©1982,2002 Tadashi Matsubara

I 教育論における道義的怠惰

2 まづ徳育の可能を疑ふべし

 日本人は「和を以て貴しと爲す」民族だとよく言はれる。が、それは昔の事で、今は「馴合ひを以て貴しと爲す」民族だと私は思つてゐる。吾々は互ひに許し合ひ、徹底的に他人を批判するといふ事をしない。許すとは緩くする事だが、他人に緩くして、おのれも緩くして貰ひたがるのである。

 今や吾國は許しつ許されつの弱者の天國である。「すみません」の一言で、既往は咎めず、一切は水に流される。それゆゑ、ぐうたらを憎む者は必ず嫌はれる。必ずしも憎まれはしないが必ず嫌はれる。そして憎まれないのに憎むのは、憎まれて憎む以上の難事である。かくて「顏あかめ怒りしことが、あくる日は、さほどにもなきをさびしがるかな」といふ事になる。これは石川啄木の歌である。啄木はまたかう歌つてゐる、「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ、花を買ひ來て、妻としたしむ」。何ともやり切れないほど慘めな歌である。友がみな偉く見えるのなら、友を蹴落してでも偉くなつてやらうと考へたらよい。けれども、かういふ事を書けば皆に嫌はれる。嫌はれたくないのなら、啄木の如くわが身をあはれがり、妻を愛撫して寂寥を慰める歌を詠むに如くはない。徹底的に憎む事も憎まれる事もなく、何事も許し合ふ微温湯さながらの社會では、自分で自分をあはれむこの種の腑甲斐無い歌ばかりがやたらに流行るのである。

 日本は許しつ許されつの愚者の樂園である。それゆゑ私は「世代の斷絶」といふ事をそのままには信じない。今や日本人は道義心を失ひ、何を善とし何を惡とするかの基準はもはや定かでなく、そのため「あれをしてはいけない、これはしてはいけない」といふやうな事を、親や教師は子供に言へなくなつたといふ。親にとつて自明の常識も今の子供にはまるで通用せず、ために親も教師も大いに困惑してゐるといふ。だが、實際は親も教師も口で言ふほどは困つてゐない、私にはさうとしか思へぬ。今、大人と子供の間に斷絶があるのなら、昔もそれはあつたのだし、昔それが無かつたのなら、今も無いのである。「和を以て貴しと爲す」のは日本人の度し難い本性で、敗戰くらゐの事でそれが變る筈は無い。それゆゑ何事も「ドライに割切る」といふ當節の子供もまた、許し合ひの快を知つてをり、親や教師から「あれはしてはいけない、これはしてはいけない」と言はれても、なぜそれをしてはいけないのかと執拗に食ひ下り、大人を理責めにするといふやうな不粹な事をやる筈が無い。この許し合ひの天國では、物事の善惡を突きつめて考へる必要など少しも無いからである。

 日本人には罪惡の問題を識別する能力が「缺けているか、でなければ幼稚」であり、また「この難問題を解くことにある程度の氣のりなさを示している」とかつてジヨージ・サムソンは言つた(『日本文化史』福井利吉郎譯)。イギリス人からすれば日本人は「氣のり」しないやうに見えるのだらうが、日本人からすれば、善惡を突きつめて考へ、倫理的難問と惡戰苦鬪して、間缺的に殺し合ひまでやらかす西洋人は馬鹿か狂人に見える。資源さへ充分にあれば一刻も早く再び鎖國して、和よりも正義を尊ぶ愚かな狂人との附合ひをやめたはうがよい、私もさう思はぬではない。が、もとよりそれは出來ない相談である。とすれば、西洋人の愚昧と狂氣を嗤つてもゐられない。

 しかるに、日本の大方の教育論は、倫理的難問と惡戰苦鬪する事が無い。かつて『中央公論』に書いた通り、苦しげな事を言ふ時も教育評論家は決して本氣ではない。それは教育論の文章が裏切り示してゐる。つまり大方の教育家は人間が矛盾の塊りである事を本氣で氣に懸けない。彼等が安つぽい僞善者なのは、してみれば當然の事である。彼等は「絶對的ではあるが架空の善の海を樂しげに航行する」。これはギユスタヴ・テイボンの言葉だが、T・S・エリオツトは教育論の第二章を閉ぢるにあたつて、シモーヌ・ウエーユを論じたテイボンの文章を引いてゐる。それを以下に孫引きする事にする。

