©1982,2002 Tadashi Matsubara

II 防衞論における道義的怠惰

1 道義不在の防衞論を糺す

言論を動かすのは外壓のみ

 「君の意見に私は同じない。けれども、君が意見を述べる自由だけは、命を懸けても保證する」とヴォルテールは論敵に言つた。まことに立派な心構へであつて、いかなる場合も暴力は斷じて許されず、冷靜な談合が何より大事だと、昨今は猫も杓子も言ふのである。けれども、何事にも程がある。例へばかういふ文章を綴る政治學者を相手に、どうやつて冷靜な談合がやれようか。それこそ杓子で腹を切らうとするの類ではあるまいか。

 われわれには軍備は要らないのですから、アメリカに對して經濟援助をする分だけ、防衞費を削つていけばいい。頭の中の空想だけで軍備が要ると思つているのだから、現實認識を深める議論を繰り返すことによつて、軍備必要という空想論をだんだんに減らしていけばいい。そういう空想論が減つた分だけ防衞費を削つていけばいい。

 私は「非武裝平和」論こそ「空想論」の典型だと思つてゐる。それゆゑ、「空想的平和主義者」の口から、「頭の中の空想だけで軍備が要ると思つている」手合の「空想論」に對處すべく「現實認識を深める議論を繰り返すべきだ」、などといふ臺詞を聞かされると、しばし茫然自失して、わが耳を疑ふのである。「大人は頭の中の空想だけで、國籍の違ひや年齢差が愛の障害になると思つてゐるのだから、現實認識を深める議論を繰り返すべきだ」などと、十歳以上も年上の、首狩族の女を伴つて歸國した面皰面の倅に言はれたら、父親はどうしたらよいか。言語道斷、一家眷族の名折れとて、馬鹿息子をぶん毆るか。さうはゆくまい。今は民主主義の世の中で、暴力は斷じて許されない事になつてゐるからである。

 ではどうするか。冷靜な談合が望ましいなどと言はれても、なにせ相手は草津の湯でも癒せぬ病に取り憑かれてゐる。首狩族と愛の巣を營み、共白髪までやつてゆけるなどとは所詮「空想論」でしかないと懇ろに説諭したところで、相手はさういふ現實主義こそ「空想論」だと信じ切つてゐるのだから、何の驗もありはしない。幸田露伴なら「婦女が何だ! 戀が何だ! たとひ美女だらうが賢女だらうが、我を迷はせりや我の仇敵だ。男兒の正氣になつて働かうといふ事業の、障(原文「しよう:石+章」)礙になる奴あ悉皆仇敵だ。戀たあ料簡の弛みへ出る黴だ、閑暇な馬鹿野郎の掌の中の玩弄物だ」と怒鳴るかも知れぬ。が、今時、そんな勇ましい啖呵を切れる雷親父がゐる筈は無い。かてて加へて、父親とて若かりし頃、戀愛至上主義に感れた事があらう。首狩族と昵懇の仲になる機會こそ無かつたものの、愚かしき青春の思ひ出には事缺くまい。それを思へば大きな顏をする譯にはゆかない。さう思つて父親は諦め、運を天に任せる事になる。つまり、しばし捨て置くのである。だが、捨て置きながらも父親はひたすら待つ。何を待つか。無論、破鏡を待つ。そして待つた甲斐あつて現實が倅の「空想論」を打ち碎いた時、父親は心中密かに凱歌を奏するのである、「それ見たか、言はぬ事ではない」。

 私は防衞論と丸切り無關係な事を語つてゐるのではない。先に引いた文章は立教大學で政治學を講じてゐる神島二郎氏のものだが、かういふ空想的平和主義者が勝手な熱を吹く樣を、常識を辯へた人人は、首狩族の女に惚れ込んだ男を目の前に見る時さながら、呆氣にとられて眺めるのではあるまいか。俗に「鰯の頭も信心から」といふけれども、鰯の頭は所詮鰯の頭でしかないと、いくら言ひ聞かせた所で、何せ信心なのだからどう仕樣も無い。どう仕樣も無いから放つて置く。が、一旦、空想家が現實の壁に打ち當つて挫折した時は、「それ見たか」とて寄つて集つて痛め附けるのである。ヴエトナム軍がカンボジアに攻め込み、その「懲罰」として中國軍がヴエトナム北部に侵攻した時がさうであつた。戰爭は帝國主義國が仕掛けるもので、社會主義國同士が戰爭をする事は無いと信じ、常々さう主張してゐた進歩的知識人は衝撃を受け、周章狼狽、世の笑はれ者になつた。例へば菊地昌典氏は「人權彈壓は、民主主義の抑壓と同義語なのであり、現代社會主義國に共通した重大な缺陷である」とまで書いて、保守派の失笑を買つたばかりか、進歩派にまで袖にされる始末であつた。けれども私は釋然としなかつた。「それ見たか」との保守派の得意顏をいかがはしく思はざるをえなかつた。そこで私はかう書いた。日商岩井の海部八郎氏を新聞や週刊誌が袋叩きにして樂しんでゐた頃の事である。

 弱い者いぢめはさぞ樂しからう。まして今囘は辣腕の副社長が落ち目になつたとあつて、身震ひするほど樂しからう。さういふ殘忍は私も知つてゐる。例へば、社會主義に幻滅した社會主義者菊地昌典氏の困惑を眺めてゐると、私は無性にいぢめたくなる。が、さういふ時、私は用心する。皆が菊地氏をいぢめる時は、懸命に菊地氏の長所を探し出さうと努め、どうしても見附からない場合は菊地氏の短所を無理やりおのれの中に探し出す。それだけの手順を踏んでおかないと、いつの間にか魔女狩を樂しんで阿呆面をしてゐるおのれを見出す、といふ事になりかねない。

 これを書いた時、私はかういふ事を考へてゐた。なるほど菊地昌典氏は社會主義の夢から覺めたのではなく、實は夢から覺めた夢を見てゐるだけの事かも知れぬ。が、人間はいくつになつても性懲りも無く夢を見る。すれつからしの現實主義者も誰かを信じて騙される。男に騙されない男も女にはころりと騙される。それなら、菊地氏の困惑を小氣味よげに眺めてばかりゐず、彼の短所をおのれの中に探さねばなるまい。さういふ手數を省いてここを先途と菊地氏を叩くのはつまらぬ。さういふ言論はまことに空しい。菊地氏をして「轉向」せしめたのは保守派の言論の力ではなく、ヴエトナム軍と中國軍の行動であつた。これを要するに、吾國の言論は外壓によつてしか動かぬといふ事ではないか。

