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「お役に立てれば…AS子育てと介護体験」はアスペルガーの息子の子育てと姑を看取った体験をお届けします。

先輩ママの体験記PRIVACY POLICY

私の尊敬する知り合いの方から、別件で体験談を書いてもらう機会があり、それをこのコーナー用にご紹介をさせていただくことの了承を得ました。ここが先を歩んできた先輩達の体験談でいっぱいになり、これから来るパパ・ママ達の参考になればこれ程嬉しいことはありません。

【目次】

1.「不登校した息子の成長とそこからの学び」…Aさん
2.「Fの自立するまでの道のり」…Bさん



1.「不登校した息子の成長とそこからの学び」…Aさん

現在32歳になる次男の不登校をきっかけに親として悩んだこと、学んだこと、経験したことなどを書かせていただきます。

 息子の不登校は小学校4年の夏休み明けから数日後に突然始まりました。玄関で「学校に行きたくない」と泣きだしてしまったのです。上の子達はとっくに出かけていてなんだかグズグズしているな〜と思っていた所だったので取り敢えずその日は休ませて様子を見ることにしましたが、結果的にその後息子が学校に戻ることはありませんでした。たまに行くことはありましたし、卒業式も参加しましたが息子が学校で勉強したのは小学校4年の1学期までです。
 中学校も本人はなんとか通いたいと思ったのか、5月までは通い続けました、しかし自分から「学校辞める」と宣言して行かなくなりました。本人が言うには「1時間ごとに授業が変わって集中できないし、休みの時間も色々やることがあるしすごくストレスが溜まる」という事でした。
それまでもいろいろ見てきた私としては、本当に学校は合わない子だったんだなと思い「分かった」としか言えませんでした。
自分で「学校辞める」宣言をしたとは言え、学校に行かないことで自分の将来がどうなってしまうのか、12歳には重すぎる決断だったと思います。それからしばらくは欝状態でお風呂もはいらず、あまり食欲もなく、何もしたくない日々が続いていました。その後は御多分に漏れず昼夜逆転の生活になって夜にひたすらゲームをする生活になって行きました。父親はそれが許せずにゲームをしている息子を怒鳴りつけ息子と喧嘩になります。
そんな生活の中で「起きているときは不安でしょうがないからゲームで気を紛らせるしかないのに、どうしろって言うんだ!」と私に不満をぶつけてきました。「その気持ちを直接お父さんに言ってごらん」とだけ言いました。その後父親は何も言わなくなったので多分自分で言ったのだと思います。

【この頃の経験から学んだ事】
○子供の言うことを受け止める。
アドバイスもまして否定的な事などは言ずにただ話を聴く。これは簡単にはできないことですが、一番身近にいる家族だからこそやらなければならないことだと思います。息子が小学生の頃、何か話しかけてきた時にアドバイスのような事を言ってしまい「そんな事が聞きたくて話したんじゃない!!」と返されてその後一番気をつけていたことです。今になって思えば気づかせてくれてありがとう、と言いたいですね。
○生活の中でのコミュニケーションを大事に。
昼夜逆転していても気にかけていることが伝わるように、だが余計なお世話にならないように。
こうなると何を話せばいいのかわからなくなりますよね。夕方に起きてきたら「よく寝むれた?」
「ご飯出来ているよ」「明日出かけるから」等などその他帰ってきて顔を合わせたら「桜咲いていた」「猫がいた(息子猫好き)」本当に日常のことでいいのです。家族の一員として認めていることが伝わるのが大事だと思います。出かけるときにはメモを残したりもしていました。
○逆に言ってはいけない事。
「いつまでそんな事しているんだ」「何考えているんだ(話せるなら話しています)」「昼間動けばちゃんと眠れる(夫が息子によく言っていました)」「学校に行かないとろくな人間にならない」これらの事を言われたらおそらく貝のようにカラを閉じてしまうでしょう。親が敵に認定されると誰も見方がいない状態になり、ますます出てこなくなります。
○不登校で罪悪感を持って欲しくない。
息子の不登校で親も将来どうなってしまうのだろうとどん底に落とされた気分になります。そんな時に親が不安になっているとますます子供の不安も大きくなってしまいます。息子が不登校になった頃不登校で罪悪感は持って欲しくない、と周りにも隠すことなく学校に行っていないと言っていました。私が用事で出かける時にも連れて行きました。幸いなことに皆さん好意的に受け止めていただいて息子は「学校は無理して行く所じゃないよ、行かなくてもいっぱい勉強するところはあるからね」と言ってもらったりしていました。良い人に恵まれていたと感謝です。最初の頃は家の周りは出たがらなかったし、出かけるのは車で小学生を見ると隠れたりしていました。だんだん出かける先で「不登校は悪くない」と言われるにつれ、高学年の頃には自分でも聞かれたら「不登校しています」と言うようになっていました。
○一番不安なのは本人。
親は不登校になった子どもを見て将来どうなってしまうのか、引きこもってしまったらどうしよう等と心配はしますが、本人がどのような気持ちでいるのかまではなかなか考えられないものです。
親の不安は誰のための不安なのでしょう。みんなと同じ道を進めなくなって自分の居るべき所が分からない子供の不安を心に留めておきたいものです。

