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『日本型資本主義と市場主義の衝突 日・独 対 アングロサクソン』を読んで | |||||
ロナルド・ムーア 著<東洋経済新報社> | |||||
二十年近く前の今世紀最初の年に刊行された「経済のフィナンシャリゼーションの過程にブレーキをかけても、思い切った構造改革こそ救済の早道だと主張する改革派の合唱に耳を傾けなくても(否、傾けなければこそ)、日本はその長所を再び発揮してあたりまえの経済成長を再開」(第Ⅳ部 結論 P352)できると結んでいた本を読んだ。 現実の日本は、ずっと低迷を続けたわけだが、まさしくそれは“経済のフィナンシャリゼーションの過程”を推し進め、“思い切った構造改革こそ救済の早道だと主張する改革派”が日本経済を主導してきたからだということを図らずも証明しているような著作だと思った。そして今、国自らが異次元とまで言うカネの偏在的なばらまきにより、まさに“全体的なインフレを回避した一部の者への富の集中”が国策として行われ、戦後の日本が経験したことのない格差社会が出現し、労働に勤しむ自然人とは異なる法人と富裕者が潤うことで“統計データとして数値的に示すだけの経済指標による好景気”が実に無責任に喧伝される“今だけカネだけ自分だけの鬱苦(うつく)しい国”に成り果てようとしているような気がする。 なぜそうなったか。改革の名の下に、何故か“保守”を標榜する者が、何も保ち守らずに壊したかを、本書が見事に列挙していて、溜息が漏れるとともに、本当に徹底的に壊されてきたことを再認識させられた。僕が自分の映画日誌に“グローバルスタンダードという名のアメリカンスタンダード”という言葉を最初に記しているのは、本書刊行の一年半前に当たる2000年の『インサイダー』のようだが、その後、『砂と霧の家』を巡る往復書簡['04]、『シッコ』映画日誌['07]、『おいしいコーヒーの真実』映画日誌['08]、『年収300万円時代を生き抜く経済学』読書感想文['15]、『ザ・トゥルー・コスト』映画日誌['16]と幾度か使っている。これは、まさしく本書の訳者後書きにて「言うまでもなく、「グローバル資本主義」の名の下に、株主利益最優先の経営、規制緩和と市場の絶対化、競争と自己責任の強調といったアングロサクソン型の資本主義がグローバル・スタンダードとされ、ポスト冷戦下でのアメリカの一極支配の下で、それが日本にもドイツにも圧倒的な力でもって浸透してくるという状況」(P356)と述べていることと重なるのだが、本書においてはアメリカと名指すことを敢えて避けて“アングロサクソン”としている点が興味深かった。近年特に問題視されているタックスヘイヴンといった租税回避の仕組みを主導してきたのがアメリカ以上にイギリスであることを思うと、二十年近く前から“アングロサクソン”としている著者の慧眼を思った。 そして、著者が第Ⅳ部 結論において、変えればよくなることは多々あるとしつつも、彼ら“思い切った構造改革こそ救済の早道だと主張する改革派”が「求めているのは貧富の差を拡大すること、無慈悲な競争を強いること、社会の連帯意識を支えている協調のパターンを破壊することである。その先に約束されるのは、生活の質の劣化である。」(P324)とし、「少なくとも、生活の質と言えば、個人の選択の自由を重んじるばかりでなく、警官の数は少なく私設ガードマンがいらない社会、人と人との関係においては敵意と恐怖よりも親愛と友情のほうが優勢であるといった社会、民主主義が世論操作と大衆迎合ではなく、実質的に機能する制度となる条件が揃っている社会――すなわち貧富の差が極端でなく、市民意識が深く根づいている社会――を志す人々なら、生活の質の劣化と判断せざるをえない結果をもたらす。」(P324~P325)と述べていることに強い共感を覚えるとともに、二十年前にこれだけ明晰な警世の書が出ていながら、その危惧どおりの経過を辿り、「企業は株主のためではなく、従業員の福利のために経営されていた」(P340)時代など取り戻すべくもないようなブラック化が“ハケン”や“高プロ”などの切り口によって法制化されるようになっていることに暗澹たる思いが湧いた。 第Ⅳ部 結論に至るまでの三部構成は、第Ⅰ部 本来の日本モデル、第Ⅱ部 日本における変化と論争、第Ⅲ部 ドイツとの比較であるが、最も面白かったのは、やはり第Ⅱ部の「以上は、着実に浸透していくグローバリゼーションに加えて、なぜ今日本でこうも熱狂的に、ほとんど自暴自棄的に変革が求められているのか、改革を唱道する人々がどのような方向に向かおうとしているのかを説明する背景となる諸要因を述べたもの」(P96)だと結んでいた“変化の原因”の章と「従業員重視企業から株主重視企業へ」との副題が添えられた“企業統治”の章だったように思う。 