 その後菊地昌典氏がどういふ事を書いたのか、私は知らない。けれども、ソ聯軍がアフガンに侵攻して以來、「右傾」の度合はますます強まつた。保守派は意氣揚々と胸を張り、一方、神島二郎氏のやうな樂天家は別だが、進歩派は今や意氣阻喪して、そろそろと逆艪を使ふ者まで出て來る始末である。だが、外壓次第ではこの状況とていつ何時ひつくり返らぬとも限らない。レーガン大統領の對ソ強硬路線が挫折して、またぞろ米ソ兩國は「平和共存」でゆかうといふ事にでもなれば、目下囂しいソ聯脅威論なんぞ跡形も無く消し飛んでしまひ、逆艪を使つてゐる進歩派までが「それ見たか」とて胸を張るに相違無い。サイゴン陷落後、朝日新聞の「素粒子」の筆者は「南ベトナムの“安定性”をいい續けてきた日本外務省、一部評論家のご意見を聞きたい」と、鼻蠢かせて書いたのである。

百年千年經つて變らぬもの

 殿岡昭郎氏の『言論人の生態』(高木書房)は、二年間にわたつてヴエトナム戰爭に關する言論人の發言を丹念に調べあげたあげくの成果であり、私は精讀して色々と教へられたが、殿岡氏もまた、風向き次第で脹らんだり萎んだりする言論の空しさを慨嘆してをり、それが私には頗る興味深かつた。殿岡氏はかう書いてゐる。

 日本の論壇がきわめて“實證主義的”であり、言論上の勝敗が道理ではなく情況の變化いかんに決定的にかかつているということは、日本の言論のいつそうの脆弱さを證明していることにもなるだろう。言論は他の言論を傷つけることも、他の言論によつて傷つけられることもない。從つて言論による説得も勝敗もありえない。雙方は勝手放題にいい散らして、最後の審判は事態の變化である。

 殿岡氏の言ふとほりである。だが、なぜなのか。なぜ「言論による説得も勝敗もありえない」のか。なるほど、首狩族に頸つ丈になつてゐる若者に何を言はうと徒勞だから、といふ事はあらう。だが、それだけではない。日本人は和を重んずるから、何が正しいかは二の次三の次であつて、仲間うちの批判はタブーなのである。實際、神島二郎氏の粗雜な論理に顏を顰める進歩派もゐる筈だが、そんな事、にも出せはせぬ。出したら村八分になる。そしてそれは保守派も同じであつて、それゆゑ「言論による説得も勝敗もありえない」といふ事になる。もつとも昨今は、「内ゲバはやめろ、進歩派を利するばかりだ」とて、留め男が割つて入つたりする程、改憲の是非を巡つて保守派同士の對立が目立つ樣になりはした。例へば『VOICE』八月號で、片岡鐵哉氏は猪木正道氏と高坂正堯氏の「現實主義」を批判してゐる。けれども、猪木氏も高坂氏も決して反論しないであらう。「雙方は勝手放題にいい散らして」といふ事にならぬ代り、「最後の審判は事態の變化」だといふ事になるであらう。つまり、「軍備はいまの憲法でも充分可能」であり、「十年間は憲法論議を棚上げ」すべしと主張する高坂氏が正しいか、それとも「侵掠というシヨツクが來るまで改憲も國防も不可能ではないか」と危倶する片岡氏が正しいか、それは「最後の審判」待ちといふ事になる。それゆゑ、猪木、高坂兩氏としては、反論せずにおく方が賢明である。

 だが、果して「言論上の勝敗」は「道理ではなく情況の變化いかんに決定的にかかつている」と言切れようか。なるほど情況すなはち現實は變化する。が、この世には何百年何千年經つて一向に變化しないものもある。ヴォルテールは近代文明を稱へて、「おお、この鐵の世紀のすばらしさ、爽やかなワインも、ビールも、ジユースも、イヴのあはれな喉を潤す事が無かつた」と書いたが、何、百年千年經つて變らぬアダムとイヴの原罪はヴォルテールも背負込んでゐた。「科學と理性の勝利」を信じて、「パスカルの絶望なんぞ少しも感じない」と書いたヴォルテールのフランスにおいても、新幹線を凌駕する高速列車を有するミツテランのフランスにおいても、惚れた腫れたの刃傷沙汰の愚かしさに何の變化もありはしない。

 さういふ譯で、十年經つたら變る物があり、百年千年經つてなほ變らぬ物がある。高坂正堯氏は憲法論議を十年間棚上げすべしと主張する。それはつまり、今は賢明でない事が十年經つたら賢明になるかも知れぬといふ事である。つまり、今は政治的にまづいといふ事であつて、道徳的によくないといふ事ではない。「今後十年間は嘘をついてはいけない」とは誰も言はないからだ。しかし、今後十年間憲法論議をやる事が賢明でないと假定して、十年間賢明でない事がいつ賢明になるのであらうか。なるほど、けふ賢明でない事があす賢明になるといふ事はある。昔、會澤正志斎が言つたやうに「今日のいふところは、明日未だ必ずしも行ふべからず」といふ事もある。それゆゑ政治家がけふ賢明でない事をけふ口にせぬやう心掛けるのは是非も無い。けれども、いかに優れた政治家も所詮は不完全な人間であり、「けふ賢明でない」との判斷において過つ事がある。憲法についての「眞情を吐露」した奧野法相を批判して高坂氏は、法相の「誠實は婦人の誠實」ないし「書生の誠實」だと書いた。私は高坂氏に同じないが、百歩譲つて「政治は結果倫理の支配する世界」であり、「自分の心を忠實に語るというのは二の次」だとする高坂氏の意見を認めるとしても、政治家が「自分の心を忠實に語る」事を二の次にせず、「書生の誠實」に徹するはうが却つて結果的に賢明である場合もあらう。それに、現行憲法は「自主憲法」ではない、「作り直すしかない」といふ法相の發言は今は賢明でないとする高坂氏の判斷が、かりに今、賢明だとしたところで、それが今後十年間賢明であり續けるといふ保證はどこにもありはしない。なるべくけふ賢明と思はれる事をけふ語らふとするのは處世術であり、それは誰でも持合せてゐようが、けふ賢明と思はれぬ事をけふ語る政治家がゐたとして、誰もそれを「書生の誠實」として嘲笑ふ譯にはゆくまい。その誠實が「具體的に何の益もない」どころか「マイナスの效果」を齎したと斷じうる時期になつて初めて、吾々はその政治的責任を云々する事ができる。高坂氏の言ふとほり「政治は結果倫理の支配する世界」だからである。

 高坂正堯氏はもとより神島二郎氏ではない。頭腦明晰なる高坂氏は右の私の批判に文句は附けぬであらう。私の言分を認めるであらう。私は高坂氏の人格を攻撃したのではなく、その論理の破綻を指摘したに過ぎないからである。これを要するに、高坂氏と私の「雙方は勝手放題にいい散らし」た事にならず、しかも「事態の變化」といふ「最後の審判」の手を煩はせる必要も無かつたといふ事に他ならないが、既に述べた樣に「今後十年間は嘘をついてはいけない」とは誰も言はないのだから、「憲法論議を十年間棚上げすべし」とは政治的判斷なのである。全面講和や日米安保條約や非核三原則の是非についての甲論乙駁は、それが政治的判斷にもとづく限り、とかく雙方が「勝手放題にいい散らして」決着がつかず、「最後の審判は事態の變化」だといふ事になる。けれども、論理には決着がつく。論理の矛盾は十年經つても矛盾だからである。いや、十年は愚か百年千年經つても、論理學のルールは變り樣が無い。「平凡な事は非凡な事よりも遙かに非凡である」とか、「狂人は論理的である、頗る論理的である」とかいつた類の逆説を賞味するためにも、吾々は論理學のルールを無視する譯にはゆかない。

