2023 年6月 埼人教総会・学習会で講演していただいた「健二さん」との出会いを受け 、実践や研修が埼玉の地で一つずつ広がることを願い、このページを開設しています。
機関誌NO.434
全人教広報誌・月刊同和教育「であい」にハンセン病裁判全国原告団及び家族訴訟原告団に関わってきた堅山 勲さんが寄稿した「ハンセン病家族訴訟の最前線から~あなたへ~」を紹介します。(2019年6月号より)
「ハンセン病家族訴訟の最前線から~あなたへ~」 ハンセン病裁判全国原告団協議会事務局長・ハンセン病家族訴訟原告団顧問 竪山 勲
らい予防法という天下の悪法が廃止されて、今年で23年目を迎える。当時の厚生労働大臣が菅直人氏だった。全療協の代表らを前にして「らい予防法の廃止が遅れたことをお詫びします」ということであった。その後、厚生労働省から法律の専門家というT技官が敬愛園へもやって来て、らい予防法の廃止について自治会に報告した。T技官の話では、「らい予防法を廃止する。理由は現代の医学的知見に照らしても、もはや、らい予防法は不要である」といった。「現代の医学的知見」なんとも、煌びやかな言葉であった。 ハンセン病療養所の入所者にとっては、「現代の医学的知見」等という言葉は、聞いたことも無い。その言葉だけで涙が出そうなぐらい、嬉しい言葉だった。我々、ハンセン病を病んだ者たちの療養所で、「医学科学」という言葉があったであろうか。治癒判定基準すらない、ハンセン病であった。従って、病気が「治癒」したとしても、医師は「病気が落ち着いている」と言った。退所した者もいたが、「軽快退所」と呼ばれていた。決して「治癒退所」ではない。 我々ハンセン病元患者らが強制隔離されたのは「国辱論」や「民族浄化論」であり「社会防衛論」という一医学科学」とは遠くかけ離れた「論」による強制隔離絶滅政策であった。
そのようなハンセン病療養所の入所者たちにとって、入所して以来、初めて聞いた言葉が、「現代の医学的知見」という言葉である。やっと私たちも医学科学の光が当てられた!実に嬉しい言葉であったのである。自治会長を始め各常任委員たちもただ領くだけで、喜びをかみしめているようであった。ちょっと待てよ。私は、T技官に「今あなたは、現代の医学的知見に照らし合わせても、もはや、らい予防法は必要ないと言ったが、その現代の医学的知見の現代とは何時からと云うことですか」と尋ねた。T技官は応えなかった。甘い言葉に騙されるところであった。そうであろう、答えられるわけがない。現代の医学的知見の現代を、「○○○○年から」と答えたら、賠償補償の対象になる。どんなことがあっても答えられなかったのである。 私は、らい予防法の廃止に際し、これだけ大きな人権侵害を引き起こした法律であるから、当然のことながら国は何らかの賠償補償をするであろうと思っていた。ところが、唯「法律の廃止が遅れたことをお詫び申し上げます」ということで幕引きをしようとした。
納得できない私は、同じように、らい予防法の廃止に際し、このような法廃止で納得できないとする、荒田重雄氏(田中民一)と島比呂志氏(岸上乗)等と敬愛園の原告9名、熊本の菊池恵楓園の原出口4名とで、あの「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」を提起したのである。1998年のことだった。 裁判は既にご承知のように、我々原告側が2001年に完全勝訴を勝ち取り、控訴断念をも勝ち取った。
その裁判を始めた当初、私の所にあるご夫婦が訪ねてこられた。敬愛園の面会人宿泊所でお会いした私に「竪山さん、皆さんが提起されている裁判はTV・ラジオ等でよく知っています。今日はあなたにお会いし、話したいことがあります」。挨拶を交わす間もなくご主人が話し始められた。 「私たち夫婦は未感染児童と呼ばれたものです」と語り始めた。末感染児童とは、ハンセン病患者である保護者が収容されたために、行く当てのない子を「未感染児童」として療養所内の保育所に収容して養育された者たちのことである。その未感染児童同士が中学卒業と同時に社会に出て、大人になり、結婚をした。「私たちは未感染児童同士で結婚したからよかった。