本来の日本モデルを第2章の章題“長期的コミットメントの社会”と捉え、その日本型資本主義の主要な特徴を四つの次元すなわち「第一は、「ステークホルダー」や従業員を重視する企業か、それとも株主を重視する企業かという次元で、日本ではこれが従業員の側に大きく傾いている。第二は、没個人的でその場かぎりの市場取引に対して関係を重視する取引、第三は、競争者間の競争か協調かのバランスが協調の側に大きく傾いていること、そして第四は、政府がかなり大きな役割を果たしていること――公共財の生産者として、また英米なら市場での決着に任せてしまうであろう民間の利害対立を裁定する審判官として。」(第3章 変化の原因 P69)と分析した著者が、そのすべての面で英米型に変質させようとする圧力がどこから来ているのかを考察するなかではやはり、「アメリカがマイナスの貯蓄率と膨らむ一方の貿易赤字の下で信じられないような繁栄をエンジョイできたのは、日本から巨額の貯蓄が保険会社や投資信託を通じてアメリカに流れているおかげであった」(P73)との痛烈な筆致で記しているアメリカの存在が大きく、「昼食会でのスピーチばかりではなく、アメリカの公式筋からも直接圧力がかかっている」(P77)としている。 それはさもあらんと思われることなのだが、「大部分の日本人にとっては、アメリカの社会にどんな欠陥があろうと、アメリカの会社役員の給与がどれほどべらぼうなものであろうと、こと国際競争力に関するかぎり、すべてアメリカがモデルなのだ。自主自立の起業家精神ならシリコンバレーを見よ。果敢で積極的にリスクを取る起業家の典型はアメリカのベンチャー資本家だ。実効ある正直な企業統治をアメリカの会社に見習え。金融取引における「透明性」ならアメリカの株式取引がそれだ。消費者保護ならアメリカの法廷に……。かつて、日本のビジネスマンがMBA取得のためにアメリカのビジネススクールに送られたのは「汝の敵を知る」ためで、会社に戻れば異質な日本のシステムの忠実な一員となったものだが、今日では帰国後に自分で仕事を始めたり、留学させてくれた会社を見捨てて、株主価値最大化の方法を教える「コンサルタント」になるような手合いが増えている。」(P75~P76)などと綴られると、それが的を射ているように感じられるだけに情けなく、嘆かわしく思った。 その根底にあるのは、やはり同章に述べているように「日本の社会はしだいに同質的でなくなってきている」(第3章 変化の原因 P79)ことにあるのだろう。「個人主義的な自己主張が危険な利己主義の兆候として非難されるどころかむしろほめられるような雰囲気の中で育(ち)…太平洋のかなたでMBAやPh・Dを取ってきた人々のおかげで、個人主義の信条を公理にまで高めた新古典派経済学の教義が、よるべき原則として…広く普及してきた」(P79)ことで、前述した“今だけカネだけ自分だけの鬱苦しい国”ニッポンになってきたようだ。 二十年前に「今なぜ日本で改革派が追い風に乗っているのか」との問いに対し、「国民経済の中で資本の取り分を大きくしようとする圧力は、有力マスコミ、議会、省庁、大企業、さらには労組の中央機関まで政策論の枠組みを設定する高所得の中流専門家グループの共通の利益とまさに合致しているのである。ジャーナリスト、学者(特に政府の審議会に積極的に参加している政治指向の学者)、政治家、銀行家、官僚、経営者、業界団体や調査機関のアナリスト、会計士など、「市場」のスポークスマンたち(自信たっぷりで高額の収入を得てソロモン・ブラザーズ、メリルリンチ、WTBZなどで主任アナリストや主任エコノミストとして勤めている青年男子――およびたまには女子)は、皆一つの、ますます顕著な共通点を持っている。それは、彼らの中でいわゆる「中流二世」が多数を占めるようになってきているということである。すなわち、地方から出てきて中流階級となった中流一世の子女(まもなく孫の三世が増えてくるだろう)たちなのだ。彼らが一世と違っているのは、生い立ちの経験だけではない。蓄積した富の大きさも違っている。…彼らは貯蓄に回せるだけの収入があって、労働所得を源泉とするような厚生年金ではなく、資本所得を源泉とする(個人)年金を受け取る見込みがあるからである。それゆえに彼らにとっては、株主をもっと重視し、会社のパフォーマンスを株式に対するリターンで測ることは当然な公正の問題にすぎない。