「事の實際を奈何せん」と言ひたがる愚かしさ

 要するに、この世には、文化大革命だの非核三原則だの人力車だの皇國史觀だのといふ、十年經つて變る物があり、癡話喧嘩や思考のルールのやうに百年千年經つて一向に變らぬ物がある譯だが、中江兆民の『三醉人經綸問答』この方、吾國の防衞論議はとかく十年經つて變りうる事柄にのみ氣を取られてゐたのであつて、「言論上の勝敗が道理ではなく情況の變化いかんに決定的にかかつて」ゐたのは當然の事なのである。『三醉人經綸問答』の三醉人とは、空想的平和主義者洋學紳士と、空想的軍國主義者豪傑君と、現實主義者南海先生だが、まづ洋學紳士はかう主張してゐる。日本は「民主平等の制を建立し、人々の身を人々に還へし、城堡を夷げ、兵備を撤して、他國に對して殺人犯の意有ること無きことを示し、亦他國の此意を挾むこと無きを信ずるの意を示し、(松原註して言ふ、この行、平和憲法前文にさも似たり)一國を擧げて道徳の園と爲し、學術の圃と爲」すべきであり、「兇暴の國有りて、我れの兵備を撤するに乘じ、兵を遣はし來りて襲ふ」などといふ事はよもやあるまいが、「若し萬分の一、此の如き兇暴國有るに於ては、(中略)我衆大聲して曰はんのみ、汝何ぞ無禮無義なるや、と。因て彈を受けて死せんのみ」。

 この洋學紳士の非武裝無抵抗主義は、日本社會黨の非武裝中立主義よりも遙かに正直である。けれども、傲慢や自尊心やエゴイズムといつた百年千年經つて變らぬものを勘定に入れぬ空論だから、自由民權運動が退潮し「軍國主義への傾斜」の度合が強まるにつれて古證文も同然となつた。すなはち「事態の變化」といふ「最後の審判」に伏するしがなかつた。

 空想的軍國主義者たる豪傑君の意見もさうである。洋學紳士に反論して豪傑君は言ふ。そのやうな非武裝平和主義は現實無視の空論に他ならぬ。「六尺男兒、百千萬人相聚りて四國を爲しながら、一刀刃を報ぜず、一彈丸を酬いずして、坐ながら敵冠の爲に奪はれて、敢て抗拒せざるとは、狂人の所爲」ではないか、「抑も戰爭の事たる、學士家の理論よりして言ふ時は如何に厭忌す可きも、事の實際に於て畢竟避く可らざるの勢なり。(中略)爭は人の怒なり。戰は國の怒なり。(中略)人の現に惡徳有ることを奈何せん、國の現に末節に徇ふことを奈何せん、事の實際を奈何せん」、されば日本は隣接する弱小國を侵掠し、植民地となし、先進國を凌駕せねばならぬ。

 言ふまでもあるまいが、この豪傑君の主張は大日本愛國黨のそれよりも正直である。けれども、「自分の子供が戰爭に驅り立てられ、殺されるのが厭だからと言つて、戰爭に反對し、軍隊に反撥し、徴兵制度を否定」する「母親の感情」といふ、これまた百年千年經つて變らぬものを無視する空論だから、昭和二十年八月十六日からは古證文も同然となつた。もつとも昨今、その古證文の埃を拂つて懷かしげに眺め、あたりを窺ふ者もゐるが、さすがに「隣接する弱小國を侵掠し、植民地とせよ」とまでは言ひ出せずにゐる。

 ところで、洋學紳士と豪傑君の主張は、恰も小田實氏と三島由紀夫の主張ほど眞向から對立し、妥協の餘地はまつたく無いかのやうに思へるであらう。しかるにさにあらず、三醉人はブランデーを飮み、ビールを飮み、南海先生が笑ひ、「二客も亦嘘然として大笑し、遂に辭して去れり」といふ事になる。どうしてさういふ事になるか。それを知るには南海先生の意見にも耳を傾けねばならぬ。洋學紳士と豪傑君の論述を締め括つて南海先生は言ふ。洋學紳士の説は「未だ世に顕はれざる爛燦たる思想的の慶雲」であり、一方、豪傑君の説も「今日に於て復た擧行す可らざる」ものである。そしてまた、兩君の説は一見「冰炭相容れざるが如」くであるが、實は同一の「病源」に發してゐる、すなはち「過慮」である。さうではないか、目下プロシアとフランスが「盛に兵備を張るは、其勢甚迫れるが如きも、實は然らずして、彼れ少く兵を張るときは或は破裂す可きも、大に兵を張るが故に、破裂すること有ること無し」、兩君ともに取越し苦勞をしてゐる、大事なのは「世界孰れの國を論ぜず與に和好を敦くし、萬已むことを得ざるに及ては防禦の戰略を守り、懸軍出征の勞費を避けて、務て民の爲に肩をぶること」である。

 要するに南海先生は「現實主義者」なのであり、それゆゑ、洋學紳士の説を「未だ世に顕はれざる」空論とし、一方豪傑君の説をも「今日に於て擧行す可らざる」空論と極め附けるのだが、「冰炭相容れざるが如」くに見えた洋學紳士と豪傑君は、あつけなく南海先生の説に伏するのである。つまり、明治二十年に出版された防衞論も、今日のそれと同樣、「其時と其地とに於て必ず行ふことを得可」き事柄にのみ心を奪はれてゐるのであつて、「事の實際を奈何せん」、そんな事をやれる筈が無い、と豪傑君に言はれると洋學紳士はお手上げになり、豪傑君もまた、「今日に於て復た擧行す可らざる政事的の幻戲」と南海先生に言はれると大人しく引下つてしまふ。かくて一見「冰炭相容れざるが如」くであつた平和主義者と軍國主義者は、「今日に於て」實行可能な事柄だけを考へる事の賢明を悟り、和氣藹々と現實主義者の茅屋を辭するのであつて、洋學紳士も豪傑君も、南海先生同樣、單純な現實主義者に過ぎない。「或は云ふ、洋學紳士は去りて北米に游び、豪傑の客は上海に游べり、と。而て南海先生は、依然として唯、酒を飮むのみ」と、兆民は『三醉人經綸問答』を結んでゐるが、北米や上海に遊んだところで、別人の樣になつて戻つて來るとは限るまい。

 『三醉人經綸問答』の上梓は明治二十年、すなはち九十四年前の事である。だが、今日の防衞論議も、三醉人のそれと同樣、百年千年經つて變らぬものを無視する單純な理想主義か、さもなくば「事の實際を奈何せん」とて胸を張り、「情況の變化いかんに」よつては「それ見たか」と居丈高になる單純な現實主義であつて、それゆゑ吾々は、百年千年經つて變らぬものを無視ないし輕視するのが、百年千年經つて變らぬ日本人の特性ではないかと、さう疑つてみるはうがよいのではあるまいか。

