©1982,2002 Tadashi Matsubara

III 日韓關係論における道義的怠惰

1 全斗煥將軍の事など

軍人獨裁者か

 五月十八日午前零時、韓國には全國非常戒嚴令が布かれ、戒嚴司令部は金大中氏を「學生や勞働者の騷動を背後から操つた容疑者」として、また金鍾泌民主共和黨總裁を「不正蓄財容疑者」として連行し、一切の政治活動を禁止したが、それを第一面に報じて朝日新聞は「事實上の軍政移行、全司令官が前面に」との見出しをつけた。「全司令官」とはもとより、國軍保安司令官兼中央情報部長代理・全斗煥中將の事である。五月十九日附のサンケイ新聞に、星野伊佑特派員が「全國非常戒嚴令の主役、全斗煥中將のプロフイル」を紹介してゐる。その一部を引かう。

 昨年十二月十二日の“肅軍クーデター”いらい、軍の實權を握つた陸軍中將、全斗煥國軍保安司令官はさる四月、中央情報部の部長代理に任命され、それまでの戒嚴行政の裏方から一躍表舞臺におどり出、脚光を浴びたが、こんどの非常戒嚴令全國擴大という強硬策でも主役を演じたことは間違いない。

 昨年十二月十二日、全斗煥將軍は、つとに朴大統領暗殺事件關與を疑はれてゐた當時の戒嚴司令官鄭昇和大將を逮捕したが、これは性急な「民主囘復」に強力な齒止めをかけ、朴正煕大統領が十八年を要してなほ成就し得なかつた難事業を、大統領殺害といふ不法行爲によつて成就し得ると思ひ込んだ一部の淺薄な韓國の政治家や知識人を震へ上らせたのである。

 例へば、これは維新政友會の申相楚議員から聞い話だが、昨年十二月十一日附の韓國の或る新聞に、「民主囘復」こそ焦眉の急であるといつたやうな綺麗事を七十歳の知識人が書いたといふ。ところが翌旦、彼は全斗煥司令官による鄭昇和逮捕の報に接して仰天、申相楚氏に電話をかけて來て「あんな事書いてしまつて大丈夫だらうか」と震へ聲で言つたといふ。申相楚氏はかう答へた、「あなたはもう七十歳、棺桶に片足を突込んでゐる。今さら當世風に振舞ふ事はない。今後はもう何も言はずにゐる事だ」。

 けれども、喉元過ぎれば熱さを忘れるのが人情で、一時は意氣銷沈した「民主囘復」派も、去る五月一日、日米首腦會談の席上でのカーター大統領による全斗煥批判に勇氣づけられてか、幼稚な正義病を煩ふ手合を煽動し、學生たちは全斗煥將軍に見立てた藁人形を「火刑に處し」、金大中氏は公然と申鉉首相及び全斗煥將軍の辭任を要求、かくて今日の事態を招くに至つたのである。五月十九日付の朝日新聞はかう書いてゐる。

 十八日に出された非常戒嚴令の全土への擴大を機に、全斗煥中央情報部(KCIA)部長代理兼國軍保安司令官が韓國政治の實權をにぎることになつた。与黨の民主共和黨總裁で、元首相の金鍾泌氏らを連行、國會の機能は停止という、豫想をはるかに超える強い姿勢で權力の座についた全氏だが、ソウルから傳わる情報では、その周圍は韓國陸軍士官學校十一期生の若手將軍たちが固め、先輩の國軍幹部らは手出しもできぬ状況にあると傳えられる。

 かういふ新聞報道にばかり接する大方の日本人は、「強い姿勢で權力の座に」つき、「先輩の國軍幹部」も手が出せぬ全斗煥將軍の事を、冷酷無殘、泣く子も默る「軍人獨裁者」の如くに思つてゐよう。そして、さういふ先入主が日本人の韓國に對する反感や無關心を助長する事になる。けれども、私は全斗煥將軍に會ひ、その人柄に惚れ込んだのだが、將軍は頭腦明晰にして誠實、何とも魅力的な男だつたのである。實は私は金鍾泌氏にも會つた。會つて失望した。いや、正確に言へば、會ふ前から失望してゐた。金鍾泌氏が連行された今、安心してこれを言ふのではない。私は韓國でも金氏を批判したのであり、その事については證人もゐる。全斗煥將軍もその一人である。金氏についてはいづれ觸れるが、とまれ、私は將軍にぞつこん惚れ込んだのであつて、何はさて措き、それを讀者に傳へたいと思ふ。

 私が先般、韓國を訪れようと思立つたのは、取分け全斗煥將軍に會ひたかつたからであつた。『VOICE』四月號に私は、鄭昇和戒嚴司令官を逮捕した全斗煥將軍を辯護する一文を寄せたのだが、書き終つてからの私は、將軍に會つてみたいと頻りに思ふやうになつた。辯護した當の相手の人柄を直接確かめてみたくなつた。そこで私は、先方の迷惑をも考へず、維新政友會の申相楚議員に『VOICE』を送り、全斗煥將軍に會へるやう計らつて貰ひたいと頼み込んだのである。將軍に直接手紙を書かうとさへ思つたが、將軍が日本語を讀めるかどうか、それが解らない。それに、立場上全斗煥司令官が外國人になど會ふ筈は無いと、友人は口を揃へてさう言つた。たまたま訪日した維新政友會の趙一濟議員も、「將軍は外國人はもとより、韓國のジヤーナリストにも會つてゐない。無用の誤解を避けるためだ。まづ會ふのは難しいだらう」と言つたのである。

 だが、たとへ全斗煥將軍には會へずとも、敬愛する申相楚氏には確實に會へる。申相楚といふ名前を知つてゐる日本人は少いだらうが、昨年十月訪韓した際、私が最も魅せられた政治家が申相楚氏であり、彼と再會できる以上、全斗煥將軍に會へなくても構はぬ、私はさう思ひ、大韓航空七〇三便で成田を發つたのである。

 けれども、ソウルに着いて、昨年十二月十二日全斗煥將軍が發揮した勇猛心の意義を改めて考へると、身命を賭して信念を貫いた勇將に一目會つてみたいといふ思ひは募る一方であつた。しかも私は、將軍が『VOICE』四月號の拙文を讀んだといふ事實を知つたのである。となれば、なほの事、斷念する譯にはゆかぬ、私は執拗に申相楚氏を口説き、たうとう念願を果したのであつた。

