このフレーズは 『光とともに…~自閉症児を抱えて』(戸部けいこ 著)漫画の中で出会いました。
光くんは知的障害もあり、言葉がありません。保育園の卒園式の時によくある、お決まりの「大きくなったら何になりたい?」について、語ることはできません。お母さんは考えた末、彼の代わりに言いました。「明るく元気に働く大人になります。」
このシーンは光が差し込んで見えました。戸部先生が命を削って描いたこの作品は、本当に多くのことを教えてくれて、助けてくれて、改めて戸部先生に感謝を捧げご冥福をお祈り申し上げます。(合掌)
「明るく元気に働く大人になる」について我家の場合の読み替えです。
一般就労、手帳就労(発達障害の場合は精神になります)、作業所など…どんな形態になろうとも、どんな仕事であろうとも、お給料がいくらであろうとも、学校を卒業したら、ご縁のあったところで笑顔で働いていることです。
しかし、ご縁のあったところに出会う前に、コミュニケーションが苦手なこの子は、何十社受けることになるのだろう???この問いに行き当たったのは2001年頃あたりだったと思います。
就活最前線で、何十社も受け続けるに必要な資質は、❝粘り強さ❞ とか ❝耐える力❞ である。しかるに、発達障害児にこの資質の獲得が可能か? 不安になりました。
これに答えはないものかとずーっと思っていたところ、福祉プラザの図書館で 社会福祉法人 南高愛隣会 前会長 田島良昭 氏の書籍に出会いました。
この本には知的障害者の就活についての取り組みを、職員の温かい支援のもと、厳しい合宿をしながら、当事者自らがお仕事を探すことから始めているというようなことが書かれてあったと思います。
その厳しさを乗り越えた子たちは、働ける喜びで真面目に取り組み、簡単に辞めない…と、そのような記憶が残っているというか、読後感がありました。本が手元に無いので何ですが、大丈夫かもという思いにさせてくれたのは確かです。
就活への取り組みというか助走のようなものはこの頃から始まっていて、不器用な親が考えたことは、進学や就職の場面で履歴書の欄を書くときに、躊躇なく❝粘り強さ❞と書けるように、学齢期から取り組もうということでした。
現実は大したこともできず、習い事を長く続けるとかそのようなことなのですが、最終的に困ったら長崎にある南高愛隣会に相談に行こうと当時本気で考えていました。
息子に「なぜ、働かなければならないの?」と聞かれた時の答えも準備していました。
太古の昔から、人間は働かなくては生きていけなかった。働くことは心を磨くことで、人は心を磨くためにこの世に生まれてくる。そういう風に神様は人をつくられたのだから…。
自然に考えて「食べるために働かなければならない」・・・こんな感じで、結局聞かれる前に小出しに言っていました。
13歳のハローワーク公式サイトで適職診断というのもあるので、ゲーム感覚でやっても面白いかもと思います。
我が家は、中学2年の時に若年者就労支援センター(みやぎジョブカフェ)に行き、どんな仕事があるか頼んでビデオを見せてもらって、適職診断もやらせてもらいました。やはりIT関係に興味がいきましたが、当時残業が多く、ブラック企業とかでニュースをにぎわしていたので、視野を広げてCADのオペレーターというのもリストにあげました。
ネットでも様々な適職診断がありますので、他に試してみるのも良いかもしれません。
一番良いのは、子ども自身が進みたい進路を自分で決めることです。
自身から発信するのに、時間がかかるお子さんもいらっしゃいます。それを待ち続けてお子さんからの希望を受け止め応援し、希望を叶えている青年もいます。そのお母さんに、体験談を書いてただく機会がありまして、【先輩達の体験談】に掲載しましたので、ぜひ、ご覧ください。
進路を自分で決めないで上手くいかなかった場合、子どもは親の責任にします。私も息子に言われたことがあって、未だに後悔していることがあります。
一方我が身を振り返ると、やることなすこと母親に反対され、怒られていたような記憶があります。母は根が優しいのですが、取越し苦労・持ち越し苦労で、予測がマイナスの方向になってしまう傾向性があります。特に孫である我が息子は気がかりで、次から次へと心配が湧いてきて、最終的に不幸の予言のようになってしまうのには驚きました。
物心ついた時から自分の気持ちにモヤモヤしたものがあって、それが何かこの時わかりました。心配が過ぎて不幸の予言のようになってくると、子は巻き込まれてしまうのではないかと思います。その頃私は毎日が重くて、タイミングが悪いというか、なんでこうなっちゃうんだろうっていうことが多く、自分は運が悪いと思っていました。
就活には良いご縁をいただかなきゃいけないのに、不幸の予言をされてはかなわない。
母に「孫を不幸にしないで、成功した姿を思って応援して!」と釘を刺しました。
しかし、親になってわかる親の気持ちですが、結局知らず知らずのうちに親と同じことをしていることに愕然とするのです。息子よ、ごめんなさい。
今だからわかる、その時、親にしてもらいたかったことを次にまとめてみました。
未来に対しての想像が苦手な子は、失敗をして気づいていくこともあるので、一方的に個人の見方で止めないでトライさせて欲しかったなあと…。長所はほめて、励ましてもらいたかった。そして、良い方向に流れていくように祈ってもらいたい…。
「信じて待つ」、「見守る」ということはどういうことなのだろう?