絶對者なき理想主義の虚妄

 國木田獨歩は人間を「驚く人」と「平氣の人」の二種に分け、日本人の大半は「平氣の平三の種類に屬」すると書いた。一方、プラトンは「驚異の念こそ哲學者のパトスであり、それ以外に哲學のアルケーは無い」と言ふ。無論、吾々日本人も、百年前千年前に「驚異の念」をパトスとした先哲を有する筈で、それは獨歩も承知してゐたであらう。獨歩は「世界十幾億萬人の中、平氣な人でないものが幾人ありませうか」と書いてゐるくらゐだから、「驚く人」が少ない事に腹を立ててゐた譯ではない。ただ、世人が「平氣の人」である事に平氣でゐるのを怪しんだまでの事である。

 獨歩は『牛肉と馬鈴薯』の作中人物岡本にかう語らせてゐる。「諸君は今日のやうなグラグラ政府には飽きられたゞらうと思ふ、そこで(中略)思切つた政治をやつて見たいといふ希望もあるに相違ない、僕もさういふ願を以て居ます、併し僕の不思議なる願はこれでもない」。その願ひは妻子を犧牲にしても、殺人強盜放火の罪を犯しても、どうしても叶へたい。「此願が叶はん位なら今から百年生きて居ても何の益にも立ない、一向うれしくない。寧ろ苦しう」思ふくらゐだが、それは「宇宙の不思議を知りたいといふ願ではない、不思議なる宇宙を驚きたいといふ願」、「死の祕密を知りたいといふ願ではない、死てふ事實に驚きたいといふ願」である。「必ずしも信仰そのものは僕の願ではない、信仰無くしては片時たりとも安ずる能はざるほどに此宇宙人生の祕義に惱まされんことが僕の願であります」。

 けれども、「信仰そのもの」を得ずして、「信仰無くしては片時たりとも安ずる能はざるほど」の惱みを手に入れる事はできまい。岡本は「ヲルムスの大會で王侯の威武に屈しなかつたルーテルの膽は喰ひたく思はない、彼が十九歳の時學友アレキシスの雷死を眼前に視て死そのものゝ祕義に驚いた其心こそ僕の欲する處であります」と言ふ。だが、獨歩は遂にルターの「其心」をおのがものとはなしえなかつた。なぜか。皇帝カール五世の召喚状を受取つたルターは、火刑に處せられる危險を物ともせずにウォルムスへ乘込んだが、その搖ぎ無き信仰は、若かりし頃「學友アレキシスの雷死を眼前に視」、「聖アンナ樣、お助け下さい、私は修道僧になります」と誓つて以來十六年、孜々として育んだものであつた。「ルーテルの膽」を食ふ覺悟無しに「祕義に驚いた其心」をおのがものとなしうる筈は無い。

 國木田獨歩と異り、絶對者への搖がぬ信仰を持つてるたルターは、「神のもの」と「カイゼルのもの」とを峻別し、百年千年經つて變らぬ「神のもの」を重んじて、「情況の變化いかん」によつて、右から左、左から右へと變りうる「カイゼルのもの」を徹底的に無視した。それは要するに、信仰のためとあらば「妻子を犧牲にする」事も、「殺人強盜放火の罪を犯す」事も恐れなかつたといふ事に他ならない。それゆゑ「戰爭は神の最大の刑罰」であり、「人は平和のために譲らなければならない」と書いた筈のルターが、農民一揆を難じてかう書いたのである。「今こそ劒を取るべき時であり、怒るべき時であり、恩惠を施すべからざる時である。領主よ、吾々を助けよ。彼奴等を皆殺しにせよ」。

 絶對者への信仰があれば、相對的な現實を徹底的に無視するすさまじき理想主義と、逆に現實を徹底的に重視するしたたかな現實主義との、兩極端を激しく往來する事になる。しかるに吾々日本人は、絶對者を持たぬゆゑに、皇國史觀だの平和だの自由だのといふ相對的なるものを絶對視するしかない。そしてその弱みを忘れるや忽ち神憑り的な絶對主義者となり、現實の變化を無視する事になるが、そこまで徹底する者は稀であり、多くは現實の顏色を窺ふから、當然「情況の變化」に腰碎けとなる譯である。要するに、理想主義は強き現實主義に反撥する爲の強さを缺き、一方、現實主義は強き理想に反撥する強さを缺いて、理想主義といふ現實主義もしくは「平氣の平三」主義に堕するのである。例へば三島由紀夫は絶對者のために腹を切つた譯ではない。天皇も國體も相對的なものだといふ事を三島は知つてゐた。相對的なものに「殉じた」以上、一方に「狂氣の沙汰」と決めつける者がをり、他方にその「憂國」の至情を思ひ襟を正す者がゐて當然である。今後も同樣で、國體つまり「事態の變化」いかんによつては、十年經つて三島は神と祭られる樣になるかも知れず、或いは狂人扱ひされて誰も顧みない樣になるかも知れぬ。

 三島は大方の日本人が「平氣の人」である事に腹を立て、頗る派手に振舞つた擧句、腹を切つたが、獨歩はせめてもの事おのれは「驚く人」でありたいと願つて果せず、「十年間人に認められ」ず、「認められて僅かに三年」、靜かに三十八年の生涯を終へた。なぜ獨歩は「驚く人」たりえなかつたのか。獨歩は『岡本の手帳』の中にかう書いてゐる。

 何故にわれは斯くも切にこの願を懷きつゝ、而も容易に此願を達する能はざるか。(中略)英語Worldlyてふ語あり、譯して世間的とでもいふ可きか。人の一生は殆んど全く世間的なり。世間とは一人稱なる吾、二人稱なる爾、三人稱なる彼、此三者を以て成立せる場所をいふ。人、生れて此場所に生育し、其感情全く此場處の支配を受くるに至る。何時しか爾なく彼なきの此天地に獨り吾てふものゝ俯仰して立ちつゝあることを感ずる能はざるに至るなり。(中略)何故にわれは斯くも切に「この願」を懷きつゝ、なほ容易に達する能はざるか、曰く、吾は世間の児なれば也。吾が感情は凡て世間的なればなり。心は熱くこの願を懷くと雖も、感情は絶え間なく世間的に動き、世間的願望を追求し、「この願」を冷遇すればなり。

 獨歩は自分ばかりでなく大方の日本人が和と馴合ひを重んじ、「獨り吾てふものゝ俯仰して立ちつつあることを感ずる能」はず、ひたすら「世間的願望を追求」する事實には無論氣づいてゐた。三島はそれに腹を立て、「生命尊重以上の價値の所在を(中略)見せてやる」と叫んだが、では、果して三島の死は「世間的」なものを超えてゐたかといふ事になると、それはここで論じ盡くすには少々複雜な問題になる。