素顏の全斗煥將軍

 ソウル市光化門の國軍保安司令部に全斗煥將軍を訪ねたのは四月二日の午後であつた。「富國強兵」と認めた朴正煕大統領の書を壁面に懸けた司令官室に請じ入れられた時、私がまづ見たのは、にこやかな表情の全斗煥將軍で、それはまさしく新聞やテレビで見知つてゐる將軍に違ひ無いのだが、滿面に笑みを湛へた將軍は、まるで別人であるかのやうに思はれた。

 將軍は日本語を話さなかつた。背廣の青年が通譯を勤めたのだが、私はまづその通譯の顏を見て驚いた。色白の、利發さうな美青年だつたが、美青年だから驚いたのではない。「私が通譯を勤めさせて頂きます」と彼が言つた時、緊張のあまりその聲がうはずつてゐたからである。私は大學の教師だが、これほど緊張し切つた青年をつひぞ見た事が無い。私は思つた、この青年の緊張ぶりはまことに美しい、が、今の日本に、青年をこれほどまでに緊張させる大人がゐるだらうかと。私はかつて新聞で、大平首相と小學生の遣り取りを讀み、頗る不愉快になつた事がある。一人の小學生が大平首相に「大平さんは自分の顏をどう思ひますか」と聞いたといふ。言語道斷である。それに首相が何と答へたかは覺えてゐない。が、首相が小學生を叱らなかつた事だけは確かである。

 通譯は緊張してはゐたものの一所懸命であつた。私は生來の早口であり、しかも、世間話は得手ではない。かてて加へて、同席してゐる申相楚氏は日本語を自國語のやうに話せる。後で知つたが、全斗煥氏も私の話の七割くらゐは理解できたといふ。さぞ通譯はやり難かつたであらう。私が長々と一氣に喋る事、彼はメモに書き留めねばならぬ。そのペンを持つ手がかすかに震へてゐる。少々可哀相だつたが、私はゆつくり喋らうとはしなかつた。「艱難汝を玉にす」るのであつて、大人の思ひ遣りは却つて若者を弛緩させるに過ぎない。

 型通りの挨拶を濟ませると私は、十二月十二日の戒嚴司令官逮捕の經緯を新聞で讀み、將軍の機略と膽力に感心したと言つた。すると將軍は答へた、「いやいや、あれは言つてみれば巡査が泥棒を捕へたやうなもの、私はただ職務に忠實に振舞つたに過ぎない」。

 私は「さうは思はない」と言ひ、さう思はない理由を憑かれたやうに喋つた。立場上、將軍としては到底答へられまいと思はれるやうな事まで喋つた。私もいささか緊張してゐたし、また行き掛かり上、それしか喋りやうがなかつたのである。だが、その頃から、保安司令部の若き通譯は次第に能力の限界を露呈し始めたらしい。私の隣に腰掛けてゐた申相楚氏が、「將軍の仰有つた事はですな……」と、通譯の手助けをやり始めたのである。私は申氏の協力を得、言ひたい事を言ひたいだけ喋つた。まるで將軍に喋らせる事を恐れてでもゐるかのやうに、最初のうちは一方的に喋り捲つた。

 申相楚氏は韓國の政治家である。だが、私は申氏を政治家らしからぬ政治家として尊敬してゐる。それゆゑ私は、韓國の政治家についても忌憚の無い感想を述べた。立派な政治家にも私は出會つたが、韓國の新聞や週刊誌が報じてゐる三人の大統領候補者金鍾泌、金泳三、金大中氏の言動を知り、またぐうたらな政治家や知識人にも會つて、この危急存亡の時、學生や民衆に迎合し、票集めに汲々たるていたらくは何事かと、私は驚き、呆れ、かつ寒心に耐へなかつたのである。このていたらくで、もしも軍までが腰碎けとなれば、韓國は亡國の憂き目を見るであらう、だが、それを韓國軍が坐視する譯が無い、私はさう言つた。すると、全斗煥將軍は深く頷き、かう言つたのである、「なるほど、仰有るとほり、政治家や知識人はぐらついてゐる、が、韓國軍はしつかりしてゐます、その點だけはなにとぞ御安心願ひたい」。

 それだけ聞けば充分であつた。私は將軍の率直に驚いた。それゆゑ歸國後金鍾泌氏連行のニユースに接しても、私は少しも驚かなかつたのである。やがてやや寛いで私は、司令官の寫眞を撮らせて貰へないか、また自分は軍事にかけてはずぶの素人であり、軍事機密を見せられたところで、機密の機密たるゆゑんも理解できまいが、是非とも眞劒勝負の韓國軍を見學したいのだが、と言つた。

 將軍はインターフォンで寫眞撮影の手配を命じてからかう答へた、「韓國軍見學の件については考慮します」。通譯の言葉を聞いて私が咄嗟に思つたのは、「考慮します」とは誤譯ではないか、といふ事であつた。日本の政治家の常套語「前向きに檢討します」などといふ類のせりふを、全斗煥ともあらう男が口にする筈は無い。果して、ややあつてその點は明確になつた。將軍がかう言つたからである、「ここは保安司令部で、背廣を着た男もゐます。が、ここでなく最前線を御覽になれば、きつと松原さんもびつくりなさると思ふ」。

 つまり、將軍が「考慮する」と言つたのは、どこの部隊を見せようかと、それを「考慮する」といふ意味だつたのである。

 やがて寫眞技師がやつて來て、歡談中の吾々を撮影した。が、それで御仕舞になりさうな氣配だつたので私は思ひ切つて言つた、「私と司令官と、二人で一緒に撮りたいと思ひますが……」。

 全斗煥將軍は頷き、私の手を取つて立上つた。「國軍保安司令官陸軍中將全斗煥」と記した大きな机を背にして二人が立つた時、申相楚氏が言つた、「これが日本の新聞に出たら大變、大變……」。私は言つた、「祕密、祕密……」。すると將軍も笑つて言つた。「祕密、祕密……」。それは將軍が最初に口にした日本語であつた。

 私は「祕密、祕密」と言つただけだが、この時くらゐ日本と韓國とのずれを痛切に感じた事は無い。日本の新聞記者は全斗煥といふ名前も碌に知りはすまい、私はさう思つた。實際、これは歸國後家内に聞いた事だが、去る四月十四日、全斗煥氏が中央情報部の部長代理に任命された事を傳へた或る日本のニユーズキヤスターは、終始「金斗煥將軍」と呼んでゐたといふ。が、それを嗤つた愚妻にしても、亭主の口から全斗煥といふ名前を再三聞かされてゐて、いはば耳に胼胝ができてゐた、それだけの事に過ぎない。