 絶對的な善を追求する精神は、この現世では、解決の無い矛盾に直面する。「吾々の人生は不可解であり、不條理なのだ。吾々が意志するすべての事柄は、状況やそれに附隨する結果と矛盾する。それは吾々自身が矛盾せる存在、すなはち被造物に過ぎないからである」。例へば子供を多く産めば人口過剩と戰爭を招來する(その典型的な例が日本である)。人々の物質的條件を改善すれば、精神的退廢を覺悟しなければならない。誰かに心底打ち込めば、その誰かに對して生存するのをやめる事になる。矛盾が無いのは想像上の善だけである。子供をたくさん産みたいと考へる娘、民衆の幸福を夢みる社會改良家、さういふ人たちは實際に行動を起さぬ限り何の障害にも出交さない。彼等は絶對的ではあるが架空の善の海を樂しげに航行するのである。現實にぶつかる事、それが覺醒の第一歩なのだ。

 誰か他人に心底打ち込んで、おのれのエゴイズムを根絶した積りでも、必ずしもそれは他人のために生きる事にはならないのである。例へば男が女を激しく愛するやうになつたとして、男はいかやうの自己犧牲をも厭はぬやうになるか。何事も女の言ひなりになるか。そして、何事も女の言ひなりになつたとして、さういふ男に女はいつまでも魅せられるか。さらにまた、かういふ事もある。女が或る男に夢中になれば、女は當然男の時間と心と肉體を專有したいと考へる。その場合、男が自我持たぬ腰拔けならば問題は無い。けれども通常、女が男のすべてを獨り占めしようとすれば、そして獨り占めできぬ事に苛立つならば、その時女は男のために生きてはゐない譯であつて、男も當然その事に苛立つやうになるに違ひ無い。

 昨年、東京世田谷區の高校生が祖母を殺して自殺した。が、彼は犯行の動機や計畫を克明に記したノートを殘してゐる。それにはかう書いてあつた。「祖母の醜さは私への異常に強い愛情から來ている。私の精神的獨立を妨害し、自分の支配下に置こうとする。祖母は私のカゼ藥の飮み具合を錠劑を數えてチエツクする。夜食、いちいち運んで來るのが耐えられない。眠つてからフトンがずれていないかのぞきにくる。私が怒つたとき、祖母はうす笑いを浮かべ“あなたのためを思つて”という言葉を武器にする。このままでは進學、就職、結婚すべてが祖母に引きずられてしまうのではないか」。

 くだくだしい解説は要るまい。祖母は孫を一心不亂に愛してゐたのだらうが、それは孫の「ためを思つて」生きた事にはならなかつたのである。孫に對する「異常に強い愛情」は孫を「自分の支配下に置こうとする」エゴイズムであり、一方、孫はおのれのエゴイズムを棚上げしてその醜さを憎んだ譯である。それはまさしく地獄の體驗だつたに違ひ無い。そして私にはそれは餘所事とは思へない。同じ状況に置かれれば、十六歳の私は同じやうに行動したかも知れないと思ふ。

 ところで、この十六歳で愛憎の地獄を體驗した高校生は大衆の愚昧に苛立ち、自分の犯行は「大衆のエリート批判に對するエリートからの報復攻撃」だと書いてゐる。十六歳にふさはしい粗雜な論理ではあるが、要するに彼は「人を殺してなぜ惡いか」と開き直つてゐるのである。そして「人を殺してなぜ惡いか」といふ問ひは、最大の倫理的難問であつて、古來偉大な思想家は必ず一度はこの難問と苦鬪した。拙文の讀者の中には教師もゐようが、祖母を殺す前日、生徒がこの問ひを突き附けて來たら教師はどうしたらよいか。もとより頭の惡い子供も人を殺す。さういふ子供は見捨てたらよい。が、頭のよい子供に「人を殺してなぜ惡い」と反問されて「殺人は惡だ、解り切つた事ではないか」としか答へられぬとすれば、さういふ教師は立派な教師ではない。殺人が惡だといふ事は、決して解り切つた事ではない。自明の理ではない。そして立派な教師とは、まづ何よりも世間が自明の理と考へてゐるものを徹底的に疑つた事のある教師だと、私は思つてゐるのである。

