大  和  不  退  寺  多  宝  塔  残  欠

大和不退寺多宝塔残欠

大和不退寺多宝塔絵図

大和名所圖會 寛政3年(1791)刊 より

大和不退寺:左図拡大図
 現在、多宝塔は明治初頭に上重を失うも、鎌倉中期多宝塔の遺構として貴重なものである。
斗栱は三枓出組、柱頭部には頭貫を打ち、大仏様の木鼻を用いる。中備の蛙股は鎌倉期蟇股の典型を示す。

※西大寺蔵「不退寺伽藍図」には高さ4丈5尺(13.6m)とあると云う。
 但し、若干の換算が必要と思われる。(下掲載の「不退寺多宝塔復元考」参照)

延宝3年版「南都名所集」(1675)より:不退寺多宝塔

不退寺伽藍図:明治初頭のものとされる
 不退寺伽藍図
「大和名所圖會」に酷似する、おそらくは「大和名所圖會」を模倣したものと思われる。
2010/02/01追加:下掲のように、明治5年には多宝塔は上重をまだ具備している。


大和不退寺多宝塔古写真

2013/02/09追加:
壬申(明治5年)検査ステレオ写真(重文・国立国会図書館蔵)
  「不退寺舎利塔」のタイトルの不退寺多宝塔写真がある。

明治5年の壬申検査で撮影。
上下重および相輪の揃った不退寺多宝塔のおそらく唯一の写真であろう。

明治5年不退寺多宝塔1
 ステレオ写真全図

明治5年不退寺多宝塔2:左図拡大図
 ステレオ写真左図:多宝塔全図

明治5年不退寺多宝塔3
 ステレオ写真左図部分図:多宝塔上重細部

明治5年不退寺多宝塔4
 ステレオ写真左図部分図:多宝塔下部細部
 特徴的な中央間中備の蟇股が見て取れる。

2010/02/01追加:
壬申(明治5年)検査ステレオ写真ガラス原板(重文・江戸東京博物館蔵)
  不退寺多宝塔写真がある。

「東京都江戸東京博物館資料目録 ガラス原板1」
 2006 より

明治5年不退寺多宝塔:左図元版

この写真は明治5年の撮影であり、この時には上重が写る。
この写真は、不退寺多宝塔の、上重があり多宝塔の原型をとどめる、おそらく唯一の写真であろう。

明治5年撮影とだけある。
(「蜷川式胤奈良の筋道 / [蜷川式胤原著] 」米崎清実、中央公論美術出版、 2005.2 では壬申検査の一行の日程は以下のように記録される。
 『東大寺・手向山は8月11・12日、東大寺正倉院は8月13〜20日、春日明神は8月20・21日、興福寺は8月24日、般若寺・桂離宮は8月25日、法隆寺は年8月26・27・28日、法起寺・龍田本宮及び龍田新宮は8月28日、信貴山は8月29日 』とある。
 したがって、この写真の撮影月日は明治5年8月であることは確実であろう。)

 

2005/04/0追加:
「日本社寺大観/寺院篇」京都日出新聞社編、昭和8年(1933) より
 不退寺多宝塔:昭和初頭以前の姿と思われる。 既に上重は失われ、荒廃した多宝塔の姿が写る。

2013/02/09追加:
「南都十大寺大鏡. 第23輯」東京美術学校、大塚巧芸社、昭和8-9 より
 不退寺多宝塔2:上の写真とほぼ同一であるが、本写真の方が鮮明。時期も同一であろう。
中備の蟇股、大仏様の木鼻などの特長は現在も健在である。


大和不退寺多宝塔残欠

  桟瓦葺宝形造 鎌倉中期 重文

2000/12/03撮影:
大和不退寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
2005/12/11撮影:
大和不退寺多宝塔残欠1
  同           2
  同           3
  同           4
  同           5
  同           6:左図拡大図
  同           7
  同           8
  同           9
  同          10
  同          11

現在は、下重のみで上重と相輪を欠く。
建立当初檜皮葺の二層構造であったことは『不退寺伽藍図』や『大和名所図会』、「明治5年壬申検査写真(屋根は瓦葺)」からわかる。
内部の壁板には真言八祖が彩色されているが、剥落が激しい。
昭和9年の解体修理時に発見された飛檐垂木墨書によると、多宝塔には安浪(快慶)作の千体地蔵が安置されていたと云う。
当寺最古の建造物で、5月28日の業平忌には開扉されるという。

2017/02/19撮影:

不退寺多宝塔残欠11:左図拡大図
不退寺多宝塔残欠12
不退寺多宝塔残欠13
不退寺多宝塔残欠14
不退寺多宝塔残欠15
不退寺多宝塔残欠16
不退寺多宝塔残欠17
不退寺多宝塔残欠18:正面
不退寺多宝塔残欠19:正面
不退寺多宝塔残欠20:正面
不退寺多宝塔残欠21:正面
不退寺多宝塔残欠22:正面
不退寺多宝塔残欠23:南面
不退寺多宝塔残欠24
不退寺多宝塔残欠25:裏面
不退寺多宝塔残欠26:裏面
不退寺多宝塔残欠27
不退寺多宝塔残欠28:北面
不退寺多宝塔残欠29:北面
不退寺多宝塔残欠30:北面