…「受験地獄」の記憶だけが残っている彼らは、日本の英才選抜教育の下で、最上位10パーセントがいかに有利な機会に恵まれているかということに思い当たることはほとんどない。だからこそ「真の平等は機会の平等で、結果の平等ではない」というスローガンが、何よりも理にかなっているように思えるのだ。…それとともに、上の者には下の者を思いやる責任があるという、いわゆるノーブレス(それが成功者であれ、権力者であれ、あるいは入試に通った者であれ)・オブリッジの感覚が薄れつつある。」(P91~P96)と著者が的確に指摘していた警鐘が全く生かされないまま今を迎えていることが残念でならなかった。 二十年前その時点で既に、ストック・オプションの導入された一九九七年の法律改正の際に疑念を表明したのは、著者の知る範囲では佐々木善朗合同製鉄会長だけだったようであるが、「米国ではリストラのためにレイオフを実施している経営者がストックオプションの権利を行使して、多額の収入を得ているなどの新聞記事を目にすると、『よく、まあ、そんなことができるものだ』と驚いてしまう。日本の経営者は、そのような場合、自分の報酬の一部を前もって返上する。現に私自身も十数パーセントの報酬を返上している。決して偽善的行為ではなく、『乏しきを憂えず、等しからざるを憂える』という日本人の根底にある倫理観によるものである。」(P94)と述べ「私どもの年代の日本人は『金で人を釣る』ような行為は卑しい行為である、という観念がなかなか払しょくできないことも事実である。そのようなことが足をすくませるのかもしれない。」(P94)と結んでいるとの弁を読むと、今や財界人には一人もいなくなっている気がしてならない。本書に言う“改革派”の筆頭格であった竹中平蔵(パソナグループ会長、未来投資会議議員、国家戦略特別区域諮問会議有識者議員)元大臣(経済財政政策担当、金融担当、総務)は、今なお「一丁目一番地は規制緩和だ」と声を張り上げ、現下においても働き方改革の旗振り役として、またぞろメディア露出を強めてきている。 この規制緩和キャンペーンの元で“政治主導”を掲げるなか攻撃対象に挙げられたのが公務員たる官僚だったとの指摘も、現在の官僚の質的低下を見るだに、その影響の甚大さに戦慄せざるを得ない。公的使命を担う職にある者が社会的に敬意よりも蔑視非難の目を向けられることのほうが多くなると、それに応じた質に低下していくのは、世の“先生”と呼ばれる職全てにある者が、かつて得ていた敬意を得られなくなることに応じて公的使命よりも私利私欲を優先させる度合いが高くなってきたことと呼応している気がしてならない。先生と呼ばれる職ではないけれども社会的に重要な役割を担っている領域で、この二十年くらいの間にそういったバッシングと劣化の負の連鎖傾向をとりわけ顕著にしているのが官僚とマスコミだという気がしている。なかでも官僚は、かつては“先生”と呼ばれる職にある政治家との相対性のなかで、持ち上げられることはあっても職全体として貶されることがほとんどなかったように思われるが、この二十年くらいの間に全く状況が変わってしまったように思う。その契機が著者の言う“改革派”が行ったキャンペーンにマスコミが乗せられたからか否かは一概には言えないことながらも、一理あるようには感じる。 すなわち曰く「規制緩和を推進したもう一つの、同じくらい重要な背景は、公務員の人気低下である。公務員は一方では大衆迎合のマスコミの攻撃の的になり、あらゆる新聞がそれに加わった。他方では、新世代の政治家たち(“政治主導を掲げるいわゆる改革派”と思料される)が国政に君臨するばかりでなく、実権を行使しようとはじめた。狙いの中心は大蔵省だった。大蔵省はまず、当初のバブルの発生を許し、その後の不良債権問題への対処を誤り、銀行危機を招いた無能ぶりを糾弾された。それと同時に、エリートは腐敗しないという彼らの自負が大きく傷ついた。同省の二、三の高官が職権を濫用して自分や友人に相当額の利益をむさぼったケースが暴露された。それが意味するところは、公務員のモラルの明らかな低下(日本の運命を決する権限を背負っているという感覚と意識の低下とともに)を示しているのか、それとも、一樽のリンゴの中には一つや二つ腐ったものはいつの時代だってあるのがたまたま大きな注目を集めただけなのかは、なお議論の余地があろう。 しかしながら、このような隠れた本物の腐敗は、マスコミがやり玉に挙げたもう一つの現象、すなわち、規制を受ける側が規制当局者を接待するという長年にわたる慣行とは区別しなければならない。