 例へば、教育を論じて人々は教育の有用を自明の理と考へてゐるであらう。自明の理と考へて、それを疑つてみた事が無いであらう。無論、てにをはや掛け算は教へられ、それは確實に有用である。けれども、徳は教へられるのか。徳目を教へれば、教へられた生徒は人を殺すのをやめるのか。さういふ事を教育論の筆者も教師も少しも考へてゐないではないか。英語の教師なら分詞や動名詞の用法を教へられるであらう。が、「人を殺してなぜ惡い」と少年に開き直られたら、英語の教師は一體何と答へたらよいのか。殺人を惡とする常識を否定する小惡魔に、「殺人は惡だ、そんな事は解り切つてゐる」としか答へられぬやうな常識的な教師がどうして太刀打ちできようか。綺麗事を竝べ立て、小惡魔に嘲弄されるが落ちである。けれども、眞の教師なら、殺人を惡と言ひ切れぬゆゑんを説いて、小惡魔を壓倒する事ができる。「人を殺してなぜ惡い」と非行少年に開き直られたら、安手の道義論では到底齒が立たない。その場合はまづ「殺人必ずしも惡ならず」と答へねばならぬ。が、さう答へられる教師は殆どゐないであらう。なぜなら、さう答へるためには、殺人を惡とする常識を徹底的に疑つた體驗が無ければならないが、僞善と感傷の教育論ばかりが氾濫し、善惡といふ事を徹底して考へぬこの許し合ひの樂園では、教師や物書きがさういふ體驗をする事はまづ無いからである。けれども、ほんの一寸疑つてみればよい、殺人を惡とする常識は實に呆氣無く覆る。人を殺す事は惡いか。惡い。では、惡い人を殺す事も惡いか。それも同じく惡いと言ふのなら、死刑は廢止しなければならぬ。そればかりではない、例へば毛澤東は、モスクワ發表によれば二千五百萬人を肅清したといふ。毛澤東自身が認めてゐるのは八十萬人であつて、一九四九年の共産黨政權樹立後、一九五四年初頭までに八十萬人を肅清したといふ事になつてゐる。八十萬人で結構である。八十萬人を殺す事は惡い事なのか。毛澤東が肅清したのはすべて惡い人々だつたのである。正確に言へば、毛澤東によつて惡いと判定された人々だつたのである。そして、その八十萬のすべてが本當に惡い人だつたかどうかを、神ならぬ身の誰が知らうか。

 けれども、今はこの問題に深入りしない。深入りしてほしいと思ふ讀者がゐる事を私は信じてゐるが、これはここで深入りできぬ程重大な問題なのである。いづれ私は「戰爭論」を書くつもりなので、そこで徹底的に論じようと思つてゐる。とまれ、それは例へばドストエフスキーが徹底的に考へた問題だが、日頃からさういふ事を考へて考へあぐねてゐる教師なら、「人を殺してなぜ惡い」と生徒に開き直られたくらゐで驚きはしない。教師は生徒の知能に應じ見捨ててもよいし、見捨てずして共に人を殺す事についてとくと考へるもよい。祖母を殺した少年はドストエフスキーを讀んだ事が無かつたらしいが、彼がもし『罪と罰』を讀んだならば、十九世紀のロシアに大天才がゐて、自分と同じやうな(實は兩者の懸隔は甚だしいが)苦しみに耐へる作中人物を創造した事を知つた筈である。そして、自分を救はうと惡戰苦鬪した人間だけが他人を救へるのかも知れず、ドストエフスキーは或いは少年を救へたかも知れない、と私は思ふ。

 勿論、人を殺してなぜ惡いといふ問題にドストエフスキーが決定的な解答を與へてゐる譯ではない。けれども、大天才も苦しんだと知れば、少年は少々氣が樂になつたかも知れぬ。さうして少々氣が樂になつたところで、教師は例へば次のやうな文章を少年に讀ませる事ができよう。

 幸福は、われわれが何かをしないことにかかつてゐる。ところがそれは、われわれがいつ何時でもやりかねない事であつて、しかも、なぜそれをしてはならぬのか、その理由はよく解らない事が多いのだ。(中略)例へば、粉屋の三番目の息子が妖精に向つてかう聞くとする──「何だつて妖精の宮殿で逆立ちしてはいけないのですか。その理由を説明して下さい」。すると妖精はこの要請に答へて、まことに正當にかう言ふだらう。「ふむ。そんな事を言ふのなら、そもそもなぜ妖精の宮殿がここにあるのか、その理由を説明して貰はう」。或いはシンデレラが聞いたとする──「どうして私は舞踏會を十二時に出なければならないのですか」。魔法使ひは答へる筈だ──「どうしてお前は十二時までそこにゐるのだい」。

 これはG・K・チエスタトンの文章なのだが、「なぜ人を殺してはいけないのか」と少年に問はれたら、チエスタトンの妖精なら何と答へるだらうか。教師はそれを少年に考へさせたらよい。勿論、妖精はかう答へる筈だ。「ふむ。そんな事を言ふのなら、そもそもなぜお前がこの世にゐるのか、その理由を説明して貰はうか」。つまり、教師は少年にかう語つたらよいのである。人間の幸福は何かをしない事にかかつてゐる。が、お前は祖母を殺したいと言ふ。それなら「なぜ殺していけないのか」などと言はず、今夜にも殺したらよい。けれども、殺すための理由をどうしても必要とするのなら、殺すのは少し先に延ばして、なぜ人を殺してはいけないのかといふ事について徹底的に考へてみたらどうか。さうすれば、チエスタトンの言ふ通り、この世には殺していけない理由に限らず、よく解らない事がたくさんあるといふ事が解るだらう。例へば、なにゆゑに或いは何の爲に自分はこの世にゐるのかと、お前はさういふ事も解つてゐないではないか。

