『おいしいコーヒーの真実』(Black Gold)
監督 マーク&ニック・フランシス


 過日、地元紙から寄稿を求められた際に触れた上映会は、思い掛けなくも常には考えられない大入りで、初回は入場を断るほどになった。急遽一回上映回数を増やすことにしたようだが、掲載稿に「昨今、最も強迫してくる不安というのは、食の物流における安全性と価格形成の問題、そして、貧困と格差の問題だと思うのだが」と綴ったことがまさしく裏付けられたような気がする。
 映画を観終えて先ず思ったのは、十数年くらい前から低価格のコーヒースタンドが現れ始め、5〜6年前からは自販機でさえも挽き豆による抽出コーヒーが出回ったり、インスタントコーヒーの代わりに挽き豆ドリップのパックが求めやすい価格で流通し始めたときに感じていた「コーヒーの流通革命」のことだった。それが小売りサイドで起こっていたものではなく、生産サイドでの価格破壊によるものだったことに、迂闊にも僕は思い至っていなかった。
 どうやらこれは、1989年のWTOにて市場主義優先による価格競争が導入され、原産国での値崩れを引き起こさせことから生じた事態だったようだ。放送禁止歌』の拙日誌に綴ったソヴィエト崩壊以降、箍が外れたように、グローバルスタンダードという名のアメリカンスタンダードを指向し邁進してきた日本という国の社会選択とも期を一にした「市場主義の席捲」であったわけだ。そして、ちょうど小泉政権の誕生した2001年から2002年にかけた新世紀初めには、史上最安値にまでコーヒー豆の産地価格が落ち込んだとタデッセ・メスケラ氏が映画のなかで語っていた。エチオピアのオロミア州でコーヒー農協連合会の代表を務める彼は、中間業者を排した輸出によって生産者にフェアトレードをもたらそうと活動している人物で、この作品の主人公とも言うべき存在だ。
 この映画の舞台になっていたのは、主にエチオピアだったが、コーヒー栽培に適しているようなところでは、他の農産物は育ちにくいらしく、麻薬の原料になるチャットの葉くらいしかできないとのことだ。そのために現地では、値崩れしたコーヒー価格の十〜二十倍の値で引き取られるチャットへの密かな転作が進められたりもしていたらしい。そう言われてみると、コーヒー豆が値崩れを起こしたこの時期は、中南米が一大麻薬地帯に進展していった時期とちょうど重なるような気がしなくもない。コーヒー園が成り立たなくなって麻薬地帯化が進んだのだとしたら、欧米先進国の資本の論理で原産国に厳しい貧困を押し付けたことのツケが、麻薬の量産と普及による薬物市場の拡大という形で先進国に回ってきていることになる。
 もうひとつ興味深かったのが、フェアトレードによるコーヒー農家の所得向上に取り組むタデッセ・メスケラが組織化を図る際にモデルにしていたのが日本の農協らしいということだった。そんな形での日本の国際貢献があるとは思い掛けなかった。さればこそ、フェアトレードの観点から先進富裕国の農業補助金の撤廃を彼らが主張している相手方には、日本は含まれていないのかもしれない。国力に差があって農業支援をできる国とそうではないエチオピアが対等に競争できるわけがないとの彼らの主張は心情的には分からないでもないが、僕は、農業補助金をやめたところでフェアトレードに繋がるとも思えない。アンフェアトレードの核心はもっと違うところにあるという気がする。彼らにしても、莫大な農業補助金を使ってきた日本の食料自給率の低さを知らないとも思えないので、標的は率直にEU諸国とアメリカなのだろう。だが、仮にそうであったにしても、標的にすべきは、農業生産者たちではないのではないかという気がした。
 映画的に最も感銘を受けたのは、エチオピアのコーヒー農家が搾取に晒されながらも切望しているのが、子供に教育を受けさせることのできる学校であるとの声をあげていることを映し出していた場面だ。なけなしの金でもそのためになら拠出を惜しまないと訴える貧しい農夫たちの姿には、充分に払える経済状況にありながらも給食費すら滞納して公に負担を押し付けようとする親たちが少なからず現れ始めている今の日本の状況とはあまりにも大きな隔たりがあって、日本の学校や教育制度が親たちから受けている視線との違いに思いを致さない人はないだろうと感じられるような印象深さがあった。それと同時に、この場面は、自身が貧しい農家の出身で、苦学の末に大学にまで進学し、今の活動に携わるに至ったタデッセ氏の切望することであって、貧しさに苦しむ国での学校の必要性を強く打ち出すために、かなり仕込みを入れて撮られた場面であるようにも感じた。

by ヤマ

'08.11.30. 県民文化ホール4F多目的ホール



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>