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トップページ >> カウンセリング論 >> 断章-治療的アセスメントNO.1
相談者の知りたいことを『問い』のかたちにするセッション
このセッションでは、相談者が自分自身について心理テストの結果から知りたいことを、問いのかたちにすることを目的としている。ここでカウンセラーが目指すのは、相談者が自分自身のことで何か知りたいことがあれば、それが問いのかたちに形成されるように援助することである。つまり、自己理解ないし自己洞察へと至る前段として、内的な過去の声にとらわれていた相談者がいまここで他者から呼びかけられ、その呼びかけを聞いて他者の応答を期待する問いを発し、未来の他者の声を聞くことへと開かれるような姿勢が塑型されるように、援助者として、協働的な関係のなかで補助的に関与するのである。
ここで「問い」をキーワードにして、来談する方々が陥っている危機的状況について描写してみよう。
人間は人生のあるときに、何らかの危機に陥って硬直状態となる場合がある。そこでは、淀みなく流れるはずの生が停滞し、立ち止まった状態にとどまり続けることになる。このような硬直状態は、しかるべき時が来れば自然に解消される。生の流れに身を任せて、その後をさらに生き続けること、すなわち硬直状態の解消を待つことによって、生そのものが答えをもたらすのである。
ところが、見舞われた危機がその人にとって甚大なものである場合、このような硬直状態は、容易には解消されないであろう。生の流れはせきとめられ、人は身動きすら取れなくなってしまう。ここで生の流れに身を委ねる自然な態度は逆転し、沈思黙考のなかで反自然的な問いが繰り返される。「どうしてこんなことになってしまったのだろう」「これは一体どういうことなのだ」「どうして自分はこんなに苦しまねばならないのか」「自分はいったい何者なのか」などである。そこにいるのは、モノローグに耽りながら立ち止まっている苦悩する人間である。
そのような人間は、自分の考えを先に進めることができない。なぜなら、その問い自体が答えの出ない問いであり、返ってくるのは結局のところ同じ答えであるからだ。追い込まれた人間は腰が落ち着かず、ますます性急に答えを求めるようになる。手でつかめるほどの具体的な手立てはないものかと問うだけで、じっくりと腰を据えて問い、待つということができなくなってしまうのである。
苦悩する人間は、生の流れに身を委ねて、いまを生きることができない。ただ過去の力に屈服して、外部の呪縛に翻弄されるだけである。自分の行為は不可抗力の結果として理解されるだけで、その責任や主体感覚は希薄なものとなる。外部の出来事は現われるがままに受け取られず、その背後に秘匿された意味があるに違いないと勘繰られる。内的には、コップの中で荒れ狂う嵐のようにして、過去からこだまする様々な声たちに翻弄され、自分自身の声を見失ってしまう。
このような危機としての硬直状態を抜け出すための援助をするのが、カウンセラーの役割である。援助的アセスメントは、相談者にとってひとつの出来事になることを願って、そのプロセスが展開していく。つまり、われわれは「その出来事が呪縛を破り、驚きによる硬直状態を解消し、せき止められた流れをふたたび流し、川底に本来的にうずくまっていた生命力を呼び覚まし、現実性という土地を潤す流れにする」(ローゼンツヴァイク、健康な悟性と病的な悟性、p.18)ことを願うのである。
援助的アセスメントはもちろん、それが踏襲するスティーヴン・フィンの治療的アセスメントにも、問うこと、答えることからなる、対話の形式が備わっている。もっとも重要なのは、自分自身のことで知りたいことを相談者がカウンセラーに問い、それに対してカウンセラーが答えることであろう。援助的アセスメントにおける、ステップ2「相談者の知りたいことを『問い』のかたちにするセッション」と、ステップ3「相談者の問いに答えて対話するセッション」がそれである。
一体ここで何が起こっているのであろうか。
立ち止まったまま身動きの取れない相談者は、答えようのない問いをみずからに投げかけて、モノローグに耽っている。過去の力に押しつぶされて、いまを生きることもままならない。そこへカウンセラーが介入して、相談者に呼びかける。「自分自身のことで何か知りたいことはありませんか」と。この呼びかけによって、過去に呪縛されていた相談者は、現在のうちに呼び入れられることになる。
イントラパーソナルな領野でみずからに問い、モノローグに陥っていた相談者は、カウンセラーとのインターパーソナルな領野に呼び入れられる。そして、相談者はみずからに問うのではなく、目の前にいる他者としてのカウンセラーに対して、その応答を期待して問うことになる。つまり、ここでモノローグがダイアローグへと開かれるのである。問いと答えは、そこに居合わせる二人にとって、社会的な活動への参与そのものとなることであろう。
イントラパーソナルな領野とインターパーソナルな領野が交錯する場で、二人は対話を継続させていく。そして、話し手と聞き手からなるダイアローグのペアが、精神間から精神内へと、しだいに相談者のうちに心内化されていく。やがて、せき止められていた生の流れは回復し、立ち止まっていた相談者はその流れに対して開かれて行く。日常のリズムに身を委ねることを思い出し、自然な態度でみずからの生命を生きながらもはや頓着しすぎることもなくなり、反自然的な問いから解放されて何故なしに生きることが叶うようになる。
援助的アセスメントはブリーフセラピーである。そのためセッションの回数も少なく、相談者の硬直状態が解消されて、ふたたび生の流れに身を委ねていくところまで同行することは難しいのかもしれない。援助的アセスメントにできるのは、モノローグをダイアローグへと開き、回復の途についたばかりの相談者を見送ることなのかもしれない。見届けるのではなく、見送るのである。
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