 けれども、さういふ問答によつて教師が生徒を救へるなどと私は言つてゐるのではない。死ななければ癒らないやうな馬鹿はゐるし、それに何より、人間に果して人間が救へるものか、それが甚だ疑はしいからである。サマセツト・モームに『雨』といふ短篇がある。あばずれ娼婦を改悛させようとして、改悛させた途端に娼婦に反對給付を求め、つまり娼婦の肉體に手を着け、娼婦に罵倒されて自殺する牧師の話である。けれども、娼婦トムソンを救へなかつたのはデイヴイドソン牧師だけではない。反對給付を求めなかつた温厚なマクフエイル醫師も救へはしなかつたのである。「彼らを捨ておけ、盲人を手引する盲人なり、盲人もし盲人を手引せば、二人とも穴に落ちん」とイエスは言つた。人間が人間を救はうとする事は、盲人が盲人を手引きするやうなものである。ルターは人間の本性は惡だと信じ、人間は自らの意志で善を選ぶ事が決して無いと考へてゐた。自らの意志で善を選ぶ事が無い人間を、自らの意志で善を選ぶ事の無い人間がどうして救へようか。さういふ度し難い人間を全能なる神は救へるかも知れないが、ルターの言ふとほり、その際の神の知惠と正義は人間の理解を絶するものであらう。ルターは『奴隸意志論』の中にかう書いてゐる。

 このようにして人間の意志は、いわば神と惡魔との中間にいる獸のようなものである。もし神がその上に宿れば、神の意志のままに意志し、動くであろう。あたかも詩篇が「われ聖前にありて獸にひとしかりき。されどわれ常に汝と共にあり」とのべているように。もし惡魔がのり移れば、惡魔の意志のままになる。どちらの乘り手のほうへ走るか、またどちらを求めるかはかれ自身の意志の力にはなく、乘り手自身がそれをとらえようと爭うのである。

 つまり、かういふ事になる。「人を殺してなぜ惡い」と反問する少年の「上に神が宿れば」、少年は祖母を殺さないが、「惡魔がのり移れば」彼は殺すしかない。そして、ルターの考へでは、少年を神が捕へるか惡魔が捕へるかは少年自身の意志の及ばぬ領域で決定されるのである。ルターの考へが正しいとすれば、誰も少年を救ふ事ができない。が、それなら、教育とは所詮骨折り損のくたびれ儲けではないか、といふ事になる。

 ルターは激しい男で、病的なほど良心にこだはつた。『奴隸意志論』はエラスムスに反駁すべく書かれたものである。人間に自由意志ありや否やをめぐるこの有名な論爭について、私はここで深入りしないが、要するに、エラスムスに與すれば神の助力を必要とせぬ人間の偉大を強調してやがて神を殺す事となり、ルターに與すれば神に縋らざるをえぬ人間の悲慘を強調してやがて人間を神のロボツトと見做す事になる。テイボンならばこの矛盾は「辛いものながらそのままに受け入れなければならない」と言ふであらう。けれども私は、ここではルターに與する。吾々人間を神が捕へるか惡魔が捕へるか、それは吾々の意志と無關係だとするルターの主張は、教育の有用を信じ切つて「架空の善の海を樂しげに航行」する手合に痛棒をくらはすために效果的だし、それに何より人間に人間は救へないと私は考へるからである。それゆゑ、人間にやれるのは知育だけだと私は思つてゐる。徳育なるものを私は一切信じない。教育勅語もそのままには信じないが、日教組の「教師の倫理綱領」にいたつては傍痛い。人間は事のついでに、うつかりして、つい善行をやるに過ぎず、意識的な徳育などやれる筈が無いのである。それゆゑ、徳育は無用の事である。有用かも知れぬのは知育だけである。日本の教育は知育偏重で徳育不在だと言はれるが、とんでもない事であり、不在なのは知育なのである。吾國で行はれてゐるのは無味乾燥で生氣の無い詰込み教育であり、眞の知育の持つ思考の徹底を缺いてゐる。知育に徹すれば、いづれ必ず惡魔に出會ふ。惡魔に出會つて、人間が人間を救へるかとの難問にたぢろぐやうになる。けれども、吾國ではその種の知育は行はれてゐない。本年三月六日付のサンケイ新聞に市村眞一氏は書いてゐる。

