最近訪問した塔婆・ご提供画像(2005/12/11〜2006/04/09)

過去の訪問塔婆履歴

2006/04/07
「X」氏ご提供
武蔵西蓮寺寂光堂 東京都北区志茂4丁目:寂光堂の詳細不明。四角宝塔とでも云うべきか。
西蓮寺本尊は木造阿弥陀如来坐像(鎌倉初期)、毘沙門天像(室町期)、熊野三社権現像(熊野神社神体)、2末寺(廃寺・明治8年満願寺<現志茂3-38-5付近>地蔵院<現志茂4-40-3付近>を合併)の本尊を有する。また、11枚の板碑を有する。建立年代の判明するのは鎌倉期2基、室町期3基といい、最古の弘安9年(1286)板碑は廃満願寺から移設のものと云う。
※瑜伽山真福寺(真言宗智山派、等々力満願寺の末寺)に「寂光堂」と称するほぼ同型の四角宝塔が存在するようです(こちらも詳細は不明)。
武蔵薬研堀不動院 上重が八角の平面と思われる塔風の堂宇のようです。写真でみる限り、鉄筋コンクリート製と思われます。不動院は真言宗智山派(川崎大師東京別院というようです)で、いかにも関東新義真言の典型の 堂宇と思われます。俄かには信じられないが、本尊は覚鑁上人の自刻の尊像といい、天正13年、豊臣秀吉の根来寺攻めにより、根来大印僧都によってこの地にもたらされたものと伝える。(当院の創建)また順天堂始祖・佐藤泰然が和蘭医学塾を開いた地でもあり、順天堂発祥の地と云う。
現在はビルの谷間に埋もれているようですが、かつては広大な寺域を持つと云う。
2006/04/09
「X」氏ご提供
横浜孝道山仏舎利殿 仏舎利殿は二重塔形式を採る。写真で見る限る鉄筋コンクリート製であると思われます。(詳細不詳)
塔内には「仏舎利」と叡山ゆかりの「不滅の法燈」を祀るという。
孝道山は昭和11年に岡野正道によって開かれた天台法華宗の一派のようです。
推測:天台法華系ということであれば、この二層塔のプランは、勿論平面5間の天台大塔形式ではありませんが、平面3間の天台多宝塔形式?を意識したものとも思われます。
2006/04/08 山城黒谷三重塔1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同       7
  同       8
  同       9
  同     本堂
山城金戒光明寺三重塔
再訪
山城真如堂三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
山城真正極楽寺三重塔
再訪
2006/04/01 山城本法寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同    祖師堂
  同    仁王門
  同 摩利支天堂
  同    北辰殿
  同  妙見菩薩1
  同  妙見菩薩2
  同  妙見菩薩3
写真1〜4:多宝塔初重北側屋根の垂下状況:積雪あるいは暴風あるいは重量物の落下などの物理的な力ではなくて、おそらく桔木の腐朽・劣化があり、そのため桔木が 荷重により損傷したものと思われます。
摩利支天堂(写真摩利支天堂拝殿)の向かって右に北辰殿と称する小宇があり、ここに妙見大菩薩、鬼子母神、七面大天女、大黒天の4体が祀られている。 鬼子母神については、戦後の昭和時代には仁王門横に鬼子母神堂があり、現在この堂が退転しているならば(未確認)、この鬼子母神はかっての鬼子母神堂に祀られていた像とも思われます。
2006/03/25
「X」氏ご提供
丹波周山廃寺東堂跡
  同   東堂・塔跡
  同      塔跡
概要は「播磨・丹後・但馬・丹波・淡路の塔跡」の「丹波周山廃寺」の項を参照ください。
東堂跡には礎石を残す。東堂・塔跡写真のように、写真左上方が塔跡のようです。写真では塔跡に土壇が残るように見えますが、これは近年まであった学校施設の土壇で、廃寺の土壇ではないであろうとの見解です。おそらく塔跡は破壊もしくは施設建設のため土盛されたものと思われます。
2006/03/18 武蔵延命寺五重小塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
昭和9年(1929) 建立、高さ約8m、基壇はコンクリート基壇の半地下式で、納骨堂となっているようです。屋外に建つ木造塔ですが、建築というより、工芸品の部類と思われます。 木造のかなり精緻な造作と思われます。
青梅市小野其治氏の寄進(愛児の菩提のため)。工匠は志村福重、観音菩薩を祀る。
住吉山延命寺は臨済宗建長寺派、応安2年(1369)の創建と伝える。北方にある住吉社は開山季竜禅師が故郷である摂津住吉社を勧請したもので、山号住吉山はこのことに由来し、明治維新までは延命寺が管理したと云う。
武蔵応善寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5

昭和55年建立、おそらく素朴の伝統様の木造塔と思われます。(但し構造は不明)
総高約10mという情報あり。銅板葺き。鉄筋コンクリート製の2階建て本堂ビルの屋上に鐘楼などと共に建つ。
應善寺は真宗本願寺派、築地本願寺寺中58ヶ寺の一として江戸初頭に創建されたと思われる。
大正12年関東大震災でおそらく壊滅したものと思われ、それを契機に昭和5年に現地に移転と云う。

武蔵六所宮三重塔想定地
  同      鼓楼1
  同         2
六所大明神、武蔵惣社六所宮。
現在、鼓楼が残存する。この鼓楼は慶長年中徳川家康により、江戸開府記念として造営され、三重塔と相対して建立されたとされる。残念ながら、三重塔等は正保3年(1646)焼失し 、その後は再興されず、現在の鼓楼は嘉永7年(1854)再建という。