【育て難い子】
親から見て次男は育て難い子でした。
こだわりが強い、何かをはじめると途中でやめたくない、自分の思い通りにならないと癇癪を起こす。
長女、長男が割と素直に言う事を聞く子供達だったので、大変だという思いは余計に強かったように思います。その反面、上に子供たちにはない発想の豊かさがありました。次男が面白い遊びを始めてそれを3人で色々発展させて遊ぶという事が良くありました。持続力も並外れていたのとこだわりが強かったので自分で決めたところまで出来ないと悔し泣きをしていました。一日同じことを続けるということもあったので、学校のように細切れで言われた通りにやることは苦痛だったのでしょう。育てづらいということは自分のこだわりが強いと言う事で、これを無理に周りに合わせるのは息子にとってストレスでしかないと感じたのと、親として出来ることは見守ることぐらいだろうと半分諦めのような心境でした。
思い起こせば私の兄も子供の頃大変な思いをしたと母に聞いていたので、似ているかもしれないと思うところはありました。昔なので不登校にはなりませんでしたが、一番遅く学校に来て一番早く帰ると有名でした。成績も1から5まで有るというデコボコで高校進学も危ぶまれたそうです。でも、兄は変わり者で通ってはいましたが好きなことで身を立てていたし、社会人になってから必要に迫られて大学にも行っていたので息子も大丈夫かも知れないとどこかで思うことができました。
その兄が大人になってから言っていたことで印象的なことが有ります。「小学校1年生の頃(みんなと違う行動をすることで)先生に怒られてばかりで本当に辛かった、2年生になって先生が変わったことですごく楽になった」先生の接し方でそんなに変わるということは、親も接し方で子供に苦痛を与えたり、安心を与えたりするという事なのかもしれません、本人はなぜ怒られるのかは分かっていないのですからいくら怒られても直しようは無かったのだと思います。幸いなことに実家は酪農家だったので色々なものがあり時間があると兄はいろいろ作っていました。風車を作って発電させ壁に穴を開けて電気コードを通して父と大喧嘩になったこともありましたが、自由にいろいろできる環境はとても良かったのかもしれないと思うのです。