 ここ三十數年間、わが國のジヤーナリズムの上で人氣のあつた思想や評論の流れには、顕著な一つの特色がある。それは「直線的思考」とでもいうべきものである。しかしそのような單細胞型の割り切り方では、現實の世界に對處できぬことは、つぎつぎに明らかになつてきた。(中略)そもそも多少でも思想哲學の歴史を學び、政治經濟史の記憶を喪失しなければ、ここに述べたような單細胞型の直線的思考におちいることはない筈である。それにもかかわらず、どうして同じような型のあやまちを繰り返すのかがむしろ不思議である。わが國のジヤーナリストのなかには、漱石の『坊つちやん』のように「世の中に正直が勝たないで、ほかに勝つものがあるか、考えてみろ」と割り切りたい單純・類型化・率直への希望的觀測が支配しているのであろうか。

 市村氏のやうな學者だけが大學で教鞭を取つてゐるのではない。「直線的思考」を挫折せしむるほどまでに徹底した知育は大學では殆ど行はれてゐないのである。それゆゑ大學生は考へる習慣を失つてゐる。勿論、高校生も考へない。受驗勉強とは專ら記憶力に頼る勉強である。それゆゑ高校生は考へない。考へても仕樣が無い。

 私は最近高校で用ゐられてゐる倫理・社會の教科書を覗いて仰天した。そこには何とソクラテスからサルトルまでの西歐の哲學者についての「豆知識」が詰込んである。高校ではそれを一年で教へるのである。私は仰天し、ついで倫理・社會を教へる教師の情熱を疑つた。ソクラテスからサルトルまでを一年で教へる、それは曲藝以外の何物でもない。そのやうな曲藝を強ひられながらそれに耐へてゐる教師の誠實を私は疑はずにはゐられない。

 けれども、責任の大半は實は大學が負はねばならないのである。これは倫理・社會の教師ではないが、大阪明星學園で日本史を教へてゐる福田紀一氏は、「大學側は、こちらが力を入れて解説したようなことは、めつたに出してくれない」と言ひ、次のやうに書いてゐる。

 入試の合否を決めるのは、無學祖元はだれの保護を受けたかとか、解脱房貞慶は何宗か、といつた、本來枝葉ともいうべき小さな知識であり、すなおに授業を受けていればいるほど面くらうような問題が、合否を左右することになる。授業をしていても受驗問題を考えると、空しい氣持ちになつてくる。(『おやじの國史とむすこの日本史』)

 福田氏の言ふ事は間違つてゐない。けれども、受驗本位の詰込み教育にはもつと大きな弊害がある。例へば、今年の國立大學共通一次試驗において、受驗生はセネカ、ポンペイウス、プロタゴラス、アリストテレス、アイスキユロス、アリストフアネス、カエサル、エラトステネス、トウキデイデス、及びアウグステイヌスの中から「ヘロドトスと同樣に戰史ないし戰記を書き殘した」人物を二人選ぶ事を求められてゐる。正解は無論カエサルとトウキデイデスである。けれどもこの種の問ひに正しく答へるためには、高校生はトウキデイデスの『戰史』を讀む必要は無い。いや讀んではいけない。讀んだら確實に入試に失敗する。それゆゑ高校生は讀まないし、高校の教師も多分讀まない。高校生も教師も、「ペルシア戰爭後アテナイが繁榮するが、ペロポネソス戰爭を契機に個人主義的な風潮が強くなつて、ギリシア世界は分裂し、ヘレニズム時代を迎へ」たが、トウキデイデスといふ男は、そのペロポネソス戰爭の歴史を書いたのだと、それぐらゐの事を記憶しておけば充分なのである。が、實際にトウキデイデスの『戰史』を讀むならば、高校生は確實に惡魔に出會ふ。例へば『戰史』卷五、所謂「メロス島對談」において、強者アテナイは弱者メロスに弱肉強食の理を説いて憚る事が無い。少しく引用しよう。

アテナイ側「われらの望みは勞せずして諸君をわれらの支配下に置き、そして兩國たがひに利益をわかちあふ形で、諸君を救ふことなのだ」

メロス側「これは不審な。諸君がわれらの支配者となることの利はわかる、しかし諸君の奴隸となれば、われらもそれに比すべき利が得られるとでも言はれるのか」

アテナイ側「しかり、その理由は、諸君は最惡の事態に陷ることなくして從屬の地位を得られるし、われわれは諸君を殺戮から救へば搾取できるからだ」

 メロスはラケダイモンの植民地である。それゆゑメロスは、必ずやラケダイモンが「救援にやつて來る」と信じてゐる。「植民地たるメロスを裏切れば、心をよせるギリシア諸邦の信望を失ひ、敵勢に利を與へることになる。ラケダイモン人がこれを望まうわけがない」とメロスは言ふ。が、アテナイは冷やかに答へる、「援助を求める側がいくら忠誠を示しても、相手を盟約履行の絆でしばることにはなるまいな。求める側が實力においてはるか優勢であるときのみ、要請は實を稔らせる」。