 寫眞撮影が濟んで再び腰を下した時、將軍は私を晩餐に招待したいと言ひ、私はまことに忝いと答へ、やがて吾々は辭去したのだが、將軍と會つて私が最も感銘を受け、かつ大いに安心したのは、彼の頭腦の明晰といふ點であつた。例へば、これを書く事を私は少々ためらはざるをえないのだが、實は將軍に會ふ前日、私は或る政治家から將軍宛の手紙を託されたのである。彼は私だけを書斎に通してかう言つた、「あす全斗煥將軍にお會ひになるさうだが、將軍は立派な男です、私が紹介状を書きませう」。

 咄嗟に私は、これは私を利用して將軍に胡麻を擂らうとの魂膽ではないか、と思つた。私がいかに將軍に會ひたがつてゐたかは既に書いたとほりだが、申相楚氏に強引に頼み込んで會へる事になつた以上、紹介状などまつたく不必要なので、それをこの男が知らぬ筈は無い。が、私は「それは忝い」とだけ答へた。さう答へるしかなかつた。彼はハングルで紹介状を書き、封筒に「全斗煥仁兄」と書いた。その紹介状を私は、將軍と語り始めてからややあつて内隱しから取出し、「實はかういふ紹介状を頂戴したのですが……」と言ひつつ差出したのである。何と頭のよい男かと私が感心したのはその時であつた。將軍は一瞬頗る嚴しい表情になり、受取つた封筒を裏返し、差出人の名前を見、封筒の中身を取出さうともせず、それをそのまま脇手のテーブルの上に置き、再び何事も無かつたかの如く語り始めたのである。

 「知的怠惰は道義的怠惰」だと、私はこれまで何囘か書いた事がある。全斗煥將軍に會ひ、申相楚氏と深附合をして、私はそれを確認した。申氏は金大中、金泳三兩氏について「頭の惡い人間の發想は、賢い人間の想像を絶する」と評したが、さういふ愚鈍な手合に、十二月十二日、全斗煥將軍が示したやうな膽力と搖がぬ節操は到底期待できないであらう。

眞の自由とは

 だが、頭腦明晰と搖がぬ節操はもとより軍人だけの特色ではない。それゆゑ私はここで、韓國のあつぱれな文民についても語らねばならぬ。十九日間の韓國滯在中、私は申相楚氏とは殆ど毎日のやうに會ひ、朝鮮日報前主筆の鮮于氏と三人で、扶餘、群山まで弥次喜多道中をやつた。ここでその樂しい思ひ出をつぶさに語る紙數は無いが、とまれ、申氏も鮮于氏も頗る頭のよい男であつた。そして當然の事ながら、志操堅固の人であつた。そればかりではない、日本について、韓國について、齒に衣着せず物申す兩氏の自由闊達はまことに見事であつた。あの二人を眺めてゐると、日本よりもむしろ韓國のはうにこそ言論の自由があるのではないか、とさへ思はれたのである。アメリカや日本や韓國の政治家を私は糞味噌に言ふ事があつたが、さういふ時も、申氏と鮮于氏の喋りやうはまつたく自由であつた。およそ右顧左眄する事が無く、それゆゑ二人は自由なのである。

 鮮于氏は朝鮮日報のコラムに「金載圭は犬畜生よりも劣る。犬だつてあのやうな事はしない」と書いたといふ。右にも左にもよい顏をしたがる韓國の大統領候補も、平和憲法は改正さるべきだと内心思ひつつも、國内國外の情勢を氣にしてそれを言ひ出せぬ日本の政治家も、右顧左眄するがゆゑに自由ではない。友人から聞いた話だが、日本社會黨の或る代議士は、「非武裝中立」なんぞ荒唐無稽と承知してはゐるが、なにせそれが社會黨の表看板、どう仕樣も無いのだと告白したといふ。この代議士も、要するに、黨の建前に縛られて本音が吐けぬ、つまり自由でない譯である。

 もとより韓國にもさういふ手合は多い。鮮于氏から聞いた話だが、或る著名な大學教授が「維新憲法は四月頃までに改正しなければならない。さもないと學生がをさまらぬ」と言つたといふ。そこで鮮于氏が「あなた自身はどう思つてゐるのか」と尋ねると、教授は「自分としては改正の要無しと考へるが、それでは學生が承知しない」と答へたさうである。日本の大學にも、學生に迎合して學生に束縛されるこの種の腑拔けが多い事は、私自身がよく知つてゐる。

 とまれ、申氏も鮮于氏も頗る自由闊達であつた。二人が日本を腐すと私が笑ひ、私が韓國を腐すと二人が笑つた。が、眞劒に論ずべき時は、三人とも頗る眞面目になつたのである。例へば、扶餘へ向ふ車中で申氏が言つた、「松原さんはずゐぶん自衞隊の惡口を仰有るが、自衞隊にも頭のよい侍がをりますぞ」。申氏がかつて日本を訪れ、自衞隊を見學した際、ブリーフイング役の將校が申氏にかう言つたのださうだ、「ええ、日本の自衞隊は男なのか、女なのか、それが解りません。日本の軍隊か、アメリカの軍隊か、それも判然としない。要するに妾のやうなものでありますから、いかが致しませう、ブリーフイングなんぞは止めにして、早速一杯やるに如くは無いと存じますが……」。なるほど見事な將校である。相手が韓國有數の飮兵衞だと看破つての應對ならなほの事見事である。が、その申氏の話を聞き終ると、鮮于氏が大層眞劒な表情で言つた、「しかし、申さん、そんな妾の軍隊にゐて、誇りだの生甲斐だのは一體どうなるんだ、え?」

 鮮于氏と申氏はともに一九二二年生れ、同郷の、竹馬の友である。鮮子氏は著名な小説家で、小説家だけあつて大層話上手で、彼の冗談に私は車中で何囘となく腹の皮を縒つた。が、すでに述べたやうに、申氏にせよ鮮于氏にせよ、時に頗る眞劒になる。私は鮮于氏が「子供に土産を買つて歸る時なんぞ、ふと思ひますよ、この國はこの先どうなるか、今のうちにうまい物を食はせておいてやらう、つてね」と言つた時のしんみりした口調を忘れる事ができない。これまた飮兵衞の鮮于氏の事だから、「子供に土産を買つて歸る」のは、大方、飮み過ぎを反省しての事だらうが、それだけでは決してない。太平樂を享受してゐる日本の飮兵衞が、「この國はこの先どうなるか」などと、さういふ事を考へる筈は斷じて無いであらう。

