巻之3:武蔵/国分寺


武蔵国分寺

江戸名所圖會:新訂 江戸名所図会(ちくま学芸文庫版)市古夏生・鈴木健一校訂 から
  <武蔵国分寺及び塔跡の記述を転載>

巻之3:医王山国分寺:最勝院と号す。国分寺村にあり。
・・中略・・当寺は天平年間行基菩薩草創するところにして、聖武天皇の勅願所なり。・・以下略

層塔の旧跡(国分寺の少し東南、半丁あまりを隔ててあり。草樹繁茂するところの少しの岡なり。
方九尺ばかりの八角に礎<いしずえ>を据ゑたり。往古<そのかみ>、その塔の中真を収めたるものなりとて、うちに径<わたり>三尺ばかり石にて畳みたる空穴ありて、内に水をたたえたり。)

2008/04/22追加
国分寺伽藍旧跡:江戸名所図会より
 

門・金堂・講堂がほぼ西1/4線上に並ぶ。回廊はなし?。東西僧房。
塔は金堂東南東方向約220mも離れた位置にある。寺域は南辺約350m強・西辺約350m強、
北辺約400m弱・東辺約450mの不等辺四角形の巨大なものとされる。
元弘3年(1333)、新田義貞、鎌倉侵攻時、府中分倍河原の合戦で敗北、義貞軍の放った火によって炎上、灰燼に帰す。
家康が江戸入府、国分寺は朱印九石八斗余に定める。

武蔵名勝図会に見る武蔵国分寺;「武蔵名勝図会」文政6年(1823)刊、植田猛縉著

武蔵国分寺跡:武蔵名勝図会:左図拡大図
  (2011/03/27追加修正、大容量画像に入替)
 「・・・ここに上古大伽藍の跡あり。礎は各々大石にて、その跡に列をなし、歴然として上古のままなり。但し、伽藍の跡二ヶ所あり。丘陵の上に今薬師堂あり。ここは上古の伽藍の堂跡にて、礎石の間を4間宛置きて、一行に七つ並びにて28間なり。横手もこの数のごとく並びて、28間四面なる金堂なりとみゆ。その礎のところに、いま薬師堂を安置す。
その地より南の一段低き地に大石の礎、これもあまた列居し、今は陸田となり、或いは茅生いたるところもあり。大石動かし難く、ここは上古の国分寺伽藍跡なりと云う。田圃の傍らに古瓦幾ところも積みて塚をなす。丈六の仏像並びに大伽藍の仏閣も、いずれの年に灰燼となりたる事実など記せるもの見えず。朝政衰えて、諸国ともに争闘おこり、おのずから腐朽して破戒せしなるべし。中古、文安年中までは仏閣も残りてありしにや。鎌倉公方家の京と下向のみぎり、宿営をなしたることなどもありけり。その頃まで国分寺と号する寺ありき。 ・・・」

「七層大塔跡:国分寺廃跡より辰巳の方にて、二町余を隔て、その跡は田園の傍らにあり。
大塔心柱礎:右の大塔の心柱の礎なり。今陸田の傍らにあり。真中に心柱の丸穴ありて、深さ三尺余、差渡し一尺余。」
「この七重塔は・・・年歴凡そ90年ほどを経て、仁明天皇の承和2年(835)雷火のために災に罹りて灰燼となり、同12年まで10年を経て再建も朝廷より命ぜらるることなかりしかば、同国男衾郡の大領某、朝奏を経て造立せしと云。それよりまた破壊のことは不知。」
 「続日本後記」云 承和十二年三月乙丑武蔵国言。国分寺七層塔一基、以去承和二年為神火所焼。于今未構立也。
 前男衾郡之大領外従八位上壬生吉志福正言、奉為聖朝 欲造彼塔、望請言上。殊蒙処分者 依請許之。

「薬師堂 ・・・堂内に『金光明四天王護国之寺』と書きたる額あり。」
「西勝院 医王山国分寺と号す。薬師別当、・・薬師堂山の麓にあり。新義真言、府中妙光院末なり。・・・・」