現在、三重塔跡を偲ぶものは何も残存しないようです。また仏教関係の遺物も殆ど無いようです。
(宝物殿内には仏像5躯が残されているようです。)
天正19年(1591)徳川家康より社領500石を寄進される。神社組織は神主猿渡氏を筆頭に、禰宜織田氏、社家(佐野・鹿嶋田・中善寺・田村)4家、社僧(天台宗惣行寺・明王院・円福寺・花光院・妙法寺・安楽院・泉蔵寺)7ヶ寺で構成された。神領500石は社地東側一帯であり、6割の319石が神主猿渡氏領で、残りを禰宜(1家)、4社家、7社僧、30名ほどの社役人で配分した。
正保3年社殿などを焼失、その後再興され、文化文政期には本社(寛文7年造営)・東照宮・本地堂・護摩堂などがあったとされる。
慶応4年7月に六所宮の仏像・仏器の取払い・社僧の還俗が強行される。これは地方での最も早い神仏分離の例とされる。寺領配分で象徴されるように、六所宮では神官が珍しく社僧の上位にあった由に、地方で最も初期に神仏分離が強行された例とされる。
なお府中市天台宗善明寺には、六所宮境内にあった鉄造阿弥陀如来坐像(建長2年銘・重文)及び鉄造阿弥陀如来立像が神仏分離により遷座していると云う。
明治4年以降、六社明神は大国魂神社という名称に改号する。国家神道に乗り、明治18年官幣小社となる。
また神社地は東一帯の京所とともに武蔵国府跡として想定されている(現在の定説のようです)。
下記の京所廃寺の項を参照。
写真;三重塔想定地は鼓楼に相対する地点で、三重塔があった地点だろうと推定しました。現在、宝物殿のある辺り。
  ※鉄仏:鉄造阿弥陀如来坐像:「武蔵名勝圖會」 所収、この鉄仏は、江戸期に黒鐘の地(現国分尼寺の地)から発掘されたとの伝承を持つ。明治維新までは六所宮に納められていたと云う。
 ※明治の神仏分離の進行については「神仏分離・廃仏毀釈の歴史経過」を参照。
武蔵京所廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
「日本古代地方寺院の成立」;寺跡は住宅密集地となるが、心礎が地区の墓地に現存。現状は近世の宝篋印塔型墓標の台石となっている。心礎は約1.6×1.5mのほぼ円形で、中央に長径61cmの丸みを帯びた六角形の穴が穿たれているという。出土瓦から8世紀初頭の創建とされる。また「多寺」の文字瓦が出土しているようです。
なお「日本の木造塔跡」では台石となり、上部破壊、心礎かどうかはやや疑問とする。
京所廃寺塔心礎平面・断面図」(「日本古代地方寺院の成立」より転載)
「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式、185×175×50cm、径70×23cmの円孔がある。神社墓地にあり。
※この台石が心礎である可能性は大と思われますが、出土地不明、由来不明、後世の上部破壊、後世の加工の加工性(六角の穴)の存在、塔基壇・塔関連遺物の未確認などの要素を考慮すれば、「心礎であるかどうかややや疑問」という見解が妥当と思われます。
京所地区は六所宮の東に位置し、近世は一貫して六所宮社領であった。この地区の中央に墓地があり、「この墓地は六所宮所有であり、氏子の墓地である」(墓参の方からの聞き取り)ようです。その墓地の南の一角に「神主さまの墓所」 (聞き取り)と云われる区画があり、神主とはおそらく神主猿渡氏と思われますが、宝篋印塔などが並ぶ墓所が形成されています。現在、珍妙にも入口に鳥居などが建てられてい ますが、それは国家神道による児戯であって、墓石は宝篋印塔であり、仏式である。
なお当地区では「多寺」「?磨寺」銘の平瓦・掘込み地業の基壇跡が検出され、寺院址である可能性は高いと思われます。
 京所概要図:「古代武蔵の国府・国分寺を掘る」より
黄色着色部が「神主墓地」で此処利心礎がある。緑の線内が一般墓地、掘込み地業の基壇跡は「神主墓地」に隣接する東側のようです。
武蔵国分寺 詳しくは「武蔵国分寺」のページを参照下さい。
武蔵勝呂廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
 同 掘立式建物遺構1
 同            2
この廃寺が紹介されたのは、「埼玉史談」第1巻第3号所収の「勝呂廃寺址」(在野の考古学者・林織善著、昭和5年刊)という論文であるという。勝呂村尋常高等小学校 (今は公民館のようです)の前庭で古瓦が多く採取され、玄関脇に「菅笠石」あるいは「鬼の捨て石」と呼ばれている石が心礎であろうと推定し、古代寺院の存在を指摘した。心礎は1.35×1.20mで、径40cmの円穴を穿つ。なお鉄製相輪の破片も発見され直径は60cmという。(この相輪破片の所在は未掌握です)
昭和54−58年の発掘調査で、基壇状の遺構(主要伽藍ではないとされる)、大構、堀立柱建物跡、多量の軒丸瓦などを発掘。ただし全容は必ずしも明らかではないようです。
心礎は勝呂小学校の校門脇に保存(旧地より移転)されているようです。写真で見る限り、残念ながら上面はひどく破壊されているようです。これ以外の詳しい情報は持ち合わせてはいません。
武蔵勝呂廃寺塔心礎「X」氏ご提供画像
「日本古代地方寺院の成立」:古瓦のほか、塔の相輪の破片や瓦塔などが出土し、相輪は8世紀前半の形態とされる。
2006/03/18:
「幻の塔を求めて西東」:心礎の大きさは140×100×50(見える高さ)cm、径36×5/6cmの円孔を穿つ、奈良後期、とする。
現在は勝呂小学校校庭のほぼ中央・掲揚ボールのある横に移されているようです。但し、勝呂廃寺の「心礎」としての認識があって移設されたとは思いますが、「心礎」として「敬意」が払われている状況にはないようです。