結構言われる言葉ですが、私のような境遇にいる場合、抽象的でよくわかりませんでした。でも長年向き合っていると、私なりに気づく瞬間が訪れました。
短く表現すると・・・相手が笑顔でいる姿を思い描き続けることができるかどうか、いろんなことが起きたとしても、幸せになっている姿をイメージしきれるか。対象者の幸せを祈り続けることが「見守る」ということの心構えなのかなと思ったりします。
良いご縁をいただくには運も必要で、家族の見守りは大きな力になると思います。当サイト【運も味方につけて】も併せてご覧ください。
今だから言えるのですが、明るい未来を思い描きながら、何事も粘り強く取り組んでいると、必ずご縁に恵まれます。自分にはご縁がないと諦めないでください。
上手くいかないことが続いても、笑顔で働いている姿を思い描き続けていると、運が巡り巡ってくるでしょう。
学校見学で「ここに決めた!」と即決したくらい、工業高校は彼にとても合っていたのだと思います。
アスペ・エルデの会で発行している“アスペハート”2007.9発行 就労支援 号のP34に付箋をつけていたところを一部引用します。
~引用始め ある工業高等学校へ行く機会がありました。就職支援のメッカと言えばメッカなのですが、それは工業に関する専門的知識・技能の習得に重きを置くだけでなく、私には、AS系にも対応したきめ細やかな指導体制があると感じ、正直ちょっと驚きました。それは、「挨拶・返事・報告・身だしなみ」といった就労のための基本的な態度の育成が、どの場でも徹底して行われるシステムになっていたからです。~引用終了(特別支援学校教諭 青木智春 先生のコーナーから)
私はこの文章が強く頭に残っていました。高専という選択肢もあったのですが、どういうものか考えていた時に、高専の教授とお話をする機会があったので伺ってみたところ、
「勉強をする習慣がない子はついていけなくなります。お宅はどうですか?」とこられたので
「習慣はないです。」と正直に申し上げたところ
「入らない方がいいでしょう。」ということになってしまいました。
IQが高くて、研究職向きのASの方は、高専や4年生大学、大学院という道に進んでください。タイムマシンを発明するのはASの人だと私は思っています。
ただ、高専に入学してから躓いているASのお子さんの例を少し聞いているので、諸々考慮し良く話し合ってみると良いのかなと思います。工業高校に入ったとしても成績が良ければ3年次に高専への編入もできます。高専に入って途中でついていくことが辛くなったとしても、単位を取り3年次修了の時点で普通高校卒業の扱いとなり、大学受験も可能です。
クラスで成績が後ろの方でも、卒業まで漕ぎ着ける粘り強さを持っていると就労につながります。
工業高校はテクニカルハイスクールで実践技術者の養成を担っているので、進路の決定率が高いです。息子が居た当時は進学と就職は半々くらい。息子が入った高校は生徒ばかりではなく、保護者対象にも此の進路についての説明会がありました。キャリアカウンセラーの外部講師の勉強会もあり、親の時代とは違っている現代の就職事情も教えてもらいました。これを聞いたので、我が家の場合は親子喧嘩が半減したと思います。
このキャリアカウンセラーのK先生は引き続き相談しており、これからも登場して参ります。
息子の第1希望は、県外にある工場への就職。進学よりも就職の方が難しいと担任から言われた母は悩みました。希望通りに進んだとして、もし、合わなくて一年かそこらで帰ってきた場合、次の職場がすぐ見つかるのか?
それで、なぜ県外を希望するかと担任にも聞かれたのですが、息子の答弁は「地元の公共交通システムに納得いかないから…」だそうです。一瞬???ですが、同じことを障害者手帳を取得するときに主治医にも聞かれ、この理由を話すと大きくうなずいて、妙に納得されていました。
息子の本音は都会に出て、電車にいっぱい乗りたいのだろうなということなんでしょうねえ(^-^;
進路の妥協案として、寮がある情報技術系の専門課程のある学校を提示してみました。この学校は工業高校の先生なら就職率が高いことで、お勧めのするところの一つです。
高校での部活は情報研究部(弱電部)で頑張っていました。作品も時間がかかりましたが粘り腰で一つ完成させました。
ここの部活は全国大会の常連になっていたので、モチベーションが高く、帰りが毎日のように遅かった。それでも頑張っているその姿を見て、もし、IT業界に入ったとしてもやって行けるんじゃないかと思えました。
進路について息子との折り合いがつき、見学をしてみるということになり、2年生の時オープンキャンパスに親子で行きました。大変気に入り、その学校に絞って進学の方向で話しを進めました。
3年生になると、まず、就職組の動きが始まります。そちらが一段落してくると進学組が忙しくなってきます。推薦入試が始まり、続々と合格していきます。面談の練習も、息子のような場合、担任に限らず部活の先生とか垣根を越えて、先生の方から声をかけてやってくれました。
第一希望のところには、もう一度オープンキャンパスに行きたいと言ってきたので、一人で行かせました。第二希望のところには、父親と一緒に見学に行きました。
秋の文化祭が終わる頃に明暗が分かれてきます。進路が決まった子達は自動車教習所に通い始めます。
それから3年生はグループで卒業制作の作品作りでも忙しくなります。
息子は3人でゲームのプログラムをつくることにしたようです。やはり若い子はゲームを作りたくなるようで、他のグループでも取り組んだところがあったようです。
やってみてわかる難しさ、大変さ。中々完成にたどり着けず、将来の職業の選択肢からゲームクリエイターは親がキャンキャン言わずとも外したようです。
工業高校は推薦入試が多いため、11月ともなるとクラスの大方が就職・進学と進路が決定していきます。息子の推薦の結果は不合格で、本人かなり落ち込みました。彼は高校受験も推薦で落ちていますが、その時は落ち着いて一般受験まで勉強をコツコツしていました。何故今は焦っているのかと聞くと、周りは殆ど進路が決まっていたからと言っておりました。
まあ、今回落ちたのは、面接が苦手なのを補う内申書の点数を上げられなかった。推薦をもらった段階で浮かれてしまって勉強していなかったからだと母は見ていました。それでも、一般受験で再度申し込むと聞いて嬉しかったです。中学2年生から外部で勉強を教えてもらっていたS先生に、勉強の進め方も含めて受験対策をしてもらうことにしました。
そんな時、父であるマックは1月11日に交通事故に遭いました。一般受験を控えて「なんてツイてないんだろう…」この時はよっぽど堪えたのだと思います。母は、受かることだけ考えて勉強しなさい!くらいしか言えませんでした。
