ふーさんは立つのが少し大変になってきたかなと見ていたら、平成29年7月7日(金)の夜から歩けなくなりました。食事も自分で取れなくなったので介助して、ベッドに寝かせたところ、寝返りも打てないほど身体が衰弱していたのでケアマネジャーに相談しました。
土日が入ったので様子を見て、10日(月)に主治医に連絡し外来が終わった夕方に往診いただき、点滴が始まり次の日から訪問看護が入りました。13日(木)に主治医の往診があり、発熱と体内の酸素濃度が低いので血液検査を行いました。お誕生日に合わせて帰って来ることになっていたツレのお姉さん(ツレ姉と今後表記)が早目に到着。誤嚥性肺炎の診断で、翌日14日(金)に主治医のご厚意による手配で近所の総合病院に入院。
救急車での搬送となりました。
息子も呼び寄せ、家族の見守りの元、ふーさんは意識朦朧とした中102歳のお誕生日を迎えました。
ここで息子はふーさんの手を両手で握りしめ、「これが最後かもしれないから、会いに来たよ。」と言いました。しまった、このシーンを予想して前学習をしておけば良かった。こういう時どう言えばいいと言葉を逡巡しているうちに次のセリフが出ました。
「生きているうちに会いたいから来たよ。」
気まずい沈黙の後、様子をうかがっていたツレ姉が「そういう時はね、早く元気になってね。でいいんだよ。」と指導を入れてくれました。
こういう場面で、このようなセリフが出てしまうのは発達障害だからという原因ばかりではないと思いますが、丁寧に教えて、こういう体験を一つ一つ積み重ね、身につけて欲しいと思います。
その後順調に回復、膀胱炎も併発して、炎症の値が下がらず見計らっていましたが、7月31日に退院が決まりました。それに向けて介護を担う私達夫婦は陰部洗浄、体位やおむつ交換の訓練指導が24日(月)から始まりました。
病院側の心意もわからず、ツレに聞いても要領を得ず、私は仕事が立て込んでいたのであまり病院に行けず、こんなんでいいんかいなという状況で退院が近づいてきたので、わからないことを箇条書きにしてそれぞれ担当と思われる人に聞いてみることにしました。
病院の医療ソーシャルワーカーとケアマネの方で大まかなところは進んでいたのですが、確認してみると食事に使用するサイドテーブルが入ってなかったりしました。
世の中便利になったもので、床ずれ予防のベッドマットには関心しました。それだけには頼らず、日中は出来れば2〜3時間おきの体位交換の方が良いそうです。深夜は介護人も大変なので自動体位交換が出来るベッドマットに頼ることにしました。
業者からズレないシーツを用意してくださいと言われたとツレから聞いても、私はようわからんし選んでいる時間も無いのでシーツや枕をベッドに合わせて業者に依頼することにしたところで、退院前には間に合わないことがわかりました。それまで自宅のものを使ったのですが、自宅のシーツは滑らないので上下の移動は大変不便でした。
びっくりしたのは、シーツは訪問入浴の業者で無料で交換してくれるということでした。業者によっていろいろあると思うので確認してみると賢いかもしれません。まずは、シーツ購入は1枚で十分かも。意外と高いので。(このシーツについては令和4年の現在振り返ってみて意味がわからない…(^-^;)
退院時は介護タクシーをケアマネが準備してくれました。時間はこちらで決めるのですが、遅くとも15:00までには病院を出なければなりません。
午前中に栄養指導と言語療法士から嚥下について教えてもらって午後から退院。時間通りにお部屋まで介護タクシーの運転手さんが車いす持参で迎えに来てくれて、自宅のベッドまで力強くお手伝いいただきました。
ふーさんは病院でアイドルでした。
「ありがとうございます」「お願いします」が、一つ一つの問いかけや対応に対して出てきます。それもほわーっとしているので、「ふーさんといると癒されます。」と看護師の皆さんがおっしゃってました。
それは私も感じていて、介護される身でありながら人に辛さを与えないということがありえるのだと知りました。
日本語には言霊が宿っていると実感した体験でもありました。言霊の意味は“言葉に宿っていると信じられていた不思議な力。発した言葉どおりの結果を現す力があるとされた。”と辞書にありました。
言葉を発している人の気持ちの込め方も影響があれるとあると思いますが、「ありがとう」は一番人を幸せにするエネルギーを発する言葉なのでしょう。これが仏教で言うところの「正語」の威力で、本当に実地で教えられた感があります。
でも、入院中、私のことは忘れて少しガクッときました。息子であるツレと初孫のブラスターの二人だけは忘れず覚えていました。退院をしたら私のことは思い出してくれました。
年老いてからの入院はこわいですね。
入院する一か月前、こんなことがありました。
車いすの操作に失敗した私はゆるやかなスロープで壁に車いすを接触、ふーさんに手を怪我させてしまいました。指から血が流れて、映画館のスタッフに消息と傷テープをもらって手当が終わると、「ハイ、これでおしまいです。」と言ってニッコリと私の顔を見ました。
