同志との糾合を圖るのに便利で、かくて身方を善玉、敵を惡玉とする安直な二分法が持て囃され、人々は敵を罵る事によつて肌を合せ、身方との「連帶」を無上の快とし、身方が自分と同じ考へである事を確認して安心したがるのである。例へば次に引く文章を見るがよい、最後の一行が特に興味深い。

 五月二十三日、平壤放送は韓國への“不介入”を宣言する朝鮮中央通信の聲明を放送した。(中略)「多くの市民と全斗煥軍が全面衝突して多數の死傷者が出た」「高校生たちも授業を拒否して市街をデモした」。(中略)平壤放送の、煽動調ではなく、重々しい調子の語り口には迫力があつた。とくに三十日朝のニユースは「四・一九の教訓を忘れず、たたかう人民の側、父母兄弟の側に立ち、反維新・反フアツシヨ鬪爭隊列に勇敢に立ち上るべきである」と韓國人民や兵士にたいして訴えたのは印象にのこつた。この放送を日本でききながら二つのことを考えた。第一は事件の客觀的事實と政治的本質を明快に指摘したことに對する共感であつた。しかし、第二には、海をへだてた日本でこの放送をききながら、何んともいいようもないもどかしさや無力感をもつた。

 小中陽太郎も、筆者とおなじような無力感をもつたらしい。(松浦總三「光州事件とマスコミ」、『統一評論』五十五年九月號。傍點松原)

 最後の一行については説明を要しないと思ふ。何ともはや砂を噛むやうな駄文だが、文章作法上の缺陷も指摘しない。だが、この松浦氏の駄文には、反韓派を批判してこれまで縷々述べて來た事柄が集約されてゐる。まづ、「藪の中」の眞實に對する畏敬の念を持合せぬ松浦氏は、平壤放送を鵜呑みにして「光州事態の眞相」すなはち「事件の客觀的事實」を把握できたと思ひ込んでゐる。次に、松浦氏は「たたかう人民の側、父母兄弟」の側が善玉で「全斗煥軍」は惡玉だと「明快」に區分けする平壤放送の「煽動調」の非人間性に氣附かず、その「明快」な「政治的本質」に「共感」してゐる。出來合ひの思想が「明快」で「政治的」なのは怪しむに足りないが、それはまた頗る非人間的なのであつて、これは少しく説明を要する。

 松浦氏は『統一評論』に寄せた同じ論文の中で、『諸君!』を「タカ派文化人の機關誌」と呼び、「まもなく『正論』(サンケイ出版)も創刊され、右傾の『中央公論』とならんで“右翼雜誌トリオ”を形成した。これらのメデイアは親韓文化人の飼育の温床だつた」と書いてゐる。つまり松浦氏は「左傾」の『統一評論』や『世界』は善玉で、私のやうな「右翼」を「飼育」した『中央公論』は惡玉だと割切つてゐる譯である。だが、私は『中央公論』五十五年四月號で「親韓文化人」を徹底的に成敗した。彼等のでたらめな「變節」を人間として許せないと思つたからである。『中央公論』が「右翼雜誌」なら、どうしてさういふ事が可能だつたのか。

 要するに、「藪の中」の眞實を把握する事の難しさを痛感しない者は、人間を理解する事の難しさをも痛感する事が無く、人間を善玉と惡玉に二分して能事足れりとなす。『御意に任す』を書いたピランデルロは、さういふ淺薄な手合に我慢がならなかつた。『御意に任す』の幕切れで、ポンザ一家の奇行の謎を解かうとして、すなはち「藪の中」の眞實を知らうとして躍起になつた金棒曳きは、見事背負投げを食ふのだが、ピランデルロはただ單に「眞實の相對性」を主題にして觀客を飜弄しようとしたのではない。ピランデルロは「眞實は時に隱蔽されねばならぬ。同情にもとづく嘘に較べれば、眞實などはさして重要でない」といふ事が言ひたかつたのである。ポンザ夫人は金棒曳きたちに言ふ、「あたくしどもの生活には、隱しておかねばならぬ事がございます。さもないと、お互ひの愛情によつて見附け出した救ひが、臺無しになつてしまひます」