一人で一般受験し、ホテルではアイロンを借りてワイシャツにアイロンをかけるまで気がまわったようです。
私は家庭を切り盛りするだけで精一杯で、祈ることしかできませんでしたが、かえってそれが良かったのかもしれません。
後で息子が大事にしている卒業の色紙などを見て、先生、部活の仲間、クラスの仲間に支えて貰ったのだろうなあと思いました。
。そして、この温かいご支援の元、彼は合格通知を受け取ります。
春休みに、鉄ちゃん仲間の子と卒業旅行を計画していたところ、3月11日に東日本大震災に遭います。ライフラインが閉ざされ、お店に行っても品切れの日々が続きました。JRは動かず、いつ駅が開かれるのかわからない状況。旅行をすごく楽しみにしていたので、ギリギリまで払い戻ししないでいました。父は病院、母は仕事、自宅でおばあちゃんを見てくれたのは息子で、大変助けられました。
工業高校での3年間は、社会に出るための基礎を息子に教えてくれました。そして、息子は卒業してからも学校に顔を出していました。部活の計らいで、先輩達をご招待してくれていたようで、それが情報交換や相談の場となり、励まされたりしていたのだと思います。
学校生活を通して唯一同級生で毎年会っているのが高校時代なので、三年間一緒のクラスもいいものだと思っています。
入学式のご案内は少し遅れて届いた記憶があります。震災の影響でJRは動かないし、バスも運行しているのかわからない。息子はここで鉄ちゃんの実力を発揮、バスの乗り継ぎで、入寮に間に合うようにチケットを申し込んでくれました。
まだライフラインの復旧も遅れていて、前泊したビジネスホテルでお風呂に入れたことが嬉しかった記憶があります。
学校の敷地内に寮があるので、親としては安心でした。寮監は面倒見のよい威厳のあるおじさんで、頼もしい感じがしました。共同で使う洗濯機がありました。高校の時に、作業着を長期休暇中に洗濯してアイロンがけすることはさせていましたので、そこは最初の内は張り切ってやっていたようです。今は洗濯は溜めるタイプです。ご飯は三食寮で出るので、ここで大分食域が広がりました。お味噌汁を普通に食べられるようになりました。
ここで彼は背中に羽が生えます。一年目は自動車教習所に通います。行きたいところがたくさんあっての教習所通いなので、期限ギリギリでの取得でした。彼は“鉄ちゃん”の中でも“乗り鉄”の方です。奨学金をもらっていたのですが(奨学金の形式が息子の時から変わったらしく、いわゆる教育ローンみたいな感じ)、1年分がまとまって通帳に入るので、考えて下ろさないと大変なことになる…ということで、母は決断しました。2年生の夏に通帳を取り上げ、月々振込むことにしました。
ここでようやく重い腰を上げ、彼はバイトを決めてきたのです。
この引っ越しのバイトが彼を成長させます。忙しい時は1日12時間労働になったりしていました。でも、1日1万円以上稼ぐことができるアルバイトは中々ありません。真面目で時間にキッチリな彼は信用されたようですが、仕事ができないというようなことを先輩から言われたようです。つまりドンクサイのだと思います。「続けてやっていたら慣れてきて、仕事も早く出来るようになるんじゃない~」と母は励ますしかありませんでした。
彼にとって初めてのこのバイトは卒業まで続きました。握力が弱いというか、どう力を入れたら入るのかわからないレベルだったと思うので、一緒に働いてくれた方、本当にありがとうです。
アルバイトの経験は履歴書に書いてもPRポイントになるので、良い経験になったと思います。
ここで、知り合いママの体験談です。
アルバイト先のコンビニの店長が世話好きで、大学生の息子さんも信頼し、就活のこととか相談したりしていたそうです。ここでのアルバイトは長くて、仕事も丁寧にいろいろと指導を受けられたようです。4年生を迎え、就職先も決まり、無事卒業されたようです。
アルバイトはお勧めします。成長に役立つと思いますし、就職時の履歴書の様式に“課外活動・ボランティア・アルバイト”と書く欄があると思います(様式は学校によるのでしょうか?)。
それから、この子達は就活する時にアドバイザーというか支援者がいると、仕事が決まりやすいのではと感じております。
学校選びは大切で、前述したキャリアカウンセラーのK先生から学んだことを参考にしました。注意することは就職率だそうです。ある大学ではアルバイトも数に入れている場合もあるので、正社員として採用された就職率を聞いてくださいと言っていました。
振り返り思うに、オープンキャンパスの保護者向け説明の時、「就職率は100%です。」と担当者の方が自信を持っておっしゃってました。就職率が良いということは、就職指導もきめ細やかということにつながってきます。就活はキャリアセンターか就職支援センターか呼び名は各校あると思いますが、そこの担当者と進めていきます。生徒の人数に対して、職員がどれだけ配置されているかも確認をして損はないと思います。
自分から相談に行かなければそのまま過ぎてしまうことが普通にあると思うので、内気なお子さんの場合、親御さんはそこもチェックしても良いかもしれません。
ちなみに大学就職率ランキングトップ300というのがありましたのでご参考までに。
実学系の学校は社会に出てすぐ役に立てるよう実戦形式で教えているので、就職支援のような面があるような気がします。息子は担当教授にも、キャリアセンターの担当者にも、声をかけられ、背中を押され、二人三脚で就活を進めることができました。
履歴書がまともに書けるか心配していましたが、きめ細かに添削をしていただいたようです。キャリア教育の中でもやっていくのでしょうが、befor
after で変わっていきました。
最初は手書きだったので、大変苦労したのだと思います。添削してくれていたのに、清書を間違っていたのを発見したこともありました。その後になってくると、パソコン入力したものになっていきました。不採用の通知がきたら、淡々と次へ履歴書を提出していったようです。
何回も落ち続けていると、普通は嫌になって休みたくなります。親の方も、何もわからなければ、少し休んで英気を養ったら~とかしてしまいそうです。
それは違うようなんですね。プロの専門家が言うには、そこを我慢して受け続けさせるようです。
淡々と、「〇月〇日面接会がありますので、あらかじめ履歴書を用意してください」。「○月〇日会社説明会があるので、希望する場合は聞いてください。」とかメールもきていたようで、背中を押され続けていたようです。
受け続けるとパターンもわかってくるようで、実戦で続けた方が面接は格段に良くなるそうです。