「心礎」はひどく破壊され、また後世の穿孔跡が目に付き、明らかに心礎と断定出来る心証に欠けるのが現状です。塔跡が未確認、寺院の伽藍配置も不明と思われ、心礎はどうかは不明とする外はないと思われます。相輪破片が出土と云うので塔はあったと思われ、だとすると、この石は心礎である可能性は高いとは思われます。現状、現地には「心礎」、建物遺構の外、特に寺院を偲ぶものはありません。
武蔵安楽寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
  同       13
  同       14
  同       15
  同      本堂
  同     仁王門
明暦2年(1656)建立。(現地説明板では寛永年中の建立とする。)
純然たる和様の手法でなる塔婆です。江戸初期の塔にも関わらず、関東の地では珍しく、装飾のない古風な意匠です。総高24。3m、一辺4.3m。銅板葺き。心柱は初重梁から立つ。初重内部には四天柱を建て、誕生釈迦如来像を安置。
吉見観音。板東三十三観音霊場の第11番札所。行基の創建と伝える。
中世には源範頼が本堂・塔を建立したと伝える。この堂塔は天文年中の兵乱で焼失という。
範頼建立塔は高さ16丈(48m)と伝える。
2006/03/17 武蔵豪徳寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同   八角宝塔
ほぼ完成と思われますが、初重にはビニールシートの覆があり、まだ内装の工事中と思われます。
また塔周囲の付帯工事も進行中です。いずれにしろ、完工は間近と思われます。

八角宝塔と思われる建物は堂名不明。形状も不明ながら六角宝塔とも思われる。

武蔵伝乗寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
世田谷区尾山台2丁目
木造、2005年3月完成、高さ約15mとの情報あり。名古屋中村建設施工。
松高山法生院伝乗寺と号する。文禄年間(1592−96)の創建と云う。浄土宗。
塔の構造は不明ですが、おそらく伝統工法による純木造塔と思われます。
全体の姿はやや近世風ですが、純和様を用いた白木・総檜の本格的塔婆です。
武蔵満願寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
平成2年(1991)建立。開帳日のみ拝観可能と云う。
木造檜造、総高16.7m。饅頭は金箔を張る。屋根は檜皮葺。大型塔に属すると思われる。
満願寺:致航山と号する。真言宗智山派。本尊は大日如来。文明2年(1470)世田谷城主吉良氏により創建。慶安元年(1648)朱印13石。不動堂(等々力不動と通称し、現在は満願寺別院と称する)が寺領内にあったようです。
武蔵慶元寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
平成5年(1993)建立。総高約16m。木造白木。基本的に和様を用いる。墓地の中に建つ。
世田谷区喜多見。浄土宗京都地恩院末、本尊阿弥陀如来坐像。
文治2年(1186)江戸太郎重長が父重継の菩提を弔うため、江戸城紅葉山に天台宗岩戸山大沢院東福寺を開山する。室町中期、大田道灌の江戸築城で江戸氏が喜多見に移った時、寺もこの地に移る。天文9年(1540)空誉上人のとき浄土宗に改め、永劫山華林院慶元寺と改号する。寛永13年幕府より10石の朱印を受ける。今なおこの地方の大刹のようで、住宅化の浪の中で、広大な境内を有する。
相模香林寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
昭和62年(1987) 完成、一辺4.5m、総高30.3m、屋根高20.7m、相輪9.6m
躯体RC造、化粧総木曽檜造で、様式はほぼ唐様を用いる。
塔本尊は印度で製作した石像「釈迦初転法輪像」、脱乾漆の四天王像、ニ重〜五重には木造の16羅漢像を安置。横浜天野工務店施工<創業天保五年(1834)>。
五重塔建立の碑には凡そ以下の文面が刻んであります。中世以来、昭和の戦後まで畑山地区は山村もしくは農村であった。昭和30年代の高度成長から宅地化の浪が押し寄せた。当地区は秩序ある開発(土地造成)を望み、地権者・開発業者と計画的な土地区画事業を行った。そしてこの事業の完成を機に、この地に生きた先祖および山川草木の霊の供養、そして当地区の繁栄を願い、また一切の人々に功徳の及ばんことを願って、香林寺に塔を寄進する。
(土地権者の内30人が昔からの共有地の売却代金を充当、香林寺に寄進。建造費は10億円)
香林寺は臨済宗建長寺派南嶺山と号す。
よみうりランド多宝塔 詳細は「播磨無量寿院多宝塔」のページを参照ください。
御殿山日本閣五重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
  同         8
  同         9
日本閣八王子御殿山店五重塔、御殿山ウェディングパレス日本閣。
昭和49年(1974)建立。(八王子市)
高さ約14m、 一辺1.82m、銅板葺。小型塔で極めて近世風なプロポーションを持つ。
基本的には和様を用いた木造建築と思われます。内部には心柱が通ると云う。
洋風を基本にしたウエディングパレルですが、和風庭園と神殿?を持ち、和風庭園には瀧を配し、急な崖上に塔を建立する。塔に関する「謂れ」は特に無いとのことですから、単に庭園の風景として五重塔を建立したものと思われます。立地する御殿山という地名も特に「謂れ」は無いとのことです。
武蔵福正寺五重 小塔1
  同         2