 これはしかし、善玉惡玉二分法に執着する手合にはちと高級すぎる問題かも知れぬ。が、「同情にもとづく嘘」を尊重しないなら、すべての家庭は破壞されよう。いや、家庭に限らず、すべての社會生活は成り立たない。そして實際、吾々は妻子や親友を善玉と惡玉に二分してはゐない。身近な友人と附合ふ時、吾々は友人の謎は謎のままにしておく思ひ遣り、或いは、眞實を隱蔽する思ひ遣りを忘れてはゐない。そしてまた、百パーセントの善玉も百パーセントの惡玉もこの世には存在しない事をも吾々は皆承知してゐよう。それなら吾々は、韓國人に對しても、なぜ同じ態度で接しられないか。

 『中央公論』七月號にも書いたとほり、私には「韓國にしかゐない友人」がある。それゆゑ私は、韓國について知り得た眞實のすべてを、ルポ・ライターよろしく語る事はしない。友人について知つた事のすべてを明け透けに語るのは背信行爲である。私は例へば申相楚氏の人柄を賞讃した。あれはいくら何でも襃め過ぎだと笑つた淺はかな韓國人もゐたらしいが、私は申氏の缺點を知らぬではない。申氏も人間であつて、もとより完全無缺ではない。が、それはお互ひ樣であり、私にも多くの缺點がある。申氏は確實にそれを知つてゐよう。この世に百パーセントの善玉がゐる筈は無い。無論、百パーセントの惡玉もゐる筈は無い。

 けれども、反韓派にはこの至極簡單な道理がどうしても理解できぬらしい。それゆゑ彼等は、かつては朴正煕氏を、今は全斗煥氏を極惡非道の惡玉に仕立て、一方、金大中氏を完全無缺の善玉として渇仰する。だが、それも、本氣で金大中氏の人柄に惚れ、友情ゆゑに金氏の缺點を語りたがらぬ、といふ事ではない。彼等はただ、闇雲に善玉を稱へて空疎な文章を綴り、惡玉を難じて惡罵の限りを盡くすだけなのである。

 例へば、「變節」した清水幾太郎氏を進歩派は罵倒する。身方を裏切つた者はすなはち敵だからである。だが、出來合ひの思想を弄び、敵を罵り身方を稱へ、連帶をもつて無上の快となす、さういふ自分たちの政治主義の安直な生き方ゆゑに、今、清水氏の「裏切り」を有效に批判できず、ただ罵るばかりなのだといふ苦い認識は、彼等には無い。

 いや、それは保守派も同じである。保守派の中には「蕩兒歸る」とて清水氏を歡迎する向きもある。敵の敵となつた者は身方だからである。私は改憲論者であり、自衞隊が國軍として認知される事を切に望んでゐる。けれども一方、昨今の所謂「右傾化」の輕佻浮薄をも苦々しく思つてをり、その輕佻浮薄をいづれ批判せねばならぬと考へてゐる。が、それをやれば、私は「折角高まつた防衞意識に水を差す裏切者」として保守派に嫌はれるに決つてゐる。だが、身方のすべてが善玉で、敵のすべてが惡玉だと割切り、身方との連帶に醉ひ癡れるべく敵を罵る、さういふ安直な生き方に慣れ、知的誠實を抛棄して久しい進歩派に、「右傾化」の淺薄を批判できる筈は斷じて無いのである。

「おやりなさい」

 だが、もうこれくらゐにしておかう。何を言はうと愚かな反韓派には所詮通じまい。通じるくらゐなら、あれほどぞんざいな文章を書きなぐる譯が無い。それは百も承知ゆゑ、專ら讀者を當てにして、彼等に通じないゆゑんを縷々述べて來た譯だが、最後に反韓派が百パーセントの惡玉と見做し、呪咀してやまぬ全斗煥大統領に關する三つの文章を引用し、反韓派の善玉惡玉二分法の安直を讀者にとくと味はつて貰はうと思ふ。

 獨裁者朴をしのぐ全斗煥によつて、光州の民衆の貴い血潮がおびただしく流され、しかもその血を贖うべき者の首の代りに、惡虐なすりかえによつて、こともあろうに金大中氏らの生命を彼らは求めています。(『季刊クライシス』第五號)