そこで、母の失敗アドバイスがあります。面接が苦手なので、資格があればポイントが高くなると思い、彼の実力をしっかり把握せずに、基本技術者情報試験を受けるように申し込ませていました。その受験日が学校祭と重なっていたのです。その日、急きょ履歴書を出していた会社の面接官が、学生の様子を見るために来ることになったということでした。
サボったわけではないのですが、息子一人不採用になったとか。他数人はまとまって採用になったそうで、その時学校にいれば採用になったかも知れないと言われた時には、申し訳なくて、申し訳なくて…
やっぱり親はそこまで立ち入らない方がいいと反省しました。
中々決まらない中、担当教授から電話が入りました。その時に、事実を述べて協力を仰いだ方が良いと判断。息子のアスペルガー症候群のこと、コミュニケーションはとても苦手な部分であることをお話ししました。そして、一般就労が難しい場合はどうするか、再度息子に聞いてみることにしました。
目指すところは就職が決まることで、就職をしたいという気持ちを確認でき母はとても嬉しく思いました。一般就労が難しかった場合は手帳就労にも枠を広げて就活してみることにして、早々に障害者手帳取得の準備に入りました。
正月明け早々、面談の予約をしていた居住地域の障害者職業センターへ親子で相談に行きました。
「一般就労をしても2~3年でこちらへ相談に来られる方も多いので、いっそのこと最初から手帳を取って、障害者枠で就労するのも一つの方法です」とアドバイスされました。
仕事で躓いた時に相談する方法も確認し、発達障害は精神の手帳になるので取得方法を聞き、診断書は地元の主治医に依頼するので、息子と段取りを決めました。
手帳の手続きをした旨、担当教授に連絡しました。手帳枠で、幅を広げて就活することにしました。一般就労の最後になる大規模な合同就職面接会が2月の中旬にあり、そこでダメなら下旬に障害者対象の面談会があるということで案内を受けていたようです。
手帳の件も有り故郷に帰って来ていたので、合同就職面接会には受ける会社の候補をあげているのか聞いたところ、あげていないとの返答が戻って参りました。それで候補の会社に〇をつけさせたところ、IT企業全てに〇をつけていました。(*_*; まあね、時間の許す限り面談したいとの気持ちはわかる…けどね…
当日、彼はアイウエオ順に企業と面接をして、2社から後日面接まで歩を進めることが出来、その内1社は落ち、1社から内定をいただきました。内定をいただいた会社とはご縁だったと思います。社長面談で、学校は推薦で入ったのかと聞かれたそうです。推薦は落ちて一般受験で入ったことを話すと、そこを評価してくれたそうです。
世の中、無駄なことは何一つないと、このような時に思うものですね。
彼は内定を貰ったその日、余りにも嬉しくて、自分へのご褒美にデジタルカメラをご購入になられました(--〆) 事後報告を受け、口をあんぐり開けた母でしたが、こういう時には怒れないですよね。
面接会に向けて会社の候補を挙げさせた時に、母が口出しして、分厚い冊子になっている求人票をチェックし、面接の会社を絞り込んでいたら、今回は決まってなかったでしょう…多分。
母としては受ける前の段取りというものを、失敗したら話そうかなと思っていたところが、息子が運を引き寄せて決めてきたという結果になりました。そのご縁のいただいた会社は、福利厚生の充実と離職率の低さを特徴としてあげていました。そのような職場は社員の面倒見が良いことにつながります。新卒者が体験する山や谷や壁がたくさんありましたが、息子が勤め続けることができたのはそのお陰もあると思います。
会社を選ぶ条件の一つに、離職率が低いという視点を入れても良いかもしれません。
ここまで来るのに30社以上受けました。うちの息子が一番最後かと思っていたのですが、3月に入って決まった学生がもう一人いたそうで、その年も100%の就職率でしたと笑顔で答える担当教授と学生課就職担当者にプロフェッショナルを感じました。
コミュニケーションが苦手なうちの息子に、「どれくらい面接の練習をしていただいのでしょうか?」とお伺いしたところ、「数えきれないくらい」とおっしゃってました。本当に感謝です。
2年間はあっという間で、寮の卒業生お別れ会に参加せず、引っ越しで動き回っていた記憶があります。親としてはそういうことの方に参加してもらいたかったのですが、お酒に弱い息子はどう対処していいかわからなくて不参加を決めたようです。
ルールを守るアスペっ子は、流石二十歳になるまでお酒は口にしませんでした。成人式おめでとうで飲んだお酒で具合を悪くして、自分はかなりアルコールに弱いと知ったのでした。
今は限度を知り、わきまえて飲めるようになりました。
就職が決まってからの住居探しだったので、本当に時間がありませんでした。息子に何処に住むか決めてもらってから地元の不動産屋に目星をつけ、ネットで物件をピックアップしました。
思ったよりもすんなりアパートが決まりホッ😌
さて、いざ賃貸の契約になって内定書が必要だったのですが、息子はもらってないと言います。年収如何によっては貸せないということらしく、本当に内定してるの?になって、息子が会社に問い合わせました。
結局、会社の事務の方と不動産屋とでやりとりし、OKになりましたが、内定書は社長面談した日に渡された封筒の中に入っていたのでした。舞い上がっていた息子はそれを開けて見もせず、またもや母は口をあんぐり開け目は△になりましたが、社会へ第一歩を踏み出す洗礼となりました。
最初からこれだと、越える壁は多いなあと心配になりましたが、この時の事務の方の答弁で何とかなるかもと思いました。「新しく入った社員なので、よろしくお願いします。」みたいな言葉を不動産屋にかけてくれていたように、やりとりを見て感じました。社会性が低い新人に、丁寧に教えてくれるお姉さんがいると心強いものです。
最初の3ヶ月は研修で、その後現場に入りました。半年過ぎたころでしょうか、彼は難しい場面に行きあたり電話がかかってきました。すぐ上の先輩からやってと言われた仕事のスキルが無かったので、やり方を聞いたところ、自分で調べてやれと言われたらしく途方にくれたのでした。
ここはチームリーダーからなんらかの対処がある場面ですが、明日どのような対応になっているか、母も次の展開を考えました。会社へのカミングアウトが必要なのかどうか。
翌日、上司からやり方を聞いてその仕事を進めることができたと報告をしてくれました。すぐ上の先輩も余裕がなかったのでしょう。この時は毎日のように帰りが遅かったようで、瘦せました。
でも、このような壁を乗り越えると青年は凛々しくなるものだと実感しました。
別なケースです。