なぜ「自明の理」を疑はぬ

 獨歩は「宇宙の不思議」と「人生の祕密」に「驚魂悸魄」したいと切に願つたのだが、世人は「知れざるものは如何にしても知れず」とし、簡單に諦めてしまふ、「閑人の閑事業と見做し」てしまふ、だが、それでよいのだらうかと問うたのである。古代ギリシアの哲學者タレースは「宇宙の不思議」を考へ、夜空の星を眺めてゐて溝に落ち、下女に笑はれたといふ。なるほど「宇宙の不思議」も「人生の祕密」も、百年千年經つて一向に變らないが、そんなものに驚き、その祕密を知らうとするのは「閑人の閑事業」であつて、十年經つて變るものばかり氣にする「世間的」な手合が「閑事業」なんぞに精を出す譯が無い。哲學者のパトスたる驚異の念なんぞに拘泥する譯が無い。

 取分け明治この方、吾々日本人は「實なき學問は先づ次にし、專ら勤むべきは人間普通日常に近き實學」とて、「閑人の閑事業」を等閑にして怪しまず、世間有用の學を重んじて、當座の用に役立ちさうもないテオリアを輕んじたのである。テオリアといふギリシア語は實用を離れ、專ら見るためにのみ見る事を意味する。「宇宙の不思議」や「人生の祕密」を見据ゑたら、それについてとことん考へる樣になつて當然である。勿論、シヨーペンハウエルも言つてゐる通り、そんな事に沒頭してパン一つ燒ける樣になる譯ではない。溝に落ちて下女に笑はれるが關の山であらう。けれども、宇宙の不思議と人生の祕密に「驚魂悸魄」したからには、その「不思議を闡明せん」とする者がゐて當然である。例へばデカルトはバヴアリアの寒村で、「一切の憂ひから解放され、たつたひとり、平穩なる閑暇を得」、「ただの一度でも自分を欺いた物は決して信用すまい」と決意してそれをやつた。太陽は吾吾の目には小さく見えるが、實際は巨大であつて、それなら感覺は吾々を時に欺くのである。感覺の一切を疑はねばならぬとなれば、おのが肉體の存在すら覺束無いものになる。また、二足す二は四とは果して自明の理であるか。吾々が二に二を足す時、常に誤つて四としてしまふやう、もしも神が吾吾を創つたとしたら、一體どういふ事になるか。さういふ事をデカルトは本氣で考へた。

 無論、これは多少なりとも西洋哲學を齧つた者なら誰でも知つてゐる事だが、デカルトの徹底的な懷疑について知る事は、そのまま自ら物事を合理的に究めようとする事を意味しない。

 西周がフイロソフイアを「希哲學」と譯してから百年以上の歳月を閲し、知を愛して自明の理を疑ひ拔いたソクラテスやデカルトが譯されてこれまた久しいが、依然として吾國の論壇は、「事の實際を奈何せん」と言はれてぐらつく程度の、現實的であるがゆゑに空疎な防衞論を、囂しく上下してゐる。吾々の洋學は「恰も漢を體にして洋を衣にするが如し」と福澤諭吉なら言ふであらう。おのが肉體さへ疑つて掛つたデカルトは、西洋哲學史上有數の天才との定評ゆゑに尊敬されてゐるに過ぎない。「二二が四は死の端緒だ」と『地下室の手記』の主人公も言つてゐるが、これまた大天才ドストエフスキーが創造した人物だから、人々は一目を置いてゐるに過ぎない。日本人のドストエフスキー好きはよく知られてゐるが、『作家の日記』の中の次の樣な文章を、ドストエフスキーの愛讀者は一體どんな顏をして讀むのであらうか。

 「しかし血だからな、なんといつても血だからな」と、賢者たちはばかの一つ覺えのようにいう。が、まつたくのところ、この血云々という天下ご免のきまり文句は、時とすると、ある目的のために乘ぜんとする思いきつた空疎な、こけおどかしの言葉の寄せ集めにすぎない。(中略)ずるずるべつたりに苦しむよりは、むしろひと思いに劒を拔いたほうがよい。そもそも今の文明國間の平和のいかなる點が、戰爭よりもいいというのだろうか?それどころか、かえつて平和のほうが、長い平和時代のほうが、人間を獸化し、殘忍化する。(中略)長きにわたる平和は常に殘忍、怯儒、粗野な飽滿したエゴイズム、そして何よりも、知的停滯を生み出すものである。(米川正夫譯)

 戰後三十數年、日本の「賢者たち」もまた、保守革新の別無く、「しかし血だからな、なんといつても血だからな」との「天下ご免のきまり文句」を空念佛よろしく唱へ續けた。戰爭を惡とし平和を善とする自明の理を人々は疑はず、戰爭の何が惡いかと開き直つた者は殆どゐなかつた。それゆゑ「日本は軍事大國になつてはいけない」と、保守も革新も口を揃へて言ふのであつて、猪木正道氏は「少くとも二十世紀中は、わが國は軍事大國になつてはいけない」と書き、三好徹氏は「日本が清水(幾太郎)氏の望むような軍事大國になつてから後悔したところで間に合わない」と書き、五味川純平氏は「自民黨としては(中略)軍事大國の道へ日本を推進しようとするであろう。そのツケは全部國民にまわつて來る」と書き、上山春平氏は「私たちは、いま、軍擴にたいする齒どめを失つた情勢のもとで、重大な決斷をせまられている」と書き、日本國の代表たる鈴木善幸氏も、ワシントンまで出向いて、「日本は軍事大國にならず、平和憲法を守り、專守防衞に徹する」とアメリカの大統領に言つたのである。「軍事大國になつてはいけない」とは天下御免の決り文句、自明の理なのであつて、自明の理だから誰も本氣で疑はうとしない。が、日本が軍事大國になれるか否かの詮議はさておくとして、軍事大國になる事がなぜ「いけない」事なのか。

道徳と私情を素通りする怪

 「日本は軍事大國になつてはいけない」と主張する人々は、日本がまたぞろ侵掠戰爭をやらかす事を恐れてゐるのであらう。だが、軍事大國になる事と侵掠戰爭をやる事とは別だが、それはともかく、侵掠戰爭であれ專守防衞であれ、戰鬪状態となつたら敵兵を殺さなければならぬ。それは專守防衞論者といへども否定しないであらう。「武士の心はやめた方がいい、商人の氣がまえ、前垂れかけて、膝に手を當て、頭を下げる」のが「一億一千萬の生きる道」だと野坂昭如氏は書いた。揉み手して愛嬌を振り撒いても、毆られる時はやはり毆られる。それは小學生でも知つてゐる常識だが、卑屈な「商人の氣がまえ」を説いた野坂氏にしても、侵掠されたらゲリラとして戰ふと言つてゐる。だが、戰へば當然敵兵を殺す事になる。では、敵兵を殺す事は善い事なのか。

 昨今囂しい防衞論議が、かういふ道徳上の問題を素通りして怪しまぬ事を、私は怪しむのである。「軍事大國になつてはいけない」とか「侵掠戰爭はいけない」とか言ふ場合、その「いけない」とは道徳的に「いけない」事なのか。それとも政治的にまづいといふ事なのか。「侵掠戰爭はいけないが、專守防衞つまり正當防衞としての殺人は許される」と專守防衞論者は主張するであらうが、時と場合によつて許されたり許されなかつたりするのなら、戰爭は絶對的な惡事ではないといふ事になる。そしてそれを認めるなら、殺人は絶對惡ではないといふ事をも認めねばならぬ事とならう。だが、戰場において敵を殺す事が惡事でないとしても、敵兵のすべてが惡しき人なのではない。それゆゑパスカルはかう書いた。