 申相楚氏にしても、普段はにこやかだが、時に頗る眞劒な表情になる。申氏は若い頃まづ日本軍から、ついで八路軍から、三度目は北朝鮮軍から脱走した體驗の持主なのだが、三月三十日、申氏の案内で「自由の橋」まで行つた時、これまで三度脱走した申氏が、四度目の脱走を敢行ぜねばならぬやうな事態だけはどうしても避けねばならぬ、と私が言つたところ、彼は急に嚴しい表情になり、かう答へたのである、「いや、もう逃げようとは思ひません。年が年だから兵隊にはなれないが、今度北が攻めて來たら、手榴彈で一人でも敵を殺して死ねれば、それで本望だと思つてをります」。

 この二人の飮兵衞を時に頗る眞劒にならせるもの、それが韓國にあつて日本に無いものなのである。そして、頭がよくて、つまり知的に怠惰でなくて、それで眞劒勝負を強ひられると、人間は道義的にも見事に振舞ふのだといふ事を、私は今囘韓國で確かめた。道義的に振舞ふと言つても、それは道學先生振るといふ事ではない。自由奔放に振舞つてゐるかに見えながら、どこかで節を折らうとはしないといふ事である。申氏は髪はぼさぼさで、風采を構はず、濃紺の背廣の胸のポケツトに、黄色い大きな女物の櫛を突込んで平氣でゐるやうな男だが、朴大統領の思ひ出を語る時の語調には、節を折らぬ人間特有の眞情が溢れてゐた。或る時、申氏に朴正煕氏は「君のやうに權力を授けようとすると斷る人間がゐるものかね」と言つたといふ。また、禁煙中の朴正煕氏に會つた時、煙草を吸ひたくて申氏がもぢもぢしてゐると、朴大統領が言つたといふ、「申議員、もぢもぢしてゐるのは、要するに煙草が吸ひたいのではないか」。「お察しのとほり」と申氏が答へると、朴氏は言つた、「よし、では一緒に煙草を吸ふ事にしよう」。

 かういふ思ひ出を語る時、申氏は眼を細め、懷かしくてたまらぬといふ風情だつたが、朴正煕氏の孤獨について語る時、申氏は何とも悲しげになるのであつた。或る時、朴氏が尋ねた、「申議員、君は今でも李承晩の惡口を言つてゐるのかね」。「言つてをります」。すると朴氏は言つた、「さうか、私はもう言はない。大統領といふ地位が惡黨に利用されがちなものなのだ。私はもう李承晩の惡口は言はない」。

 だが、殺される十日程前、朴大統領は與黨議員のパーテイーに出席し、退席する際、竝んで見送る議員達と握手をしたが、申氏の前まで來ると、申氏の耳元に口を近づけ、「近頃、なぜ酒を飮みに來ないのかね」と尋ねたさうである。晩年の大統領は、茶坊主どもが巧妙に張り囘らした「人のカーテン」によつて外部から遮斷されてゐた。「知りて言はざるは不忠」といふ事を重々承知してゐた申氏も、まさか「人のカーテンゆゑに」とも言へず、「昨今、酒を愼んでをります」と答へたが、朴大統領は「をかしいな」とでも言ひたげに、申氏をじつと見詰めたといふ。「それが私が見た最後の大統領でした」と悲しげに申氏は言つた。

 これを要するに、「大統領といふ地位が惡黨に利用されがちなもの」だといふ事をよく承知してゐた頭腦明晰なる朴正煕氏も、いつの間にかおのれの周圍に張られたカーテンには氣づかなかつた、といふ事なのかも知れぬ。が、それを神ならぬ身の吾々がどうして輕々に批判できようか。昔、韓國の或る代議士は、代議士のでたらめに腹を立て、「代議士なんぞ、皆、白手乾達だ!」と、自分が代議士である事も忘れ、國會で叫んださうである。「白手乾達」とは、ゆすりたかりで生計を立ててゐるならず者、といふほどの意味らしい。實際、今囘私は韓國の右顧左眄する政治家には失望したが、一方、事大主義やローカリズムを脱しえないさういふ「白手乾達」をも持駒にせざるをえなかつた朴正煕氏はさぞ大變だつたらうと、私は朴氏に同情を禁じえなかつた。

見事な軍人たち

 ところで、ここで私は、朴正煕氏の死後、右顧左眄する事の無かつた韓國の軍人について語らうと思ふ。申相楚氏を通じて國軍保安司令部から、四月八日は丸一日韓國軍のために割いて貰ひたいとの連絡があつたのである。朝から夕方まで韓國軍を見學し、夜は全斗煥將軍と晩餐を共にするのだといふ。そして私は、八日午前九時半、申氏の車でホテルを出發、途中から韓國軍のジープに先導され、十時きつかりに特戰隊司令部に到著、鄭鎬溶司令官の出迎へを受け、申氏の通譯で、私は鄭少將としばし歡談した。ごく短い時間だつたが、少將の率直な人柄と軍人とは思へぬ柔和な表情を私はよく覺えてゐる。鄭少將は福田恆存氏の「孤獨の人・朴正煕」を讀んで大變感動した、と言つた。また、自分は銃を何時間持つてゐても疲れないが、ペンのはうは十分間持つてゐても疲れる、と笑ひながら言つた。が、それを言ふ少將に、申氏や私に對する阿諛は微塵も感じられなかつた。何ともすがすがしい武人であつた。

 やがて私は外へ出て、閲兵臺に司令官と竝んで立ち、パラシユートの降下訓練を見學した。副官の説明によれば、私に見せてくれたのは心理的に最も恐怖を感ずる高度からの降下だといふ。長方形のまだ開かないパラシユートが空を舞つてゐる。降下地點からずゐぶん外れてゐて、あれで目標に無事降りられるのかと、ずぶの素人は心配する。が、それは取越し苦勞で、ややあつて見事に降下した兵隊が整列、私はその一人一人と握手し、私が知つてゐる殆ど唯一の韓國語「カムサハムニダ(有難う)」を連發した。

 だが、この後「ブラツク・ベレー」と呼ばれてゐる勇猛果敢の特戰隊で何を見學したかについては、殘念ながら端折らねばならない。次に訪れた第一師團についても語らなければならないからである。ただ、これだけは書いておかう。實彈射撃をふくむ特戰隊の訓練のすさまじさに私は舌を捲いた。さすがは一騎當千のブラツク・ベレーだと、私は大いに感服したのである。