歯科技工士の職で一般就労したのだけど、残業の多さに耐えられなくなって、自らお話しして辞めてしまったケースの体験も伺っています。親の方も先に相談してくれれば次の対策も練っていたようでしたが、本人が耐えられなくなり、帰宅するなり親に事後報告の形になったらしい。でも、我慢して二次障害になってしまうより、本人自ら言うことができるということは大事なことだと思います。就職でお世話になった学校の先生の仲介で、今度は発達障害のことを前もってカミングアウトし、最初は4時間から始めて時間を増やしていって、正規職員を目指す働き方で働き、現在は正職員になっている青年もおります。
大学や専門学校でも技術職に進んだ場合は就職が割と決まりやすいようなのですが、そうでない場合は中々難しいように傍から見ていて感じます。就職を担当する学務課の担当がキメ細かに配慮してくれるかどうか、前もってわかると良いのですけど…。
別な体験で、専門学校卒業後小まめにハローワークに通って、相性の良いというか親身な担当者に出会い、トライアル雇用を体験しながらお金を貯めて、都会へ出て自分に合う会社に就職できた若者もいます。
自分の良さを引き出してくれて、マッチする職場にコーディネートしてくれる人に出会えることを祈るばかりです。
厚生労働省で若者の就職支援を行っているジョブカフェ(若年者のためのワンストップサービスセンター)が都道府県に、厚生労働省が委託した事業所で実施している地域若者サポートステーションが各地にあります。
その他にも就労移行支援事業所が各地にありますので、まず、お話を聞いてみるのも一つの手だと思います。相性もあると思いますので、一つだけでなく、いくつか見てみるのも方法です。
4年制の大学を出て、就労移行支援の事業所を利用して就職を決め、一人暮らしにチャレンジしている青年もおります。また、高校卒業後手帳を取得、就労移行支援事業所を経て就労、支援センターで行っている若者向け余暇活動のプログラムに参加し、充実した生活を送っている若者もいます。
障害者手帳を取得していなくても受けられる福祉サービスを紹介しているページがありますので以下からどうぞ。
●りたりこ発達ナビのページへ
さて、我が家の場合に戻って私生活の部分。
仕事のストレスはお休みのお出かけで発散していたのですが、鉄ちゃんでも乗り鉄の方なので、月々の支払いが嵩んでいきました。カード払いにすると月々のやりくりがわからなくなってきます。ましてや家賃の支払いがクレジット会社を通すことになっていたので、契約時にカードをつくらされました。
そこでリボ払いを覚えてSOSの電話がかかってくることに……。お金の管理が苦手なのは発達障害の特徴にあります。どのように教えたらいいのだろうと確信のないまま、現実にピンチの場面がやってきました。
人間、痛い目に逢わないとわからないことがあります。この時は本人もどうしたらいいのだろうと本気で思ったと感じました。いろいろな方法を試みましたが、給料日にお金の出入りについて毎月母とチェックすることにしました。買い物も高額になるものは親に相談してからと、約束事を決めました。
その後、電車でのお出かけを控えることができるようになったのはエライのですが、比例して体重が増えだしました。世の中上手くいかないものです。
それでもコツコツ1年以上やってきて、感がつかめてきたようなんです。
社会人になる時に母が立て替えて購入したノートパソコン代金を、4年経ってようやく返済完了。また、不動産屋が変わり通帳引き落としになったので、家賃支払いに使っていたクレジットカードは自分で判断して解約しました。
自炊に関しては、親として後悔していることがあります。
小さい頃からアトピー傾向があり、肌が弱い息子。小学生の時に手の指がブツブツになり、皮膚科に行ったところ“主婦湿疹”と診断。息子はそれを聞いて「主婦でないのに主婦湿疹になってしまった?」と本気で困っていたのを思い出すと今でも可笑しくなるのですが、ひどい湿疹だったもので水仕事をさせなくなってしまいました。もう少し工夫の余地があったかも、残念です。
給料が少ない社会人一年生、自炊やってみようという気になったらしく、最初はご飯を炊いたり、スパゲッティを茹でたりしていました。が、慣れない一人暮らし、残業が増え食事を作る時間の余裕が無くなり、買い弁当はゴミが増えるということで、レストランや食堂で夕食を済ますことが多くなりました。
そうなると給料に占める食費の割合は増えます.
当サイト先輩ママの体験記に寄稿いただいたBさんから、“ヨシケイ”を利用して息子さんを料理男子に変えたお話を伺いました。
Bさんは、我が子の受験勉強と一緒に自分がケアマネの勉強を始め、資格を取り、就職しました~凄いですねェ。共働きになったので、息子さんが就活でハローワークへ毎日のように通っている時に、夕食をヨシケイで作ることをしてもらっていたそう。
食事作りは大変で、息子さんは早く仕事を決めて家を出ようと思ったらしい。就職が決まり、いざ、家を出て自活した時に、自炊が出来ることで大変助かり、親に改めて感謝したそうです。
料理を覚えるツールの一つとして、ヨシケイ いいかもね。
我が家の場合は整理整頓は今後も引き続きトライしていく課題で、今回、それもあって引っ越したようです。押入れがあって少し広くなったのだけど、家賃はかなりお安い物件です。全て自分で決めました。私は介護があったので、引っ越しが終わった後に整理整頓のチェックに行くことになりました。
収納グッズについては、最初息子の希望を聞いて揃えたのですが、洗濯物をたたんで収納するのが苦手だとわかりました。
初めての一人生活で張り切っていたので様子を見ていたのですが、口ではやると言っても出来ないようなので、この際以前に購入したものは捨てて、新たに大きめの二段式ハンガーラックを購入し見える化しました。季節を過ぎた衣服は後ろの段へ入れ替えするようにし、一年に1~2回、季節の変わり目あたりにチェックを行うことにしました。洗濯物は部屋干しにして、ハンガーやピンチ止めでラックにかけ、そのままで使用することにしました。
乾いた下着やシャツを着たら洗濯物カゴに入っていき、ラックが空いてくるとまた洗濯してかけるというサイクルです。
もう少し構造化できたら生活しやすくなると思うのだけど、良い方法を見つけたいと思っていたところで・・・・・ ツレが「片付けられないのはアスペルガー症候群のせいでした。~アスペの長所を生かせば汚部屋もさっぱり!人生も変わる!!」という本を買ってきました。数か月たつのですが買ってきた本人はまだ読んでおりません。
それを息子に読んでみたらとゴールデンウィークに帰ってきたときに勧めてみましたが、読まずに帰りました。さて、この父子はこの本を読むのでしょうか?