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ここからは息子が少しずつ動き出した頃の事を書いて行きます。
18歳の頃だったと思います、突然原付の免許を取りたいと言いだしました。私は「車の免許を取れば原付も乗れるからどうせなら車の免許を取ってしまったら?」と言ったのですが「今は車の免許は必要ないから原付だけで良い」と原付の教本を一冊買ってきて読んでいたようです。時々わからないところを聞きに来ましたが問題集を解いてみることもなく免許センターに行きました。今回はダメかもしれないと思った私の気持ちを見通したかのようにお昼頃に電話がかかってきました「筆記は受かったから午後の実技教習を受けてから帰る」こうしてめでたく免許をもらって帰ってきました。原付の免許を取るということは息子にとって自分の行動範囲を広げるための第一歩だったのです。それまではどこかに行く時は私に車を出してもらう事が多かったので、どうしても一人で出かけるとなると公共の交通機関に乗ることになります。これが引きこもり生活をしている息子にはとてもハードルに高いものだったようです。「周りから見られているような気がする」と言っていました。
(こんな時気のせいだよ等と言ってはいけません)そこで原付なら一人で出かけられるし、車のように駐車場の心配もいらないと考えたようです。実際に原付に乗るようになってあちらこちら一人で出かけるようになりました。
しばらくして「どこか勉強できるところないかな?」と言ってきました。どんな勉強をしたいのか、聞いてみると「ずっと学校に行かなかったから自分の立ち位置が知りたい」そんなようなことを言われたと思います。そこで知り合いの高卒認定資格を取れる所とワンツーマンで英語を教えてくれる所を紹介しました。息子は高卒認定は別に要らないし、英語はやったことがないから勉強してみたいと、週1で個別の英語教室に通うことにしました。もちろん通うのは原付でです。そこは息子の事情も知っていたし、本当に一から教えてくれたようです。時々休みつつも1年間通い、本人がもう良いかなと思ったところでやめました。先生にはせっかくだからと英検やTOEICのテストを受けてみないかと言われたのですが「別に必要ないから」という理由で受けませんでした。
その次に息子が言ってきた事は「どこか中卒でもバイトできる所無いかな」、そこで紹介したのはボランティアで来ていた人が教えてくれた選挙管理委員会のアルバイトでした。紹介といっても電話番号を教えただけで、そこにアルバイトないか聞いたみたらと言っただけです。その後自分で電話して面接の日程など決めたようで、履歴書の書き方を聞いてきました。面接といっても履歴書を受け取って仕事の内容とか話しただけのようで、行けば採用されるような感じです。
選管ですから選挙の時だけ集中してやるバイトだったので良かったのかもしれません。その後も選挙の前になると電話が来てアルバイトに出かけて行きました。息子がアルバイトをしようとした理由はおそらく自分がやっている事にお金がかかるからだったと思います。道具にしてもやはり高い物の方が使い勝手が良いし、親からの小遣い(月1万)だけでは買えないものもあったと思います。アルバイト代でいろいろ道具も買い揃えて自分が熱中している物創りにのめり込んで行きました。

【必要だと思う事をやる】
動き出してから息子が貫いていたのは自分が必要だと思う事をやるという事でした。資格があったほうがいいからとか、取っておいたほうが将来役に立つかも知れないということは一切気にせず、今自分が必要だと思うこと、今やりたいと思うことだけをやっていたように思います。親も口出しするような隙はなかったのです。

【余計な口出しをしない】
この頃はいろいろな事を聞いてきました。動き出したことで親もついつい余計な事を言ってしまいそうになりますが、聞かれた事に答えるだけにとどめるように心がけました。失敗したとしても自分で決めたことなので自分で解決していってこそ、そこから学ぶ事が出来るのです。

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ここからは息子がプロとして仕事を始めるようになるまでの事ですが、親はほとんど関わっていないし、いちいち聞くこともなかったので分からないことのほうが多いです。
アルバイトである程度お金を貯めつつ息子はフィギュアの原型師への道を目指していたようです。
ネットでいろんな情報を集められるし、発信もできる事が幸いしたと思うのですがいろいろな繋がりが出来て行ったようです。道具を持って集まり(多分同じ趣味の勉強会)に出かけて行ったり、自分のブログに尊敬しているプロの人が書き込みしてくれた、と嬉しそうに話してくれたりとだんだんと自分の世界を広げていっているのを感じました。息子自身がいろいろな人に助けられながらやっていたのだろうとは思っていました。ある時大きなイベントに出店すると言う事で荷造りは手伝いました。そのイベントは出店はしてもほとんどが売れ残って会場から荷物を送り返すのが大部分だと聞いていました。がっかりして帰ってくるんだろうなと思っていたところ昼頃に「全部売れたよ」と電話がありました。滅多に電話などしないのに、こちらの気持ちを読んでいたようです。ブログで発信していたことが功を奏したのか数社の取材もあり、雑誌に掲載してくれたところもありました。親ばかでその雑誌は買ってきました。今見るとやはりまだ素人の作品です。そこからどのように進んで仕事につながったのかも知らないのですが、仕事の発注先は東京だったので日帰りで打ち合わせに行ったりもしていました。初めて売り出された作品と販促ポスターは見せてもらいましたが、その後の作品は見ていません。ブログも検索すればすぐに分かると思いますが、一度も見たことはありません。息子はもう彼の世界を作り上げているので親がその世界を覗き込むの必要はないと思うからです。

【短所か長所か】
フィギュア制作となると細かい作業が多く、手先が器用だと思われることが多いのですが、息子ははっきり言って不器用な方です。子供の頃から折り紙も下手、工作も苦手でしょっちゅう癇癪を起こしていました。それでも始めたら下手でも諦めずにやり続ける根気はありました。自分で納得できるまで泣きながらでもやり続けるのです。「不器用」「こだわりが強い」「始めると周りが見えなくなる」「切り替えができない」これらの事は社会人としてやっていくにはマイナスになるかもしれないのですが、物作りをするにはプラスになったのだと息子を見ていて感じました。