 さて、次に訪れた第一師團だが、これは韓國の最前線を守つてゐる。師團長は崔連植少將で、これまた鄭鎬溶少將と同樣、知的で、柔和な表情の、けれども大層肚の坐つた軍人であつた。師團長と共に、北朝鮮の掘つたトンネルを、そのどん底まで降りて行き、師團長の熱心な説明を受け、記念撮影をやり、歸りは私が先頭で、師團長がその後につづいた。歸りはもとより昇り坂である。途中に二、三ケ所休憩所があつて軍醫が待機してをり、酸素マスクが用意されてあつた。かつて心臟麻痺で倒れた見學者があつたのださうで、無理をせず、ゆつくりと歩いたはうがよいと師團長が頻りに忠告した。が、途中でへたばつては日本男子の名折れだと、私は一度も休まずに、けれども殆どよろけんばかりになつてトンネルを出た。

 私は體重四十五キロ、しかも平生運動なるものはやつた事が無い。けれども、その非力の私が頑張つたのは、眞劒勝負の軍人の眞摯に魅了されたからに他ならない。昨年十月二十六日、朴大統領が暗殺され、ついで北朝鮮の兵力動員が傳へられた時、崔連植師團長は將兵の家族をソウルへ疎開させ、將校を集めてかう訓示したといふ、「北が攻めて來たら、わが師團はこれを粉碎する。軍人は戰場で死なねばならぬ、それが軍人の最高の名譽である」。

 それを崔少將はいささかの力みも無く淡々と語つた。それはトンネルの中で、守備をしてゐる兵隊の肩を叩いて無言で激励する動作と同樣、まつたく自然であつた。私はいたく感動した。まさに全斗煥將軍の言つたとほりであつた。特戰隊で、第一師團で、淡々と身命を賭して戰ふ覺悟を口にする武人を、私は目の當りに見たのである。

 歸國後、私は崔連植少將から寫眞同封の手紙を受取つた。少將はまこと流暢に英語を喋つたのだから、これを私は敢へて書くが、それは流麗な日本語では決してなかつた。が、それは友情と誠意の籠つた手紙で、引用できぬ事が殘念でならない。その手紙を何度も繰返し讀んで、私は呟いた、「さうなのだ、この男のためなら死んでもいいと、本氣でさう思はせるやうな人間が、やはりこの世にはゐるのだ」と。朴正煕氏がさうだつた。そして、全斗煥將軍も二人の少將もさうである。そしてそれは軍人に限らない、申相楚氏にしてもさうなのである。鮮于氏の話では、申氏は犬の肉が好物だといふ。私は、申氏のためなら死んでもよいとまでは思はぬが、申氏と共に犬の肉ぐらゐは食つてもよいと思つた事はある。もつとも、思つただけで、それを言ひ出す勇氣は無かつたが。

全將軍との夕食の席で

 ソウルへ戻る吾々を、非武裝地帶のはづれまで、崔少將はジープで送つてくれた。そこで吾々は申相楚氏の車に乘換へ、その晩七時、とある韓式料亭に着くと、三つ揃を着こなした全斗煥將軍が待つてゐた。妓生が侍つて酒盛りが始まると、特戰隊と第一師團はどうだつたかと將軍が尋ね、私は「何とも見事だつた」と答へた。ついで、どういふ經緯でそんな話になつたのかよく覺えてゐないのだが、全斗煥氏が私に、自分にはいささか觀相學の心得があるのだが、どうも松原教授は自分より先に死ぬやうに思ふ、と言つたのである。私が全氏の照り輝く禿頭を見ながら、「さうとは限りますまい、失禮ながらその禿げ具合、鐵兜の被り過ぎのせゐだけではありますまい」と言ふと、全氏は笑つて「この禿頭ゆゑに自分は女性に持てないのだ」と言ふ。なるほど、歸國後、出來上つて來た寫眞を調べてみると、全氏の脇に侍つた妓生はまつたく全氏と接觸してゐない。どの寫眞にも寛いだ全斗煥氏と鯱張つた妓生が寫つてゐた。

 だが、やがてアコーデイオンと打樂器の奏者の伴奏でダンスが始まると、全氏は妓生と手を組み、何とも嫋やかに踊り始めた。ウヰスキーをストレートでぐい飮みしていささかも亂れぬ將軍と異り、私はかなり醉つてゐたが、立上つて全氏に近寄り、妓生を引剥し、全氏と二人で踊り始めた。とはいへ私にはダンスが全然できない。時々相手の足を踏附けながら太く逞しい全氏の首つ玉にぶら下つてゐただけである。が、さうして抱き合つてゐる時、私は全氏に囁いた、「司令官、朴大統領は可哀相ですね」。すると全氏は日本語で「可哀相ですね」と答へ、私を激しく抱き締めたのである。

 また、ダンスの後だつたか、それとも先だつたか、これもよく覺えてゐないのだが、韓國きつての女性歌手だといふ美女が歌ひ、ついで皆が一曲づつ歌ふ事になつた。全斗煥氏も背廣の副官も申相楚氏も私も歌つた。申氏はまづ韓國の歌を、ついで「荒城の月」を、滝廉太郎が聴いたら腰を拔かすやうなすさまじい節囘しで、それでも歌詞だけは正確に歌つた。次に、背廣を脱いでチヨツキだけになつた全氏が歌つたが、全氏の歌を聞きながら私は思つた。全氏は國軍保安司令部で「軍はしつかりしてゐるから御安心願ひたい」と言つた。だが、右顧左眄する「白手乾達」や、保身しか念頭に無い官僚、大學教授や、若者に迎合し煽動する無責任な政治家が、良識ある人々を壓倒し、時の花をかざしてのさばつてゐるかに見える今日、軍人だけがしつかりしてゐるだけで、韓國はこの未曾有の危機を乘越えられるであらうか。

 全斗煥氏に醜い政治的野心は無い。「其の位に素して行ひ、其の外を願はず」、それが彼の本心であらう。軍事クーデターをやりさへすれば萬事うまくゆくなどと考へるほど、彼は愚かな男ではない。だが、愚かな政治家や知識人や學生が、「民主囘復」だの「政治發展」だのと、何の事やら自身もよく解らぬ美辭麗句のお題目を唱へるばかりで、今後も馬鹿踊りを踊りつづける積りなら、一體全體韓國といふ國では、どこまで續く泥濘なのか。韓國軍をして「政治的中立」を守らせるためには、すなはち「其の位に素して行」はしむるためには、せめて軍人と對等の頭腦と必死の覺悟が文民にも必要ではないか。

 『ざつくばらん』五月一日號に、奈須田敬氏は、アーサー・ブライアントの『參謀總長の日記』の讀後感として、「眞の軍人こそ眞の政治家を理解しうるし、また眞の政治家こそ眞の軍人を理解しうる」と書いてゐる。さういふものだと思ふ。が、日本におけると同樣、今の韓國にも、さういふ「眞の政治家」が多いとは、私にはどうしても思へなかつたのである。