武蔵国分寺塔跡

武蔵国分寺は天平宝字年中(757〜765)に創建される。
承和2年(835)七重塔が落雷で焼失、
承和12年(845)前男衾郡大領、外従八位上壬生吉志福正が七重塔再興を願い出、許可される。「続日本後紀」・・・上に掲載
 ※この再興は創建時と同じ位置であったかどうかについては、明治期から論争があったが、
昭和39年の発掘で、七重塔跡から焼けた瓦が交じった粘土や礎石を据え変えた跡などが発見され、この再興は創建時と同じ位置に再建されたと結論付けられた。

○「日本の木造塔跡」:心礎は火災のため破壊、大きさは2.56m×2,12m、径73×45cmの円穴がある。四天柱礎3個、脇柱礎5個残存。
塔一辺10.1m、基壇1辺17.9m。基壇は乱石積基壇。
○「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式、254×212cm、径71×28.8cmの円孔がある。火災を受け、焼損する。

○2006/03/18撮影:
 武蔵国分寺塔跡1       同      2       同        3
   同        4:左の礎石2個は南側脇柱礎、右側手前2個の礎石は四天柱礎、右側奥の礎石は西側脇柱礎1個
   同    礎石1      同   礎石2       同     金堂跡
○2011/02/20撮影:
心礎はほぼ土中に埋まり、辛うじて表面の一部が土中から顔を出す。
それ故、現在では心礎の大きさ・円穴などを観察することは出来ない。
 武蔵国分寺心礎1
以下銀杏の木の根元に僅かに見えるのが心礎である。
 武蔵国分寺心礎2:南東より撮影      武蔵国分寺心礎3:やや東寄りのほぼ南より撮影      武蔵国分寺心礎4:北東より撮影

2006/04/22追加:
○「国分寺の研究 上巻 下巻」角田 文衛/編、古学研究会、1938 より
 武蔵国分寺心礎11
 武蔵国分寺塔跡:戦前の塔跡景観 。
○「武蔵の国府と国分寺 府中市郷土の森博物館ブックレット」より
 武蔵国分寺心礎12:大きさは2.1×1.4m、中心の孔は径74×45cm。塔一辺は10m。
 武蔵国分寺塔基壇:1964年調査、敷き詰められた河原石の下には、焼けた瓦を含む粘土層がある。心礎以外の礎石下にも瓦が突き込まれている。再興時の基壇と判断された。

2009/01/05追加:
○「武蔵国分寺の調査と『土』」滝口宏(「土と基礎 40(1)」1992 所収)
塔跡:塔跡の発掘調査で第1次造建の五重塔が焼失し、基壇の修復をして塔が再建されたことが明らかになった。
心礎は2,12×1.36mで中央に径73cm・深さ45cmの円形孔を穿つ。
再度の火災によりひび割れているが創建時のまま再建時も使用したと思われる。
心礎の東側に密着して扁平な石1個があるがこれが何を意味するかは不明。心礎の南2個は四天柱礎、北東のものは根締石、北西は銀杏が成長したもの。他は側柱礎と根締石。心礎を除く礎石は明治になってこの壇上を開墾して畑にしたところ異変が起こったので旧に復した。(壇上に明治25年4月建立の石塔にその経緯が刻まれる。)
 武蔵国分寺塔跡実測図    武蔵国分寺金堂跡実測図
2006/05/06追加:
○「新修 国分寺の研究」 より:
塔は金堂・講堂の中軸線より東に204m離れて立地する異例の配置のため、従来よりいくつかの説があるが、調査考究の結果、この塔跡は創建の時からこの位置を占めていたと考えて良い。
 武蔵国分寺塔跡:現在の塔跡土壇は不正四角形に石柵を廻らすが、これは不適切な処置である。土壇上中心に心礎を置き東南・西南の四天柱礎各1個、西南隅・南及び西の側柱礎各1個の計6個の外、南東隅の石碑(明治25年銘)台座および北側にあるものも側柱礎の一部と思われる。 心礎北東にある銀杏は昭和初期には小さな樹であった。
 心礎は他の礎石上面より30cmほど低く(大きさは既知の通り)、上面は火災によりかなり破損、この心礎側面を50cmほど掘り下げて点検したところ、明らかに創建基壇の版築の上に安定しているので、再建時再使用したものと判断される。なお古老(明治生まれ)の談として、この石の円穴の上には環上の大石が置かれていたが折損していたのでそれを持ち帰り漬物石に使ったというものがある。(環座として載せられていたのかも知れない。)心礎に接し東側に表面平坦な厚さ20cm長径1mほどのほぼ方形の板石が埋められているが、この石の性格は不明。
 塔跡南に瓦溜があり、夥しい再建瓦がある。古老の話では、江戸時代以来荒蕪地であった金堂・講堂跡などを、明治になって地元で分割して耕作したが、廃瓦が多く耕作に不便であったので、塔跡では土壇の廻り10〜15mに溝を作って投げ込んだと云う。この耕作では不詳怪奇のことが一度ならず、村民が怖れたので、元に戻して、石塔を建てたとある。