  同         3
  同         4
昭和58年(1983)建立。高さ約7m、壇上積基壇に建つ。現地案内板によると、本尊大日如来、大和興福寺塔の1/7のスケールで設計、素材鉄・銅・木材を組み合わせて構築、檀徒で箱根ヶ崎館工務店社長田中重芳氏の寄進、棟梁としての技を後世に残すことを発願という。
大いに珍重すべきことと思われる。但し、大和興福寺の1/7スケールという触れ込みの故に、大和興福寺塔婆と重ねる結果となり、 圧倒的な興福寺塔婆の存在感との比較で損な印象となるのは致し方ないことと思われる。
村山氏(武蔵七党村山党)菩提寺と云われる。天正15年(1587)村山土佐守義光が再建寄進したとされる(観音堂観世音菩薩像の台座銘)。立川普済寺の末、臨済宗。
武蔵拝島大師多宝塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
  同         8
  同         9
武蔵拝島山大日堂
  同    仁王門
本覚院多宝塔。建築年代、寸法など不詳。
総欅造り、斗栱は唐様を主に用いる。
拝島大師は大日八坊の一本覚院にある。拝島山本覚院三大師堂と称する。大師とは慈恵大師(元三大師・良源)を云う。(拝島大師別当が本覚院であった。)
元亀2年(1571)織田信長比叡山焼き討ち、敬甚(けいたん)大僧都が慈恵大師像を救出、諸国を遍歴、天正6年(1578)現在地に安置して本尊となすという。
大日堂は天台宗拝島山密厳浄土寺大日堂と号する。天暦6年(952)多摩川氾濫時に漂着した大日如来木像を祀ることに始まるという。中世には滝山城の鬼門として、北条氏の庇護を受る。天正6年(1578)北条氏照家臣石川土佐守が娘おねいの眼病全快を感謝して大日堂及び8坊を造営寄進という。
8坊のうち、普明寺(本尊大日如来、天正年中創建)・円福寺(本尊阿弥陀如来、天正年中創建)・大日明王院(元は多摩川寄りにあったが流失、大日堂隣に移建)は現存する。8坊のうち知満寺・竜泉寺・蓮住寺・密乗坊は既に文化文政期には廃寺となり、現在はその位置も明確でないようです。
幕府より大日堂領10石(普明寺4石、その他の7坊各1石の配分)を受ける。
なお日吉神社が大日堂西に現存する、元は山王社でおそらく明治維新の神仏分離で社号を改め、強制分離されたものと思われる。
2006/02/25 大和霊安寺心礎1
  同      2
  同      3
  同      4
  同 推定塔礎石
  同 井上山扁額
  同    梵鐘
  同 御霊明神
「日本の木造塔跡」:心礎大きさは1.7×1,4m、表面の平な自然石の明確な礎石とされる。発掘調査により、塔基壇1辺は10.2m、塔1辺は5.2m。側柱礎3個が発見された。心礎下から鎮壇具が発見され、下記の記事の通り塔は平安期初頭の創建とされる。
「増補 大日本地名辞書」吉田東伍より:
「霊安寺 南宇智村に在り、今寺廃し廟を存す、御霊明神と称す、井上皇后他戸太子の霊を祭る。皇后宝亀三年巫蠱に坐して廃せられ皇太子従ひて庶人と為り并に憤死し玉ふ、宝亀九年改葬、延暦中に及び山城京に御霊社を立て、本郡に山陵を置かる。延喜式、霊安寺料四千束は官稲を分給せられし制也 蓋霊安寺は陵廟供奉の僧房にして、延暦中の創建とす。」以下、宇智陵(光仁天皇々后井上内親王の墓)、廃太子他戸親王(井上皇后腹)の墓等の記事は省略。
発掘調査により霊安寺塔跡から鎮壇具が出土する。鎮壇具には、延暦15年(796)初鋳の「隆平永宝」11枚がある。(他に「開元通宝」と「万年通宝」を含む)また、一方では「日本後紀」延暦21年(805)2月の条に霊安寺についての記載があるという。以上により塔の建立年代は延暦15年より24年までの間の間と推測されるようです。
明治の神仏分離で、霊安寺は廃寺となり、什宝は寺中であった満願寺に移される。満願寺には大般若経(重文)や梵鐘がある。梵鐘(元禄3年鋳造)の銘文は「大和州宇智郡霊安寺邑之鎮守御霊大明神者相伝厥初嘗祝裡井上皇后出霊仰似為神霊也」から始まると云う。
「大和名所記 和州旧跡幽考 第十巻」より:
若宮の社 御山村にあり 若宮は雷神にてまします。・・・(霊安寺縁起)。
御霊社 霊安寺にあり。・・・御霊の社は井上皇后・他戸親王の御いきどおり強く、上一人より下万民まで悩まし給いしかば世中、あされたり。さてこそ勅使をたて、いろいろなだめさせ給いて終に御霊大明神とあがめられき。御霊の社をまもる寺なればとて霊安寺とぞ申す(霊安寺縁起)。
本社は御霊井上皇后、東向。北脇は早良親王。南向。南脇は他戸親王。北向。
本社三座・若宮一座、本地は准胝觀音・聖觀音・千手觀音・如意輪觀音にして、弘法大師のきざみて安置せられしより本地堂と号せり(霊安寺縁起)。
再興は人王百二代、稱光院の御宇、正長元年の秋兵火にかゝりて神社・佛堂・本地四佛の像も一時のけぶりとなる。かの像は厨司にこめてひらかざれば、いかなる佛というをしらず。しかれども北畠准三后の御霊大明神の記録せられたるにあらわれしより本地觀音像を再営して安置し、霊安寺ふたゝび成就せり(霊安寺縁起)。
明治初年の神仏分離で廃寺となり、寺中であった満願寺に什宝を移す。井上山と号す。高野山真言宗。本尊不動明王。満願寺の小路を距てた畑地約三畝歩の方形台地が霊安寺の本堂跡で、この南方の小字大御堂前が金堂跡と伝えられる。
「奈良県史 第6巻」:
井上山と号する。光仁天皇皇后井上内親王の霊安のため建立。御霊神社神宮寺。
「類聚三代格」:「弘仁七年十月二十三日、太政官符を下して、霊安寺の構作久しく伽藍はあるものの修法も不十分であったため正税四千束を割いて出挙し、その利息をもって 春秋の悔過や修理料に充てた」