 例へば日本で不當なまでに英雄視されてゐる金大中氏の愚鈍について、日本の新聞は眞實ありのままを報じてゐないが、私は今囘、金大中氏の頭腦の粗雜には呆れ返つた。公民權囘復後、金大中氏は何とかう放言したのである、「皆さん、私はクリストの弟なのであります」。

 作り話ではない。それを日本の新聞が報じなかつたのは、「知らせる義務」を怠つたのは、さすがにこれは酷すぎると思つたからに他ならぬ。金大中氏に對する日本人の信頼が一擧に失はれると、それを恐れたからに他ならぬ。

韓國への苦言

 政治家の愚鈍と淺薄は金鍾泌、金泳三及び金大中氏に限らない。保安司令部で全斗煥將軍に會つて後、私は韓國の政治家から「全將軍は政治についてどう考へてゐるか」と何囘か尋ねられた。私はそれを訊かれる度にむかむかした。「そんなに知りたければ、直接將軍に聞いたらいいでせう」と突撥ねた事もある。昨年十二月十二日、剃刀の刃を渡つた全斗煥氏や、死ぬる覺悟を淡々と語つた軍人に較べて、私は今囘、與野黨を問はぬ韓國の文民の腑甲斐無さに苛立つ事が屡々であつた。その癖、彼等は軍を恐れてゐる。北朝鮮軍をではない、韓國軍を恐れてゐる。が、文民に身命を賭す覺悟があるのなら、なぜ軍を恐れねばならないか。さらにまた、彼等はアメリカを恐れてゐる。だが、韓國は立派な獨立國である。ユーゴにはユーゴの社會主義がある、と言切つたチトー大統領の傳に倣ひ、「韓國には韓國の民主主義がある」とて、韓國人が一致團結アメリカの内政干渉を突撥ねれば、アメリカといへども容易に手出しはできない筈である。

 私は韓國が好きである。好きだからこそ苦言も呈したくなる。そして私が韓國を愛するのは、例へば申相楚氏のやうな、韓國にしかゐない友人の運命に無關心たりえないからである。それゆゑこれを私は所謂「維新殘黨」に言ひたい。ルソーが言つてゐるやうに、眞の自由は野蠻人だけの特權なのである。韓國は野蠻人の吹き溜りではあるまい。それなら、文明國としての抑壓は必要惡であり、必要以上に必要惡に怯えるのは知的怠惰に他ならぬ。「維新殘黨」は朴體制による抑壓を疚しく思ひ、若造の唱へる「民主主義」だの「言論の自由」だのに幻惑され、言ひたい事も言へずにゐるのか。奇怪千萬である。これを言ふのは大層心苦しいが、敢へて言はう、朴體制の抑壓政策を、今、多少なりとも疚しく思つてゐる人々は、この際、とくと考へて貰ひたい、あなた方は非凡なる朴正煕氏の抑壓あつてこそ、これまで國家の安泰を維持しえたのではなかつたか。

 もとより韓國には浮薄な民主化熱を内心苦々しく思つてゐる人々もゐる。だが、自ら惡役は引受けたがらず、軍が惡役を引受けてくれるだらうと思つてゐる手合も多いのである。そしてさういふ手合は、軍がうまく混亂ををさめたら、安心して「民主囘復派」を叩かうと思つてゐるのではないか。要するに他力本願である。私は軍を持ち上げ、軍事政權の誕生を唆してゐるのでは斷じてない。日本國のぐうたらを棚上げしてこれを言ふのはまことに心苦しいが、身命を賭す覺悟は文民も持たねばならず、それこそは今の韓國が最も必要としてゐるものではないのかと、その事が言ひたいのである。

 正直、韓國へ行く前の私は、いつその事、淺薄な野黨の政治家や學生たちには當分喋りたい事を喋りたいだけ喋らせ、やりたい事をやりたいだけやらせたらよい、所謂民主囘復派に言ひたい事を言はせておけば、そのうち必ず襤褸も出さう、弱音も吐かうと、そんなふうに思はぬでもなかつた。が、ソウルに着いて私は、民主囘復派の底の淺さはすでに充分に露呈されてゐるにも拘らず、政治家も新聞も、民主囘復派に愛想盡かしをするどころか、金鍾泌民主共和黨總裁までが、新民黨本部を訪れたりして、民主囘復派に色目を使はざるをえぬ現状を知り驚いたのである。金大中、金泳三氏の空疎なまやかしの論理など、何ともひどいものである。金鍾泌氏もまたそれに附合ひ、「自意半、他意半」などといふ譯の解らぬ事を口走つてゐる。

 こんな状態がつづけば、韓國の民主政治はいづれすさまじい衆愚政治と化し、世界中の物笑ひの種になるであらう。それを、私は何よりも恐れたのである。今囘の韓國滯在中私は、深く物を考へてゐる見事な知識人にも出會つたものの、韓國の學者知識人の多くは「民主主義」について深考を缺いてゐるやうに思へてならなかつた。鮮于氏から聞いた落語のやうな實話だが、韓國の石部金吉を友人が説得して、やつと女と寢る決心をさせたところ、女が約束の場所に姿を現はさなかつた、すると石部氏はかんかんになつて言つたといふ、「怪しからん、これは民主的ではない、約束を守るのが民主主義ではないか」。

 韓國の事だけは言へぬ。今の日本にもありさうな話だが、とまれ韓國の政治家も知識人も、口々に「民主囘復」を唱へ、或いは民主囘復派に色目を使ひ、それでゐて何を喋つてゐるのか、喋つてゐる當人もよく解つてゐないのではないか、私はさう思つた。「政治發展」にしても同樣である。政治家も新聞も頻りに「政治發展」を言ふ。「政治發展とは何か。發展的解消といふ事だつてあるではないか」と、前國會議長の白斗鎮氏は皮肉つてゐたが、實際、愚者が愚者を煽動し、愚者が賢者を壓倒するのが衆愚政治なのだ。その理不盡の恐しさを韓國の知識人はまづ骨身に徹して知り、その理不盡と戰はねばならぬ筈である。