2017年9月から新しい現場に変わると連絡がありました。今のIT企業はエンジニアの派遣業務部門があるところも多く、息子も入社後そちらの部署に配属になり4年が過ぎていました。新入社員の頃の大目に見てくれる時期は過ぎ、仕事もだんだん難しくなってくる頃。今まで良く頑張ったなあと思っていた11月の下旬、その時は訪れました。
金曜日の夜11時過ぎ携帯が鳴り、「今の現場で仕事が続けられなくなった。明日本社に行くことになったから会社にカミングアウトしようと思う。」と言われました。
ここの現場に変わって間もなく相談の電話が続けて入るようになりました。今回の現場は今までと違って体育会系が多いとこぼしており、よっぽど合わないのかなあと気にかけていました。今まで現場が変わるごとに面接があり、コミュニケーションが苦手な彼は人間関係に慣れるまで不安の日々だったと思われます。
今回の件、事実はどうだったのか今一つわからないところもあるのですが、プレゼンが上手くいかずに、結果としてそこでの仕事を全うすることが出来なかったということらしい。彼にとってはここが限界、会社に自分の特徴を告白して理解を求めたいという状況だったのでしょう。
相性が合わない現場の時に、人が変わらない職場に行きたいということを訴え、高校から相談しているキャリアカウンセラーのK氏に何回か相談を入れていました。
次にK氏への相談の電話を入れる日時を決めていたらしいのですが、急きょ今回の事があり、彼はその日まで待てなくなりました。
この調子だと会社の人が理解できるようにカミングアウトできないだろうと思った母は、彼の足りないところを補足するために息子の勤める会社へ行こうと思ってしまったのでした。
25歳になろうとするASの息子に母はどこまで支援をしたら良いか?
次の日、私は朝一で職場から休みをもらい、息子の勤める会社へ向かいました。こちらは息子の足りない言葉を補足しようと単純にそれだけを考えての行動だったのですが、社長が自らの予定を変更し面談することになってしまいました。行くまで、息子を通してやりとりをしているうちに、ようやく状況が見えてきました。
早く着いた方が良かったのか、約束した時間に行った方が良かったのか、息子を通してのやりとりは???ようやく社長と営業担当の方と面談となりましたが、話しをしている内に、事が大きくなっているのが感じられました。
一方の息子の行動は、朝一で本社に出勤し、自分が発達障害でコミュニケーションが苦手であることをカミングアウト。「詳しいことは後から母が来て話します。」(*_*;とだけ言ったらしい。
「相手がわかるように、自分で言えることを頑張って言ってみてください。」と言った母の言葉はどこにいったのでしょう?
ここでわかりました、母として間違った判断をしてしまったことを。
この後、前述したK氏に事の次第を報告することになります。
「緊急の場合は相談の仕方が違うでしょ~」と息子は開口一番言われてました。
息子から携帯を受け取るやいなや、「お母さん、子どもの自立を妨げてどうするんですか<`ヘ´>」と案の定K氏から叱られてしまいました。おっしゃることはごもっとも、今後の対応を相談した後に、「まあ、Lindaさんらしいですが…」との話しの結びに、自分はどういう親に見られていたのかがわかりました。
社会人になってからは、職場でカミングアウトする場合、障害があったとしても親は出て行かないのがやはり正しい判断です。必要があり会社側から要望されて親が出る場合意外は、職場と子のやりとりを陰で見守るのが親の立ち位置でした。
でも、自分の判断が誤りだとその時は思えなかった。3歳で診断されて、個別支援計画なんて無かった時代、母親であると同時に自分も勉強をして支援者になろうと思ってやってきたので、今回も支援しなければと思ってしまいました。
しかし、親は支援者にはなれないことを今回の件で痛感しました。
それからもう一つ、K氏から「今の時代は親側から訴訟を起こす場合も多いので、親が出てしまったことで会社側はすごく警戒したと思いますよ。」とアドバイスされました。そうであれば、その誤解を解かなければなりません。
職場から、残っている有給休暇の一部をリフレッシュ休暇にということで10日間休みをいただくことになって、今後どうするか家族でゆっくり考えてくださいと言われました。ただ、その間帰郷して再度障害者手帳を取得する手続きもすることになりました。就活時に手帳を取得していたものの、一般就労ができたもので、更新をせずそのままになっていました。
ご存知のない方のために障害者雇用対策について少し触れます。事業主にとっては障害者の法定雇用率というのがありますので、民間企業は現在2.3%の障害者手帳を持っている人を雇わなくてはならず、これを満たさない場合は納付金を徴収しなくてはなりません。職場で障害者手帳を持っている方はお知らせくださいと案内されるのはそういうことがあるからです。
困難さを抱えている人にとって、配慮やフォローがあると安心して働くことにつながります。その環境を整えてくれるツールの一つが障害者手帳です。
企業で対応を整えているところも増えているので、調べてみると道筋が見えてくることもあると思います。
さて、リフレッシュ休暇のところに戻り、一旦帰郷する前に、小中高と親の会で一緒に活動してきたHさん親子が近くにおりましたので、急きょ会うことにしました。お互い子供に告知し、カミングアウトについても話してきていたし、先に職場へのカミングアウトはこの親子が体験済みでした。この時ほど、話してわかる相手がいることの支えを感じたことはありません。
賢かったのはHママの対応でした。全てを支援者・会社と子供に任せ、母親は相手側の要望があれば出て行くというスタンスで、その後一度も呼ばれていないということでした。息子さんは働く時間を順調に伸ばし、現在は正社員になっています。
