狭山の教育課題

石川一雄さんの無実を訴える狭山の闘いはすでに61年を迎えています。

下記の資料は、1974年の埼玉県教育委員会同和教育課発行「私たちの同和問題」の中の一文です。石川一雄さんの生い立ちと当時の教育の実態から、「狭山の教育課題」とは何かが表現されています。紹介します。

わたしたちの同和問題 埼玉県教育局同和教育課発行  1974( 昭和49)年3月30日発行より
教育をめぐって(狭山差別裁判から )  

昭和38年5月、埼玉県狭山市で女子高校生殺人事件が起こりました。その後、犯人とされて被差別部落出身の石川一雄青年が逮捕されました。彼は一審の浦和地裁で死刑を宣告され、現在、東京高裁で審理中の事件です。この事件は部落差別の深刻さと重大な課題を数多く提起しております。わたしたちは、この事件から部落差別について学び、学校教育を中心とした同和教育の課題について考えてみましょう。

1、学籍簿が保管されていない。

 この一事をみても、憲法や教育基本法の精神が義務教育のなかで空洞化されていることがわかります。人間の尊厳とか、人権とはどういうことなのでしょう。

2、小学校の欠席日数が延べ五百数十日である。

 事件発生後のいろいろな調査から、小学校における彼の欠席日数が五百数十日もあることが判明しました。登校すべき日数の3分の1以上が欠席のまま放置されていたのです。逮捕されてからの彼は弁護士の役割さえ理解できず不信と疑いをもち、その弁護活動も十分受けることすらできませんでした。このように学校教育の場においても部落差別が放置されてきたことが、石川青年を獄舎につなぐことになったのです。差別を許すことは、人間の生き死ににつながるのです。狭山事件は、教育の根本にかかわる問題として、きびしく問われているのです。

3、就職の自由がなかった。

 教育の機会均等を奪われた彼は、農家の手伝い、日雇い、臨時雇い等の職を転々としていました。教育の機会均等が保障されないということは、安定した職業からしめだされるということです。このことは「部落差別の本質は、主要な生産関係から除外されることである」という昔も今も変わらない部落差別そのものです。

4、獄中での学習が人間をかえた。

 獄舎につながれ10余年、多くの障害のなかで学習し、素晴しく彼は成長しました。いま、彼の書く文章は社会人の水準をはるかに超えるものです。読み書きも十分できなかった彼が、解放への自覚と努力によって飛躍的に成長したのです。

もし、彼を教えた教師が同和教育をすすめていたなら、彼の可能性に気づき差別を許さない教育を推進する姿勢があったら…・教育とは何か、人権とは何か、すべての教師がこの事件から学び、反省しなければなりません。

目の前の子に最低限の教育保障、学習保障が「狭山の教育課題」と言われることです。

狭山第3次再審が開始されるよう石川一雄さんは闘っています。多くの人が無実の石川さんにかけられた見えない手錠を外すために支援をしています。狭山事件の詳しい情報は こちらを 参照ください。