ある娘との出會ひ

 だが、韓國に苦言を呈するのはこれくらゐにしておかう。私自身それをやつてゐて決して樂しくない。私は最後に名も無く地位も無い崔星煕孃の事を書かうと思ふ。私が崔孃に初めて會つたのは昨年十一月二日の夜である。韓國政府の招待でソウルに來て以來、私は毎日人と會ひ、土産物を買ふ暇が無かつた。韓國は紫水晶が安い。せめて自分のカフス・ボタンでもと思ひ、その夜、ふと思ひ立つて泊つてゐたホテルの地階にあるシヨツピング・アーケードまで降りて行つたのである。朴大統領の死後、外出禁止時間は午後十時からになつてゐて、私が降りて行つた時は殆どの店が閉つてゐた。が、一つだけ貴金屬店があいてゐて、そこで店番をしてゐたのが崔星煕孃だつたのである。私がシヨウケイスの中のカフス・ボタンを指差し、崔孃がそれを取出した。値段を訊くと三十八萬ウォンだといふ。「そんな高い物は買へない」と私が言ふと、彼女はそれより安い品物を五つ六つ取出し、それを吟味してゐる私にかう尋ねたのである。

 「お客樣は日本人なのに、なぜまだソウルにいらつしゃるのですか」

 「それ、どういふ意味?」

 「だつて、大統領が亡くなられてから、北が攻めて來るかも知れないといふ事で、日本人は殆ど皆歸つてしまひました。成田行の便は滿員で、金浦に着く便はがらがらだと聞いてゐます。それなのにお客樣はまだここにゐる……」

 私は、自分の滯在豫定は四日までだし、また自分は朴大統領を尊敬してゐるから、いづれにせよ國葬が濟むまでは歸らない、まだ死にたくはないが、北が攻めて來たら、かうして喪章を着けてゐる以上、仕樣がない、朴正煕氏の國民と一緒に逃げ囘るだけの事だ、と言つた。すると崔孃は、自分も大統領を尊敬してゐるが、お客樣は大統領のどういふ所が好きなのか、と訊いた。そこで私は、何よりも不正を嫌ひ、身邊が清潔だつた事だと答へ、朴正煕氏がいかに質素だつたかについて知つてゐる限りの事を話したのである。

 すると思ひがけない事が起つた。崔孃がシヨウケイスの上のカフス・ボタンを一つ一つ仕舞ひ始めたのである。日本の一流ホテルの宝石店に勤める娘に向つて、外國人の客が日本の首相の質素な生活を稱へる事はまづ無いであらう。が、萬一それをやつたとしても、首相の質素を力説する客に高價なカフス・ボタンは賣り難いと、そんな事を考へる娘は決してゐないであらう。

 崔孃はカフス・ボタンを仕舞ひ終ると、どの國にも缺點がある、あなたは韓國の缺點をも見た筈である、それを話してくれといふ。私がそれに何と答へたかは省略する。が、私が店を出ようとすると彼女が言つた、「あすは國葬で、お店も休みです。でも、四日の九時半には私はここにゐます。もう一度降りて來て下さい」。

 私は答へた、「四日の午前中は人と會ふ約束があるし、それに歸國する日だから忙しい。忘れてしまふかも知れない。でも、私は韓國が好きになつたからまた必ずやつて來る。その時は、飯でも食ひながらゆつくり話さう」。

 その夜おそく、私は國際電話で長女の危篤を知らされ、翌朝慌しくホテルを發ち歸國したのだから、崔孃と四日に會ふ事はもとよりできなかつた。そこで今囘、私は文化公報部行政事務官金俊榮氏に崔孃の事を話し、毎日お偉方に會ふばかりが「文化交流」ではない、私は崔孃のために一日を割く、つまり「デイト」をする、先方と聯絡をとつて貰ひたいと頼んだ。金俊榮氏は日本語を流暢に喋らないが誠實で率直な人物で、やがてその金氏が調べてくれ、私は、昨年十一月の約束を果し、夕食を共にして語り合ふ事ができた。彼女は老母と弟、妹との四人暮し、弟は高麗大學四年生、大學院へ進みたがつてをり、妹も大學に通つてゐて、それゆゑ二十八歳の彼女がもう少しの間家計を支へなければならないといふ。私は少々殘忍な質問をした、「しかし、大學院を出るには、日本の場合と同じなら、最低五年かかる、弟さんが一人前になつた時、君は三十三歳、完全に婚期を逸するではないか」。よい人に出會へば結婚すると彼女は答へたが、それは當てがあつて言つてゐるやうには思へなかつた。

 私は崔孃相手に野暮な話ばかりした。野暮天なのだから、それは致し方が無い。だが、昨年十一月と同樣、朴大統領に對する彼女の氣持は少しも變つてゐなかつたのである。それを確かめて私はほつとした。そして實際、右顧左眄するお偉方よりも、この名も無く貧しい娘のはうがよほど立派だつたのである。

 別れしな崔孃は、自分は月に二日休めるのだが、そちらの都合のよい日に休みをとつて、今度は韓國の大衆料理を御馳走したいと言つた。私は喜んで承諾し、十一日にもう一度會ふ約束をした。そして立上り、彼女の家まで送つて行かうと言つた。彼女は固辭した。委細構はず私はホテルの外へ出た。そこに丁度タクシーが駐つてゐる。先に乘込まうとする私の背に崔孃が聲を掛けた、「あたしを送つて行くと、歸れなくなりますよ」。

 私はぎくりとした。時計を見ると十一時、なるほど、彼女を送つて行き、歸りに運惡く英語も日本語も通じない運轉手にぶつかつたらどうなるか、あちこち引き廻され、外出禁止時間になつたら大變だ、一度だけだが韓國語しか喋れぬ運轉手の車に乘つて閉口した事のある私は、咄嗟にそれを思つたのである。よし、それなら運轉手にタクシー代をと、私が財布を取出すと、彼女は別のタクシーを拾はうとして走り出した。運轉手も、ホテルのボーイも、怪訝な顏で私を見てゐる。これには參つた。「いいよ、解つた……」と私が言ふと、彼女は戻つて來てタクシーに乘り込み、手を振りつつ去つたのである。

 男に奢らせ、男に送つて貰ふ事を、當節の日本の女性は當然と思つてゐるであらう。崔孃は豐かな暮しをしてゐない。私は女性の服や裝身具について全く無知だが、その私にも彼女のイアリングが上等でない事くらゐは見て取れた。彼女の月給も大した事はあるまい。十一日はどうしても私が奢らねばならぬ。

 だが、次に會つて、晝間、國立博物館の陳列品を見て廻り、夕方、武橋洞で燒肉料理を食べた時、私は見事にしてやられた。委細は省くが、「それはいけない、男が拂ふのが日本の……」と言ひつつ私が立上つた時、すでに彼女から金を受取つてゐた店員は韓國語で何か言ふばかりで、どう仕樣も無かつたのである。