親の会に入ってて本当に良かったなあとしみじみ思い、週が明けて次の日、地域の障害者職業センターに行き、利用できる制度や福祉サービスについて簡単な情報をゲット。前述した「就活最前線」のページに書いてありますが、その時から5年ぶりにここに来たわけです。当時はなかった“障害者雇用マニュアル コミック版”というのがあり、NO.5「発達障害者と働くーよく知ることから始まるともに働く環境づくり」の冊子がとてもわかりやすく頒布用にたくさんあり、2冊カバンに入れ地元に急ぎ帰りました。
急きょこのような展開になり、手帳再取得のため連絡を取っていた忙しい主治医は「ブラスター君のためなら…」と予約は2か月前なのに対応してくれました。
診察室に入るといきなり「いやあ~、お母さん早まりましたねぇ。」主治医からはやんわり叱られました。こちらも、もう大人になったのだから、親は出ずに本人と会社のやりとりに任せるのが自立につながると言われました。
このリフレッシュ休暇、息子は高校の同級生と飲み会をし、手帳の申請書を病院から手にすると、居住地にある役所への手続きのためと受けたい研修会があるからと言って、その足で帰っていきました。
それから数日して、社長と再面会のため私は息子の元に向かいました。先に彼が自分でコンタクトを取って面談に行っていた地域の障害者就労支援センターへ先に寄りました。地域に相談できるところがあると安心かなと思い、障害者職業センターで情報を得、本人が先に行ったので、その時の様子伺いもあり母だけで寄りました。
それなりに質問するところはして、手続きしていったようなので、もう、親の出番はないなということを確認してきた感じになりました。
2回目の約束した面談の日、社長を目の前にして母はすぐに頭を下げました。「今回は母親が突然出てしまい申し訳ございませんでした。主治医からもカウンセラーの先生からも、子どもの自立する機会を奪ってどうするんですか!と沢山叱られました。」と。
それから、「これからどうするかは本人と会社にお任せいたします。」とお話ししたところで社長から、「実は社内の開発部門で預かりたいという声があったので本人に話をした。」ということでした。
その件については前日の夜に息子から聞いていて、今まで勉強してきたことを生かせるし、引き続き仕事をしたいと返事をしていたことを聞いていました。本社勤務になると現場が変わることもないので、結果的に本人の希望通りになりました。
親は子の“転職したい”の言葉をどう受け取っていいかわからないところがありましたが、最終的に転職ではなく、理解者がいる同じ職場で働きたいという気持ちがわかりました。
「お母さん、お膳立てはもう十分ですから。これからはお任せください。」と社長から言われた時、肩の荷を下ろした感がありました。
「どうして発達障害とわかったのですか?」と社長から質問を受け、一種の知能検査であるWISC(ウイスク)と心の理論でサリーとアンの課題のことをお話ししました。そうしたら、こういう内容ですかとズバリ語られたのでびっくり、「よくご存じですね。」となりました。
それでサリーアンをなぜ知っていたのかというと、知り合いの方がその課題を近日中に受けるということで、聞いていたそう。企業の方に発達障害についてより深く知っていただくことは、私たちのような者にとってはとてもありがたいこと。
この出会いは何かのご縁かなと思い、前述した“障害者雇用マニュアル コミック版NO.5”を鞄から出し、息子はじめ息子に似た方への対応にお役に立てればと手渡しました。
息子が職場でカミングアウトしたことによって、この会社では発達障害の従業員を雇うのは始めてということになってしまいました。ただ、離職率がかなり低いこの会社は、働く者の事情に寄り添う社風を社長がつくってきたのでしょうね、今後については不思議と不安は感じていません。
11月にこの出来事があり、間もなくお正月で帰ってきました。息子が小学生になってから入会した発達障害児者と親の会であるSの会、ずーっと続けてきた恒例のカラオケ会を開催しようと動いていました。最初は親達が企画運営、子ども達の部屋には大学生のボランティアに入ってもらって、別部屋で親たちが情報交換などしていました。子ども達も大きくなり、いつ自分達だけで集まることができるのかなと親たちは思っていたところでした。
この度、日にちを確認するのに息子たちと確認をとっていたのですが、最終的にいつものメンバーで、若者らしくLINEで連絡を取り合い全てを決めてしまいました。今までは子ども達の部屋と係りの親達の部屋と二つ予約して開催していたのですが、今回は未成年の子や初めての子がいなかったので、彼らだけでの開催となりました。
この年の夏、Sの会で親しくなって地元に残った子達が旅行を企画、地元を出た息子達のところに泊りがけで遊びに行ったという、親たちが涙を流して喜んだ出来事がありました。楽しい時間を過ごし、前述したカラオケ会に繋がったのだと思います。
その裏に諸々ドラマがありまして、いつか親達同士で集まってお互い労をねぎらい合いたいと思っています。
くれぐれも私のような失敗はしないように、この体験をお使いください。
会社の事情もあったのだと思いますが、組織編成に伴い息子の所属する部署が変わりました。現場へ派遣されるようになって、人間関係が変わり、苦手なタイプの上司や同僚になった場合に電話がかかってくるようになりました。
会社にカミングアウトしたからといって、派遣先も含めて皆が発達障害について理解しているわけでもないでしょうし、会社でもこれから態勢を整えていく過程にあるのだろうし…。かといって辛い状況に我慢して二次障害になってしまったら元も子もない。それだけは避けなければならない!