 會談は決裂し、戰端が開かれ、メロスは降服し、アテナイは逮捕したメロス人の成年男子全員を死刑に處し、女子供を奴隸にした。今から二千四百年も昔の話である。けれどもロケツトが冥王星に達する時代になつても、地上におけるこの種の弱肉強食の爭ひは跡を絶たないであらう。カンボジアはヴエトナム正規軍の侵掠を受け、首都プノンペンは本年一月七日に陷落した。ポルポト政權は一月三日、國聯安全保障理事會に提訴したが、理事會の審議が始まつたのは十一日であつた。そしてカンボジアからの「外國軍隊の即時撤退」を求める決議案は、ソ聯の拒否權によつて潰されたのである。要するに、國際輿論を代表する筈の國聯も、インドシナ半島における弱肉強食の現實を前にしては全く無力であつた。そして二千四百年前のメロスと同樣、カンボジアは中國の支援を當てにしたのだらうが、中國は直ちに軍事介入に踏み切る事はしなかつたのである。「援助を求める側がいくら忠誠を示しても、相手を盟約履行の絆でしばることにはなるまい」とアテナイは言つた。アメリカの核の傘の下にゐる日本が「いくら忠誠を示しても」、アメリカを「盟約履行の絆でしばることには」ならない。マツクス・ウエーバーは「政治家は惡魔の力と契約する」と言つたが、それなら「條約は破られるためにある」。そしてそれが國際政治の現實なのである。

 すでに明らかであらうが、トウキデイデスを讀むといふ事は、さういふ惡魔の力と契約せざるをえない人間の現實の姿についてとくと考へる事なのであり、高校時代にそれをとくと考へたら、大學生になつて單純幼稚な正義感などに醉拂へる筈が無い。角材やヘルメツトで武裝して與太を飛ばせる筈が無い。いや、劇畫雜誌を愛讀し、女の尻を追ひ、麻雀に凝つて、虚ろな毎日を過ごす筈も無いのである。けれども、高校生はトウキデイデスを讀まない。そして高校時代に讀まないものを、遊園地と化してゐる大學に入つて讀む筈が無い。かくて高校、大學を通じて日本の若者は惡魔と無縁の教育を受け、やがて自分が教師になつて惡魔と無縁の教育を施す。どう仕樣も無い惡循環なのである。

 明治時代、小崎弘道は『政教新論』の中に次のやうに書いた。

 世の學者は徳行は教訓し得べしと爲し教育さへ盛にすれば人の品行は正しくなり、風俗は敦厚になると思惟する者多けれども是れ全く人生の根底に達せず、杜會の實情を詳に知ざるより起るの誤謬にして實際に適用し難き一場の空談たるに過ぎざるなり。抑人の善を爲さずして惡を爲すは善の爲すべくして惡の爲す可らざるを知らざる故歟。(中略)若し人の善を爲さずして惡を爲すの原因果して知識の不足に在りとせば、身を修め人を善に導くの容易なるは勿論、善を爲さず惡を爲す人今日の如く多からざるべし。

 要するに小崎は「徳は教へられるか」と問うてゐるのである。「徳は教へられるか」とソクラテスも屡々問うた。徳は教へられるか。徳が知識なら教へられる。が、教へるには教師が必要である。では、徳の教師はゐるか。ゐない。ゐる筈が無い。それゆゑ徳は教へられない。ソクラテスはさう考へる。かういふソクラテスの考へについては、プラトンの『メノン』や『プロタゴラス』に詳しいが、詮ずるところ徳は教へられず、「人の善を爲さずして惡を爲すの原因」は「知識の不足」のせゐではないとすると、徳育は無用の事で、教育がなしうるのは知識の傳達だけといふ事になる。それでよいのだし、昔からさうだつたのである。周知の如くトウキデイデス以來二千四百年、科學は長足の進歩を遂げた。それはつまり知識の傳達を事とする「知育」の勝利に他ならない。けれども、徳育において、ソクラテスの言ふ「魂の世話をする事」において、人間は少しも進歩してゐないのである。例へばヒポクラテスは神聖病すなはち癲癇について「腦の破壞は粘液によるほか、膽汁によつてもおこる」と書いてゐるが、今日この説を承認する精神科醫は一人もゐないであらう。けれども醫者の心得を説くヒポクラテスの次の文章は、今日そのまま通用するのである。