 或男が河の向うに住んで居り、彼の殿樣が私の殿樣と喧嘩をして居るというので、私は少しも其男と喧嘩などしては居ないのに、彼に私を殺す權利があるなんて、こんなおかしなことがあるものだろうか。(關根秀雄譯)

 なるほどをかしな事である。山田氏がイワーノフ氏と親交を結んでゐても、ブレジネフ氏が鈴木善幸氏と「喧嘩」をすれば、戰場でイワーノフ氏が山田氏を殺す事は許されるやうになる。餘りにも當り前の話ではないかとて常人は決して怪しまないが、パスカルは常人が自明の理とするものを怪しんだのであつて、さういふ驚異の念が哲學のパトスなのである。しかるに常人は、「防衞力の整備」や「ソ聯の脅威」や「專守防衞」の要を説いて、それらがいづれも「殺人のすすめ」である事を意識しない。無論、當人も決して死にたくはないから、「平和はよい事に決つてゐるが」云々と一言斷らずには防衞を論ずる氣になれないが、なぜさう斷らずにゐられないかを決して考へないから、殺人が時と場合によつて許されたり許されなかつたりする不思議について熟と考へてみる事が無い。非武裝中立論とて同じ事であつて、何せ日本は戰後三十數年、戰爭に捲き込まれず、「それ見たか」と嘲弄される羽目には一度も陷らなかつたから、政治的に「よい事に決つてゐる」に過ぎぬ平和を説いて、道徳的善行をなしつつあると錯覺し、それゆゑ他の徳目の一切を輕んじて今日に至つたのである。愛情や友情は私事であり、私事であつて當然だが、公ばかりを考へる政治學者は私を無視して非人間的に振舞ひ、遂にその非人間性を悟らない。例へば坂本義和氏は、「民族解放」を旗印に戰つた筈の「ヴエトナムが侵掠的行動をとつたことを根據に、過去のヴエトナムの旗記に殘る反戰自體が誤りあるいは無意味であつたかのような言説が現れ、それがヴエトナム反戰の立場をとつた人々の間にも困惑を生んだ」事を遺憾とし、進歩派の結束を計るべくかう書いた。

 われわれがヴエトナム民族の解放鬪爭を支援するというのは、ヴエトナム人のその特定の行動を支持することであつてをことであつて、ヴエトナム人のすべての行動を支持したり、ヴエトナム人であること自體を格別に好感することを意味しないのは當然のことである。(傍點松原)

 いかにも政治學者らしい、頗る非人間的な文章である。かつて高坂正堯氏が説いた樣に、「國際政治に直面する人びと」は、屡々「最小限の道徳的要請と自國の利益の要請との二者擇一を迫られる」。つまり、平時にあつては自國の利益ばかりを追求する事はできないが、一方、他國の「すべての行動を支持」するなどとは論外だといふ事である。だが、私生活において吾々は、友人の「特定の行動」だけを「支持する」事によつて親交を結ぶ譯にはゆかぬ。專らおのが利益を考へて友人の「特定の行動」だけを支持すれば、友人の信頼を得る事は難しからう。それゆゑ吾々は、時におのが利益や「最小限の道徳的要請」を無視しても、友人の「すべての行動を支持」する、或いは支持したいと願ふ。かくて世間がいくら指彈しようと、殺人鬼の妻は夫を庇はうとし、いくら拷問されても、天野屋利兵衞は赤穗浪士に義理を立て、「利兵衞は男でござる」とて頑として口を割らない。だが、それも百年千年經つて一向に變らぬ人情の不思議なのだが、坂本氏にはそれが全く見えてゐない。福澤諭吉は「立國は私なり、公に非ざるなり」と書き、「大義名分は公なり表向なり、廉恥節義は私に在り一身に在り」と書いた。が、專ら公を重んじて平和を説き、私を忘れて非情になる政治學者に、福澤の説は理解し難いであらう。

 そればかりではない。目下「滅公奉私」の氣樂を享受してゐるこの日本國において、私にこだはる人情の機微なんぞを云々すれば、漸う受け始めた「父親の論理」を振り廻して、おのれもまた死にたくないとの私情に氣附かぬ保守派には嫌がられ、一方、ただもう死にたくないの一念で、正直に、といふよりは俗受けを狙つて、女々しい「母親の論理」に縋り附く進歩派には喜ばれる、さういふ事にもなり兼ねない。けれども、「死にたくはないが死なねばならぬ」のが人間なのである。誰しもいづれは必ず三途の川を渡らねばならないし、自由などといふ抽象的なもののためでなく一家眷族親友のためにおのれを殺さねばならぬ事もある。死にたくないが死なねばならぬとは別段奇怪な事ではあるまい。いや、どうでも奇怪でならぬなら、その不思議を熟と考へたらよいのだ。さうすれば、公と私との、すなはち政治と道徳との對立緊張を合點する樣になるであらう。誰でも私としては死にたくない、けれども公の爲には死なねばならぬ。けれども、せめて一家眷族の爲ならばともかく、自由だの國體だのの爲に死ぬ氣にはなれぬ。けれども、神風特攻隊の若者は「天皇陛下萬歳」を叫んで死んだではないか。けれども、あれは若氣の至り、神憑りゆゑの輕はずみに過ぎぬ。けれども乃木希典が腹を切つた時……、この「けれども」の堂々巡りに決着はつくまい。そこで、專ら能率と實用を重んずる手合は「死にたくない」と「死なねばならぬ」との對立の平衡をとる事をやめ、おのれの屬する集團の正義に飛び附く事になる。死にたくないと公言するのは、さすがに憚られるからである。そしてさうなれば、おのが集團とそれに對立する集團との勢力均衡を案じ、世間の右傾や左傾を嘆く事を生甲斐とし、それを道徳的善事と錯覺する樣になる。おのが黨派の正義に合致せぬものをすべて惡とするのだから、いたつて解り易く頗る氣樂だが、死にたくないが死なねばならぬかと煩悶するのは氣骨が折れるし、それに何より、常住坐臥おのが死を考へる樣に人間は出來てゐないから、「公の爲に死なねばならぬ」と主張する保守派は自分が死ぬ事は考へず、「死にたくない」と口走る進歩派も、まさか死ぬ事はあるまいと高を括つてゐる。そこで政治と道徳とのごつた煮とも評すべき平和憲法を戴き、空念佛さながらに平和の善を唱へつつ、吾々は遮二無二稼ぎ捲つたのであつた。憲法前文には「政治道徳の法則は、普遍的なものであり」、「いずれの國家も、自國のことのみに專念して他國を無視してはならないのであつて」云々とあり、これは道學先生よろしく世界各國に説教してゐるのか、各國に憐みを乞うてゐるのか、いづれにせよ卑屈極まる文章だが、さういふ恥づべき憲法を改正せずして三十數年、毒はじわじわと利いて來たのである。「死なねばならぬ」、「いや死にたくない」と言ひ合つてゐるうちに、生きてゐる間に「死んでもやりたくない」と昔なら思つた事を、人々は平氣でするやうになつた。昔、白木屋百貨店が燒けた時、衣服が亂れるのを恥ぢて飛び降りずに燒死した女が數多くゐたといふ。が、今の女はパンツをはいて六本木を歩くのである。かくて福澤諭吉の「瘠我慢」も森鴎外の「意地」も今や地を掃ひ、吾々は「人事國事に瘠我慢は無益なりとて、古來日本國の上流社會にもつとも重んずるところの一大主義を曖昧糢糊の間に瞞着」して怪しまない。例へば猪木正道氏は、自衞隊に「非核裝備としては第一級の武器を配備すれば、精神面の問題もおのずから解決する」と書いてゐるが、私は猪木氏に同じない。よろづこれほどぐうたらに處して事無き日本國の軍隊である。「第一級の武器」を手にした位の事で奮ひ立つ譯が無い。