勤めて5~6年になってくると息子の同級生の中では転職をしている子もいて、他も見てみたくなる気持もわかる。自分にとって都合の良い職場はそうあるものじゃないというのはいろいろ体験してきた親の世代だとわかるのだけど、言葉で説明するのは難しい。
でも、失敗して経験してわかっていくのだよね。どこの職場でも、きちんと説明をせず、大声で矢継ぎ早に指示を出して怒鳴る人はいたなあ。いるんですよ。転職してみてわかりましたよ。
Sの会で就労に向けての勉強会を開催した時にキャリアカウンセラーのK氏が言っていたのは、仕事辞めたいの相談がきたら、愚痴を聞いて、親の失敗談をしてあげたり、頑張っているところは誉めてくださいということでした。
ただ仕事をしていくうえで、、わからないことがあったら聞くこと、できないことはできないと言うこと、表現の仕方が拙くても、相手がわかるまで諦めずに伝えること、それができないとどこの職場に行っても同じというのは言い続けました。最後は励まして電話は終えるよう心掛けました。
このような状況なので、今辞めて仕事を探しても転職を繰り返すことになるのではないかと思いました。当の本人は勤めていると探す時間が無いから辞めたいになるようでした。働きながら転職活動をしてはどうかとK氏からもアドバイスをもらっていたのですが、本人はそこの現場が辛かったのでしょうね。
どうしようかなと思っていたところ、オフ会のご案内があり、ハンディがありながらもご活躍されている方の参加もあったので、お話しを聞こうと一緒に参加することにしました。
オフ会当日、息子との待ち合わせにすれ違い、我等は遅れて会場に到着。座った席の隣のCさんという方とお話ししていたら、難聴のIT技術者で障碍者の就労についても活動されている方ということがわかりました。息子のことを伝えると人材を募集しているところがあるので紹介しましょうとなり、息子も頭を下げてお願いをしていました。
後は息子とCさんのやりとりになるのですが、息子から「こいういうメールがきたけど、どう返したらいい?」と連絡がくるので進捗状況が手に取るよう…「あなたはどういうふうに返事をするつもりだった?」と確認しながら進めていきました。
社会で5年も頑張って勤めていると、返答に関しては失礼なものにならないようできるようになって感動しました。「それで、いいんじゃない。」とやりとりは進んで行き、そして、面接にこぎ着けました。
今回は面接の前に、いろんなことを明確にしていかなければ今後の彼にとってプラスにならないと思いました。丁度その時、私はカウンセリングを受けていました。というのは、発達障碍児の親は皆がそうではないですが、その傾向性があるということを子育てしながら自覚していくのですね。私は異動によって職場環境が変わり、ケアレスミスの多い私はそこをすごくつっこんでくる四面楚歌ならぬ三面楚歌の状況になって、これを機会に診断してみようと思いました。
そちらに関する大人の場合の情報が少なく、子どもの主治医だからと言って、小児科の場合は成人を診てくれません。ようやく情報を得て精神科の病院でWAIS(ウエイス)を受けたのものの、「あなたくらいの状況でWAISを受けても、はっきり言ってお金と時間の無駄です。」と言われ、この発達障碍と普通の間で生き辛さを抱えている人はどうしたらいいんだとSの会で嘆いたら、「良かったら、支援しますか。」と申し出てくれるM先生がいて本当に助かりました。
アーチルにも問い合わせしてみましたが、手帳が無いと相談するところが限られてくるので、本当に困ります。このあたり何とかならないのかしら。
世の中に余裕がある時代はそれなりに生きてこられた人種だと思いますが、世の中複雑になってくると生きるのが難しい。
検査の結果は発達障碍ではないけれど、ADHDの傾向がやはりありました。あるので長所で仕事をさせてくれると元気に頑張れるのですが、短所を締め上げられると頑張れなくなります。直属上司に相談しても現状が打開できないと思われる場合は上の方に相談するしかないので、息子にもそれは話し、母の体験談も伝えました。
それでM先生との面談は、母が支援を受けて学んだことを息子に伝えて実践という流れになっていきました。私は定年退職後に福祉関連の仕事に転職するつもりだったので、その時に必要な知識として自分マニュアルのつくり方を教えていただきました。
息子に確認すると、次は前もってカミングアウトし、配慮を前提とした障碍者枠での就労考えていました。なので自分がどこに困難さを抱えていて、どこを配慮してもらえたら安定して仕事ができるか、今回の息子の面接に必要だなと思ったので、一緒に取り組むことにしました。
丁度その頃、NHKで「発達障害って何だろう」というキャンペーンをやっていて、印刷して使える「わたしのトリセツ」がダウンロードできるようupしていました。他にも「障がい者の就職と転職ガイド ナビゲーションブック」があることをM先生が教えてくれました。息子と確認しながら、息子の書きやすいように両方の良いところを取り入れて完成させました。
そして面接の日、それを持って出かけていくことになるのですが、相手先が求めていたのは仕事のスキルと技術で、それを持っていたらの配慮だったのだと想像します。ここは不採用になりました。C氏は有名企業でプログラムの開発で受賞するくらいのすごい方で、ご紹介いただく企業も有名なところで欲しい人材が明確でした。息子が技術面でやっていけそうに思える仕事の内容の方向ではなかったのと、自分の考えが甘かったということがわかったようでした。
このナビゲーションブックに取り組んだお陰で、自分のことを客観的に見れるようようになったと思います。
現職では、辛さに耐えかねたようで、本社にお話しをしたそうです。職場に話せるようになった彼を誉めてあげたいし、対応していただいている会社に感謝の念を送るばかりです。現場が終わり、次の現場では母に電話をかけるまでのことは起きず、コロナ禍に突入してしまいました。
リモートワークになって精神的に楽になったという発達障碍者の声を少なからず聞いておりますが、我が息子もそうだったようです。
29歳となった息子は同じ職場で就労の継続をしています。
障害者手帳は会社に提出を求められずに現在に至っておりますが、いつでも要望に応えられるように手帳の更新は続けております。
コロナで自宅勤務となった息子は人間関係の煩わしさが軽減し、食事以外は外に出ることもなく、体重のコントロールが難しいようです。
鉄ちゃん仲間の集まりにも参加し、私生活もそれなりに充実しているようです。
ご縁のある彼女と出逢えると良いですね。
母は遠くから祈っております。
2016.4.2.記す
2022.4.28加筆修正
発達障碍や診断されないグレーゾーンの方は、日本の一般社会で就労を継続するのは難しいことだと思います。
今、体験談が続々出てきていますので、まずは目についた記事などを集めてみます。
●発達障害グレーゾーンの大人は仕事が辛い!私が経験した解決策とは?
●44歳、発達障害「ADD」。転職ばかりの20代を経て見つけた「仕事を続ける6つのコツ」