 あまり不親切なやり方はしないように勸めたい。患者には餘分の財産があるのか、また生計の資力があるのかを考慮に入れるがよい。そして、ばあいによつてはかつて受けた恩惠や現在の自分の滿足な状態を念頭において、無料で施療するがよい。(中略)人間に對する愛があれば技術に對する愛もあるからである。(小川政恭譯)

 ヒポクラテスは醫は仁術だと言つてゐるのではない。醫者が少々不親切になるのはやむをえないが、不親切の度が過ぎぬやうにせよ、「無料で施療」するのは時と場合による、と言つてゐるのである。

 けれどもここで、「人の善を爲さずして惡を爲すの原因」が「知識の不足」のせゐでないのなら、徳育のみならず知育も空しいではないかと反論する向きもあらう。だが、人間は「善を爲さずして惡を爲」したいと常に思つてゐるといふ事實をまづ認めるべきだと私は言つてゐるのである。そして、それを認めさせるのは、度し難き馬鹿が相手ならばともかく、常に可能な事であつて、そのためには知育一本槍でよい。さういふ知育が眞の知育なのだ。つまり、善の無力、徳育の無力について徹底的に考へる、それが眞の知育なのである。そしてそれは吾國では行はれてゐない。善の力を稱へる僞善的教育論が横行するのは當然の事だと思ふ。

 ところで、右に引いたヒポクラテスの考へを、メルヴイルに倣つて私は「道徳的便宜主義」と名附けようと思ふが、二十世紀の醫者もヒポクラテスの忠告に從つて行動してゐる筈であり、とすれば古代ギリシア以來人間の「どうにもならぬ本性」は少しも變つてゐないといふ事になる。小崎弘道の言ふ通り、「人の善を爲さずして惡を爲すの原因」は「知識の不足」のせゐではない。今日、醫學的知識は豊かになつたものの、醫者と患者との人間關係は古代ギリシアのそれと變らず、大方の醫師は出來る事なら「善を爲さずして惡を爲」したいと考へてをり、時に善をなすとしても「技術に對する愛」に盲ひて、事のついでになすか、さもなくば有徳なる醫師と見做される事を處世術上の「便宜」と考へての事か、そのいづれかであらう。醫者に限らない、吾々は皆道徳的便宜主義者なのである。メルヴイルは『ピエール』の作中人物プリンリモンにかう語らせてゐる。

 地上的な物事において、人間は天上的觀念の支配を受けてはならない。人間は生來、世間なみの幸福な生活を送りたいと願ふ。人間がこの世で或る種のささやかな自己抛棄をしようと思ふのも、さういふ本性のしからしむるところであらう。が、だからといつて、完全かつ絶對的な自己犧牲などは、他人のためであれ、何らかの主義のためであれ、奇想のためであれ、決してしてはならない。(中略)尋常の人間にとつてこの世で最も望ましく、また可能な生き方は道徳的便宜主義である。これこそ造物主が、一般の人間にとつての唯一の地上的卓越として考へてゐたものなのだ。

 ささやかな自己抛棄ならばよろしい、とプリンリモンは言ふのである。幸福な世間なみの生活を送るためにそれは有用だからである。勿論、それは徳行などといふものではない、打算であり處世術であるに過ぎない。だが、時折のささやかな自己抛棄は確かに己れを利するのであつて、それは吾々のすべてが知つてゐる事である。しかるに、教育について考へる時、人々は或る種の條件反射を起す。パブロフの犬よろしく、教育といふ言葉を耳にしただけで、道徳的便宜主義の有用を忘れ、人間のどうにもならぬ本性を矯めうるとの錯覺を起す。それはすでに述べたやうに、徳育の可能を自明の理と考へ、己れの心中に惡魔を見ず、人間の度し難い本性を忘れてゐるからである。道徳に關する自明の理を疑ふ所まで徹底して考へようとしないからである。それは知的怠惰である。怠惰な人間に、眞の知育が行へる筈は無い。例へば日教組は「教師は人類愛の鼓吹者、生活改造の指導者、人權尊重の先達として生き、いつさいの戰爭挑發者に對して、もつとも勇敢な平和の擁護者として立つ」と「教師の倫理綱領」に言つてゐるが、かうして途方も無い綺麗事を言ひ、人類愛を説けるからには、個人のエゴイズムくらゐはた易く克服できると日教組は思ひ込んでゐる譯であり、してみれば日教組は、競爭原理による「人間性破壞」を憂へる進歩的教育學者と同樣、或いは外山滋比古氏のやうな保守派のいかさま師と同樣、徳育の可能を信ずる樂天家なのである。外山氏の教育論の許し難いでたらめについてはいづれ詳しく書くが、少なくとも日教組には、忠君愛國の徳目主義を嗤ふ資格は無いのである。