 自國の軍隊を腐して樂しむのは言語道斷である。それゆゑ私は自衞隊を腐してゐるのではない。それどころか、私は自衞隊のフアンであり、自衞隊が國軍として認知される日を待ち侘びてゐる。だが何よりも私は「自衞隊」といふ名稱が氣に食はない。それは「軍備増強」と言はずして「防衞力整備」と言ふが如きもので、戰爭を惡事とする淺薄な思做しゆゑのまやかしに他ならぬ。そこで、わが愛する自衞隊の爲に、その思做しの淺薄を嗤つておくとしよう。

「一匹」か「九十九匹」か

 周知の如く、カンボジアのポル・ポト政權はプノンペン制壓後、百萬人のカンボジア人を虐殺したといふ。「百萬人の處刑とは途方もない」とポル・ポト氏は言ひ、ついで聲を潛めて「革命にとつて敵對的で、箸にも棒にもかからない人口の約五パーセントは處分した」と、NHK取材班に告白したといふ。ポル・ポト氏の信奉する正義がいかなるものか私は知らぬ。が、毛澤東は何と千五百萬の中國人を殺したと聞いてゐる。毛澤東自身が認めてゐるのは八十萬人だが、八十萬で結構である。八十萬人殺したと聞けば人々は慄然とするであらう。だが、肅清されたのは「惡しき人々」だつたのである。共産革命以前、中國の農民は凄じい搾取に喘いでゐた。毛澤東は貧農の倅ではなかつたが、若き毛澤東が國民黨や地主や軍閥による社會的不正に憤り、革命運動に身を投じたとして、それを誰も非難する事はできまい。人民の塗炭の苦しみを餘所事として、ひたすら立身出世を願ふ青年を誰も好ましくは思ふまい。が、苛歛誅求を恣にする惡黨なら何十萬殺さうと構はぬと、果して言切れるか。言切れまい。なぜなら、毛澤東が殺した八十萬人のすべてが、虐げられた人々を搾取する惡黨だつたかどうかは疑はしいからだ。つまり正確に言ふなら八十萬人は「人間毛澤東によつて惡人と判定された人々」だつたのであり、絶對者ならぬ人間の判斷に誤謬は附き物だから、毛澤東が善人をも肅清した事は確實なのである。

 これを要するに、暴政を憤り、社會正義の爲に戰ふのは立派な事だが、その爲には惡人を排除せねばならず、その際、惡人との判定を獨裁者がやらうと、多數決に從はうと、誤謬は避けられず、獨裁者の恣意や無責任な群衆心理ゆゑに、惡人を除かうとして善人が除かれる事は不可避だといふ事になる。それに、中國革命に限らず、元來は純粹な正義感に發する筈の革命が、たとひ政治的に良き事態を招來したとしても、その過程において、暗殺、裏切、密告、拷問などの道徳的惡事が行はれるのはこれまた不可避なのである。

 以上の事を否定する者は一人もゐないと私は信ずる。が、それならここで私が、「暗殺、裏切、密告、拷問は、社會的不正を糺す良き政治にとつて不可缺だ」と言切つたら、讀者は私に同じるか。同じまい。では、なぜ同じないのか。無論、それは目的の爲に手段を選ばぬ事を認めたくないからであらう。だが、手段を選んでゐては、革命などといふ荒療治をやれる筈が無い。強者が恣に振舞ひ、弱者が極度の貧苦に喘いでゐる時、吾々はルソーと共に、同胞の悲慘を見るに忍びない「生來の感情」を信じ、「義を見てせざるは勇無きなり」とて荒療治を躊躇せぬであらう。他人の苦惱をおのが苦惱以上に苦しむといふのは嘘である。が、厄介な事に、人々はそれは決して嘘ではないと思ひたがるのである。ソクラテスは「不正をなすよりも不正を忍ぶはうがよい」と言つたが、そんな「理性的な徳」で人間は動きはしない、とルソーは言ふ。苦惱する同胞を見て「反省せずに助けようとする」のは憐憫の爲であり、それは「自然な感情」であり、ゆゑに「精密な議論」なんぞを必要としない、と言ふ。

 なるほど、不正を忍び懊惱する同胞を尻目に、「死にたければ死ぬがよい、俺さへ安全なら何百何千死なうと構はぬ」などと嘯く冷血漢を、吾々は許せないのである。それなら、さういふ冷血漢は成敗せねばならないか。荒療治をやらねばならないか。それに何より、人を殺すのは道徳的に惡しき事だといふが、人を殺した惡い奴を殺す事は果して惡い事なのか。惡人を殺す事が惡いなら、なぜ死刑制度を撤廢しないのか。私は詭辯を弄してゐるのではない。これは難問中の難問であつて、古來多くの哲人が考へ拔いたが、今なほ決着はついてゐないのである。「汝の敵を愛せ」と言つたイエス・クリストは決着をつけた積りだらうが、吾々凡人は「カイゼルのもの」にこだはつて、「神のもの」だけを重んずる譯には到底ゆかない。

 イエスはかう言つてゐる。「なんじらのうちたれか百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、往きて失せたるものを見いだすまではたづねざらんや」。けれども、九十九匹を重んじて、いや五十一匹を重んじて、「失せたる一匹」どころか「失せたる四十九匹」を切り捨てるのが政治といふものだ。道徳は切り捨てられる四十九匹は愚か「失せたる一匹」にもこだはるであらう。殺人鬼の妻は夫を何とか庇はうとするであらう。が、カイゼルの世界、即ち政治の世界では、殺人鬼はやはり切り捨てねばならない。すなはち處刑されねばならない。