「延喜式」:「大和国正税公廨 霊安寺料四千束」
「大和名所図会」:「霊安寺、御霊神社を守る寺なれば、かく名付けられき。再興称光院の御宇。正長元年(1428)の秋兵火にかゝりて神社・仏 堂・本地四仏の像も一時のけぶりとなる。此尊像秘仏なれば、住侶も知ることを得ず。しかれども北畠准三后の御霊の記録せられたるにあらはれしより、本地観音の像を再営して安置し霊安寺ふたた成就せり」 。
大和栄山寺塔堂1
  同      2
  同      3
  同      4
  同      5
  同      6
  同      7
  同      8
  同 八角円堂1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同    本堂1
  同       2
  同     梵鐘
「奈良県史 第6巻」:養老2年(719)藤原武智麻呂の創建とされ、子の仲麻呂が八角円堂(奈良・国宝)を建立し、藤原氏の氏寺として大きな勢力を振るう。現在本堂の西に塔ノ堂(大日堂)が残り、大日如来を安置する。この名称は天文年間に焼失した多宝塔にちなむものという。
栄山寺塔堂:「日本塔総鑑」昭和45年撮影:塔堂は室町期建築とされ、重文指定。

塔堂の外見は確かに塔残欠の雰囲気を色濃く残す。内部の様子は不明ですが、柱のみが残りその力感は多宝塔のものではなくて、層塔と考えるのが相応しい。時代は不明ですが、木鼻が残り、古いものとすると、それは多宝塔のものとしても不自然ではない。いずれにしろ、直感的に層塔の残欠と思われる堂宇です。八角円堂は別にして本堂(重文)もこの塔堂同様にかっては腐朽寸前の状態まで荒廃していた様子を留めています。その意味で良く今日まで伝えられた数奇な建築と思われます。
塔堂の実測は忘れましたが、かなりの大型の塔と思われます。
梵鐘は国宝指定。
紀伊最上廃寺遠望
  同      跡
  同    塔基壇
  同    心礎1
  同    心礎2
  同    心礎3
  同    心礎4
  同    心礎5
  同    心礎6
  同    心礎6
最上廃寺は白鳳期の寺院跡とされ、古は50間四方と云われたが、現在は13×4間の跡地の残し共同墓地になる。楠の大木があり目印となる、またこの地は後世の美福門院御所跡とされる。
昭和55年からの発掘調査で、塔基壇は一辺15mと測定された。金堂などのその他の遺構は削平のため未検出。
「和歌山県史 考古学資料編」1983:心礎は緑泥岩製、250×180cm、径93×7cmの円形柱座を穿ち、その中心よりやや一方に偏って舎利孔を持つ。舎利孔は上縁で径18vm・深さ3cm、底部径は17,4cmで深さ17cm、底部は皿状を呈す。
 「幻の塔を求めて西東」:心礎の大きさは240×180cm、86×4/6cmの円穴と16×17cmの円孔を持つ。白鳳。
  ⇒「調月の歴史」の「尼岡と美福門院」に詳しい解説があります。
「尼岡と美福門院」のページより最上廃寺関係を要約:
尼岡は、美福門院(1117〜60年、藤原得子・鳥羽上皇后・近衛天皇生母)が当地に下野、仏門に帰依し16才で早折した近衛天皇と鳥羽法皇を偲んで写経に勤めたという尼岡御所跡から南西の一円を云う。尼岡御所跡は最上小林の墓地、通称「あぶか三昧」として残る。
「那賀郡誌」:「安楽川村大字上野の南西、調月村との境界に尼が岡と名づくる所あり。其の中に方五十間余の面積を有する一地区内に大塔の心柱の礎石と覚しきもの、今尚存す。尼岡山美福門院尼寺旧記によれば、天平神護(765〜769年)の昔、称徳天皇の御建立にして南都西大寺派なり、云々。当時、既に尼寺の建設ありしものと思はるるなりと。また、美福門院は鳥羽帝の時、荒川庄を女院湯沐の邑に賜る・・。保元の違豫に臨みて、奥近江守盛弘を召具、忍びて此の荘園に下り、修禅尼寺を建てて隠棲。大伽藍を営み、尼衆を多数置き大塔を建設した。」
おそらく、称徳天皇建立の尼寺の場所に、美福門院も修禅尼寺を建てたと推測される。
尼岡御所跡から、白鳳期の瓦や摶仏が出土し、ここに塔心礎が残る。
美福門院建立の修禅尼寺大塔や伽藍は、延徳2年(1490)由良興国寺の僧徒らに放火、烏有に帰す。なお尼寺は後に奥氏の末裔が私領、鳥休山の麓に再建したという。
同御所跡の東、数百mの山麓に再興修禅尼寺跡が残る。古い土塀と小舎、放火のときに待避させた念持仏の入った厨子、石碑(「美福門院遺跡」)が残存するようです。
また、美福門院の墳墓の残存すると云う。(柘榴川堤防北の平坦地)
ここには延宝年間、高野山が五輪塔を建立し、石灯篭を奉納すという。(残存するようです。)
 ※参考:「山城安楽寿院」のページ、及び「紀伊高野山」の六角経蔵の項を参照。
「続風土記」:尼丘は「奥氏の免許地なり、方50間の芝地なり、美福門院この地に来り給ひて寺を建て・・・、巽の隅に塔の跡とて真柱を居し礎石今存す、傍に又礎石あり、その西3間許り小高き地あり、経蔵の跡といふ、門院・・紺地金泥の一切経を書写せしめ、・・この経蔵に納め給ふ、遺告により・・・経蔵は高野山に移す、今檀上に荒川経蔵と称する是なり。」
紀伊北山廃寺遠望1
  同     遠望2
  同 推定心礎位置

北山廃寺心礎実測図

「幻の塔を求めて西東」:127×108cm、72×3cmの円穴と5×1,6cmの小孔を持つ。緑泥片岩。白鳳。
平成5年から3ヶ年計画で発掘調査。中門・塔・金堂・講堂跡の遺構が確認された。伽藍は南面し四天王寺式伽藍配置であった。廻廊は中門から講堂に取り付く。寺域は方1町。舌状台地上に位置する。
現況:廃寺一帯は蜜柑畑(民有地)で廃寺跡を示す1枚の説明板があるのみで、地上には何の痕跡もありません。