 トウキデイデス以來人間の本性は少しも變つてゐない。しかるに、徳育に固執する教育家は、今日なほ人間の本性を矯めうると信じてゐる。左翼文化人が社會主義國は戰爭をしないといふ幻想に久しい間醉へたのも、良き社會體制は人間の本性を矯めうると信じたからに他ならない。しかるに先頃中越戰爭が勃發し大方の左翼文化人は衝撃を受けたといふ。笑止千萬である。東大助教授の菊地昌典氏などはやうやく夢から醒めたやうな事を言つてゐるが、私には信じられぬ。美しい夢を必要とするのは愚者と弱者の常だから、菊地氏の場合もまたぞろ夢から醒めた夢を見てゐるに過ぎまい。日教組の如きは軍國主義の惡夢から醒めた夢を三十餘年間も見つづけて今なほ飽きる事が無い。彼等は教師を「人類愛の鼓吹者」だと思つてゐる。平和を愛する「よい子」を育てる事が教育だと思つてゐる。それはつまり、徳育の可能を疑つた事が無いからである。いやいや、日教組だけを嗤ふ譯にはゆかぬ。教育基本法には「われらは、さきに、日本國憲法を確定し、民主的で文化的な國家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の實現は、根本において教育の力にまつべきものである」とある。それゆゑ文部省も同罪である。吉田茂は生前「新憲法、棚の達磨も赤面し」と詠んだけれども、腰拔け憲法と同樣、綺麗事の教育基本法に赤面してゐない以上、子供を善い子に育てるのが教育だといふ事を、保守革新を問はず、殆どの日本人が信じて疑はぬのも無理は無い。が、それはまことに嗤ふべき迷信である。考へてもみるがよい。自分の子供を「よい子」に育てたいなどと思つてゐる親など實は一人もゐはしないのである。親は決して子供の善良を望みはしない。むしろ子供が適度に惡に染まる事を望む。幼兒が無邪氣なのは幼兒が智慧を缺いてゐるからではないか。幼兒の如く無邪氣なままに子供が成人したらどうなるか。本氣でそんな事を望む親がどこにゐるか。子供が智慧づく事を親は望むのである。そして智慧がつくとは惡智慧がつく事に他ならない。

 けれども、さういふ至極當り前の事を、人々は決して認めたがらない。それこそ知的怠惰に他ならぬ。社會主義國同士の戰爭に幻滅の悲哀を感じた文化人は、いづれ必ず性懲りも無く別樣の未來に期待をかけるであらう。それかあらぬか、最近小田實氏は「普遍的自由主義」などといふ怪しげな主義の前途に期待し始めたやうである。教育家も同樣であつて、大人の醜惡に幻滅した教育家は必ず子供に期待する事となる。尖閣諸島の歸屬問題は子孫に任せよう、吾々が今解決できぬ事も、後の世代は解決できようと小平は言つたが、あれは飽くまでも政治的發言であつて、小平自身はそんな事を信じてはゐまい。子供には洋々たる前途があつて、國際協調のため、今の大人のできないやうな事をやつてのけるだらうなどと、紅衞兵に吊し上げられたあの筋金入りの現實主義者が本氣で思つてゐる筈は無い。また、思つてゐるとすれば彼は大した政治家ではない。子供は大人と同じ道を歩むのである。子供は大人と同樣に愚かしく、殘酷で、長ずるに從ひ惡智慧がつき、この世における善の無力を知るやうになる。それゆゑ、子供の善良を望まないのなら、大人は善の無力といふ事を年齢に應じて子供に教へなければならない。そして、それを教へるのが知育の役割なのである。キエルケゴールの父親は子供が好む畫集の中に、十字架に掛けられたイエス・クリストの繪を插し入れておいたといふ。善の無力を雄辯に物語るクリスト受難を常に意識させる事こそ最善の教育だと信じたからである。この世における善の力を説くのが徳育だと世人は思つてゐよう。だが、善が無力なら、もとより徳育も無力で無用の事とならざるをえない。

 では、善の無力とはどういふ事か。それを子供にどう教へるべきか。善の無力を教へるのは、子供を非行に走らせるためでは決してない、善の無力を知り、善を切に望み、惡に墮しがちなおのれを鞭打つためなのである。さういふ事も大方の教育論は考へてるないから、いづれ別の機會にとくと考へてみようと思ふ。

道義不在の時代・目次

廉恥節義は一身にあり──序に代へて
I 教育論における道義的怠惰
  1. 僞りても賢を學べ
  2. まづ徳育の可能を疑ふべし
II 防衞論における道義的怠惰
  1. 道義不在の防衞論を糺す
  2. 猪木正道氏に問ふ
III 日韓關係論における道義的怠惰
  1. 全斗煥將軍の事など
  2. 反韓派知識人に問ふ
IV 對談
初出一覽
あとがき