…」(第7章 経済における政府の役割 P232)としたうえで、「こうしたマスコミの攻撃が規制緩和論争にどのように影響したかは明白である。それまでと違って、官僚は公共心よりも自分の利益に没頭し腐敗しているという見かたが圧倒的に強くなった。その結果、国民の健康や安全や環境の見地からの規制撤廃反対論は、すべて官僚の権力保持のための口実と見なされるようになった。」(P233)と述べている。 本書から二年遅れて2003年に刊行された『年収300万円時代を生き抜く経済学』のまえがきに著者の森永卓郎が記した“金持ち優遇社会への転換という「構造改革」”を推し進めてきた結果が格差社会と呼ばれる時代の到来であり、政権自らが“異次元”と言うほどの金融緩和と、同書の読書感想文にも記した“株価上昇に対して過度に集中した経済政策”が展開されている。二十年前に「日本の公的年金は積立金を持っているが、それは主に財政投融資として開発プロジェクトに使われている。ただ例外的に近年、いわゆる株価維持政策の下で株式市場を支えるためにこっそり投入されている」(第8章 ドイツの金融システム P256)と記されていたことが、例外的でも「こっそり」でもなくおおっぴらに“経済政策”として規模を大幅に拡大して常態化するばかりか、政府中央銀行までもが参画するようになっている。 もともとバブルのツケで「企業のバランスシートが多大の含み資産を失った結果、ビジネス界も政治家も官僚も、共謀して株価吊り上げを図ることとなった。政府は巨額な社会保障財源の一部をPKO(株価維持活動――国連の平和維持活動ではない)に注ぎ込み、外国投資家、特に前述した年金基金や投資信託はことのほか丁重な扱いを受けた。」(第4章 企業統治 P132)というようなところから始まったわけで、この政策がとられた理由について著者は「株価の大幅な下落が、相当な額の株式を保有しているすべての会社のバランスシートを直撃すること」と「経済の先行きをなんとしてでも信じさせて、消費支出や信用供与や投資を鼓舞しようという意図」にあるとしているが、二十年も続くばかりか拡大して常態化されるに足る理由とは既に言えなくなっている気がする。 それでも、継続拡大されたのは、やはり本書刊行の時点から著者が指摘している「注目すべきは、これらの提案や措置はすべて、官僚から出たものではなく、自由民主党から出たということである。自由民主党は株価に重大な利害関係を持っているのだ。…自由民主党から鳴り物入りで発表された…一九九八年六月の(商法改正)第三次試案では、「株主重視の姿勢を一層鮮明にし、…米国の企業社会に範を求め、企業統治に関してもグローバルスタンダードを導入すべき時期である。」」(P133)と記述されたところにあるわけだ。 そのような考え方のなかでは、企業活動の透明性についても、「商法で想定している監査の目的は、まず第一に年次株主総会(会社に忠実な常連の株主の集まり)において、すべてがきちんと経営されていると保証すること」であったものが、「今の「方向付け」によれば、市場の投資家に買うか売るかを決めるための必要な情報を提供せよと言っている」(P119)ようなものに変じ、「透明性確保に関心を持っているのは、株主と同等に、あるいは株主よりも生活がかかっている従業員であるという指摘はもちろん皆無である」といったマネーゲーム偏重社会への歩みが開始されていた。 二十年前に「儒教の遺産の一つなのだが、日本には「生産主義」的な言い回しが多い。たとえば「モノ作りの文化」と「カネ作りの文化」の違いと言えば、日本人なら誰でもわかるだろう。そしてこう言えば普通、物やサービスの生産によって隣人の役に立とうとする文化のほうが、隣人の役に立とうが立つまいがひたすら自分の金儲けだけを追求する文化よりも価値があるし、道徳的にも優れている、ということが言外に含まれている。といっても、日本人にはマックスウェルやローランド(イギリスの有名な投機家)のような才能や行動パターンを持つ人々がまったくいないというわけではない。ただしそういう人々が名声を博することはないし、彼らを見習うべきだと考える人も少ない。」(第1章 はじめに P10~P11)と述べられていたことが、もはや失われ「日本人なら誰でもわかるだろう」とは、とても思えない世の中になっていることが無念でたまらない。 僕が『予告犯』['15]を観て、いたたまれない気持ちになったのは、本書が刊行されてから十五年後のことだった。 | |||||
by ヤマ '18. 6.12. 東洋経済新報社 | |||||
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