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断章-治療的アセスメント NO.2





対話セッションの準備

 

 心理テストを実施してマテリアルが揃ったら、今度は相談者の知りたいこと、つまりその問いに対して答えるために、カウンセラーはテスト結果を吟味しながら次回セッションの準備をしなければならない。

 

[モノローグの思考]

 心理テストのマテリアルが揃ったら、臨床家はそれを解釈して一定の理解に向かうことになる。ここでカウンセラーの頭の中を飛び交うのは、たとえばMMPIであれば、HsDPaSiSOCHOSMASなどの、専門的かつ抽象的な記号である。

相談者の生きた姿を見失う瞬間である。

 従来的な情報収集モデルにそった心理アセスメントでは、相談者不在のまま、カウンセラーはこのようなモノローグの思考に没入してしまう。専門家にしか理解できない記号を口にして、ブツブツと独り言を言うだけなのである。その言葉は誰にも向けられていない。相談者は消し去られ、カウンセラーの自問自答があるだけである。

 では、援助的アセスメントのこの段階は、どのように理解すればよいのであろうか。結論を言えば、援助的アセスメントも、同様のモノローグの思考を経由するのは確かなことである。しかし、情報収集モデルのように、モノローグの果てに一定の見立てに至ることがゴールなのではなく、モノローグからダイアローグの思考へと転換することが、それとは異なっていると言えよう。 

 絶えず生成消滅する、生きた人間の核心を捉えようとせず、入手したデータを既成の概念や図式に当てはめて、あらかじめ決定されている、出来合いの人物像を描きだそうとしている。それが「見立て」「心理学的診断」「医学モデル」への懐疑。

  相談者不在のまま行われる、総括的でモノローグ的な評価。





 相談者の問いに答えて対話するセッション

 フィードバックとは、カウンセラーから相談者に対して一方的に伝達される評価のことである。あるいは、「真理を知り、自分のものとしている人間が、無知で誤った考えを持っているものに教えること」(ドストエフスキーの詩学のp.167)である。その意味で、このセッションは、相談者の問いに答えて対話するセッションであり、アセスメントの結果を伝達するフィードバック・セッションではない。ここで、従来的な情報収集を目的としたアセスメントが行う「フィードバック」の意味について考えてみよう。

 フィードバックの際にカウンセラーが発するのは、モノローグ的に閉じられていて相談者の返答を待つことのない言葉である。カウンセラーの言葉は、相談者の外部にあって、相談者が見ることも理解することもできない心理テストの専門的な解釈に基づいており、相談者の言葉と同一の平面で出会うことはない。なぜなら、フィードバックする側は、相談者がそれに応諾して行う対話的な抵抗を受け入れる姿勢をもっていないし、外部からのあらゆる総括に対する、相談者の内的反抗の姿勢を受容しないからである。

 このようにしてモノローグ的な状況でフィードバックを伝達される相談者は、自分に口があることも忘れてしまい、カウンセラーの口にすることをひたすら筆記するだけの手になってしまう。このような権威的状況に置かれた相談者は、自分自身に「ついて」のことであるにもかかわらず、それに対する最終的な言葉を発する権利を与えられていない。最後の言葉は、あくまでカウンセラーに属しているのである。言い換えると、カウンセラーが相談者について最終的な言葉を発する場、それがフィードバック・セッションなのかもしれない。

 われわれの世界に脈々と受け継がれ、いまもなお優勢であるのが情報収集型のアセスメントである。心理学的診断を目的とした臨床家側の都合で、アセスメントが実施されるのである。この立場には、相談者に何の相談もなく、一方的にアセスメントが行われてきた歴史がある。結果を伝えることもなく、「やりっぱなし」の臨床家も少なくなかったのではあるまいか。だが、近年は倫理的な要請から、相談者に対してアセスメントの結果をフィードバックすることが増えてきたような気がする。おそらく、相談者の知る権利を侵害しないという、消極的な理由によるところが大なのであろう。

もちろん、情報収集型のアセスメントを実施する臨床家の中には、フィードバックしてから相談者に問いかけて、その返事を待つものもいたはずである。だがそれは、さらなる見立て、客体視の方向を向いていたのではあるまいか。つまり、本人に対して情報をどこまで開示すべきか思案しながら、フィードバックした点について相談者は自覚しているとかいないとか評価するわけで、相談者の視点が、あくまで常に客体的に把握されるべきものになってしまうのである。

 このような情報収集型アセスメントのフィードバック・セッションでは、カウンセラーの視点と、相談者の視点が、同一の平面で出会うことはないであろう。カウンセラーが発するのはモノローグ的に閉ざされた伝達の言葉であり、そこには、対話的に呼びかける志向性をもった言葉がないのである。その意味で、カウンセラーが相談者について語るのが「フィードバック・セッション」であり、相談者と語りあうのが「対話するセッション」なのかもしれない。

 援助的アセスメントが行うのは、フィードバックではなく、対話である。

「権威的な言葉」

 援助的アセスメントの対話セッションは、法則定立的に導き出された相談者にかかわる言説と、相談者と臨床家とのあいだで構成された言説が、究極的に一致することを目指したものではない。むしろ、異質なもの同士が出会うことでそこにポリフォニーの交響が生まれ、実りのある不一致のなかで、異質なものの共生が可能となることが重視されるのである。

臨床家は、互いに異なる二つの言説、すなわち相談者の言説と心理テストによる言説とのあいだをとりもつ媒介者としての役割を担っていることに変わりはない。しかし、対話セッションの場は、協働する相談者と臨床家が、そのようにして媒介された言説を前にして、互いの信念体系を再編成していく場に他ならない。対話のダイナミズムのうちに信念体系の再編成を行うのがこの対話セッションであり、その目的は異なる言説を一致させることではなく、そのようなものとしての対話を継続することにこそ目的があるのだ。

したがって、異なる言説が一致することは、あくまで結果である。不一致もそうである。対話や言説は収束ではなく増殖へと、単純性ではなく複雑性へと向かっていく。

 ではどの方向に向かっているのか。それは分からない。

というのは、互いにとって、相手がどのようにして呼びかけてくるのか、あるいは相手が自分の呼びかけに対してどのように応答するのか、あらかじめ知ることができないからである。

 


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