2009/09/14追加:
○「国分寺址之研究」堀井三友、堀井三友遺著刊行委員会編、昭和31年 より
礎石は安山岩、心礎の大きさは7尺7寸×7尺ほどで、中央に径2尺3寸5分深さ1尺5寸の枘孔を穿つ。他の9個の礎石は4尺から5尺くらいのものが多い。これ等現存礎石は心礎と1,2の礎石を除き、明治初年に原位置で一度持ち上げられたと云う。
 武蔵国分寺塔跡実測図     武蔵国分寺心礎1 3
2011/03/27追加:
○「武蔵国分寺のはなし」国分寺市教委、平成22年 より
 武蔵国分寺塔心礎14     武蔵国分寺塔跡実測図

武蔵国分寺「塔跡2」

○2004/05/22報道:
現在の七重塔跡西54mの地点で、基壇と思われる遺構を検出した。
探査方法は地中レーダー探索で、一辺約20m、厚さ約3mにわたる版築土層の存在が確認された。
史跡整備計画策定委員会では、規模あるいは形状から、この遺構は塔基壇であると断ぜざるを得ない。であるとすれば創建時の塔基壇である可能性が高いという見解を発表する。
※この地点は明治期6個の礎石が見つかった地点と云う。建物の性格が不明のため、昭和39年の調査ではこの地点のトレンチも実施されたが、何の遺構も出土しなかったと云う。
  塔跡・基壇跡航空写真:左水色が今回の発見基壇、右黄色が塔跡
 
○「古代武蔵の国府・国分寺を掘る」府中市・国分寺市教育委員会、学生社、2006年2月:では
福田信夫(国分寺市教委)「七重塔跡は(金堂)の東南約220mに位置し、かなり距離が開いていることが大きな特徴としてあり、先年の史蹟整備に伴う予備調査で、この西約54mの地点で新しい七重塔跡と考えられる基壇−掘り込み地業−が確認され、今調査を進めているところで ある。」 と云う発言が収録される。2004年5月報道の「事実」の確認は継続中と思われる。
 (2006/03記載、書物は2006/02出版、脱稿は2005年末と思われる。)
その後、この遺構についての情報は寡聞にして、新しく耳に挟むことがなく、現在も調査確認中と思われる。