すごく、すごく申し訳なくて、こんな私が介護してすみませんという気持ちになりました。
ツレはツレで ふーさんあわや骨折!? 事件をおこしています。ブログ「幸せになろうね」(2016.12月)に書き込みましたのでご興味のある方はどうぞ。
7月6日まではふーさんは歩いてトイレに行けていて、要介護2でした。入院後はカテーテル(おしっこの管)をつけた状態で31日に退院となりました。
病院と今後の方針を話し合い、今度、誤嚥性肺炎をおこしても入院をしないことで病院と今後のお話をしました。
お家で看取ることには前から決めていましたので、退院出来たのは良かったです。
ここから本格的な介護が始まったわけです。
我が家の夜は結構NHKをかけっぱなしにしています。たまたま“クローズアップ現代”で「『百寿者』知られざる世界〜幸せな長生きのすすめ〜」をやっていました。
100歳以上の人=「百寿者」と呼ぶのだそうです。80〜90歳代を境に、それまでの価値観が転換する「老年的超越」と呼ばれる現象や、想像以上に「豊かな精神世界」に生きていることなど、これまでの「老い」の常識が次々と覆り始めているのだそうです。
ふーさんは寝ているときのことが多く、楽しいこと何をしてあげたらいいのだろうと思っていたところに番組を見たのでグッドタイミングでした。
番組を見ていて、ふーさんはこのままでも幸せなんだなということがわかりました。
ふーさんの写真を見ていただけばわかると思います。
これは平成29年の年賀用に撮ったものです。
平成29年7月31日に退院してからの回復力はものすごく、一週間後にはベッドの縁につかまって起き上がれるようになりました。
〜この二行の後から続きが書けなくなりました〜
現在は平成30年12月のクリスマスイブです。
ここ数日、ふーさんのことが思い出されて写真を見ていました。
リアルタイムではないので、次から心に残っていることを書いていきます。
退院前に病院から言われたのは、「入院をしていると良くなります。退院をすると高い確率で感染症となるでしょう。そこで入院をするとまた同じ事になります。自宅で看取るか病院で看取るか、ご家族で話し合ってお決めください。」でした。
我家が出した結論は、自宅で看取るのでもう入院はさせないということでした。
それでこの章の冒頭に戻りまして、退院となるわけす。そして、お医者さんが言った通り、一週間を過ぎたあたりから尿が紫色になり、起き上がれなくなりました。感染症になったからで、あれよあれよという間に口からの食を受付けなくなりました。
ふーさんは夜トイレに必ず起きるので、転倒の心配が出て来た1〜2年前あたりから私はふーさんの隣に寝るようになっていました。寝込む前あたりは起きる回数も増えたので、日中働いている私の体力が追い付かず、冬に便器で多分一晩過ごしていたのであろうのに気がつかない時もありました。
オムツになって、正直ほっとした自分に罪悪感を持ちました。寝たきりになるとオムツ交換は一人では大変です。訪問介護を使いながら、二人で協力してオムツ交換をしました。介護士でケアマネの妹が近くにいたので、ケアのコツを実地で教えてもらいながら手伝ってくれたことも助かりました。
私は仕事をしていたので、日中はツレが介護の主体となっていました。料理が得意なツレは工夫をして食事をつくっておりましたが、介護食となると難しかったようです。ツレはなぜかお粥はつくらなかったのですが、探して美味しい部類のレトルトみつけてくれました(在庫が増えて…)。
今は美味しいお粥をつくっている業者もあるので色々試してみるといいと思います。赤ちゃんの離乳食も利用していました。
ご飯にうるさいふーさん、食べないので味見してみるとやはり不味かったということもありました。お粥までつくれる炊飯器を見つけ、小分けして冷凍したりもしました。
今の時代、便利なものを利用しながら、介護うつにならにようにやっていくしかないと思います。
本格的な介護の期間は半年もなかったので、介護技術をようやく覚えたところで逝かれてしまったという感じです。
平成29年8月18日、ふーさんは天に召されました。
振り返ると、退院してから亡くなるまで、一ヶ月も経っていなかった…。
日に日に状態が悪くなるばかり。ツレ姉が盆休みに帰ると聞いていたので、早目に来てもらうことにしました。
自宅での看取り、我が子に囲まれて幸せと傍から見ると思えますが、我家らしいエピソードなってしまいました。
主治医の訪問診察があり、会わせたい人がいれば今のうちにと言われたのですが、なぜか皆ピンとこなかったように思います。
ふーさんの呼吸が苦しそうに感じたのですが、夕食後、ふーさんの様子を見たツレとツレ姉は各々自分の部屋に戻ってしまいました。
私はこの状況で、なぜ部屋に戻るのか不思議でした。私も私なのですが、この大切な時にやることがありました。それは次の日の18日、町内会で防災マップをつくる勉強会の打ち合わせが午前中にあり、講師との連絡を私がしていたので、打合せの資料も用意すると言っていたのでした。