政治・道徳そして瘠我慢

 既に充分であらうが、この政治と道徳との對立も百年千年經つて一向に決着がつかないのである。そして、防衞とはもとより一朝有時の際敵兵を殺す事だから、防衞を論じて道徳の問題を避けては通れぬ筈だが、吾國の防衞論議は核武裝がどうの、文民統制がどうの、ソ聯の脅威がどうのと、十年經てば變りうる政治の問題にのみかかづらつてゐる。だが、善人ぶるのも人間の性だから、當人は政治の次元で考へてゐる積りでも、ついうつかりして道徳の次元に迷ひ込む事はある。その時はどうなるか。政治と道徳とをいとも安直に混同する事になる。さういふ例は枚擧に遑無しだが、ここでは猪木正道氏の文章を引くとしよう。猪木氏は三十年前かう書いた。

 ほんとうの革命は、──イギリスの革命もアメリカの革命も、フランスの革命も、ロシアの革命も、又中國の革命も、──破壞的であると同時に創造的である。否、破壞的であるよりは、創造的なのである。新秩序を創造する革命は、したがつて新道徳を創造するから、道義の頽廢等起りようがない。(『革命と道徳』)

 若き日の猪木氏は革命と道徳に言及して屡々兩者を混同してゐる。現在の猪木氏は防衞や憲法を論じて「道義の頽廢」に言及する事が無いけれども、例へば次のやうな文章を讀めば、猪木氏が今もなほ政治と道徳とを峻別してゐない事は明らかである。

 全世界を敵として戰うという暴擧をあえて行つた軍國日本は、敗戰と全土占領の結果、非軍事化されてしまつた。これはいわば天罰である。

 無論、「全世界を敵として戰う」のは下策だが、大東亞戰爭は果して「暴擧」だつたか。個人と同樣に國家も、全世界を敵に廻してもおのが信念を貫かねばならぬ時がある。そして、全世界が相手だらうが、一國が相手だらうが、戰爭は所詮殺し合ひである。敵も身方も道徳的惡事たる人殺しに專念するのである。天罰とは「天が加へる罰」ないし「惡事の報いとして自然に來る災ひ」の謂だが、殺し合ひの結果、軍門に降つたはうにだけなぜ天罰が降るのか。猪木氏の論理の粗雜についてここではこれ以上論じないが、要するに、猪木氏は政治と道徳とを峻別してゐないのである。それゆゑ、大東亞戰爭は侵掠戰爭で、侵掠戰爭の惡事たるは自明の理だと思つてゐる。そして、世間が自明の理としてゐるものを疑はぬこの種の知的怠惰は、もとより猪木氏に限つた事ではないのであり、自衞の爲の戰爭はよいが、侵掠戰爭は惡いと信じてゐる手合は頗る多いのである。だが、自衞の爲の戰爭を肯定する以上、他國の侵掠を想定してゐる譯であつて、それなら專守防衞論者は、侵掠が絶對に許されないのは自國の場合だけだと主張してゐる事になる。けれども、自國には絶對に許さないが他國の場合は仕方が無いといふ事なら、それは絶對に「絶對的な惡事」ではない。專守防衞とは先に手出しをしないといふ事でしかないが、子供の喧嘩と同樣、先に手出しをしたのがどちらか常に解るとは限らないし、先に手出しをした方が惡いとも言切れまい。

 さういふ次第で、戰爭を絶對惡とするのは知的怠惰ゆゑの虚説なのである。平和とは國際政治の場で巧妙に振舞つて保持するのが賢明、といつた程度のものでしかない。先に引いたドストエフスキーの文章にもある樣に、「むしろひと思いに劒を拔いたほうがよい」といふ事があり、「長い平和」が「人間を獸」とし、「知的停滯」を齎すといふ事がある。平和がすなはち道徳的に善き事だなどと、どうして言切れよう。が、吾々日本人は今、平和と繁榮を享受し、「モラトリアム國家」を決め込み、政治と道徳を峻別せぬ「知的停滯」に落ち込んでゐる。俗に「味噌も糞も一緒」といふ。味噌と糞とを區別できない者には、味噌の何たるかも、糞の何たるかも遂に解るまい。政治と道徳を峻別出來ぬ者は、政治の何たるかも道徳の何たるかも知らず、その雙方を眞劒に考へる事が無い。それゆゑ、福澤諭吉の「瘠我慢」も森鴎外の「意地」も今や地を掃つたのである。福澤は「強弱相對していやしくも弱者の地位を保つものは、單にこの瘠我慢によらざるはなし。ただに戰爭の勝敗のみに限らず、平生の國交際においても瘠我慢の一義はけつしてこれを忘るべからず」と書き、自分は勝海舟と榎本武揚の「功名をばあくまでも認むる」が、兩氏が幕臣の身ながら「新政府の朝に立つの一段に至りては」感服できぬとて、二人の「瘠我慢」の無さを批判した。これに對して勝海舟は「古より當路者、古今一世の人物にあらざれば、衆賢の批評に當る者あらず。計らずも拙老先年の行爲において御議論數百言、御指摘、實に慙愧に堪へず、御深志かたじけなく存じ候」と、皮肉たつぷりの返事を出してゐるが、「行藏は我に存す、毀譽は他人の主張、我に與らず我に關せずと存じ候」と書いただけで、眞つ向からの反論はしなかつた。勝は「徳川幕府あるを知つて日本あるを知らざるの徒」が何を言ふかと、思つたのではない。瘠我慢の大事はこれを認めざるをえなかつたのである。榎本武揚も「そのうち愚見申し述ぶべく候」との短い返書を認めたが、榎本にしても、戰歿した「隨行部下の諸士」を思ふ時、「殘燈明滅ひとり思ふの時」、「死靈生靈、無數の暗鬼を出現して眼中に分明なること」があつた。明治三年、榎本は幕府軍の戰沒者について、「諸君を追想し、苟も涙あるものは慰弔の嘆あらざるなし。況や諸士と肩を竝べて幕府に仕へし我輩の如きをや、嗚呼哀しい哉」と書いたのである。

 無論、勝にとつても榎本にとつても、福澤の批判は忌々しかつたらうが、福澤の批判は道徳に關るものであり、しかも二人には「殘燈明滅ひとり思ふの時」おのが心中を覗くだけの良心があつたから、反論はしなかつた。一方、福澤は勝と榎本に宛てた書簡に、「小生の本心はみだりに他を攻撃して樂しむものにあらず、ただ多年來、心に釋然たらざるものを記して輿論に質し、天下後世のためにせんとするまでの事」だと辯明してゐる。後世の吾々はそれを信じるであらう。勝の「奇にして大」なる功績や榎本の「あつぱれの振舞」を認めるとともに、福澤の本心をも信じるであらう。「立國の要は瘠我慢の一義にあり、いはんや今後、敵國外患の變なきを期すべからざるにおいてをや」と福澤は書いたのである。隔世の感に堪へない。

道義不在の時代・目次

廉恥節義は一身にあり──序に代へて
I 教育論における道義的怠惰
  1. 僞りても賢を學べ
  2. まづ徳育の可能を疑ふべし
II 防衞論における道義的怠惰
  1. 道義不在の防衞論を糺す
  2. 猪木正道氏に問ふ
III 日韓關係論における道義的怠惰
  1. 全斗煥將軍の事など
  2. 反韓派知識人に問ふ
IV 對談
初出一覽
あとがき