2009/12/10追加:
「国指定史跡 武蔵国分寺跡」国分寺市教育委員会、平成20年3月 より
  (資料は「歴史の足跡久保田氏ご提供、おそらく表裏2面4ページのリーフレットと思われる。)
2003年地下のレーザー探索で塔跡と思われる遺構(「塔跡2」)を発見。
その後の調査で、この遺構は2.3m以上の堀込地業がなされ、約3mに及ぶ版築から成ると判明する。
但し、礎石・礎石据付痕跡・基壇化粧は全く検出されないと云う結果で終る。(基壇規模・建物規模も不明であるが、塔跡1と同程度の遺構であると考えられる。)
構築時期は出土土器や版築に重なる柱穴から出土する瓦から9世紀中葉とされ、創建塔跡ではないことも判明する。
一方文献史料(「続日本後紀」)では
承和2年(835)武蔵国分寺七重塔、落雷により焼失。
承和12年(845)男衾郡前の大領壬生吉志福正、私費による再建を申請し許可される。
と云う。
さらに、昭和39年の塔跡1の発掘で、塔の再建は同じ位置で行われたとの結論を得る。
 武蔵国分寺跡遺構図:「塔跡2」の明示がある。
 武蔵国分寺塔跡2発掘風景
 武蔵国分寺塔跡版築:左は塔跡1の版築で、近年の再調査写真、右は「塔跡2」の版築
 ※以上の知見から判断すると、「塔跡2」とは不正確な表現であろう。この遺構は塔跡と断定はできない。
当然のことであるが、基壇規模も建物規模も不明、礎石やその据付痕跡も皆無であるならば、建物の構造も不明であるため、塔跡とは全く断定できない。「塔跡」とも想定される版築基壇が出土と云う以上でも以下でもない。
 ※想像を逞しくすれば、遺構の構築時期が9世紀中葉であるということであるから、前大領は「塔跡2」を新に構築して、その新しい基壇上に塔再興を企図したが、何らかの事情で「塔跡2」での再興は放棄し、塔跡1に再興したと云うことなのであろうか。
 また建物の瓦についての言及がないが、無いということは、恐らくこの基壇付近での基壇上の建物瓦と推定される瓦の出土は見ないということなのであろう。もしそうであるならば、常識的に云って、礎石や礎石の据付痕跡がないことも合わせ、建物はこの基壇上には建立されなかったと考えるのが自然であろう。
 ※一方、この地点は明治期6個の礎石が発見されたとも云う情報や基壇一辺20mと云う情報もあり、この基壇は後世に著しく削平された可能性もある。また通常、基壇化粧は塔建築の後に造作されると考えられるため、建物の建築は全くないとも言い切れない。
さらに、瓦の出土を見ないのは瓦葺以外であった可能性もあろう。また一度建築されたが、心礎・礎石などを含め、そっくり他の場所に移建されたという可能性もあろう。
 しかし、礎石・その据付痕がない、建物瓦の出土情報がない、建物に付随する出土物など情報がないなど、建物があったという「臭い」が全く感じられない遺構であることもまた事実であろう。
 但し、現地は未見、発掘調査報告書の有無も未確認ではある。

 ※塔基壇と心礎据付穴のみが発掘され、塔は建築されなかったであろうと判断された塔跡の例としては近江衣川廃寺塔跡がある。
要するにこの廃寺では心礎据付穴は発掘されたが建物が建立された臭いが殆ど無いと云うことであろう。
但し白鳳期の瓦は出土するので、金堂は建立されたということであろう。なお、平成6年から史跡整備事業として範囲を拡大して調査を行ったが金堂・塔以外の建物遺構は検出できなかったと云う。
 ※塔基壇と心礎抜取穴のみ発見され、その他の礎石及びその痕跡、基壇化粧の手がかりが全くない廃寺に大和吉備池廃寺(百済大寺跡と云う学説が大勢を占める)がある。
この特異な現象は次のように解釈される。即ち、塔は解体され、心礎以外の礎石・基壇化粧を含め建築材・瓦一切が移転先(高市大寺)に運ばれた可能性が高い であろうと。 その根拠は超大型寺院の超大型塔に見合う超大型瓦の出土は見るが、極めて”少量”であることである。つまり瓦の出土を見るということは、塔は建立されたということを示すもので あるが、しかしそれが極めて”少量”であるということは、塔が焼失や倒壊で失われたのではないということも意味する。塔は建立されるも、後に解体・移転したものと判断される。