私たちの友人は、未感染児童であったということがご主人に分かってしまい、離婚させられました。そのことを苦にし友人は、自ら命を絶ちました。堅山さん皆さんたちだけが、らい予防法の被害者ではないのです。らい予防法により、親を奪われた家族らも、また被害者なのです」。その言葉を、私は片時も忘れることはなかった。どうにかして、家族の皆さんの裁判をしなければならない。しかし、2003年に結成された「れんげ草の会」という家族・遺族の会は、裁判をしたいというものと、裁判はしたくないというものとが、真っ二つに分かれているという状況があった。被害の実態を知っている弁護士も私も、「いつの日かは・・・」そう思いながら時の来る日を待った。
2016年2月15日、やっとその日が来た。熊本地裁に対しハンセン病家族訴訟を提起したのである。私は、原告団の結成式で、家族訴訟が遅れたことをお詫びした。しかし、今やっと機が熱したと語った。ハンセン病家族の被害は、国のらい予防法の隔離被害によるものである。 当然のことながら、国の責、地方自治体の責、政界・医学界・宗教界・マスコミ・教育界、更には市民の責任が問われている。その顕著な事件として龍田寮事件というのがあった。熊本の菊池恵楓園に父母が入所している、いわゆる未感染児童と呼ばれた子らに対して、黒髪小学校への通学を拒否するという事件である。この加害者は一体、誰であっただろうか。それは、当時の黒髪校の保護者たちであった。善良なる市民が、国の違憲な法律により加害者になってしまったのである。らい予防法という法律が、偏見を作り出し、助長してきた。ハンセン病に対する正しい啓発が行われていたなら、起こらなかったはずの事件である。 この家族訴訟が提起された後に、ハンセン病家族であったということで離婚させられた事実がある。未だにハンセン病に対する偏見・差別が生きているということに他ならない。
さて、市民としてあなたはどうであろうか。あなたもまた、らい予防法の下では加害者の側に立たされていた一人である。ハンセン病問題は、決して他人事ではない。らい予防法の下、患者や家族らを共生の場から追いやったのは、市民一人ひとりであった。黒髪小学校でハンセン病患者の子どもたちの登校を拒否した保護者だけが責められる問題ではない。 家族訴訟の原告らは、原告番号でこの裁判を闘っている。原告らは、顔や実名が分かったらどのようなことになるかを、みんなが恐れているからである。家族原告らが恐れている目の中に映っているのは「あなた」なのです。
国立感染症研究所HPでは、 「感染症法の前文には「我が国にお いては、過去にハンセン病、後天性免疫不全症候群等の感染症の患者等に対するいわれのない差別や偏見が存在したという事実を重く受け止め、これを教訓とし
て今後に生かすことが必要である。」と記載されている。ハンセン病は社会との関係を抜きにしてはこの疾患の本質を理解することはできない。」と記している。
問われるのは私たち一人一人である。
7月21日より27日まで埼玉深谷シネマで上映した「かづゑ的」 紹介します。
宮﨑かづゑさんは10歳で入所してから約80年、ずっとこの島で生きてきた。病気の影響で手の指や足を切断、視力もほとんど残っていない。それでも、買い物や料理など周囲の手を借りながらも自分で行う。「本当のらい患者の感情、飾っていない患者生活を残したいんです。らいだけに負けてなんかいませんよ」と力強く語るかづゑさん。ハンセン病復者宮崎かづゑさんにカメラを向けたドキュメンタリー映画です。
監督熊谷博子さんのメッセージ 10歳からハンセン病療養所で生活している、という人に。その日々の暮らしを描いた著書「長い道」を会う前に読み、大変心をうたれました。かづゑさんの部屋で話しながら、この人生を撮って残しておかねばと心に決め、2016年から愛生園に通い始めました。それから8年間、私たちはカメラとマイクを携えて、かづゑさんの人生に伴走することになりました。この映画はハンセン病を背景にしていますが、決してハンセン病だけの映画ではありません。人間にとって普遍的なことを描いたつもりです。
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