2009/03/15追加:
「不退寺多宝塔復元考」福井堅二(「大和志 第3巻第12号」昭和11年 所収)

現存建造物は様式上から見て、明らかに鎌倉中期を下らざるものと思惟する。(昭和9年発見された南大門の正和6年[(1317)]棟札もこの見解を補強する。)
現在建造物には、上重円胴部を構成する八角受盤及び心柱受盤、上重柱の一部、尾垂木が残存する。
 不退寺多宝塔細部1
 不退寺多宝塔細部2:何れの写真にも上重円胴部の八角受盤及び心柱受盤、上重柱の一部、尾垂木(転用)の残存が見て取れる。
・八角受盤及び心礎受盤:
 上重受盤実測図:上重円胴部の十二本の柱(この柱は干子柱と云う)の配置の痕跡が明らかに残る。
これによって円胴部の直径は5尺2寸(1.6m)を示す。さらにこの痕跡から干子柱の径は6寸(18cm)、心柱の径は9寸(27cm)と判明。
・上重柱:
小屋組内には上重柱5本が残り、何れも短く切り使いされていた。これ等は屋根の宝珠路盤を支持する束と四天柱が野隅木束に転用されていた。これ等の直径は上重受盤の痕跡の径と一致する、6寸であった。
 上重柱の内の1本の実測図:羽目板を嵌める溝及び長押を打った痕跡があり、さらに風化の部分から廻縁から柱上端は2尺1寸(64cm)と判明した。
・尾垂木:
2本が転用され、それは屋根露盤の受束として使用されていた。そしてそれには斗栱の痕跡が残り、これから斗栱を復原することが可能であった。
 尾垂木復原図: 上に掲載の不退寺多宝塔細部2の左側尾垂木の復原図である。こ の尾垂木に残る尾垂木と丸桁の交差角は69度であり、この角度からこの尾垂木は鳥跡尾垂木であることが分かる。
  (多宝塔の一般的上重軒下構造から、鳥跡尾垂木と丸桁の交差角は70度前後と計算される。)
さらに斗栱の痕跡から斗栱の復原が可能で、この図には推定復原した斗栱をも示す。
・不退寺多宝塔実測寸法:
下重一辺10.28尺、下重軒幅19.76尺、下重軒高11.00尺、上重径5.20尺
 ※下重一辺10.28尺は慈眼院塔(鎌倉、8.88尺)より大であるが、小形塔であり、吉田寺塔(室町、10.30尺)に匹敵する。
総高については推定する他はないが、鎌倉期の多宝塔の各要素の比例の平均地から算出すれば、38尺2寸となる。
 ※「不退寺伽藍図」(大和西大寺蔵、寛政9年)には「多宝塔 桧皮葺丈間四方高さ4丈5尺」とあると云う。
  平面寸法で丈間とは、10尺2寸8分とすると、高さ4丈5尺は45尺2寸8分(13.7m)となる。

不退寺概要

「大和國金龍山不退寺縁起」:仁明天皇勅願で在原業平の建立<承和14年(847)>とする。金龍山不退転法輪寺と号す。
治承4年(1180)平重衡、南都焼討により伽藍焼失、大和西大寺叡尊によって再興される。
中世には大和15大寺の一つに数えられる。
その後中世から近世には大和西大寺及び興福寺一乗院の2寺の支配を受ける。
慶長7年(1602)朱印50石、江戸中期には浄名院・不動院・長老坊が廃絶し、江戸後期には無住となり衰微する。
 (明治5年の壬申検査写真には上重を備えた多宝塔が存在する。)
明治6年から大正12年まで無住、西大寺塔頭住職が兼務する。真言律宗。
  2013/03/11追加:

○「明治十二年七月調 大和国添上郡寺院明細帳」 より
 添上郡法蓮寺村元不退寺村/本寺西大寺末/真言律宗 不退寺
本尊 聖観世音菩薩
由緒 ・・・
本堂 7間×5間  庫裏 8間×5間3尺  玄関 2間×1間3尺  廊下 3間×4尺  四足門 2間×1間3尺  境内 960坪
境内仏堂 一宇
 多宝塔 本尊 地蔵菩薩/・・・/仏堂 方1間3尺

昭和5年本堂解体修理、昭和9年多宝塔・南大門解体修理。

○本堂(重文、鎌倉後期)は5間×4間単層寄棟造り本瓦葺。
2000/12/03撮影:大和不退寺本堂
2005/12/11撮影:大和不退寺本堂2
2017/02/19撮影:
 不退寺本堂11     不退寺本堂12     不退寺本堂13     不退寺本堂14

○南大門(重文):不退寺南大門上棟には鎌倉末期・正和6年(1317)という墨書銘が現存と云う。
2017/02/19撮影:
 不退寺南大門11    不退寺南大門12    不退寺南大門13    不退寺南大門14    不退寺南大門15

○庫裡
2017/02/19撮影:
 不退寺庫裡


2009/03/15以前作成:2017/02/28更新:ホームページ日本の塔婆