諸々迷惑をかけるのも嫌なので、朝一に資料だけ担当者に渡し、打ち合わせはお休みしようとパソコンに向かいました。
ようやく資料を作成し、ふーさんの様子を見に行きました。
穏やかな顔……、しばらく見ていると呼吸をしていないことに気づきました。
こりゃ大変と二人を呼びにいきました。
「えっ」ってツレは隣の部屋から駆けつけて、ツレ姉は二階から降りてきて、「おかあちゃん」と声をかけ、口元に耳を近づけたりました。
「息…してないね。」
「…やっぱり息してないよね。」
皴があるけどきめ細かい肌のあたたかい腕をさすりながら、一つ屋根の下にいたのにタイミングをずらした我らは最後の場面で立ち会うことができなかったのでありました。
「おかあさん、今までありがとう。」と声をかけたけど、せっかく自宅介護にしたのにこういう最後ってあるのかしらと思いました。
その後、主治医が夜中に最後の診断をしてくれ、「最後はどうでしたか?」と。
私は後悔しました。あの時予感があったので、子どもであるお二人は側にいた方がいいと遠慮せずに言えば良かった。私も私だけど、町内会よりも看取りの方が大事ですよね。
主治医は、「…ふむ、息をひきとる時は一緒に居られなかった…。」ちょっと驚いた風でした。
そりゃあそうだよなあ。ただ我が家の場合は決して親愛の情が薄いわけではなく、悪気もないので、誤解を受ける部分だと思います。私も最初誤解をしていました。ここの受け入れの度合いがカサンドラ症候群に関わってくるのではないかと思います。
ふーさんは互助会に入っていて、葬儀者の方には質問もあったので前もって連絡をしていました。
連絡をするとすぐに来てくれ、亡くなった直後のしつらえが整っていきました。
隣の貸家に私の母と妹が住んでいます。早くに父が亡くなったので、老後の青森の雪かきの大変さを考え、息子ブラスターが三歳の時にこちらに越してきました。実の母とダンナの母の間柄、いつの時代も難しい関係にあります。私の母と姑は20歳の歳の差と、近所に越してきた20年来のつき合いがあります。最初はご多分にもれずいろいろありましたが、母の「嫁の母親は一歩下がらなければならない。」という信条と、お互い庭木草花が大好きというところで共通のやりとりがあったようです。
亡くなったことを母に伝えると、夜も遅いし足腰も悪いので翌朝にお別れに行くとの返事でした。
翌朝、母が来てふーさんを安置している部屋に案内すると三人きりになりました。
母はふーさんの側に座ると、とつとつと語りだしました。
「昨日な、夜遅かったから、今きた。悪がったなあ。」
「おめえ、よくがんばったなあ。えらいなあ。」
「おめよ、花のことよく覚えていて、庭見せてくれて、いっぱいおらさ教えてくれだなあ。」
「きれいに花咲いたって、花こ持ってきてくれて、うれしかったあ。」
「餅もよ〜、草餅美味しかったなあ。お茶飲みしたしなあ。」
母は思い出を語り始めたら、次から次へと浮かんできたらしく止まらなくなりました。妹が母とふーさんを連れていろいろなところに連れていってくれていましたが、私は仕事と子育てと家族のことで手一杯、どこまでどうだったのか薄い記憶で、この思い出話しを聞いて改めて知ったことがありました。
母は知らない土地にきて話す人がいなかったし、ふーさんはよく聞いてくれていたようです。
ふーさん行きつけの美味しいお餅屋さんがあるのですが、買いにいった時は、母にも持っていってくれたようです。母には楽しい思い出しか残っていなくて、それをふーさんに五分以上語りかけていたと思います。
「おめど会って良かった。本当に良かった。」
「一緒にいて楽しかったなあ。」
「ありがとう。」
後半は涙声になっていました。
「顔見せてけろ。」と最後に顔にかけてある白布をはずしました。
天女のような笑顔がそこにありました。
母が語りかけている間に、ふーさんの表情が変わったのです。
私もあなたに会えてうれしかったと満面の笑みで表している美しいお顔でした。
かえって母と私が贈り物をもらったような気がして、涙がこみ上げてきました。
どれくらいたったのだろう、写真を撮ろうと思って再度お顔を見た時には、穏やかだったけどその尊い笑みはもう無くなっていました。
写真で残してお守りにしたかったし、親戚にも見せたかったのですが残念。
納棺師にきれいにしていただきましたが、別なお顔になっていました。
母の生まれ故郷である青森は、死者の見送り方の風習というか文化があるところです。そういえば、祖父母が亡くなったときにも、身内・縁者たちが語りかけていました。
イタコは恐山だけにいたわけでなく、地域にもいて死者との対話ができたので、人には魂が宿っていると感じていたし、転生輪廻も村人全員が信じているところに育ちました。
母から大事なことを教えてもらったことに感謝し、これから何人か看取ることになると思いますが、私も母のしたように看取りたいと思いました。
家族の中にいてもいなくても、死ぬときは一人です。
死に目に間に合わなくても心を手向けると、魂に届くと信じます。
2016年記す
2022.4.28加筆