2011/03/27追加:
○「武蔵国分寺のはなし」国分寺市教委、平成22年 より
この遺構は平成15年発見、平成16・17年に発掘調査。
堀込地業は約11m四方で深さ約2.3m以上の大きさで、版築は約3mの高さがある。
 (この遺構は塔跡1とほぼ同一の大きさで塔跡と断ぜざるをえない。)
版築は塔跡1の積土と砂礫の互層からなるものとは違い、積土のみから成る。
 (上掲の武蔵国分寺塔跡版築を参照)
版築層から出土した土器片から9世紀中葉の築造と推定される。
この遺構は後世の耕作などで上層が削平され、礎石の据付などの痕跡は確認が出来なかった。また瓦の出土も少なく、礎石据付の痕跡も確認できないため、建物は建たなかった可能性もある。
 武蔵国分寺塔跡2発掘図-2

2011/03/04追加:
「塔跡2」の現況:2011/02/20撮影
塔跡2は埋め戻され、遺構は全く見ることはできない。
 武蔵国分寺塔跡2現況1     武蔵国分寺塔跡2現況2

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現武蔵国分寺堂宇
 武蔵国分寺仁王門:宝暦年中(1751-63)の建立、旧薬師堂の古材を転用して建立と伝える。
 武蔵国分寺薬師堂:建武2年(1335)新田義貞により金堂跡に建立と伝えるが、宝暦年中現在地に再建される。
             本尊薬師如来坐像は平安末-鎌倉初頭の作で重文。
 武蔵国分寺楼門:江戸期の建立、東久留米米津寺(米津出羽守田盛の菩提寺)楼門を明治28年に移建と云う。
 武蔵国分寺本堂:昭和62年に改築されたものと思われるが、不詳。
 


武蔵国分寺塔模型

「この模型は、復元模型設計書を参考に、田中為義氏(国分寺市北町)によって十分の一の縮尺で作成された」と云う。
2009/12/10追加:「歴史の足跡久保田氏ご提供
 武蔵国分寺塔模型1:個人(田中建設)所有(推定) 国分寺市並木町1丁目 サイズ 1/15(推定)
 武蔵国分寺塔模型2:東京都国分寺市市役所 サイズ 1/10

2011/03/04追加:2011/02/20撮影
 現在、国分寺市には「国分寺市市民室内プール所在」模型塔1と「国分寺市役所所在」模型塔2の2基が存在する。
 田中為義氏邸にあった模型塔は現在「国分寺市民室内プール」に移設されたものと思われる。
 何れも模型塔であるが、屋外に設置される。
○武蔵国分寺塔模型
製作年不詳。高さ約4.5m。国分寺市市民室内プール所在。スケール1/15(総高推定70mの七重塔を想定か)。杉材を主として使用。田中為義氏設計製作。
以前は田中為義氏邸(田中建設)にあったものを移設したものと推定される。
なお、模型塔を屋外に設置のため、多少傷みが目立つ。
 武蔵国分寺塔模型1-11     武蔵国分寺塔模型1-12     武蔵国分寺塔模型1-13     武蔵国分寺塔模型1-14
 武蔵国分寺塔模型1-15     武蔵国分寺塔模型1-16     武蔵国分寺塔模型1-17     武蔵国分寺塔模型1-18
 武蔵国分寺塔模型1-19     武蔵国分寺塔模型1-20
○武蔵国分寺塔模型2
平成5年製作。国分寺市役所所在。スケール1/10(総高推定60mの七重塔復原案)。田中為義氏設計製作。
 武蔵国分寺塔模型2-11     武蔵国分寺塔模型2-12     武蔵国分寺塔模型2-13     武蔵国分寺塔模型2-14
 武蔵国分寺塔模型2-15     武蔵国分寺塔模型2-16
○武蔵国分寺塔模型
Webサイト「武蔵天平の郷」には次の模型が掲載されるが、不明。
 (2011/02/20は日曜日のため「武蔵天平の郷」事務所が閉店で詳細は不明。下記の写真は上記サイトから転載)
 「武蔵天平の郷」所在模型塔:七重塔模型とあるが、写真では五重のように見える。何れにしろ、何等かの模型塔があると思われる。
 


2006年以前作成:2011/03/27更新:ホームページ日本の塔婆