【不安の中で】
ここまで書いてみると学校に行かなかったとは言え順調に来たように見えるかもしれませんが、学校に行けなくなった息子をそばで見ていることは決して楽なことではありませんでした。当時いじめからの自殺がニュースになっていた事もあり(今でもありますが)、生きていてくれるだけで良いと言い聞かせていました。もちろん将来に対する不安もありました。しかし前記のように一番不安なのは本人、苦しいのも本人、親は変わってやることはできない。出来ることは息子を信じて邪魔をしないことだけでした。

以上、不登校した息子の成長とそこからの親の学びを書かせていただきました。






2.「Fの自立するまでの道のり」…Bさん


Fがアスペルガー症候群と診断されたのが、小学3年生の頃でしょうか。一人で学校へ行けなくて、会話は一方通行で自分の興味のある話しかしないし、当然友達もできないような子でした。
 診断されても治療法が無いので、まずFを自立させるにはどうしたら良いのかを考えました。本人には小学4〜5年生の頃に告知し、自分の苦手なところを自覚させました。アスペルガー症候群は勉強ができる子が多いと聞いていましたが、うちの子は残念ながら勉強は不得意な方でした。なので、高校受験は失敗し通信制高校に入学しました。
 高校に入学してからは、定期代や携帯電話代を含めたお小遣いを本人に渡し、お小遣いの管理は本人にさせました。専門学校に入学した時も同様にお小遣いの管理をさせていました。友達付き合いの無い子でしたので、そんなにお小遣いが減らなかったようです。
 専門学校在学中に周りの子と同じように就職活動しましたが、就職できずそのまま卒業しました。
 卒業後、就職浪人することになりましたが、将来自立した生活が送れるように、掃除・洗濯・食事の作り方を教えて、就職活動している間は家事をするよう約束しました。もちろん就職が決まればそれらはやらなくても良いことも約束しました。
 Fは、教えた通り家事をやっていましたが、いつまでもやりたくなかったのか、派遣会社のインターシップ制度を利用してIT関連企業で半年間働いていました。
 インターシップ終了後、家事をしながら毎日ハローワークに通っていたようです。
 本人の中では東京で就職したいという思いが強かったようなので、「県外就活は交通費や宿泊代が掛かるよ。」と伝え、インターシップで得たお金で就職活動をしてました。(交通手段は高速バスを利用してた)
 書類選考や面接で何社落とされたことでしょう。でも、東京で働きたいという思いが強かったので、粘り強くトライしてました。
 インターシップ制度で得たお金が底を着き始めた時、今勤めている企業にご縁があり、内定を頂くことになりました。
 そこの企業は発達障害に理解のある企業で、たまたま一般枠でハローワークの求人にあったそうです。
 東京に行き2か月間会社の寮に住んでいましたが、そこは3か月間しか住めない為、会社の先輩に聞きながら休みの日に不動産通いをしてたそうです。私は会社を休めない状況だったので、アパート探しは本人に任せていました。アパートの家賃も給料の中で支払える範囲でいくら位とのアドバイスはしていました。たまたま、良い不動産屋さんに巡り合い良い物件を紹介してくれたそうです。自分で契約して引っ越し手続きも不動産屋さんに教えてもらいながら行いました。
 今は、少ない給料で節約しながら生活を送っていますが、大好きな東京で一人暮らしを満喫しているようです。
 仕事の方は主に製造関係をしていて、分からない事があるとリーダーと呼ばれる人が教えてくれるそうです。周りはFと同じような特徴を持ってる人が居るので安心できるそうです。
 
 Fを自立させるまで親として、いろいろ不安や焦りがあって、あれしなさいこれしないといろいろ言ってきましたが、結局は本人が「こうしたい!こうしなくちゃ!」という思いがなければ動かないんだということが分かりました。
 私は振り返ってみると、道具の使い方を教えて、獲物は自分で捕えさせるというやり方で、Fに接してきたように思います。もう少し優しく接してあげれば良かったと反省してますが、もしいろんな事があって地元に帰ることがあっても、Fの居場所は確保してあげようと思っています。

 最後まで読んでくれてありがとうございました。

2016.4月記す

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