附近で農耕する人の談:廃寺跡は「だいもん」と通称していた。心礎は以前は確かに露出していたが、近年は耕作の邪魔で、土を掛けもう見ることは出来ないだろう。念のため、蜜柑畑の中を案内してくれて、この辺りに昔はあったはずと言う場所を探してくれた。が、やはり心礎を見ることは叶わず、土中に存在するようです。
写真:遠望1は西から、遠望2は東から廃寺跡を撮影、推定心礎位置はこの辺りに心礎があるはずとの場所を撮影。
「和歌山県史 考古資料」より:北山廃寺心礎実測図
台地上の道路西に心礎がある。1.36×1mの大きさで、径72×5/3cmの柱穴があり、中央に径5×3cmの皿状の舎利孔がある。結晶片岩の自然石を利用。
紀伊国分寺塔跡1
  同       2
  同       3
  同       4
  同    心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同   塔礎石
  同  伽藍配置図
  同  塔跡発掘写真
 中門・金堂・講堂基壇
金堂基壇・講堂跡現本堂
再訪
紀伊西国分廃寺塔跡
  同    心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同       7
  同    礎石
再訪
2006/02/18 河内百済寺跡 再訪。現地説明会あり。詳しくは「河内百済寺跡」のページを参照ください。
紀伊上野廃寺東塔土壇
  同     東塔心礎1
  同     東塔心礎2
  同     東塔心礎3
  同     東塔心礎4
  同     東塔心礎5
  同     東塔心礎6
  同     東塔心礎7
  同     東塔心礎8
  同     西塔土壇1
  同     西塔土壇2
  同     西塔心礎1
  同     西塔心礎2
  同     西塔心礎3
  同     西塔心礎4
  同     西塔心礎5
  同    金堂跡俯瞰
  同    金堂跡1
  同    金堂跡2
  同    金堂跡3
  同    金堂跡4
  同    金堂礎石1
  同    金堂礎石2
  同   中門跡附近
2006/03/18再訪:
金堂跡及び跡に至る通路は最近全面的に刈り込みが行われ、金堂土讃・礎石・金堂跡に遺存する小宇を見学することが可能であった。(以前は全くのブッシュで踏み込みも困難でな状態でした。)
「祖竹記」(湯橋家蔵):寛永17年(1640)では「・・・うえ野の薬師と申、・・・大成石すえの跡も御座候へ共、堂かたちもなく野山ニて候を、与風此薬師之跡へ参候得ハ、諸病なをる由」云々で病人ども仮屋篭堂を建ち、・・・諸病人の仮屋700家余り、・・同年7月強風化の火事でほぼ全焼する。その後「元の野山となる。」金堂跡に残る小宇は、以上のような薬師信仰の近代版とも思われる。(推測)また塔跡を巡ると思われた土塀跡は。実は金堂跡を囲む土塀跡で近世・近代に何らかの寺堂の施設の残存とも思われます。
「日本の木造塔跡」;東塔心礎の大きさは2.2×1.3m、径89×3cmの柱穴と彫り、径19×22cmの舎利孔がある。
西塔心礎は1.4×1.26mで、径88×3cmの柱穴と径22×19cmの舎利孔を持つ。更に東塔にはない3×3cmの放射状排水溝を1本持つ。側柱礎5個を残す。(但し現状は露出していない。)
遺跡のある字は薬師段という。金堂跡に薬師堂がある。
2001/12/24記録:
覚鑁上人開基の新義真言宗の巨刹・薬師寺跡とされ、秀吉の根来攻めで焼亡したとされる。
しかし、出土瓦等から、創建は奈良前期と推定される。
現在東西両塔跡はブッシュに覆われ、全くの未整備です。ブッシュの中に分け入ると東西両塔の土壇が認められます。
その土壇の中央付近に窪みがあり、若干の堆積物や草木を取り除くと、心礎の一部分を観察することは可能です。
全容が見えないので大きさは分かりませんが、両心礎とも舎利孔が穿孔されています。
東塔跡には2ヶの、また西塔跡には15ヶの側柱礎石があるとされますが、これは東塔を除いて、現状素人では見ることはできません。また金堂跡も素人では特定は難しいようです。なお西塔跡では布目瓦の散乱も観察されます。また時代は分かりませんが、両塔の土壇を廻って2辺の築地の跡がかなり明瞭に残っています。
紀伊上野廃寺跡 同 東塔心礎1 同  2 同  3 同 東塔土壇 同 西塔心礎1 同  2 同 西塔土壇
西塔跡発掘写真によると、四天柱礎1個を除き、15個の礎石および瓦積基壇・地覆石が残り良好な遺跡のようです。
一辺は12.1m。
東塔は一辺12.6mで、塼積基壇のようです。
2002/11/19:「祈りの造形 紀伊国神々の考古学 1」菅原正明、清文堂出版、2001より転載
「日本霊異記」(弘仁13年<822>下巻第30話:
能応寺は僧観規の先祖が建立した寺で「弥勒寺」と呼ばれていた。僧観規は金堂に丈六の釈迦如来と脇侍を安置し、続けて十一面観音の造立途中で没した。僧観規の遺命で仏師多利丸は観音を完成させ、塔のもとに安置した。云々
上野廃寺はこの能応寺と推定する見解もあるようです。一方では山口廃寺に比定する見解もあるようです。
伽藍配置は地形の関係で薬師寺式の変形で講堂は西に置かれていたようです。
上野廃寺伽藍配置図
紀伊山口廃寺塔跡遠望
  同     心礎1
  同     心礎2
  同     心礎3
  同     心礎4
  同     心礎5
  同     心礎6
  同     心礎7
「幻の塔を求めて西東」:180×126cm、110×2,5/3cmの円穴と18×19cmの円孔を持つ。かなり破損。白鳳前期。