 崔孃は女だから、崔連植少將のやうに身命を賭す覺悟なんぞは語らなかつた。無論、全斗煥中將のやうに命懸けの大事業もやれはしない。が、申相楚、鮮于兩氏について私は、「この二人の飮兵衞を時に頗る眞劒にならせるもの、それが韓國にあつて日本に無いものだ」と書いたけれども、それは雀孃にも確かにあつたのである。「カー附き、家附き、婆拔き」を理想とし、新婚旅行にはハワイくんだりまで出掛ける底拔けに明るい日本の若い女性と異り、崔孃には何かしら暗い影があり、平生、何かしら眞劒に考へざるをえぬものがある。そして「よりよく生きる」といふ事を彼女は念じてゐる。それは尊敬の對象があるからで、それが朴正煕大統領だつたのである。無論、よりよい生活を心掛けて果せぬのが人間の常である。が、尊敬の對象がある限り、人はひたむきに向上を圖るのではないだらうか。賢を見ては齊しからん事を思ふ、とはさういふ事ではないだらうか。

本氣の附合ひ

 全斗煥將軍も、申相楚氏も、鮮手氏も、そして崔星煕孃も、ひたむきに生きてゐる人間であつた。彼らに共通するものは眞劒といふ事であつた。それゆゑ、私が本氣で接した時、彼らも本氣で應じたのであり、私は韓國で、昨今日本では滅多に味はへなくなつた本氣の附合ひを樂しみ、堪能したのである。

 全斗煥將軍に見立てた藁人形を、ソウルの大學生は燒いたといふ。「全斗煥を八つ裂きにせよ」との横斷幕を光州の暴徒は掲げたといふ。そんな兒戲に類する愚行を、將軍は何とも思つてゐまい。が、萬一、光州に赤旗が立つやうな事態となつたなら、觀相學の「達人」全斗煥氏はもとより、申相楚氏も鮮于氏も、その時までに確實に死んでゐよう。それは私には耐へられない。本氣で接したら本氣で應じてくれた、さういふ友を失ふ事は、國籍の如何を問はず、耐へられない。

 全斗煥將軍は、昨年十二月十二日の鄭昇和司令官逮捕を「巡査が泥棒を捕へたやうなもの」だと評した。「國家元首を殺した犯人も處罰できずして何が民主化か」と彼は思つてゐるに相違無い。そして彼は今囘再び剃刀の刃を渡つた譯だらうが、さういふ將軍を私は見事だと思つたから、本氣で辯護し、本氣で會ひたいと願つた。そして將軍も本氣で私に附合つてくれたのである。特戰隊を見學して後、第一師團に向ふ車中で申相楚氏は、「特戰隊は韓國人にも滅多に見せない、あそこを見學した外國人は松原さんが最初でせうな」と言つた。が、全斗煥將軍はそんな事は一言も言はなかつた。それだからこそ、私はそれを知つて一層感激したのである。もつとも、素人の悲しさで、貴重なものを見せて貰ひながら、その貴重たるゆゑんを私は充分理解できなかつたけれども。

 崔孃にしても、自分の事をかうして外國の雜誌に書いて貰つたからとて、それで彼女が得をする譯が無い。が、私が本氣で韓國を、朴正煕氏を論じたから、彼女も本氣で私に附合つたのである。申相楚氏にしてもさうである。すでに述べたやうに、申氏は頗るつきの音癡なのだが、その申氏が、かつては抗日運動をやつた事もある申氏が、自尊心の強い申氏が、醉拂つて日本の軍歌を歌ひ、上體を屈め、兩手を打ち鳴らし、舊制高校の寮歌を、殆ど聞くに耐へぬ惡聲で歌ひ、ぎごちない蠻カラ踊りをやつてみせた時、私は胸に應へ、胸が一杯になり、涙を抑へる事ができなかつた。

 周知の如く、かつて日本は申相楚氏たちに日本語の使用を強制したのである。韓國を植民地にして數々の理不盡を強ひたのである。日本の韓國に對する過去の罪惡を徒に論ふのは無意味だと、私は書いた事がある。お題目よろしく贖罪を云々する手合が本氣でない事を知つてゐたからである。が、今囘の韓國滯在中、私は屡々思つた、本氣で附合ふと本氣で應ずる韓國人の直向きに、これまでの日本人はとかく本氣で應ぜず、それどころか、相手の直向きに附け込んだのではなかつたか、と。韓國に對する「過去の罪」を知識として知つてゐるだけでは殆ど無意味である。今後の日本が、本氣で韓國と附合ふ、それが何よりの「贖罪」に他なるまい。

 ところで、申相楚氏や鮮于氏のやうな愉快な飮兵衞を時に頗る眞劒にならせるもの、それが韓國にあつて日本に無いものだと私は書いた。それは戰爭の危機であり、亡國の危機なのである。それが一瞬腦裡を掠めると、彼らは忽ち本氣になる。冗談もそこでぴたりと止み、彼らは眞劒そのものになる。さういふ事が、今のところ、日本にはまるで無い。眞面目になるべき時眞面目にならうとすると、附合ひ難い野暮天として、二階へはふり上げられ、梯子を外されてしまふ。それゆゑ私は、昨今流行の防衞論議の眞劒を疑つてゐる。韓國から歸つて來て、ますますそれを疑ふやうになつた。

 全斗煥氏にせよ、申相楚、鮮于兩氏にせよ、この世のすべてを茶化してはをられない。彼らには本氣になつて考へねばならぬ事があるからである。それゆゑにこそ彼らは、本氣で附合ふと必ず本氣で應ずるのである。だが、彼らが今、本氣で考へてゐる事は、早晩吾々日本人が頭を絞らねばならぬ當の物ではないか。それなのに、日本人にとつての韓國はなぜかうも「近くて遠い國」なのであらう。

 四月十五日、金浦空港まで私を見送つてくれた申相楚氏は、いつもの蓬髪に、その日ばかりはポマードを塗り附けてゐた。私は感動した。どうしてこの愛すべき先輩を裏切れようか。この次韓國を訪れる時は、よし、この敬愛措く能はざる先輩に附合つて、必ず必ず犬の肉を食はう、さう決心して私は、申相楚氏の右手をかたく握り締めたのである。

道義不在の時代・目次

廉恥節義は一身にあり──序に代へて
I 教育論における道義的怠惰
  1. 僞りても賢を學べ
  2. まづ徳育の可能を疑ふべし
II 防衞論における道義的怠惰
  1. 道義不在の防衞論を糺す
  2. 猪木正道氏に問ふ
III 日韓關係論における道義的怠惰
  1. 全斗煥將軍の事など
  2. 反韓派知識人に問ふ
IV 對談
初出一覽
あとがき