 金載圭氏を英雄視する民心はいつそう高まつている。しかし全斗煥グループの敵意はついに無謀にも彼を死に追いやるのではないかという悲觀論がつよくなつている。一二・一二事態を經驗した國民は、全斗煥のような人物は何をしでかすかわからないと思う。(T・K生、『軍政と受難』、岩波書店)

 次に引くのはその「何をしでかすかわからない」全斗煥大統領の長男で、延世大學二年生の全宰國君が、一九八〇年十月一日附の『朝鮮日報』に寄せた文章の一部である。

 本當に長い「冬休み」であつた。(中略)その間私たち韓國民は、多大の犧牲を拂はねばならなかつた。が、その鬱陶しい梅雨も明けた。四月の或る日、大學へ行くと、友達が父の事を話してゐた、父全斗煥(チョンドファン)を「*(原文:前+衣)頭漢(チョントハン)(人殺し)」と呼んでゐた。

 私は大學での徹夜籠城はしなかつた。早く歸宅して母や弟や妹を安心させねばならず、また「維新殘黨の首魁」と謗られてゐる父を慰めてやりたかつたからである。けれども、この不肖の倅は、夜おそく歸つて來る父を慰めるよりは、むしろ父の惡口を言ふ友達につい同感し同情してしまふのであつた。一度父にかう言つた事がある、「お父さん、お父さんひとりですべてをうまくやれますか。お父さんが自分の惡口を聞く事ができるといふ事實、それこそ民主主義の存在を實證するものではありませんか」(中略)

 或る日、夜おそく、歸宅した父が言つた、「お前の學友が、私を維新殘黨のボスと呼び、私の藁人形を拵へて、火刑式をやつたさうだな」。怒りや疲勞ではなく、悲哀と孤獨の籠つた聲で父がさう言つた時、父の目には涙がうかんでゐた。その涙の意味を私は理解した。それを一生忘れずに生きてゆかうと思ふ。神に誓ふ、私は今後一瞬たりともそれを忘れない。忘れたら、いかやうの罰を受けてもよい。私の知る限り、父は誰にもまして鋼のやうな意志を持つ軍人であつた。その父が涙を見せるなどといふ事は、とても想像のつかない事だつた。(中略)

 冷たい風が吹いてゐる冬の夜、十二月十二日、十年間住んだ延禧洞の思ひ出深いあの家で、長い歳月、信じ合ひ助け合つて暮して來た幸福な夫婦と四人の子供たちが、向き合つて坐つてゐた。父の表情は堅く、母は窓外の闇を默つて見詰めるばかり、子供たちは何事かが起るとの不吉な豫感に息詰るやうな思ひだつた。すると父が言つた、「お前たちは、正しくないと知りながら、大きな流れにそのまま身を任せるはうがよいと考へるか。それとも、男と生れた以上、命を懸けてでも、自らが正義と信ずるもののために、歴史の流れを變へるべく全力を盡さねばならぬと考へるか」。ぼんやりして默り込んでゐた子供たちにとつて、それは思ひもよらぬ質問であつた。が、四人の子供たちは口を揃へて言つた、「おやりなさい」。

 權威ある家長にとつて、子供たちのこの信頼がどのくらゐ役立つたかは解らないが、少しばかり堅い表情を弛めて父は言つた。「私は田舍の貧農の子として生れ、かうして將軍にまでなれた。これで滿足だ、これ以上の野心は無い。だが、もしもこの私の身に不幸な事が起つて、お前たちが世間から侮辱され蔑視されるやうな事になつたとしても、お前たちは挫折する事無く、勇氣を失はず、雄々しく生きてゆくのだぞ」。

 さう言ひ殘し、振向かず、父は冷たい戸外へ悠々と出て行つた。

道義不在の時代・目次

廉恥節義は一身にあり──序に代へて
I 教育論における道義的怠惰
  1. 僞りても賢を學べ
  2. まづ徳育の可能を疑ふべし
II 防衞論における道義的怠惰
  1. 道義不在の防衞論を糺す
  2. 猪木正道氏に問ふ
III 日韓關係論における道義的怠惰
  1. 全斗煥將軍の事など
  2. 反韓派知識人に問ふ
IV 對談
初出一覽
あとがき