「山口県史」:寺域は南方紀ノ川に向かう緩傾斜地(標高30〜35m)に位置し現状は耕作地となる。古代は「山口駅」跡に否定される。附近に「堂垣内」「門口」の小字を残す。心礎は蛇紋岩で、柱座径120cmで中央に径18×深21.5cmの舎利孔を穿つ。遺物は軒丸瓦数点が採取されているにすぎない。
「日本の木造塔跡」:心礎大きさは2×1.3m、径110cmの柱座を彫り凹め、中央に蓋受孔付舎利孔を持つ。蓋受孔は径22×0.9cm、舎利孔は径18×19cm。心礎及び柱穴の破損に比べ、蓋受孔は鮮明に残存する。すぐ脇に四天柱礎と思われる礎石が残存する。 (写真心礎2に礎石は写っています。)なお心礎破損の原因を紀ノ川の氾濫に求めるも、欠損は後世の人為的な破壊であろう。
和泉神鳳寺跡 再訪。現在の大鳥神社には神鳳寺の痕跡は全くありません。写真は五重塔想定地。
詳細は「神鳳寺五重塔」のページを参照ください。
和泉家原寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
再訪。
摂津法楽寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
再訪。
河内一乗寺納骨堂1
  同        2
  同        3
  同      内 部
多宝塔と称するも、崖を利用した二層と解釈できる方形堂に相輪を載せた鉄筋コンクリート製の建築です。 おそらく半崖造りの初重が納骨堂と思われます。平成12年完成。浄土宗。その他は不詳。
2006/02/05
「X」氏ご提供
播磨北条町古坂塔模型1
  同           2
詳細は不詳ですが、兵庫県北条町古坂公民館敷地に塔模型がある。この模型は屋外に設置するように設計されているようです。写真での印象ですが、本格的な建築の手法ではなくて、模型的なものと思われます。また本職の大工の手になるものではなくて、個人の趣味の範囲のものと思われます。全体の印象は塔身と屋根のバランスをやや欠き、その分粗雑な印象を受けます。初重一辺は目測で約60cm位であろうとのことです。いずれにしろかなり手の込んだ造作とも思われ、「趣味」の範疇であれば、その努力には敬意を表するものです。
2006/01/18 山城真宗院二層堂 詳しくは「山城真宗院」のページを参照ください。
山城宝塔寺 詳しくは「山城寶塔寺」のページを参照ください。
2006/01/15 伊勢国分寺跡 詳しくは「伊勢国分寺跡」のページを参照ください。
2006/01/14 山城山瀧寺跡 詳しくは「山城山瀧寺跡・心礎」のページを参照下さい。
2005/12/28 丹波與野神宮寺
井口氏邸庭園1
井口氏邸庭園2
丹波與野神宮寺心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
  同         8
與野神社御旅所
無量寺残存礎石
井口氏邸礎石1
 同      2
 同      3
 同      4
塔基壇構成石造品
與野神社本殿1
 同      2
 同      3
 同      4
 同      5
 同      6
心礎及び礎石を残す。寺院遺構の明確なものは現状では未発見。
「日本の木造塔跡」:心礎の大きさは2.15×1.45m×74vm。径82×12cmの円穴を持つ。
明治の廃仏毀釈で寺は毀たれた。側柱礎5を残す。白鳳期の瓦を出土。心礎は井口弘氏邸にある。
※井口邸はこの地の名家であり、その庭園は多くの庭石・踏石・石造品で構成されている。
與野神宮寺心礎は手水石としてあり、恐らく100個近くある踏石の中の4個は明らかに礎石と思われる石が使用されている。なお2005/12/09夜半、西隣に邸宅を構える親戚である井口邸母屋が全焼する不幸がある。しかし幸いにして当家への延焼は免れ、庭園等な無事であった。
柱座を持ち明らかに礎石と判断できる塔礎石は1個が與野神社御旅所北の無量寺に、4個が井口氏邸に残存する。但し井口氏の関係者は邸内に残存する礎石は塔四天柱礎であると説明し、また踏石の中で長い長方形の石は塔基壇に関係する石である(見学者の誰かが、その様に解説したようです)と説明する。
「京都府史蹟勝地調査会報告 第5冊」京都府史蹟勝地調査会編、1923 より
 與能神宮寺心礎  與能神宮寺礎石形状図
「伝承では與能神宮寺は嵯峨天皇代の建立で、空海が奥の院露堂にて護摩修行を行う。口碑には口ノ院を二階堂と云い、奥の院を露堂と伝えるも詳細は詳らかならず。江戸時代には社域に明星山三光寺(寛永寺末)ありて、中興を心暁坊賢運と言うも、今廃滅す。今、ほぼ同地域に浄土宗無量寺あり。また、御旅所となれる裏の桑畑東田畝から5個の礎石を発見、犬飼の井口徳太郎氏邸へ移置す。内1個は心礎と思われる。これ以外に無量寺庫裏踏石に1個ある。礎石の発見場所は俗に二階堂と称する所で、附近の地名はこの地が寺院中心であることを示す。しかし、地形の改変が進行し、明白な堂塔の跡は発見するを得ず。
なお、慶長8年の本殿再興棟札が現存し、本願は心暁坊賢運云々と云う。」
「新修亀岡市史 本文編 第1巻」より
地形的に見て與能神社御旅所あたりが寺院中心と思われる。御旅所裏で心礎が出土。北方無量寺に5個の礎石が残る。
但し、この「市史」の心礎の認識は出枘と柱座を混同し、おそらく丹波や山城国分寺心礎が出枘であるためであろあうか、心礎の形式は出枘であるとの思い込みがあるようで、出枘が手水鉢として加工され円穴になったと誤解していると思われる。
※手水鉢への転用の時多少の加工はあったとしても、基本的にこの心礎は柱穴の形式であろう。
與能神社:延喜式内社という。「諸国鎮座神秘抄」写本では、四道将軍丹波道主命が、桑田郡に三座の神社(三宅神社・山國神社・與能神社)を祀ったという。当初は大和東大寺が別当であったが、後に與能神宮寺が建立され、曼茶羅堂・講堂・五重塔などがあったとされる。 社家二階堂氏は明治の神仏分離で還俗し、現在に到ると云う。
「谿端與能宮旧記」:空海が嵯峨天皇勅を奉じ、奥ノ院露堂に僧形八幡(現存するようです)を祀り護摩を修す。鎌倉期に焼亡。
本殿(三間社流造)は慶長8年(1703)の建立で、棟札によると、文応元年(1260)建立の本殿は慶長元年の地震で倒壊、同8年再建され、正徳4年(1714)に改修という。
丹波穴太寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
再訪。
建立時期ははっきりしないが、享保年間(1716-35)建立とされるようです。 一辺4.48m。高さ約13m。細部についてはかなり唐様が強いようです。
西国21番札所。
鎌倉後期には一遍上人が逗留したようです。
一遍上人絵伝:但し塔は相輪のみ描かれています。
丹波国分寺心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
丹波国分寺塔跡
  同   塔礎石1
  同   塔礎石2
  同   塔礎石3
  同   塔礎石4
  塔南脇柱礎石列
  塔西中央間(手前)
  塔北脇柱礎石列
  塔西脇柱礎石列
丹波国分寺跡全景
  同  塔跡遠謀
  同  金堂跡遠望
  同  山門遠望
  同  山門・本堂
  同    本堂
 
「幻の塔を求めて西東」;心礎は出枘式、大きさは272×224cmで径45×3cmの出枘を持つ。
2003/11/10追加:「新修亀岡市史 本文編 第1巻」より
1982年からの10次の発掘調査で、金堂跡・塔跡・講堂跡・中門跡・僧坊跡・鐘楼跡等を確認、また周囲を巾10mの空掘状遺構の発掘により寺域は約220mであることも確認された。
塔跡は17個の出枘式礎石が完存する。塔基壇は粗い版築で、瓦積で化粧し地覆部は2重の石列をなす。2重になっているのは創建時のものと平安末期の再建時のものとされる。創建時の基壇一辺は15.6m、再建時は16.4mである。初重一辺は8.9mで中央間3.1m両脇間は各々2.9mを計る。
 丹波国分寺跡の遺構  丹波国分寺塔跡発掘図
金堂跡:創建時の瓦積基壇と平安末期の乱石積基壇が重複して発掘された。再建壇は19.6×15.4m、建物は根石から15.8×11.6m(5×4間)と推定、南面中央に巾9.5m、4段の階段を設ける。(基壇推定高は1,2m)。鎌倉後期に焼失。
講堂跡:江戸期の本堂と重複。基壇南面縁の延石列、地覆石列及び根石を検出。基壇規模は32.8×20.9m、建物規模は26.8×14.9(7×4間)と推定。
現国分寺:黒谷末、山門・本堂・鐘楼がある。安永3年(1774)〜9年にわたって護勇比丘によって再興。天正年中の明智光秀の進攻で焼亡するまで、室町期にも何らかの伽藍が存在したことは諸記録で覗える。
2003/11/10追加:「第7回特別展 展示図録 国分寺」より
近世の丹波国分寺について、「桑田記」江戸期編纂、未刊では
「寺領3600石、塔頭35ヶ寺、5間四方の大塔の古跡礎の石17今に在、本堂9間に6間礎石あり、地蔵堂の跡、虹の堂の跡、十王堂の跡、各礎石在す。其余の礎石は天正乱後亀山の城に引と云。・・・」 と云う。
虹の堂とは尼寺の堂で国分尼寺の堂跡で、この記事が国分寺跡西方にあった国分尼寺跡も国分寺に含む認識で記述されているからと思われる。亀山城工事に 転用されるまで、礎石は相当残存していた様子が覗えます。
 丹波国分寺塔跡基壇全景  金堂跡基壇全景  金堂跡瓦積基壇  金堂跡乱石積基壇
その他 御室仁和寺遠望:JR山陰線花園駅より
能勢妙見山北参道入口:亀岡曽我部町法貴、摂丹街道分岐点、能勢妙見より北東約10km
2005/12/11 大和不退寺多宝塔残欠1
  同           2
  同           3
  同           4
  同           5
  同           6
  同           7
  同           8
  同           9
  同          10
  同          11
大和不退寺金堂
再訪。
多宝塔は明治期に上層を失うも、鎌倉中期多宝塔の遺構として貴重なものとされる。
斗栱は三枓出組、柱頭部には頭貫を打ち、大仏様の木鼻を用いる。

金堂(重文)は5間×4間単層寄棟造り本瓦葺き。
南門(重文):不退寺南大門上棟は鎌倉末期・正和6年(1317)という墨書銘が現存。

2005/12/14 山城三聖寺・万寿寺遺構 東福寺塔頭万寿寺現況:東福寺山内最北端・九条通りを挟み、九条通り北にある。
写真右の鐘楼門内が現在の万寿寺、右が現在の三聖病院。現在の三聖病院が元地のままとするとこの位置が三聖寺であったのであろうか?。
現万寿寺鐘楼門:重文、室町中期以前の建築とされる。
万寿寺仁王門1  万寿寺仁王門2:重文、明徳2年(1391)建立。
九条通り南にあり、万寿寺より移建というが、元地の場所情報は不詳。
愛染堂:重文、室町。丹塗、八角小円堂。昭和9年室戸台風で倒壊、現在地に移転再興。単層、杮葺。土間は瓦敷、本尊愛染明王。
2005/12/23 山城泉橋寺塔跡など 再訪。詳しくは「山城泉橋寺」のページを参照ください。
2005/12/23 山城高麗寺跡 詳しくは「山城高麗寺跡」のページを参照下さい。
2005/12/11 大和大安寺西塔跡 詳しくは「大和大安寺塔跡」のページを参照ください。

過去の訪問塔婆履歴